【キハ】相模線【砂利】
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>>55
八王子新製配置のキハ30 41,42,67,77,97は、新製当初は八高線で使用されていたのかな?
これら5両は、電化直前まで相模線生え抜きだったような気がしているんだけど、
昭和40年前後に、相模線の担当機関区が茅ヶ崎→八王子に移管されていたので、
移管前の使用路線が気になってるのね。
(東京西鉄道管理局だっけ?(正式名称忘れちゃったけど)それができた関係で
配置変更があったようなんだけど…)
「茅ヶ崎配属」での新製配置の最後は、キハ20 206〜211で間違いないけど。
(205系は茅ヶ崎常駐でも、最初は豊田配属だったので。) >>56
前言撤回!
ピクのキハ30系特集(2004年版)を確認したら、自分で記した5両は茅ヶ崎新製配置だった。
とすると、元資料に誤りがなければ、これら5両は東京西局絡みでの八王子移管時期も含め、
相模線生え抜きなのか…
電化後の転用もなかったキハ30 41・42は、相模線だけで天寿を全うしたことになるんだね。 相武台下駅の留置線は、旧日本軍の名残でしょうか?
戦前に、今のアメリカ陸軍キャンプ座間に日本陸軍士官学校があった。
士官学校なので、引込線は存在しなかったと思うが、多数のク5000が留置できた留置線は元は何のか気になる。 >>54 交換はホームじゃなくて海老名よりの信号所というか貨物駅なのか。
あそこでしていましたよ。 >>58
年に一回はお召しが来てたわけだし、その関連では 当時、相武台下駅は国鉄相模線の中では大きな駅だったし、
砂利線もあったことから、留置線が設けられていたんじゃ?
なんせ、駅前に通ずる道路が県道○○停車場線になっている位だから、
主要駅だったんだろう。 相模線で貨物輸送を行っていた当時 東武鉄道 秩父鉄道の貨車を相模線内で
実見した人がいたらご教示ください お願いします もう30年近く前のリア厨時代の話だが、厚木で小田急から乗り換えた俺が車内
で切符を買おうとしたら車掌氏にキセルを疑われ、周りにいた見知らぬご婦人達
が反論してくれた覚えがある。
>>64
小田急切符出しました。
出したのに疑ったから周りの皆さんが加勢?してくれたと言う状況です。 ぐるぐるパーマで、開襟シャツの襟を上着の上にのせたようなスタイルの
あんちゃん職員が結構いたし、見学に行った電車区や機関区の職員駐車場
もシャコタンやホットロッドの改造車ばかりだったよ。
ハコスカ・ヨンメリ・330・RX−3・ダルマセリカ等々・・・。 種村直樹の汽車旅相談?を思い出すな
種村氏は>>61氏になんてアドバイスするんだろう >>68
でもその頃茅ヶ崎とか厚木に遊び行くと中に入れてくれたよ。 >>68
相模スペクター参上 ローレルSGX全開! ハの字バリバリ!!
とかねw さよなら西寒川の記念入場券を見たら西ハチのキハが写ってる。
世代差もあるだろうけど、南チサとか東チサのほうが記憶にある。 俺も相模線はキハ30系が跳梁跋扈する時代より二色塗装のキハ16とキハ10のニ連がカラカラのんびり走るのが悩内記憶だな。
表記は西ハチだけど…。 >>54
厚木は最近ホームと線路が逆になり幅が広くなった。 ttp://members.ld.infoseek.co.jp/geores/sagamisen.html
とある駅の構内ってのは、原当麻だよね。 今度Nゲージでキハ35とキハ30のタラコ色が出るけど相模線を再現させるには
キハ35+キハ30+キハ30でいいのかな。 1、5ミリマスキングテープ買って塗り替えてしまおう
今こそキハ30を沿線に保存しましょ
という夢をみたんだ 初めて書き込みします
今寒川に住んでましてつい最近西寒川などの存在を知り興味があるので見に行こうと思ってるんですが
なにか当時のお話など聞けたらと思って書き込みしました
もし何かご存知でお時間があるようでしたらお話を聞かせていただけないでしょうか・・・? >>79さん、たくさんの写真掲載有難うございます。
40年くらい前から座間市内の工場勤務でしたが、オダサガ/相武台前駅〜広野台
あたりまでが行動範囲でしたので、相模線沿線に親しみ始めたのは、数年前に
当地に引っ越して入谷駅から通勤するようになってからですから昔はよく知りません。
さて入谷駅からの写真ですが、
ttp://members.ld.infoseek.co.jp/geores/iriya.html
東側に分岐線が見えます。現在は無いようですが、これは何でしょうか?
