西大寺鉄道
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全国唯一の3フィートゲージ(914mm)の軽便鉄道を語りましょう!
全国で最後まで残った3フィートゲージの
一般営業を営む鉄道ですね。
遊戯施設としてなら、その後にも各地に
二、三作られましたものね >3フィート シーナリィ・ガイドに掲載ののんびりした車窓風景が忘れられない 燃料投下
ttp://www.hokuso.com/saidaiji/html-saidaiji1.html
しかし、もともと1両だった気動車を二つにぶった切って、2両の単端にしたの
にはワロタ 戦後も終始 守り?通した白帯は、三等車標記の名残りですか? 赤穂線が今のルートを通らなかったら昭和40年代、いや下手をしたら
今でも残っていたかもな。
残っていたとしても改軌、電化されLRT化され昭和37年の廃止当時の
姿は見る影もないだろうな。 ↑素晴らしい&最後は涙…
廃止時まで一貫して黒字だったんだな。 >>7
それで岡電西大寺線になるわけだな、現行の東山終点からも
西大寺にいけるが東山峠があるからな 廃線の際は営業補償が出たのですかね。
赤穂鉄道(ニブロク)は「国鉄赤穂線と引き換えに廃止になった」
とする本がある(けど、確からしくはない)。 結論から云うと、廃止から数年後 極めて不満な金額ながら 西大寺鉄道は
受け取れたらしいよ。
>>11 湯口 さんが、鉄道ファンに「江若夏の陣」というタイトルの江若の
夏期輸送対策を取り上げた記事の中で、文末で江若鉄道去就のに触れた際に
・・・保証金を受取る事すらできなかった西大寺鉄道よりは、マシ・・・
の記述をされているが、後日 同誌の投稿欄?「サロンカー」にて 氏は
保証金支払い法律制定施行等 支払い記録 に気付き訂正しています。
また赤穂鉄道は、法律制定前の為 保証金が一切支払われていない模様との
記述も再度訂正の時点で述べてます。
まぁ技術革新の変化だけでなく法律整備の面でも、昭和20年代後半→30年代の変化格差
は激しいと云う事ですね。
岡山は軽便が多かったな。なにか地域的な特徴でもあるの? 戦前特に昭和初期以前は、情報も少ないし やっぱ地域間競争・影響じゃない?
うちらが、その服カッコウ善いジャン何処で買ったのとか?
お前家建てたんだ?何処から借りた?頭金いくら みたいなものでは? 大正時代は
地方の資産家が競って鉄道建設を行った時代で
民間資本による鉄道敷設が今で言うベンチャーだったんだろうね
ただ早くも10年後には金融恐慌とバスの普及が始まってしまうんだけどね 此所って 戦後新車導入が無いのは、軌間が災いしていると思うけど?
何故、黒字なのに改軌を考えなかったのかな?・・・車両は結構使い廻し出来た
のでは?
914の線路の両外側に1067線路は、干渉するの?
栗原はこの方法で、実施だけど・・・ 想像だけど、あの手の軽便で黒字ということは堅実そうだから
あまり投資したがらない雰囲気だったのかな? >15
バスも、昭和初期と戦後復興でそれぞれブームになって会社がぼんぼんできているんだな。
それが今や・・・ 大都市に近い軽便鉄道なのが大きかったのでは。
長い事、廃車体がバスの車庫の隅に置いてありましたね。 >>10
そして元東武の連接車置き換え用に『MOMO』が3車体で… >>20
キハ6のことか?。昭和54年に見に行った時は屋根が落ちて悲惨な状況に
なっていた。昭和56,7年頃まであった。
昭和51,2年頃までは単端や客車や貨車もあったらしい。車内にはグッズが
詰まっていたらしい。
池田動物園以外では牛窓の海水浴場にハボがバンガローであったらしいな。
(両備社員証言) 池田動物園のは良く残してくれたと感謝したいです。
九州の3フィーター文化を今に伝える貴重な存在だし。
機関車は無いが、客車+貨車の編成は当時の写真
そのまんまだから。 >>22
単端がそのころまで残っていたのはすごいね。
今残っていたら別の方向からねらーが集まっていたと思うw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています