ポール集電時代の、叡電・嵐電を語ろう
>>167
もうその間隔になって長いけど、これがたとえば15分隔になったりしたら途端に苦情が出るだろうなあ。
しかも単行か2連でしょ。輸送単位が小さいのに頻発だものね
ローカルで毎時4本運転と言えばかなり多いと思う。 叡電〜京都バスの通しきっぷ、
割引になっていたの、
記憶している人、いる? デナ200の最晩年に乗ったかな
まだ当時は吊り駆け車は普通に走っていたが
この形式は矢鱈と五月蝿かったことを覚えている。 >>172
これは素直に称賛して良いと思う
フリークエンシーの確保こそ鉄道の生き残る唯一の道 >>141 >>147
>切符を豪快にベリベリっと破って
嵐電や叡電じゃなくて、京都市電(スレチでスマソ)での体験談なんだが、
俺が小学校一年生の頃の話
それまでは幼稚園だったので、市電に乗る時は親と一緒でタダだったのだが
小学1年になって、はじめて親が買ってくれた切符を俺に持たせてくれた。
だがしかし、
「降りる時に切符を渡す」というシステムを知らなかったので
切符を持ったまま(集札されずに)下車してしまった。
電停に降りて、俺が切符を持ったままなのを、親が気づいた時には、市電は発車した後だった。
誰かが「もう1回使えるなw」と言った。
この時、子供心にも「不正乗車はダメだ!」という正義感が湧き
切符をグチャグチャに破り捨ててしまった。
スレチ長文スマソ >>176
そうだよ。
ともに、おけいはんの仲間。 >>175
利益を確保するためには経費を抑える必要があるが、
フリークエント運転はもろに逆行しない? フリークエンシーを維持しないとバスに流れちゃうからね。しょうがないね。 昔からの疑問だが、方向板は縦長長方形に起点終点を並記してるタイプと、
円形に終点だけを記載してるタイプがあったと思うが、使い分けの基準ってどうなんでしょ >>184
当方52歳、小2より百万遍住み
おぼろげな記憶では
円形は鞍馬線系統
角形は「出町柳⇔八瀬遊園」で、裏は「修学院」だっと思ふ >>2>>185
京阪2624・2818「ふっ・・・お主らもまだまだよのう・・・」 そういや京阪京津線も1970年代までポール集電が残ってたな >>186
生身の人間と車輌とを同列比較はあかんやろw 小学生の頃に阪神からここに行った831を見たが、
修学院車庫にたくさんたむろしてたので驚いたのを覚えてる
コロタン文庫の本を見たら10両も入ってたんだね >>185
百万遍にお住まいですか
羨ましいです。 茶山に親戚が住んでたので子供の頃ポール時代に間に合った。デナ300は格好良かったな。俺は嵐電沿線に住んでてモボ301のナメクジみたいなスタイルと違って輝いて見えた。 どうもモボという記号がモーホーに見えてしまうんだな
すまん独り言だ >>190
左京やんw
中京で七代くらい住んでないと京都人の末席にすら入られへんのやろ? 裾回りがスッキリしてるモボ301,101こそ
素敵なスタイルだと感じたよ
デオ300は平凡。 車内放送施設が無いから、車掌が車内回って駅名を伝えてた 叡電の思い出
まだデナ21が元気だったころ、子ども会で八瀬へキャンプに行くときに引率のリーダー人が鉄ちゃんで
デナ21の窓の上隅のRは手作業で研削してできてるみたいな説明をしていて
そのまま信じ込んでいた。それがでたらめだと分かったのはかなり後になってからだった 子供に嘘を教えたら駄目じゃん
今なら教育委員会に通報して処分食らうだろな 子供会のキャンプでそんなニッチな話やっててたのか
うらやましーぞ このスレまだあったのか
>>201です
叡電の思い出2
1995年、出町柳でエコモーショントレインのデビューセレモニーの見学に行った時、
デザイナーの女性のスピーチを通訳する人がアガってたのか噛みまくってた
どこかの大学の学生さんがバイトでもしてたのかな
見てていたたまれなくなった
この年1月に阪神大震災があって改札には
復興のための募金箱がまだ置いてあったな 正式な名前を忘れたが洛北観光大使みたいなのの任命式やら、
やたらとイベント、セレモニーを打ち上げてた時代
京阪と繋がって客が激増して経営的に今が攻め時と考えてたのだろう >>201
窓の木枠の話だろ?サッシ化後に木製時代の話をしてるのがおかしいだけで
木枠のアールは人間が切り出すわけだから、それほど間違ってなくね? >>209
売り上げが倍増してもそれまでの溜まりに溜まった赤字を解消するには程遠かったから京阪の軍門に下ることになったが
じゃあいったいどれほどの赤字を溜めつづけてたかって話になるよな
行政は、叡電がなくなっても市バスで吸収できると考えてたふしが、1990年代まであった
いつやめるか、廃止するのか、と傍観 沿線のあの辺りってバスの使い勝手が良くない
だから電車が残ってくれてありがたい いやいや、電車と競合するルートを走らせる方が無駄と非難されるからに決まってる
それを冷遇とは言わん
全体最適を選択した結果だ 嵯峨駅前で降りて国鉄嵯峨駅を探し回った思い出、
また、高雄口駅を降りて周山街道を高雄まで延々とキョリを歩かさせれた思い出
駅の改名は必然であった >>218
前者は同意だが、後者の「○○口」ってのは、特に京都では
「○○へ向かう入口」程度の意味だから、近道ですよ的なニュアンスは無いからね。 ポール集電時代の食堂車・ビュッフェ・カフェテリアを語ろう
ビール電車的なのってポール集電の頃にあったんだろうか? >>218
貴殿は地下鉄鞍馬口駅で下車して鞍馬山まで行こうとするに違いないw 北野線等持院が知らぬ間に改称されて長名日本一になり、また知らぬ間に日本一から陥落していたとは 長駅名日本一みたいなくだらないことに血道をあげるよりも先にやることあるやろ >>222
等持院か竜安寺のあたりに雀荘があって店主のおばあちゃんがメチャ強かった >>218
今は良くなってるが20年ほど前には案内板の一つもなく地図を持たずに勘で歩くとトンデモないことになった >>226
等持院
今でこそ案内表示があるが1985年頃にはまだなかった
駅を降りても周りはただの民家ばかりで本当にここで下車して良いのか
一瞬だけ不安になったw 低速運転でポール集電でも不都合なかったから。
切り替えたのは、在庫の払底ではなかろうか。
知らんけどw >>232
どっかで見覚えあるトラムやな、と思ったら
乗り越えクロスのあるトラムじゃん。
tp://photos.wikimapia.org/p/00/00/18/00/16_big.jpg
SEPTA Trolley Crossing でググったら動画見れるよ。 らんでんのイントネーションが変わったのかな。
らの次の「ん」でアクセントを上げる人が多いし、「ら」を上げる人もいる。
平板に、あるいは僅かに二つの「ん」を下げるイントネーションだったけど。 乗務員にとっては難物だったらしいよ
いつ外れるかヒヤヒヤものだ 叡電嵐電は詰め襟の制服じゃない?
集電装置は関心なかった >>236
ホイールは外れやすいけど晩年はスライダーでしょ 20年ぶりに北野白梅町駅に降り立ったらあまりの変わりように驚き >>240
白梅町イズミヤができた時以来の大変貌か
駅北側のCD屋、串焼き屋、パチンコ屋は… >>240
建て替え前は道路と線路の仕切りの窓は夏になると駅員が一々開け閉めしていたが建て付けが悪くてものすごい音をたてていた
晩年はそれさえもやらなくなり風通しが良くなくて蒸し風呂みたいになっていた まあ駅冷房なんか地下鉄ぐらいしかやってないからなあ
風通しが良くなかったのか >>242
喫茶店もなかったかなあ?
店から駅員さんに出前のカレーライスとかサンドウィッチ等が届けられていた >>243
その道路は片側一車線でとても狭いのに市バスの通り道になっていた
稀に白梅町を発車する帷子ノ辻行きとバスが競争になることがあった バスはすぐに交通信号があるから競争にならないでしょ