こちらで紹介された地図(まめこぞうさんに感謝)
では、反対の西側に砂利運搬用のトロッコ線があり、1964年の砂利採取禁止頃
までは存在していたようですが、この写真では跡形もなくなっています。
ttp://www.0462.net/blog/mamekozo/index.html?CATEGORY=2127 >>83 まずは線路跡を歩いてみればと・・・
>>84 写真に在るのは保線用の機械車両が置いてある
だけの線路かと 今は無いのかな? 東側のは保線用の平トロなどを待避させておく場所だったのでは。
この写真の時代に数回乗り降りしてますが西側の側線跡には
気づきませんでした。東側には駅舎の基礎の遺構はありましたが、、 >>85_86さん、早速のレスありがとうございます。
そうですか、保線用の待避線だったんですね。ナットクです。 入谷駅を国土地理院の変遷地図みると1942年だと
西側に貨物駅みたいなのがありますね
ttp://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R569&photono=10 連投スミマセン
1942年と書きましたが1949年でした 厚木駅の横にも小田急との連絡線が使われなくなった後もずっと残っていましたね。
小田急下り列車車内からよく見えた。
その後ろに立っていた「小田急 女子学生ハイツ」だったかな、の表記にはキレイな
おねえさんが沢山住んでいるイメージがあって、子ども心になんだか癒されたww
番田のトイレは、今も昔と大して変わらず?
ふと気になった。
改札を出ないと行けない…実質「公衆便所」だな。 相模原麻溝公園のグリーンタワー展望台のギャラリーで、
「県央の相模線物語」を展示中なので見て来ました。
国鉄時代の懐かしい写真がいっぱいありました。
殆どがモノクロ写真でしたが、タラコ色のキハが写っている入谷駅のカット
(何故かこれにはキャプション無し)にはホームの先に待避線が写っていましたよ。 相模線を走った蒸気機関車って、どんな型式やナンバーがあったのでしょうか? 相模鉄道初期の新造機、1形は、トミーのCタンクとほぼ同形。
※開業時には鉄道省5100の払い下げを受けて間に合わせたらしい。 >>84
昭和52年入谷付近の空撮。下は昭和63年
ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/77/ckt-77-1/c3b/ckt-77-1_c3b_2.jpg
ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/88/ckt-88-3/c3/ckt-88-3_c3_16.jpg 相模線西ハチの気動車運用はどうなっていたんでしょうか・・・?
たとえばキハ10とキハ30は共通運用?
トイレは一列車に一箇所入れる前提でキハ35は運用されていて、キハ36とも
別運用だったとか・・・?
