ポール集電時代の、叡電・嵐電を語ろう
レトロ調ではなく、「デナ」「モボ」といった独得な形式を名乗る
本物のレトロ電車が永らく活躍し、昭和50年代までポール集電を
採用し続け、駅員や乗務員の制服はこれまた懐かしい詰襟。
うらぶれた雰囲気があった一部のターミナル駅以外は全て無人駅、
車内では車掌がカバンをぶら下げて切符を発売。
もちろん、冷房車なんか皆無。叡電のごく一部の車両以外はすべて吊掛車。
そんな、京都市内にありながらローカルムードに溢れていた、
「あの頃の」叡電や嵐電を語りませんか?
京都市電と絡めて乗った
1977年、デナ500とデオ200
今思うとあの時代でポール集電みれたのは幸せだった高校一年 乗務員室の側扉が引き戸で、車内はニス塗り・管球の嵐電。
…リアルでポール集電、には間に合わなかった… 小さい頃によく乗った叡電と嵐電の旧型車は懐かしいな!
でも、現在は叡電のデナ21は鞍馬駅にカットボディーが残るだけ、嵐電の古いモボに至っては、
一時期嵐山駅の改札あたりに運転台部分が置いてあったのにこれも撤去されてしまい、結局完全消滅だもんな。
今でも走らせていたら、立派な観光資源になるのになぁ…とついつい思ってしまう。 元田中だっけ。平面クロスを撮りに行ったな。
貴船口あたりも景色が良かった記憶。 嵐電も叡電もかなり後まで放送設備すらついてなかったな。駅を発車すると車掌が次の駅名を言いながら切符を売りにくる。ついでに言うと叡電はつい最近のワンマン化まで車掌が鋏カチカチ言わせながら車内を回ってた。 昔の出町柳ターミナルが懐かしい。
手作り感のある駅舎上の看板、古びた券売機で購入したインクで印字された黄色い紙の乗車券、ホーム上には古風な行灯式の行き先案内が。
1番のりばにはデオ300形単行の八瀬遊園行き、
そして3番のりばには名優デナ21形2連の鞍馬行きが。
真ん中の2番のりばには大きな「留置車」の看板を掲げてデオ200形がお昼寝…
あの頃が懐かしいなぁ。 嵐電の車掌の、空打ちの音を交えながら素早く切符を切る
鋏さばきが面白かった。 福井と同じ事業者なのに、何故にこんなにも車両の性格が違ったの?
京都の だ円プレート上の社番・地方私鉄(鉄道線)にしては珍しい標軌といい
琴電と何処か共通性を感じるのは、俺だけか・・・
事業者が同じなだけで、生い立ちは全く違うからね。それでも5000型は叡電デオ800シリーズに似てた。
デオ600が消えて、古き叡電スタイルがいなくなってしまったのが残念だ。 叡電の車内券を買うのが楽しみだったな。
1区〜5区まで全部欲しかったから、別に用事もないのに、その為だけにわざわざ何度も乗りに行ったよ。
今日は3区の車内券が欲しいから岩倉から出町柳まで乗ろう、今日は4区だから市原から乗ろう…とかね。
で、出町柳駅で記念に欲しいと申し出て裏面に無効のハンコを押してもらう。
ちなみに私の持ってる車内券は1区が150円、5区が310円の時代のものです。
今はワンマン化されたから車内券を買う機会もないけど、宝ヶ池で八瀬−鞍馬方面を乗り継ぐ場合に運転手が車内券を発売する事はあるよね。 叡電はここ20年くらいでガラッと様変わりしたね。
やはり、鴨東線の開業が大きなターニングポイントだったんだろうね。
一時期の危機的状況を脱して、すっかり近代化された叡電の姿は逞しく、力強いものがあるが、昔ののどかな時代が懐かしく思われるのも事実だな。 鴨東線開通まで粘っても、叡山電車のワンマン化は不可避だったのですね。 叡電がポールからパンタに変わったのも遅かったが、その変わったパンタが東洋C型というこれまた渋いものだった。しかもデオ600が引退するついこの間まで現役。現役では最後の東洋C型だった。 叡電デナ21の優美なスタイルと上品な塗装、木の温もりを感じる室内、独特の照明設備…
あれはまさに走る骨董品であり、走る文化財だったと思う。 >>18
なるほど。修学院の本社に行けば車内券が買えるんですね。
約20年ぶりに、全区間の車内券を集めてみようかな?
全区間の大人・子供券を一枚ずつ買うには2340円かかりますね(笑)。 >>19
ひょっとしたら八瀬比叡山口に改称してない券がまだあるかもしれません。
旧券を使い切ってから新券に切り替えのはずですから。
叡電はホンの数年前までケーブル連絡券などは50年位前の券を使ってましたが、
今はそのような券は総て廃札となってしまいました。
出町柳は鞍馬往復などの手売り券が残存しているかもしれません。 >>13
今の時代だと厳しいでしょうね。京阪ですら交野線をワンマン化するくらい。
ただ、比較的完全ワンマン化が遅れていたのは設備投資や労使交渉とかいろいろな
紆余曲折があったものと思う。
>20
そいえば、10年ほど前にケーブル連絡の坂本までのキップを買ったら、
坂本ケーブルが旧駅名だった。 嵐電は均一運賃になってからは車内券とか補充券は作ってないよね? ところがどっこい作ってたんだな。これが。
太秦の立ち売り用なんだけど、表紙付一連12枚綴りの回数券型で、
先端2枚が小児用、3枚目以降12枚目までが大人用という奇妙な切符。
恐らく金券型回数券を作るつもりが何らかの事情でボツになり、普通券としてバラ売りしたんじゃないかと思う。
均一制になった直後に一冊買ったけど、他の掲示板の情報ではもう売ってないそうな。
昔は車庫事務所に行けば旧様式の手売り券売ってもらえたんだけどね。 >>25
へえ〜嵐電にもそんなのがあったんですね! 京福は鋼索や索道の切符も最近一新したから切符の古いのはもう無いなぁ。
路線案内パンフレットなんて4カ国別に作っているしね。 京都市電が元田中から叡電に乗り入れ、宝ヶ池まで直通していたなんて・・・
今となっては、まさに神話だね。
実際に直通電車に乗られた方、いらっしゃいますか?
>28
いれば今60歳くらい?
ここ見てそうにない世代じゃないかな? デオ600、修学院の車庫の定位置で「休車」の板をつけて留置してるね。
まだ姿があって良かった…
って言うか、いつまで休車なんだろうか… >>28>>29
乗り入れしてたのが昭和24年〜30年。当時小学生で60歳手前か…。乗り入れ廃止後も元田中の叡電交差にその痕跡が長いこと残ってたね。 >31
現在41歳でつが、漏れが小学生の頃=市電末期には
もう跡形もありませんでした。
いつ頃撤去されたんでしたっけ? >32
現在47歳だが、昭和40年代はまだ残っていたと思う。
少なくと私がチャリンコ乗り出した昭和45〜6年頃には残っていた。
元田中から叡電に乗り入れた京都市電は、やはり、宝ヶ池までノンストップだったのでしょうか?
宝ヶ池には、京都市電用に高さの低いホームが用意されていたのですよね。 >>34
今でも4番線鞍馬方にその時の低床ホームが残ってる。 市電〜叡電直通電車の話、なかなか興味深いですね。
宝ヶ池行きの叡電直通電車はどこが始発停留所だったのだろう?
直通運転に使用された市電車両にはどの形式が使われていたのか?特に限定運用があったのだろうか?
直通電車の本数は?
やはり、市電の運転士がそのまま叡電区間も運転したのだろうか?
と、色々と疑問点が浮かんで参りました。 >>37
市電からの直通は京都駅と四条大宮からで、車両は当時最新鋭の1000型だったようです。 >37
京都新聞社から「京都市電ものがたり」再版されたから、
買って読むことお薦めする。 嵐電のモボ126は、モボ121形の中では唯一ノーシル・ノーヘッダーで、新車(モボ301形、101形のこと)と
旧者(モボ111形とモボ121形のこと)の中間のようなスタイルをしていた。
なんでだろう?? >40
外板張り替え更新したから。
車体新造で置き換えするか更新で済ますか探るための
テストケースだったんだろう。 >>41
なるほど
長年の疑問が解決しました
ありがとうございます モボ126で思い出した話を1つ。
ノーベル賞獲った人の勤め先の子会社に勤めていた当時、
自転車通勤ではいつも西院駅前後の線路沿い道路を走る
事にしていた。
毎朝同じ時間に126が来るスジがあって、ある日思い立って
カメラ持って出勤したら、その日から違う車輌に変わっていた。
以後、観察していると、どうもそのスジは次期廃車候補が
“最後のご奉公”をするスジだったらしい。 >>41
で、出た答えがモボ610,620,630か…。
モボとかデナとか、ホントに懐かしいなあ・・・。
あの優美でクラシックなスタイルの現存例が、鞍馬の生首だけとは・・・。 つまり京福(京阪)に京都電燈のような会社のゆとりというか余裕が感じられないんだな。
でも『きらら』を作った叡電はちゃんと伝統を受け継いでいるのではないかい? 昔の出町柳ターミナルが懐かしい。ボロい券売機から出て来る黄色い紙のきっぷが印象に残ってるな。インクが手につく、昔ながらのやつね。 出町柳ゆぅたら、駅出てすぐのポイントのあるとこで電車眺めんの好きやった。 嵐山駅は平成になってからもドッポン便所だったけど、水洗化されたん? 四条大宮や三条口、北野白梅町などで、嵐電と市電が接していたんだから、
嵐電と市電の乗り入れがあっても良かったような気がするが・・・。
市電がせめて、最後に残った外周線だけでも残っていたらなぁ・・・
と思ってしまう。
>51
市交は宝ケ池乗り入れを手始めに乗り入れ拡大したかったらしいが、
京福電鉄が乗り気ではなかったとの事。
乗り入れをきっかけに、いずれは市で買収も視野に入れていたそう
だが、そこまで実現しなくて良かったような気もするし、また見ように
よっては、実現してれ市電のネットワークが維持できたかもしれない。
このあたりの話は京都新聞社「京都市電ものがたり」に当時の関係
者の証言がある。 >>51
嵐電と京都市は電力事業で敵対していたので、そんな発想は微塵もありません。 現在の木野駅と開業当初の木野駅は位置が違うそうですが、移転時期は
鴨東線開業の頃(再複線化)でしょうか。
また旧駅時代は鞍馬電気鉄道時代の車庫の跡は見られたのでしょうか。
スレの趣旨と違いますが、実見された先輩諸氏、お教えください。 単線時代の木野駅は、現在の市原駅のように旧ホームは残ってなかったのでしょうか?
単線化されたときにホームも撤去されたのでしょうか?
二軒茶屋駅はともかく、木野駅はなんで再複線化のときに移転する必要があったんですかねえ。
都市計画の都合? >57
精華大学前駅開設にあたって駅間距離調整のために移転させたはず。
この辺り、時系列調べたら理解できる。 デナ21のさよなら運転から、今年で15年経過・・・。
叡電も、ここ十数年ですっかり近代化されましたね。 出町柳駅で運転士が発車寸前にダッシュで駆け込んでくるのも昔から? >>62
今でも、発車寸前にしか来ませんが、ダッシュで駆け込む・・・
という風情ではありませんね。 デナ21の、あのニス塗りの車内、懐かしいな。
今でも動態保存で走っていたら・・・。
やっぱり、1両丸ごとじゃないと値打ちありませんよね。 いや、カットボティでもありがたいんだけど、あれほど死体然とした保存車も珍しいな。
運転台の背後を明色にするだけでもイメージが全然違うのだが。 嵐電 叡電の旧型はよく手入れされてて
単なるボロでは無い風格があった