寿都鉄道【1日0.5往復】
営業最末期は片道1本のみの運行した寿都鉄道。
水害が原因で昭和46(1971)年廃止に廃止となったが
既に昭和42(1967)年に営業休止と
休止から廃止まで4年と長い期間を要し国鉄買収を夢見たローカル鉄道・・・ 「飢餓海峡」には寿都鉄道の名前しか出てこないよね。
他に、寿都鉄道が出てくる文学作品あるのかしら?
>>45氏
私も同論文読んでみます。
ありがとうございました。
・・・なんでこんな文章の存在ご存知なんでしょう・・・(笑)
鉄は恐ろしい・・・(笑) >>50
南薩キハ(キユニ・キニ)100は液体式ですよ〜。
確かに総括制御はできんかったけど。 >>60 鉄道運営時代に任期が在った人?何時 最近ですか? まあ 故人情報になるなら
詳細は、マズイのかもしれないが・・・ >>61
> 故人情報になるなら
詳細は、マズイのかもしれないが・・・
別に公表してもいいのでは?社長さんの告別式やら新聞のお悔やみ欄に
かいているでしょ。長谷川町子のようによほど故人が死亡したことを
周囲に知られたくなければ不味いだろうけど 昨日、全国放送で寿都がでていたけど、寿都鉄道の話題はナシ。 とうとうネタが尽きたんだろうか。
正直現役時代に乗ったことのある人はおろか、
見たことのある人も少なそうだし。
「寿」という文字には、本来めでたいとか、良いイメージがある筈なのだが、
俺は、寿都鉄道 や 横浜寿町を、連想して 悲惨なイメージを抱いてしまうな。 寿命ってのもめでたいのかそうでないのか良くわからんな。 「寿都」という地名の当て字が空しいなあ……
「鬆津」(寂れて鬆(す)が入っている港)ってところじゃないか、今じゃ NHKで深夜にやってた「昭和のSL」で寿都の8108が出ていましたね。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
黒松内も無人化されて久しいでしょうが、最近の様子ご存知の方いますか?まだ昔の面影ありますか? 寿都鉄道には昭和27年と昭和29年に各一両ずつ東武鉄道から気動車が譲渡されていたみたいです。
昭和27年に譲渡されたのは成田鉄道から東武鉄道に転属したキサ11。寿都鉄道ではキハ1として使われていたみたいです。
昭和29年に譲渡されたのは北九州鉄道から東武鉄道に転属したキサ21。寿都鉄道ではハ21として使われていたみたいです。 キサ21 ガラクタながら、九州から北海道まで流れ着くとは凄い履歴だな。 寿都町には行ったことがあり、線路があった路盤は確認できました。
ここらへん汽車が走っていたという感触がありました。 >>76
大分交通のDLね
旭川通運に居たけど、残念ながら解体された模様。 客貨分離は、おろか無煙化達成できず
蒸機よりに追い出され釧路の丸彦建設に、嫁いだDB501は、何時絶命(多分だが・・・もしかして会社ごと跳んだとか・・・)? 手元に「北海道各線時刻表1955盛夏号」
国有鉄道監修・日本交通公社発行というのと、
「北海道各線時刻表1965,7」
国鉄監修・交通公社発行というのがあるのでみてみると。
30.6.1改正
黒松内・寿都間(連)(寿都鉄道)
黒松内発寿都行
〔17〕10:25、〔3〕11:25、〔5〕15:40、〔19〕19:40
寿都発黒松内行
〔16〕7:30、〔2〕10:00、〔4〕14:00、〔18〕17:30
黒松内〜寿都
所要60分、16.5キロ、100円 〔〕は列車番号
※上記の他バス運行(所要60分)
黒松内発寿都行 6:40・9:10・13:15・18:40
寿都発黒松内行 4:40・6:00・11:10・15:40
40.6.18改正
黒松内━寿都(連)(寿都鉄道)
黒松内発寿都行
〔21〕11:35、〔23〕16:15
寿都発黒松内行
〔20〕9:10
黒松内〜寿都
所要60分、16.5キロ、150円
※寿都鉄道バス便(40.6.18改正)
寿都駅前〜黒松内駅前〜大成局・国縫局
寿都駅前発黒松内駅前行 6:15、18:30
寿都駅前発大成局行 6:45、15:45
寿都駅前発国縫局行 8:15、14:30
黒松内駅前発寿都駅前行 7:15、(9:25、11:05、17:10、17:55)、19:55
※()は国縫発若しくは大成局発便黒松内駅発射時刻。
大成局発寿都駅前行 8:15、17:15
国縫局発寿都駅前行 9:55、16:10
○寿都〜黒松内 所要45分(国縫便のみ35分)130円
○寿都〜大成局 所要75分(黒松内で5分停車便)
所要115分(黒松内で35分停車便)210円
○寿都〜国縫局 所要95分(黒松内で5分停車便)230円
・寿都〜国縫局は全便湯別土谷通過、長万部駅前経由
寿都鉄道沿線に住んでいた親父が少年時代、機関士から「じゃが芋をくれたら乗せてやるぞ」と声を掛けられ芋を渡したら無料で乗せてくれたらしい。
釜があるから焼きイモにしたのだろう。
この板では触れられていないけど、昭和25年に正面衝突事故があって多数の人達が負傷した。 最近、どっかで、寿都鉄道の正面衝突事故のレスを読んだな
当時の新聞記事も含めたサイトも紹介してるスレのレスだったけど
どこだったっけ? >>82
「北海道の昔の鉄道の思い出を語ろう6!!」
↑板で「正面衝突事故があった」というカキコは私です。
親戚の方の話では、寿都の運動会に出場または見物するために乗車した大勢の子供達が負傷したそうです。
あと、中ノ川にあったコンクリート橋梁の付近の川で子供が溺れて亡くなったとか…鉄道とは直接関係ありませんが興味深い話が聞けました。 初めまして。通りすがりの者です。
私の鉄道趣味は昔から国鉄一辺倒のため、民鉄に疎く全く知識がないので、
どの程度の価値があるか、わかりません。
しかし、>>80さんのレスを見て、民鉄派のみなさんも
こんな趣味があるかも?と思いましたので、
とりあえず貼ってみます↓
43年10月改正(戦中です)
http://imepita.jp/20091016/101260
↑これは復刻されていない号なので、興味のある方がいらっしゃれば幸いです
ちなみに普段の私は、大抵こういうページしか読んでいません(同じ号)↓
http://imepita.jp/20091016/101540 昭和48〜50年頃に中ノ川でテレビドラマのロケが行われ、旧中ノ川の駅舎が登場したらしい。
幼少の自分もこのドラマを見たのだが、うる覚えながら古ぼけた建物が出たことは覚えている。
そういえば、この頃は中ノ川の橋梁も残っていたなぁ。後年、川の拡張工事により川が移動し埋め立てられてしまった。 寿都鉄道で国鉄からC12を借りて運行したことがあると、
20年以上前の北海道新聞「読者の声」欄の元職員の方の投稿を
読んだ記憶があるのですが、いつ頃のことなんですかね。
>>86
京極線も出ているのですね。
のちの胆振線は、この時期、京極〜喜茂別は胆振鉄道で、
喜茂別〜伊達紋別は胆振縦貫鉄道という私鉄(昭19買収)でしたね。
胆振縦貫鉄道という会社、
当初は、伊達〜壮瞥〜旧大滝村〜喜茂別を経て、
札幌まで開通を目指して出来た会社だったといいます。
その下に、南小樽〜定山渓の自動車線が掲載されていますが、
この会社(小樽定山渓観光自動車)は、
朝里川温泉〜定山渓に自前の有料道路を持っていた会社の路線です。
連投失礼します。
>>80で昭和43年6月改正時刻を書き込んだのですが、
黒松内行20列車には、
ちゃんと島牧方面の永豊発寿都駅前行の中央バス便が接続していた
ようです。
話し変わって、
寿都鉄道は結局、鉄道廃止後バス事業のみ残したものの、
末期は労働組合の自主運行になって、
それでもままならなくて、中央バスに路線を売ってしまったそうですが、
洞爺湖電気鉄道のように、昭和14年頃から鉄道廃止を見越して、
バス9路線の免許取りや他社の買収をしてみるとか、
なんとかならんかったんですかね。
島牧村〜寿都駅前や岩内駅前〜寿都駅前すら取れなかったのだから、
仕方ないのでしょうか。
正面衝突の件は、私鉄車両めぐりの、同社蒸気機関車1・2(形式7170)
で触れられているね。
ココの客車で、オハ8518なる3軸ボギーの元一等客車が払下られているが、
非弱な当線には、オーバースペックな気がするのだが、軸重や車両限界等問題なかったのですか?
もう少し小型で新しめの客車(買収の雑型とか)にすれば良かった気がするのだが、場当たり対応というか、とにかく予算最優先の選択なのですか?
国鉄も国鉄のような気がする。 三軸ボギーはすごいw
でも昔の寿都って先進開発地域だったから
住民のプライドがそうさせてたりしてね 三軸なので線路への衝撃は小さいでしょう。一軸あたりの重量を考えてみてください。
まあ、車体がでかすぎというのは認めるw
でも譲渡されたころはこの大きさが時には必要だったのかもしれない。 >>89
昭和31年に自社の機関車故障で国鉄よりC12を借り入れ。
昭和24〜25年頃、除雪の為国鉄よりC11を借り入れ。
9600も入線したが、国鉄管理局より線路に対して重すぎるとお叱りを受けた。
いずれも「南後志をたずねて」ホームページより
三軸ホギーといえども明治の客車なので車体は小さい。 先日スカパーのヒストリーチャンネルで「蒸気機関車時代」という番組を
やっていたんだが、その北海道編で寿都鉄道が出てたよ。 ネコパブリッシング鰍フRMラブラリーで寿都鉄道を詳細に紹介する
らしいです 寿都と北海道拓殖って 根室拓殖より設備、規模 地理的条件どれも良さそうなのに何故か荒んだ最期なんだよな。
>>98
でも、拓鉄は、鉄道はともかく、
会社としては運送業者として残っているし、系列のバス会社も未だやっているんだから
根室拓殖や寿都よりも、いいんでは? >>99 拓鉄の日本鉄道史上最長ストとか、開業前だが建設時のタコ部屋労働者雇用とかね。
根室は、最後まで沢山(客車の定員を考えたら相対的に、だが)人が乗っていて旅客の要望もあっての発展的バス化だし・・・ >>100
そういえば昔、鉄道何とかリアルとかいう雑誌に、
岩内線と寿都鉄道とを比較する記事があったね。
規模や条件などが割と似ているこの二路線を比べ、
その中にあって大きく違う部分を考察することで、
国鉄と民鉄との違いに関し論ずる、
そんな記事だったと思う。
その記事における結論等はすっかり忘れてしまったのだが…
誰か知っている方はおられますか? 先日の北海道新聞に、寿都町が現在保有する
寿都鉄道株をこの度、廃棄する記事があったはずなんだが
いつの記事か忘れてしまった。
たしか見出しは「まだ持ってたの」でなかったか。
そして、長万部町も同社株式を今年度廃棄するとか書いてあったはず。
株主てことは営業報告とかもらっていて保管しているのかな。そっちがきになる
それもあっても廃棄するってことだわな
株券、官公庁オークションにかければいいのに >>105 まったくその通り。
失礼ながら、寿都町をはじめとする、株所有の各自治体は、人口少ないんだから暇だろ。
何故、今まで営業報告書や株券を、放置(敢えてそういわせて頂く)マニヤや資料を探している人向けに競売にかけなかっんだ。
それどころか、ヌケヌケとこの不況、財源難のご時世に廃棄とは・・・
役人の怠慢どころか、地域住民に対する背任行為だな。 保守がてら。
長万部町保有の寿都鉄道株って、額面で10万円分らしいね。 >>108
こりゃいいや
国鉄時代の付録DVDに収録されていた寿都の8105が大変良かった
撮影者の注文に応じて機関士が嬉しそうに走らせてくれた下りが特に。 「すっつ」と読むと思っていたら、「すつてつだう」だった。 最終的には、片道1本しか営業運行してなかったから。 プレス・アイゼンバーンが本を出版してますよね。それなりに写真はあるのでは? >>118 あんな社史みたいな立派な気合の入った作り(表紙大きさ)にしないで
簡素化してもう少し安くして多くの人に後世まで存在を伝えるべきだよな。 >>120みたいなの、どこにでも必ずいるよなw
クラス集合写真で一人だけ異常にデブとか横向いてるとか目を閉じてしまったとか、あと当日休んでしまい
右上の片隅あたりに顔だけのヤツみたいになw うん、いるいる
自分では何も出来ず、人の批判をすることにしか自身の存在価値を見いだせないヤツ
君のまわりにも居るっしょ >>121 >>122 助け舟有難う。 >>120は、プレス エーゼン関係若しくは当事者そのものかと・・・・。 正しく1日1本常に同一方向!!(復路は回送)
純粋に国鉄買収(用地)による廃業保障利権温存のためだな。 切符って片道しか用意してないんだろか。余りまくりで問題は無かったんだろうが。 黒松内発券の乗車券でバスに乗れたんじゃ内科医?
と推測してみる。その時代だとワンマンカーではないだろうし。 >>135 素晴らしい動画を有難うございます。
白黒の所為もあるかも知れませんが、機関車の状態が意外とよく手入れされているように見えました。
ココは、機関車の大きな整備(ジャッキアップ伴うような作業)でも自社でこなしていたのですかね?
やはり西濃のB6が国鉄(浜松工)に出していたみたいに国鉄にだしていたのですかね。
それとも、道内の比較的有力な私鉄他社(定鉄や夕張)若しくは道内車両メーカー 泰和とか の出張工事とかだったのですかね? 最後の頃、機関士さんたちが「ひまだね〜」と言っている写真が道新に載っていた。
時間があったから、機関車を磨いていたのかな?
末期に無煙化を止め逆行したのは何故。
安価に廃業他社の石炭でも引き取ったの? >>138
出発しようとする機関車に石炭が積まれてなかったのが末期の状態。
ディーゼル機関車では除雪できないから、無煙化は不可能だった。
以下の雑誌に元社員の思い出話が色々と載っている。
ttp://homepage3.nifty.com/minami-siribesi/contents/osirase.htm
>>139
買ってきた
石炭を毎日1トンづつ買っていた話など読み応えあり 会社が傾き始めている状態を
従業員の皆さんはどのように感じていたのだろうか? >>141
早めに見切りつけて辞めた人が退職金もらえて良かったみたいですね。
残った人は給料も退職金も不払いで大変だったようで。
産業がなくなった結果として鉄道もなくなるんだから
潰しもクソも、仕事の口があるわけないだろ
アホなの? 末期の職場は荒んでいたんだろうなあ・・
時代は下って、野上電鉄の廃止直前のドキュメントを大阪の民放で流していたが
やはり「頑張ってもこの先何も無い」という喪失感が充満していた
寿都もこんな感じだったのだろうか 確かに大阪万博等 高度経済成長もヤマ場超え情報や流通も格段に変貌した
昭和40年代半ば働く人々のモチベーションも落ちていただろうな。
でも、おそらく当時はマダ古参の職員(困難な戦前、戦中を経験)した人々も多く在職していただろうから
バブルを過ぎた頃 現代っ子若手職員の多い職場になって廃業した野上ほど荒れては居なかったのでは?(冷やかし葬式鉄もさほど湧いて 感情を逆撫でしてないだろうし)
・・・寿都は、以外にも裕福な定鉄より名義上は、長生きだし 運炭で羽振りの良かった夕張をはじめとする運炭の廃業や斜陽も同時期だし
格別悲壮感というわけでは・・・但し 軒並みの廃業で同業他社への転職を困難だったと思う。 >147
>運炭の廃業や斜陽も同時期だし
それ故に「周りも同じ」と諦めムードあったのかも。 長いこと車両は(運行管理も?)国鉄だったり臨港線買収後は実は留萌管内走ってないとか
あとDR101CLとかケハ501・502とか独特の車両多いよね
>>150 留萌は気動車が茨城交通に嫁いだからそれほど謎が多い気はしないんじゃないかな?
寿都は比較的道央寄りながら末期1本が災いしたのか情報が少ない確かに謎だ。
北海道拓殖や根室拓殖(車両が奇抜で話題に挙がりやすい所為か近年情報が発掘?) 茅沼炭鉱の電車(特に) とかのほうが、謎でしょ。 個人的には真狩村営軌道が一番謎w
一応内燃化もされたらしいが写真を一度も見たこと無い >>153 通だな・・・戦後も存在した路線ですよね?
存在すら知らなかった・・・・不覚。
私鉄ではないが、道内車両メーカーについて深く記述のある文献がないよな。
・・・そんな中 銀竜号の田井自動車が今も自動車整備業者として実在するのが驚きだが・・・。 >>154
1936開業(馬力)→1938内燃化→1954廃止
だそうな…そりゃ記録無いな>真狩
車両メーカーは昔ピクで特集やった時に名前と略歴と代表作にさらっと触れた位かな
通常号で全国のメーカー扱ったから仕方ないけど
あと基本的に「鉄道」車両メーカーの特集だったから田井自動車とかは載ってなかったはず >>154
>内車両メーカーについて深く記述のある文献がないよな
10年まえのファンに小樽の橋本鉄工所の記事があったな