電車と違い一両単位で成立する気動車の運用そのものが良くわかっていないので
すが、どなたか当時の実情をご存知の方ご教授お願い致します。 >>99
どれでも繋げられるのに、一々キハ10と30で運用分けたりしない罠。
お隣の八高線だと、増結運用は両運車限定にしたり、2連運用には必ずトイレ付車を最低1両入れてたりしてたけど。
相模線の場合、トイレについてはあまり考慮してなかったような。電化直前に、キハ30の2連とか見た記憶があるし >>100
2連以上の運用のほとんどは、最低1両はキハ35を入れていたみたい。
ただ、1運用だけキハ30の2連(3連)限定運用があったことは覚えている。
また、茅ヶ崎で2段階切り落としをする運用もあり、それは橋本方から
30+30+35(時に30)の2連だったような。 >>102-103
電化直前はキハ30が17両、キハ35が21両の陣営だった。
キハ30:14,25,26,29,30,41,42,46,49,62,67,77,80,97,100,505,506
※62,100は、90年頃に車体更新施行。
キハ35:59,81,97,100,101,103,109,110,127,134,158,
163,165,166,170,210,211,212,519,531,904
※下り(橋本方)向きは、81,100,101,134,158,165,170,210,519,904の10両。
1989年時点では、キハ35は107・520・524も在籍していたみたいだけど、
107は相模線塗装化されずに?1990年時点で廃車、520・524は八高線へコンバート。
少なくとも、自分の記憶では107だけ乗ったことがない。 >>96
真岡のC11325は相模線で砂利貨物牽いてたらしい。
どっかに画像があったよ。 真岡の駅に放置状態で置かれている首都圏色の2両のうちキハ20213も長い期間相模線を走っていた車両ですね。
年代が統一してないな
西ハチの頃と電化直前では車両の配置はかなり違うと思う >>110
何を伝えたいのか意味不明なんですが・・・。 >>111
そいつ(鉄模板荒らしの気違い田豚幼児)
頭の中が意味不明だから。 相模線に首都圏色第一号のキハ1061が来た時は衝撃だった。
ピカピカの艶のあるオレンジで違和感ありまくりで一発で消える試験塗装と思ったが、その後全国普及したのは驚きだった。
でもキハ35系統ではそんなに違和感感じなかったな。 寒川神社初詣臨には
DD13+旧客が使われました。 過当キハ35姪食うアップパーツに、相模線の幕が入ってるね。
相模色も出ないかな? 気動車の相模線色が出た時、非タラコとして話題になった。
タラコの流れを作った相模線から地域色の流れが作られた。 ガキの頃、川崎から母の実家の門沢橋まで行くのに茅ヶ崎からよく乗ったな。
当時(1968年頃)既に東海道線は113系15連で冷房こそなかったが幹線の貫禄十分だったから、相模線との格差があまりに極端で楽しかった。
その頃の記憶ではバス窓のキハもいた。運転室と客室との仕切りもパイプだった。スプリングポイントを初めて見たのも相模線だった。
あれから40年。今じゃ東海道も相模線も大して変わらない車両になった。 天賞堂のキハ17を買った。
一回だけ乗車した西ハチにいた357番にしたいが、資料が全く無い…(泣) まだキハ10があった1978年頃、厚木の駅名標にいたずら書きされて、隣接駅名が「いかりや」「しもやけ」になっていたのが笑えた(現在はJRも海老名駅を開設)
ちょうどキハ17 357が廃車された直後だったか…?
キハ10系の数少ない集結線区として、何回となく通うようになった。
当時、キハ10は大多数がシールドビーム2灯化。最若番12や23、あと50以上は蛍光灯化と扇風機取り付けされていたと記憶している。
それ以外のキハ10は白熱灯照明扇風機なしだったものも多かったし、孤塁を守っていたキハ16 24も同様だった。
ほかに金ナナから転入のキハ20 281も白熱灯扇風機なしだった。
のちにやってきたバス窓でDT19C装備のキハ20 56は蛍光灯化されていて扇風機も付いていた。
JR化後は塗装が変更され、キハ35 904もこの塗装になった。
エンジンパワーアップ換装と更新が同時に行なわれた第1号車キハ30 62もあった。
しかし、電化以降は画一化された205系に興味がわかず、用務での利用にとどまるようになってしまった。 おぉ、俺も「いかりや」「しもやけ」厚木駅で見た記憶がありますよ!! JR化後の相模線カラーって、センスあるようで無かった気がする。 >>3
なつかしい。
昭和の終わり頃の電化工事が始まったまで置いてあった記憶が。
相武台下で変わっていないのは、駅西側に見える日産位かな?
厚木日産と言う会社で、昔からあの場所にある。
厚木の信号所は、電化と同時になくなったんだっけ? >>125
> 厚木の信号所は、電化と同時になくなったんだっけ?
定期営業列車の交換がなくなっただけで、信号所(厚木本屋)は
今でもバリバリ活用中。(海老名止の引き上げ等でも使用) 今日発売のピク(アーカイブスの方)に、昔の相模線の記事が出てるね。
朝も原当麻折り返しがあったことが、ダイヤから分かる。 久留里線と木原線の路線図貼ったまま走ってたのいたなぁ。 >>129
キハ30 46だったっけ?新塗装化後も車内に一部付いていた記憶がある。 >>131
最終日頻繁に寒川折り返しで臨時出してたんだな。 相模線から一度も他に移動せず廃車になったキハ10も何両かいたはず。 キハ30系が転入するまで、車両の仕様やバリエーションがあって観察が楽しかった路線でしょうか? 米タン、懐かしいす。
企業名とか書いてなく5から始まる10桁くらいの数字が
書いてあり不気味だった。 原当麻のボロボロの日産ク5000の葬列も不気味だった。 >>134
キハ30系だけの時代でも、細かいバリエーションは多数だった。
電化直前は、キハ36以外の全形式・番台が在籍していたし。
(国鉄分割前には、キハ36もいたけど)
ヘッドライト3種(交換で後に2種)、前面補強の有無、半自動装置の有無…
20年近く前に毎日乗っていたうる覚えでも、少なくともこれだけのバリエーションがあった。
電化して205系500番台に統一されてから、車両面では味気なくなったけどね。 >>137
そうでした。
相武台下でした。
ご指摘深謝。 昭和53年春
相模線専用
八王子機関区配置
10代形式気動車
【キハ10】
12・13・23・24・25・26・47・48・49・50・60・61・62
【キハ16】
24
※キハ10の12・23と50以降は蛍光灯照明・扇風機取り付け改造車
※その他の10代形式とキハ20 281は白熱灯照明・扇風機なし
この時点では、ほかにキハ20(200番台のみ/のちに一時的に56が使用されたことはある)・30・35・36が配置されていた
キハ26400番台相模線貸し出しの記録はどこかにありませんかね? そんなことあったの?
昔(昭和45年頃)、八王子から茅ヶ崎までの「しらほ」という海水浴臨時があったが、それ用かな? 相武台下駅構内に、貨物用の留置線がいっぱいあったけど、近くに陸軍士官学校があった頃に使われたのかな? 昔倉見駅だったっと思うが、大改正で不要になった南シナのナシ20やオロ11が解体待ち留置されていたな。 たまにキハ20が来たが嬉しかったな。
キハ10は足も狭いし、背ずりもぺらぺらで後ろの人の重さが直に感じられて嫌だったな。 >>144
「しらほ」は子供の頃だが実際に乗ったので、かすかに記憶にあるが、基本的に全車自由席の普通列車で、車両もキハ10・20・30等の普通の組成だったと思う
キハ26400みたいな明確に違う設計かつ塗装(当時は急行塗装だったはず)なら、いかに子供とはいえ強烈に印象があったはずと思う 「農薬散布のため窓をお閉めください」という車内放送。
@北茅ヶ崎・香川間
他でもあったけど区間は忘れた。
っていうかむかしはどこも田んぼだらけだったよね。 非電化時代は10系から30系まで混在してたよな。
今の住宅地域拡張に伴い電化したんだろうけど、電車ものろいし無意味だな。 快適性は今の方が上だと思います
夏、灼熱のキハは暑かった…、特に停車中ね あれは400番台だったのか? 昭和50年だと記憶している 房総流れか? キハ04が走っていたのはいつ頃までですか?
また 相模線電化時に一時、噂になった相鉄線との乗り入れは何故沙汰止みになったのですか? >>152
トイレ前のボックス席で「夏の昼間に」窓を開けたら、
涼しい風どころが熱風が吹き込んできた記憶がwww
キハ35900、正式配置はJR化以降だけど(904)、
昭和50年頃にも貸出で走っていたみたいだね。
「世界の鉄道」誌で写真を見た記憶が。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています