思い出の都営地下鉄
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営団とのラインカラー協議で 6号線(現三田線)6000は、なくなく赤帯の青帯変更
を、強いられたが、 1号線(現浅草線)の5000旧京成赤電カラーのままで、
ピンク色と解釈させたのは、都営のメンツを重んじたのかな?
その後の塗装変更・新車導入でも頑にピンク帯にしなかった、どころか増備
の5200に到っちゃ、少数とはいえラインカラー協議完全無視の京成ステンレス車
追従の帯色だったし・・・営団から協定無視、抗議等クレーム無かったの? 6000系はやたらトンネルの中の騒音がやかましかったな。
会話が聞こえないこともしばしば
確か木目調の車内が懐かしい
区間運転は高島平 新板橋 御成門行きがあったね 新宿線は岩本町〜新宿〜笹塚開通時に、学校帰りにちょっとだけ乗ってみたよ。 浅草線はいまでこそ8両編成が基本だが、
成田空港乗り入れ以前は、京急と京成ばかりが8両編成だった。
更にそれ以前の京急車は、品川で2両切り離していた。 江戸橋の駅名がいかにもマイナーで、都営地下鉄らしかった。
あとかなり早い時期に自動改札入れてたよな その江戸橋から60円のピンク色、地紋無しの券売機?の切符、
人からもらったんだけど、昔はこんなのだったんですかね? >>9
早い時期に自動改札が入っていたのは、新高島平と西高島平だけじゃなかったっけ? どこかの消防学校だったかな?に置いてある5000形を見てみたいな。 京急線内を地響きのような轟音と振動を発しながら爆走した5000系 >>14
大島止まりが多かったのは、本八幡開業後も
本八幡駅が8両編成までしか対応してなかったからだっけ? >>15 yes
開業当初の本八幡は千葉街道以北(京成八幡接続部)が
まだ工事中だった >>16
dクス
大島止まりの次の列車は劇混みだったよな・・・ 80年代には、路線のシンボルがラインカラーの正方形に
丸の白抜きだったが、A団に歩み寄った。 自動改札と言えば全線に導入する工事している最中に
自動改札工事する駅はどこの駅もニュウキョウ省略。状態
みんな他の線の連絡定期とかあればキセル乗車だったな。 五反田駅の行き先案内がぼろいやつだったな。三田はLEDだったのに。
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白いネオン管?か何かで遠くからはよく見えなかった。北総に乗り入れるまで使っていたけど、当時ですら、ぼろいなぁと思っていたけど、開業当初からの代物だったのかなぁ。 >>10
昭和50年代初め、都営じゃこういう地紋なしのを発売してましたね。
(江戸橋駅じゃなくて日比谷駅のものだけど↓)
http://photozou.jp/photo/show/220807/16893301 都営三田線といえば、巣鴨駅のホームの広告看板にカオ一堂というの無かった?
あと、6000形の6271Fと6281Fの車内広告がナウシカ(正確にはアニメージュだったけど)で統一されていたなぁ。
確か本蓮沼にもナウシカの広告が一時的にあった様な…
>>25
ナウシカの広告覚えてるw
他の車輌は熱川温泉病院とかクリーニングサンレモンといったローカル広告が多かった >>8
京成はその頃も6両が多かった記憶が・・・
たしかに京急は8両編成が多かった。
そして羽田(地下駅化)に乗り入れたら6両・そして非冷房車ばかりになった
感じ。あれが最後の5000系の活躍だったんだなぁ〜。 三田線6000形って、地味にローレル賞受賞車なんだね。 都営浅草線は暑かった。
五反田から乗るときは京浜急行か京成が来るのを祈ってたよ。 1号線に乗り入れて来る京成車には、たまに4連がありホーム中央辺りに こじんまりと停車。
ホームの前寄り・後ろ寄りで待っていた人達が、一瞬キョトンとしてから慌てて4連目掛けて走り出すのが面白かったです。
>>28
>>29
6000系も異様に暑かったな。
しかし何でローレル賞取れたんだろう? 宮脇俊三先生は、著書のなかで「都営交通の職員は感じが悪い」みたいな記述をしばしばしていますが、都営バスも都電も今は全くそんな印象ないですよね。
30年前は親方日の丸よろしく釣り銭を投げて渡したりしていたんでしょうか?
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