ポール集電時代の、叡電・嵐電を語ろう
レトロ調ではなく、「デナ」「モボ」といった独得な形式を名乗る
本物のレトロ電車が永らく活躍し、昭和50年代までポール集電を
採用し続け、駅員や乗務員の制服はこれまた懐かしい詰襟。
うらぶれた雰囲気があった一部のターミナル駅以外は全て無人駅、
車内では車掌がカバンをぶら下げて切符を発売。
もちろん、冷房車なんか皆無。叡電のごく一部の車両以外はすべて吊掛車。
そんな、京都市内にありながらローカルムードに溢れていた、
「あの頃の」叡電や嵐電を語りませんか?
京都市電が元田中から叡電に乗り入れ、宝ヶ池まで直通していたなんて・・・
今となっては、まさに神話だね。
実際に直通電車に乗られた方、いらっしゃいますか?
>28
いれば今60歳くらい?
ここ見てそうにない世代じゃないかな? デオ600、修学院の車庫の定位置で「休車」の板をつけて留置してるね。
まだ姿があって良かった…
って言うか、いつまで休車なんだろうか… >>28>>29
乗り入れしてたのが昭和24年〜30年。当時小学生で60歳手前か…。乗り入れ廃止後も元田中の叡電交差にその痕跡が長いこと残ってたね。 >31
現在41歳でつが、漏れが小学生の頃=市電末期には
もう跡形もありませんでした。
いつ頃撤去されたんでしたっけ? >32
現在47歳だが、昭和40年代はまだ残っていたと思う。
少なくと私がチャリンコ乗り出した昭和45〜6年頃には残っていた。
元田中から叡電に乗り入れた京都市電は、やはり、宝ヶ池までノンストップだったのでしょうか?
宝ヶ池には、京都市電用に高さの低いホームが用意されていたのですよね。 >>34
今でも4番線鞍馬方にその時の低床ホームが残ってる。 市電〜叡電直通電車の話、なかなか興味深いですね。
宝ヶ池行きの叡電直通電車はどこが始発停留所だったのだろう?
直通運転に使用された市電車両にはどの形式が使われていたのか?特に限定運用があったのだろうか?
直通電車の本数は?
やはり、市電の運転士がそのまま叡電区間も運転したのだろうか?
と、色々と疑問点が浮かんで参りました。 >>37
市電からの直通は京都駅と四条大宮からで、車両は当時最新鋭の1000型だったようです。 >37
京都新聞社から「京都市電ものがたり」再版されたから、
買って読むことお薦めする。 嵐電のモボ126は、モボ121形の中では唯一ノーシル・ノーヘッダーで、新車(モボ301形、101形のこと)と
旧者(モボ111形とモボ121形のこと)の中間のようなスタイルをしていた。
なんでだろう?? >40
外板張り替え更新したから。
車体新造で置き換えするか更新で済ますか探るための
テストケースだったんだろう。 >>41
なるほど
長年の疑問が解決しました
ありがとうございます モボ126で思い出した話を1つ。
ノーベル賞獲った人の勤め先の子会社に勤めていた当時、
自転車通勤ではいつも西院駅前後の線路沿い道路を走る
事にしていた。
毎朝同じ時間に126が来るスジがあって、ある日思い立って
カメラ持って出勤したら、その日から違う車輌に変わっていた。
以後、観察していると、どうもそのスジは次期廃車候補が
“最後のご奉公”をするスジだったらしい。 >>41
で、出た答えがモボ610,620,630か…。
モボとかデナとか、ホントに懐かしいなあ・・・。
あの優美でクラシックなスタイルの現存例が、鞍馬の生首だけとは・・・。 つまり京福(京阪)に京都電燈のような会社のゆとりというか余裕が感じられないんだな。
でも『きらら』を作った叡電はちゃんと伝統を受け継いでいるのではないかい? 昔の出町柳ターミナルが懐かしい。ボロい券売機から出て来る黄色い紙のきっぷが印象に残ってるな。インクが手につく、昔ながらのやつね。 出町柳ゆぅたら、駅出てすぐのポイントのあるとこで電車眺めんの好きやった。 嵐山駅は平成になってからもドッポン便所だったけど、水洗化されたん? 四条大宮や三条口、北野白梅町などで、嵐電と市電が接していたんだから、
嵐電と市電の乗り入れがあっても良かったような気がするが・・・。
市電がせめて、最後に残った外周線だけでも残っていたらなぁ・・・
と思ってしまう。
>51
市交は宝ケ池乗り入れを手始めに乗り入れ拡大したかったらしいが、
京福電鉄が乗り気ではなかったとの事。
乗り入れをきっかけに、いずれは市で買収も視野に入れていたそう
だが、そこまで実現しなくて良かったような気もするし、また見ように
よっては、実現してれ市電のネットワークが維持できたかもしれない。
このあたりの話は京都新聞社「京都市電ものがたり」に当時の関係
者の証言がある。 >>51
嵐電と京都市は電力事業で敵対していたので、そんな発想は微塵もありません。 現在の木野駅と開業当初の木野駅は位置が違うそうですが、移転時期は
鴨東線開業の頃(再複線化)でしょうか。
また旧駅時代は鞍馬電気鉄道時代の車庫の跡は見られたのでしょうか。
スレの趣旨と違いますが、実見された先輩諸氏、お教えください。 単線時代の木野駅は、現在の市原駅のように旧ホームは残ってなかったのでしょうか?
単線化されたときにホームも撤去されたのでしょうか?
二軒茶屋駅はともかく、木野駅はなんで再複線化のときに移転する必要があったんですかねえ。
都市計画の都合? >57
精華大学前駅開設にあたって駅間距離調整のために移転させたはず。
この辺り、時系列調べたら理解できる。 デナ21のさよなら運転から、今年で15年経過・・・。
叡電も、ここ十数年ですっかり近代化されましたね。 出町柳駅で運転士が発車寸前にダッシュで駆け込んでくるのも昔から? >>62
今でも、発車寸前にしか来ませんが、ダッシュで駆け込む・・・
という風情ではありませんね。 デナ21の、あのニス塗りの車内、懐かしいな。
今でも動態保存で走っていたら・・・。
やっぱり、1両丸ごとじゃないと値打ちありませんよね。 いや、カットボティでもありがたいんだけど、あれほど死体然とした保存車も珍しいな。
運転台の背後を明色にするだけでもイメージが全然違うのだが。 嵐電 叡電の旧型はよく手入れされてて
単なるボロでは無い風格があった しょーもないレトロ電車作るくらいなら、車体流用で足回りを一新したデナやモボを作った方が良かったような。
これらに限り冷房無しはゴメンナサイで良かったのに。 >>71 いまさらだけど、それ面白い。車体は頑丈そうだったし
木の部分は難燃木材にでも取り替えて… なるほど。
21世紀版のデナ21を造ると言うわけですね。
まさに、シリーズ21!(笑) 京福のマークと、柴又帝釈天のマークが似ていてびっくりした。 あのマークは結構ほかでも使われているよ。
山陽の親会社宇治電も使ってたし。
あれは阪神の社紋に使われいてるイナズマとともに電気系企業の定番。 ポール集電に詰襟の制服、昭和初期に作られた骨董品のような電車・・・
あの頃に一度だけでもタイムスリップしたいものだ。 嵐山駅直上で最高の立地だったレディースホテルが閉業だなんて京福って経営センスが無いよな。
今でも女性同士の京都観光客って星の数ほど居るのにね。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
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関西私鉄って戦後長く詰襟の駅員の会社多かったよな。 528 :名無し野電車区:2009/05/12(火) 18:09:03 ID:zAkFe3ru0
叡山ケーブル、ケーブル八瀬駅の謎の引込み線について詳細ご存知の方、
建設時期、意図等お教えくださいませんか。
529 :名無し野電車区:2009/05/12(火) 19:02:52 ID:9MP7nq7j0
>>528 勘だけど、貨車の積み下ろし用の線じゃね?
>>85
そもそもは開業後3年目に2代目車両を作ったので、余剰となった車両の留置線。
「鉄道史料56号」8ページに当時の写真あり。
中之島図書館で鉄道史料読んできたよ。興味深かった。
本来は余剰とならずに愛宕山鉄道の鋼索線に売るつもりだったんだな。
その目論見が破れ、余剰、20年放置…。
その線路が今に残る・・・。 >>88
日本車両へは鞍馬線名目で発注しているから、愛宕山でも鞍馬山でも、どっちでも良かったんだろうけどね。
まさか戦後叡山ケーブル自身で復活するとはね。 今夜のNHKかんさい特集で嵐電登場!
ついでに佐藤蛾次郎も登場(笑)
ポール集電時代は、
走行中にポールが外れたりしなかったんだろうか?
嵐電のポール集電、間に合わなかった…
修学旅行では嵐山に寄らなかったので…
もっと前に京津線を遠巻きに見ているのだが、屋根までは観察しなかった… 嵐電 モボ 501 502 連結 貸切が9/23に運用されるので撮影しに行き、
1日乗車券を利用しょうと思いますが、四条大宮駅から乗車しょうと思います。
去年解体予定だったモボ 301は現在は運用しているのでしょうか。
もし運用していたら9/23には運用される場合は北野線 嵐山本線か
教えてもらえないでしょうか。
車掌の鋏には国鉄と違いバネがついてなくて、独特の音がした。 >>95
改札口の駅員が暇やったから、やたらパチパチならしてた。 モボ111って、一時期屋根が黒塗りになってたよね?
昭和55年頃と思うけど…
>>100
×モボ111
○モボ111型
車号は112、116だったと思う 修学院のデオ600、いつまで残しておくんだろ?
それなら、最後まで残ってたデナ21もしばらく残して欲しかったな。 >>103
先日より、解体が始まったようです。
もう今日には終了してるかも…
そういえば、デナ500の頃までは解体は宝が池駅南の留置線?引き込み線?
で解体していたらしいですね。 今度は嵐電の塗装がかわるようですよ。
京紫単色塗装になるとか… >>104
部品の一部は、もしかすると復活の決まった京阪のびわこ号に流用したりして・・・ ポール回しという作業は、やはり難しかったのでしょうかね?
うっかりすると乗務員が感電したりしなかったのでしょうか? >107
戦時中の女性車掌は、バネの力に負けて宙に浮く人もあったとか。
また、雨の日は紐が濡れてるから、漏電してピリピリしたという話だよ。 >>108
戦時中の叡電と嵐電はボール車だったけど、ポール回しする車輛はないだろw
ポール回しというのは進行方向に関わらず同じポールを使う場合のみ発生する作業だぜ? >109
それはポール回しの話をしてる>107に言うたってくれ。 >>107はポールの取り扱いを”ポール回し”と間違って書いてしまっただけじゃないか? >111
それも>109に言わず>107に聞いたってくれ。 戦時中に休止となった愛宕山鉄道の平坦線、嵐電からの乗入れって
行っていなかったのかな? >>115
どうも嵐山駅を間借りしていただけで、乗り入れ自体は行っていなかったっぽい。 嵐電も叡電も、すっかり近代化されたな。
あの旧型車のニス塗りの車内が懐かしい。 出町柳駅の古びた券売機で黄色い紙にインクで印字されたきっぷを買い、改札口を抜け、
好ましい落ち着いた塗装の旧型電車に揺られ、ニス塗りの車内で癒されながら洛北へ向かう…
詰め襟の制服に身を包んだ車掌がカバンをぶら下げ、ハサミをカチカチさせながら切符を売る…
あの独特の風情がたまらなかった。 叡電の記号、デオ、デナの「オ」「ナ」はそれぞれ「大型」「中型(なかがた)」の頭文字に由来してると何かの本で読んだが
だとすると小型車は「デコ」だったのだろうか。
元阪神車のデナ500などは一般的な感覚だと既に小型車なんだが・・・ そういえば小さい頃、自宅の場所やよく行く行き先の関係から滅多に乗れない叡電に出町柳から乗った時、
ちょうど次発の電車がちょうどその頃引退間近なデナ500の二両編成で、これ乗りたい!って言ったんだけど、
親か祖父母のどちらかだったか忘れたが、理由を解ってもらえなくて、先発の違う電車に乗ってしまったことを
思い出した。
あれがデナ500に乗れる最初で最後のチャンスだったんだよなぁ…
その後、叡電で通学するようになったんで、デナ20型以降はこれ以外全て乗ったし、車内の様子はありありと
思い出せるだけにデナ500型の車内の様子とか、運転台の様子とか未だに知りたくて気になって気になって…
西院車庫横の保育園に通ってた、遠足は当然嵐山。秋の嵐山で団栗拾いに満足した一行は復路のク200型貸切で西院駅に向かった。 西院駅到着直前に俺の嵐山で拾い集めた団栗の入った袋が破れ車内にぶちまけた、泣きながら拾ってたら、なんと運転手さんも一緒に団栗を拾ってくれた。以上ポール時代の話です。
ク201懐かしいな。
運転台がない方の表情に何とも言えない味わいがあった。