【キハ】相模線【砂利】
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>>20
間違えのようでした!!ご指摘かたじけない!
今一度、その本を確かめましたところ、キハ20のようです。
ヘッドライトが中で2つ目になっているのを
52と判断してしまったようです。
ちなみに後続車は分かりませんが、写真は3両編成でした。 ナン20ですが
呼びましたか?
香川駅近くの踏切にいます 初の首都圏色、今で言う「たらこ色」気動車が配属されたのも相模線。
西ハチのキハ1061だった。
昔地元の高校生は相模線を「ガミセン」って言ってたけど、今でも
そう言うのかな・・? 国鉄時代末期には寒川〜相武台下間にはカレチが乗って車補を売っていた。 構内踏切・タブレット・転轍機小屋・腕木信号、全てが懐かしい 茅ヶ崎到着前に例の気動車オルゴールが鳴ったことがあった。
JR相模線で聞こえるとは思わなかったので記憶に残っている。
>>28
昭和49年頃の夕方に見ましたよ。
あれって橋本ででも他の車両と切り離されて1往復こなしてたんですか? S51頃の運用では茅ヶ崎15:59発の橋本行きが相模線唯一の4両列車だった。
この列車が橋本に着くと1両と3両に分割され、前1両が原当麻行きとして
先に発車、残り3両は茅ヶ崎行きでその後発車、前1両は橋本〜原当麻間を
2往復した後、その後茅ヶ崎から橋本に着いた2両編成の列車に連結して
茅ヶ崎に向う運用だった。
21時か22時台の茅ヶ崎発厚木行きにも単行があったと思う。 ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/77/ckt-77-1/c14a/ckt-77-1_c14a_43.jpg
>51:品川の客車
>寒川駅に南シナの客車が留置されているところが写っていますね。
>画面の右上の方を拡大するとわかります。
>
>52:品川の客車
>連投スマソ 1978.10.15に記録した寒川駅留置の客車編成でつ。
>橋本寄り ナハフ11 12 スハ43 2107 スハ43 2432 スハ43 2280
>スハ43 2260 スハ43 572 スハフ42 2291 南シナ 茅ヶ崎寄り 小学生の頃の話
休みの日に親と橋本行きに乗った途中、南橋本でセメントタキとDD51がみれるかがいつも気になっていた。
今ならカモジもあるけど、当時の小学生にはわかるわけもなく、時間が合致して見れた時はとても嬉しかったなぁ 今、茅ヶ崎駅に昔の写真が何枚か貼ってあるけど、キハ35系のが、なつい 足尾と木更津で同時にキハ30が原色に復帰しましたね。 相模線って北寒川以外にどれくらい引込み線あったのでしょうか?
あと、国鉄末期だったかな?
どっかの駅にボロボロのク5000が疎開留置されていた記憶が
クは相武台下だったと思います。が、朽ちたクが長らく留置されていたという事実までしか知りません。
その昔は相武台下駅でクへの積み込みをしていたんでしょうか?その場合、日産座間工場から相武台下までの横持ちがどうだったかとか、クの発送先とか、相模線内の牽引機はなんだっかとか考えるだけで疑問がわいてきます(ググれと言われればそれまでなんだけど)。 相模線のキハ35は汚物タンク完備だったのでしょうか? >>42
車運車への積み込みは厚木でしょう。
あの駅には、あと今でいう海西中の踏切の西側から北々西に
材木屋に引き込み線が伸びていたのを覚えてる。
小野田セメントのホキ3100には「相模鉄道厚木駅常備」と書いてあった。 思い出しました。確かに貨物駅ありましたね。
そこで鉄道祭りみたいなので、DEのキャブに乗せてもらったのを思い出しましたよ。 路車板以外にも、こんなスレがあったんだ〜♪
生まれた直後から30年以上の相模線沿線住民として、嬉しい限り。
>>46
そんなことはなかった。堂々の垂れ流し。
便所前の「停車中は使用しないでください」のプレートも、懐かしいねw
>>34-35
確か、昭和62年頃(JR化後)の改正で原当麻折り返しがなくなったはず。
それまでは夕方にあったことは、間違いない。
相模線色車の単行運転も、恐らくあったんじゃないかなぁ。
(当時はリアル消防なので、あまり記憶がないけど…。)
>>30
確か、国鉄末期は、上り最終厚木行・下り初発(厚木→橋本)も単行だったはず。
これも、自宅から聞こえていた、音だけの記憶なんだけど…
あとは、上り2本目が電化直前まで厚木本屋増結(信号所で数分停車して、
その間に後に2両増結→4連に)とか、橋本口朝7時台の下りに
キハ30の3連限定運用があって、そのスジが南橋本チョン行に充当されていたとか…
JR化直後〜電化直前は、ステンレスの904に萌え〜だったなぁw
こいつのトイレ前ボックス席に座れた時なんかは、もうお腹イパーイ。
もっとも、真夏の時は「車内が暑いので、ボックス席で窓を開けたら、
外から熱風が吹き込んできた」と言う笑えない経験をしたこともあったけど…
20年前でorzだったので、今の暑さじゃ、もっとひどいことになってそう。 >>48
あっちが本来の厚木駅だったのでしょうね。
最近まで営業支店とかいう名前で建物があったけど今はどうだろう…
キハの運転用時刻表には厚木のホームがある場所のことを指して
客扱場?とかそんなことが書いてあったような気がする。
たぶんあの祭りで買ったのであろう大凧を模した記念切符持ってます。 30年近く前、厚木駅で車両の展示会をやったのを知る人も少ない。
24系寝台(14系?)とかマニとかワフとか展示されてた。
非常に閑散として全然盛り上がってなかったけどw 調べたら出てきた<厚木車両展示会
ttp://jnr1980.at.infoseek.co.jp/contents4-3-10.html
このスレの最初のほうに出てきた12系団臨の写真もある。 >>43
キハ20だろ。
西ハチ
1981.03.31
キハ30 1 3 4 5 8 9 10 25 26 29 30
41 42 46 61 62 67 77 97 100
キハ35 81 97 101 103 210 211 212
キハ36 2 3
計29両
1982.03.31
キハ20 56
キハ30、キハ35、キハ36は、前年と同じ
計30両
1985.03.31
キハ30 1 3 4 5 8 10 25 26 29 30 41 42 46
49 61 62 67 77 80 97 100 505 506
キハ35 81 97 101 103 109 127 210 211 212 517 519
キハ36 3
計35両 厚木駅ってホームちゃっちくなかった?
旅客列車は交換できたのかしら?
>>44
相模線に車両が新製配置されたのは今の205系以前は昭和34年のキハ20が最後。 >>55
八王子新製配置のキハ30 41,42,67,77,97は、新製当初は八高線で使用されていたのかな?
これら5両は、電化直前まで相模線生え抜きだったような気がしているんだけど、
昭和40年前後に、相模線の担当機関区が茅ヶ崎→八王子に移管されていたので、
移管前の使用路線が気になってるのね。
(東京西鉄道管理局だっけ?(正式名称忘れちゃったけど)それができた関係で
配置変更があったようなんだけど…)
「茅ヶ崎配属」での新製配置の最後は、キハ20 206〜211で間違いないけど。
(205系は茅ヶ崎常駐でも、最初は豊田配属だったので。) >>56
前言撤回!
ピクのキハ30系特集(2004年版)を確認したら、自分で記した5両は茅ヶ崎新製配置だった。
とすると、元資料に誤りがなければ、これら5両は東京西局絡みでの八王子移管時期も含め、
相模線生え抜きなのか…
電化後の転用もなかったキハ30 41・42は、相模線だけで天寿を全うしたことになるんだね。 相武台下駅の留置線は、旧日本軍の名残でしょうか?
戦前に、今のアメリカ陸軍キャンプ座間に日本陸軍士官学校があった。
士官学校なので、引込線は存在しなかったと思うが、多数のク5000が留置できた留置線は元は何のか気になる。 >>54 交換はホームじゃなくて海老名よりの信号所というか貨物駅なのか。
あそこでしていましたよ。 >>58
年に一回はお召しが来てたわけだし、その関連では 当時、相武台下駅は国鉄相模線の中では大きな駅だったし、
砂利線もあったことから、留置線が設けられていたんじゃ?
なんせ、駅前に通ずる道路が県道○○停車場線になっている位だから、
主要駅だったんだろう。 相模線で貨物輸送を行っていた当時 東武鉄道 秩父鉄道の貨車を相模線内で
実見した人がいたらご教示ください お願いします もう30年近く前のリア厨時代の話だが、厚木で小田急から乗り換えた俺が車内
で切符を買おうとしたら車掌氏にキセルを疑われ、周りにいた見知らぬご婦人達
が反論してくれた覚えがある。
>>64
小田急切符出しました。
出したのに疑ったから周りの皆さんが加勢?してくれたと言う状況です。 ぐるぐるパーマで、開襟シャツの襟を上着の上にのせたようなスタイルの
あんちゃん職員が結構いたし、見学に行った電車区や機関区の職員駐車場
もシャコタンやホットロッドの改造車ばかりだったよ。
ハコスカ・ヨンメリ・330・RX−3・ダルマセリカ等々・・・。 種村直樹の汽車旅相談?を思い出すな
種村氏は>>61氏になんてアドバイスするんだろう >>68
でもその頃茅ヶ崎とか厚木に遊び行くと中に入れてくれたよ。 >>68
相模スペクター参上 ローレルSGX全開! ハの字バリバリ!!
とかねw さよなら西寒川の記念入場券を見たら西ハチのキハが写ってる。
世代差もあるだろうけど、南チサとか東チサのほうが記憶にある。 俺も相模線はキハ30系が跳梁跋扈する時代より二色塗装のキハ16とキハ10のニ連がカラカラのんびり走るのが悩内記憶だな。
表記は西ハチだけど…。 >>54
厚木は最近ホームと線路が逆になり幅が広くなった。 ttp://members.ld.infoseek.co.jp/geores/sagamisen.html
とある駅の構内ってのは、原当麻だよね。 今度Nゲージでキハ35とキハ30のタラコ色が出るけど相模線を再現させるには
キハ35+キハ30+キハ30でいいのかな。 1、5ミリマスキングテープ買って塗り替えてしまおう
今こそキハ30を沿線に保存しましょ
という夢をみたんだ 初めて書き込みします
今寒川に住んでましてつい最近西寒川などの存在を知り興味があるので見に行こうと思ってるんですが
なにか当時のお話など聞けたらと思って書き込みしました
もし何かご存知でお時間があるようでしたらお話を聞かせていただけないでしょうか・・・? >>79さん、たくさんの写真掲載有難うございます。
40年くらい前から座間市内の工場勤務でしたが、オダサガ/相武台前駅〜広野台
あたりまでが行動範囲でしたので、相模線沿線に親しみ始めたのは、数年前に
当地に引っ越して入谷駅から通勤するようになってからですから昔はよく知りません。
さて入谷駅からの写真ですが、
ttp://members.ld.infoseek.co.jp/geores/iriya.html
東側に分岐線が見えます。現在は無いようですが、これは何でしょうか?
こちらで紹介された地図(まめこぞうさんに感謝)
では、反対の西側に砂利運搬用のトロッコ線があり、1964年の砂利採取禁止頃
までは存在していたようですが、この写真では跡形もなくなっています。
ttp://www.0462.net/blog/mamekozo/index.html?CATEGORY=2127 >>83 まずは線路跡を歩いてみればと・・・
>>84 写真に在るのは保線用の機械車両が置いてある
だけの線路かと 今は無いのかな? 東側のは保線用の平トロなどを待避させておく場所だったのでは。
この写真の時代に数回乗り降りしてますが西側の側線跡には
気づきませんでした。東側には駅舎の基礎の遺構はありましたが、、 >>85_86さん、早速のレスありがとうございます。
そうですか、保線用の待避線だったんですね。ナットクです。 入谷駅を国土地理院の変遷地図みると1942年だと
西側に貨物駅みたいなのがありますね
ttp://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R569&photono=10 連投スミマセン
1942年と書きましたが1949年でした 厚木駅の横にも小田急との連絡線が使われなくなった後もずっと残っていましたね。
小田急下り列車車内からよく見えた。
その後ろに立っていた「小田急 女子学生ハイツ」だったかな、の表記にはキレイな
おねえさんが沢山住んでいるイメージがあって、子ども心になんだか癒されたww
番田のトイレは、今も昔と大して変わらず?
ふと気になった。
改札を出ないと行けない…実質「公衆便所」だな。 相模原麻溝公園のグリーンタワー展望台のギャラリーで、
「県央の相模線物語」を展示中なので見て来ました。
国鉄時代の懐かしい写真がいっぱいありました。
殆どがモノクロ写真でしたが、タラコ色のキハが写っている入谷駅のカット
(何故かこれにはキャプション無し)にはホームの先に待避線が写っていましたよ。 相模線を走った蒸気機関車って、どんな型式やナンバーがあったのでしょうか? 相模鉄道初期の新造機、1形は、トミーのCタンクとほぼ同形。
※開業時には鉄道省5100の払い下げを受けて間に合わせたらしい。 >>84
昭和52年入谷付近の空撮。下は昭和63年
ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/77/ckt-77-1/c3b/ckt-77-1_c3b_2.jpg
ttp://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/88/ckt-88-3/c3/ckt-88-3_c3_16.jpg 相模線西ハチの気動車運用はどうなっていたんでしょうか・・・?
たとえばキハ10とキハ30は共通運用?
トイレは一列車に一箇所入れる前提でキハ35は運用されていて、キハ36とも
別運用だったとか・・・?
電車と違い一両単位で成立する気動車の運用そのものが良くわかっていないので
すが、どなたか当時の実情をご存知の方ご教授お願い致します。 >>99
どれでも繋げられるのに、一々キハ10と30で運用分けたりしない罠。
お隣の八高線だと、増結運用は両運車限定にしたり、2連運用には必ずトイレ付車を最低1両入れてたりしてたけど。
相模線の場合、トイレについてはあまり考慮してなかったような。電化直前に、キハ30の2連とか見た記憶があるし >>100
2連以上の運用のほとんどは、最低1両はキハ35を入れていたみたい。
ただ、1運用だけキハ30の2連(3連)限定運用があったことは覚えている。
また、茅ヶ崎で2段階切り落としをする運用もあり、それは橋本方から
30+30+35(時に30)の2連だったような。 >>102-103
電化直前はキハ30が17両、キハ35が21両の陣営だった。
キハ30:14,25,26,29,30,41,42,46,49,62,67,77,80,97,100,505,506
※62,100は、90年頃に車体更新施行。
キハ35:59,81,97,100,101,103,109,110,127,134,158,
163,165,166,170,210,211,212,519,531,904
※下り(橋本方)向きは、81,100,101,134,158,165,170,210,519,904の10両。
1989年時点では、キハ35は107・520・524も在籍していたみたいだけど、
107は相模線塗装化されずに?1990年時点で廃車、520・524は八高線へコンバート。
少なくとも、自分の記憶では107だけ乗ったことがない。 >>96
真岡のC11325は相模線で砂利貨物牽いてたらしい。
どっかに画像があったよ。 真岡の駅に放置状態で置かれている首都圏色の2両のうちキハ20213も長い期間相模線を走っていた車両ですね。
年代が統一してないな
西ハチの頃と電化直前では車両の配置はかなり違うと思う >>110
何を伝えたいのか意味不明なんですが・・・。 >>111
そいつ(鉄模板荒らしの気違い田豚幼児)
頭の中が意味不明だから。 相模線に首都圏色第一号のキハ1061が来た時は衝撃だった。
ピカピカの艶のあるオレンジで違和感ありまくりで一発で消える試験塗装と思ったが、その後全国普及したのは驚きだった。
でもキハ35系統ではそんなに違和感感じなかったな。 寒川神社初詣臨には
DD13+旧客が使われました。 過当キハ35姪食うアップパーツに、相模線の幕が入ってるね。
相模色も出ないかな? 気動車の相模線色が出た時、非タラコとして話題になった。
タラコの流れを作った相模線から地域色の流れが作られた。 ガキの頃、川崎から母の実家の門沢橋まで行くのに茅ヶ崎からよく乗ったな。
当時(1968年頃)既に東海道線は113系15連で冷房こそなかったが幹線の貫禄十分だったから、相模線との格差があまりに極端で楽しかった。
その頃の記憶ではバス窓のキハもいた。運転室と客室との仕切りもパイプだった。スプリングポイントを初めて見たのも相模線だった。
あれから40年。今じゃ東海道も相模線も大して変わらない車両になった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています