【大阪】特急白鳥の思い出【青森】
2001年3月に廃止された大阪ー青森間の特急白鳥の思い出について語るスレです。
(現行スーパー白鳥、特急白鳥は除く)
嫁とは特急白鳥の車内で知り合った 柏崎とかに停まるようになったときにはショックだったな。 最末期の近江今津やらの停車なんか信じられなかったな。
その前の時点でうすうすは判っていた、でも信じたくはなかった
今走っている特急白鳥はあくまで青森発の雷鳥であって、「白鳥」という特別な列車ではないという事実を思い知らされた。
心のどこかで、そのうちスーパー雷鳥並の停車駅になるんだよ、、、と思っていたけど廃止だもんな。
話は変わるが、どうしてもボンネットが馴染めなかった俺は異端かな。
字幕でもイラスト幕でも200番台が一番似合う列車と思うんだが。
>>417
俺は今だに1000番台か1500番台の印象が強いな。
何にしろ非ボンネットの方が印象深い。
100番台が入るようになってそれこそ「雷鳥に取り込まれたか」と思ったよ。 >>417>>419
気動車特急時代があった列車に、ボンネット型が馴染めたのは少なかったな。
はつかり・つばさも非ボンネットイメージだったし。
例外がひばり・にちりん程度かな。 はつかりやつばさにボンネット運用あったの?
ひばりは結構見かけたけど。 >>420
やまばととかひたちとかみどりとかかもめは?
あとはつかりはそもそも485系のイメージじゃないな 本来200番台は東北系統で分割・併合を行う前提で作られたものだから
クロを除けば200番台が基本のはずだと思う
かもめ・みどりもみどりのクロしかボンネットのイメージないな >>424
200番台の登場する前のことは無視ですかそうですか >>425
200番台できた時にボンネット車を玉突きで追い出しただろがよ
難癖しか付けない野郎だな >>426
追い出される前の記憶は無いのかって話で
難癖でもなんでもないだろ 白鳥で大阪〜青森に乗って、食堂車で日本海を見ながら食事…
憧れだったなぁ。
まつかぜで大阪〜博多で食堂車、ってのとが二大憧れだった。
結局できずじまいで廃止されてしまった… 東京から青森いくのにわざわざ大阪経由で白鳥を使ったことがある。
新幹線〜白鳥の乗割を頼んだら「なにもわざわざ大阪まわりでいかなくても・・・」といわれ
「大阪で必ず北海道周遊券かいますから」といったら「いいよいいよ」といってくれた。 >>429
今でもトワイライトを使う場合、似たようなケースがありそうだw
以前の特急「白鳥」は、
上野発大阪行きでした(信越本線・北陸本線経由)。
いつから青森発になっちゃたんだろう?
上野駅を発車する「白鳥」が懐かしいね... >>431
釣られてみよう。「青森白鳥」「信越白鳥」って言葉をご存じか?
>>432
そういえば、分割・併合だった様な記憶も...
以前は、上野から軽井沢に行く特急は「白鳥」しかなかったんだよ
懐かしいねぇ...
80系DC特急「白鳥」
大阪編成は実に15時間以上もかけて直通運転するツワモノ特急だったな >>432
>信越白鳥
ウチの親父なんか、この列車を単に東海道本線経由で東京駅を突っ切って上野に向かうだけの列車だと思っていて
「親父、それは違うぞ!」と、いくら説明してもさっぱり理解ができなかったw >>438
当時は湊町(現JR難波)から関西本線経由で東京行きがあった時代だったしな。
東京から北陸直通も東海道線・米原経由金沢行きの能登号が存在したので、
経由線区もバリエーション豊富だった。 >>439
スレチで申し訳ないが
昭和末期まで紀伊勝浦行の寝台特急があったよね
最近紀伊勝浦まで行ったけど、
(言っちゃ悪いが)こんな所に東京から誰が何しに来るんだ?ってほどの地方都市のありふれた中規模な駅だった >>440
伊勢志摩南紀は昔は結構有名な新婚旅行の行き先だったりしたんだよ >>440
スレチついでで紀伊号の行先は紀伊勝浦だったけど、日中の車両停泊は新宮だった。 紀伊勝浦行「紀伊」は4兄弟のうちいちばん最後まで残ったやつだよね。
たしか東京から金沢湊町紀伊勝浦鳥羽行とあって残り3つは全部なくなったね。 >>441
なるほど
今からだと考えもつかないような需要があったんですね
ありがとう 高校入学のお祝いにともらった小遣いや、貯めておいたお年玉を使って
憧れの「白鳥」に乗りに行った。
東京在住だったので、名古屋までは「大垣夜行」名古屋から紀勢本線で
「はやたま」に乗り、二晩掛けての大阪入り。
大阪からの「白鳥」では食堂車へ3回行った。
まずは京都を出てから早めの昼食は「トンカツ定食」
金沢出てから紅茶を頼んで午後のティータイム。
新潟を出てから夕食は奮発して「中華定食」
食堂車のクルーに顔を覚えられ、夕飯の時にはサービスでコーヒーを
ご馳走してもらったっけ。
全区間乗り通さず秋田で降りて「津軽4号」のオロネ10で帰京。
なぜ白鳥を青森まで乗り通さなかったのかというと、八甲田が座席だけ
だったのと、オロネ10に乗りたかったから。
今にして思えばもったいないことをしたかも。
紀伊勝浦と新宮の間は名古屋方面からの列車と天王寺方面からの列車がそれぞれ運行されていたから地味に華やかでしたね。 >>445
それは昭和54〜57年の頃と思うけど、オロネ10を意識したのなら別にもったいないとも思わないな。
実際上越新幹線開業のダイヤ改正で全廃だったから。
白鳥全区間乗車に拘るなら確かにもったいなかっただろうが。 >>439
確か粟津かどっかが、長岡経由か米原経由の境目だったんだよな >>445
>なぜ白鳥を青森まで乗り通さなかったのかというと、八甲田が座席だけ
>だったのと、オロネ10に乗りたかったから。
東能代まで行けたのに >447>449
つまらぬ回顧記にお返事いただきありがとうございます。
思えばそれまで2晩夜行座席だったのと、確かオロネ10がもうすぐ廃止
と聞いてどうしても乗りたかったからでした。
白鳥で青森まで乗り通すよりもオロネ10の方が魅力だった訳で・・
東能代まで行って戻るというのは今初めて知りました。
とてもそこまで考えが及ばなかったというか・・・・
たぶん、乗車券を一周にして安く上げようとしたからだと思います。
・・おもえば、この時白鳥の食堂車で飲んだコーヒーが人生最初の
レギュラーコーヒーだったと。(インスタントは経験有り)
大阪発、青森行の白鳥は大阪を何時に出発してたっけ? 昭和36年
下り大阪発08:05発 青森23:50着
上り青森発05:20発 大阪21:12着
昭和47年
下り大阪発10:10発 青森23:50着
上り青森発04:50発 大阪18:48着 白鳥ってJRになってから地味にスピードアップしてんのね ヨーロッパに行ったとき白鳥の時刻表を持参した。
白鳥の全区間と成田からのヨーロッパ便の所要時間がほぼ同じだったから飛行機の中で
まだ金沢、そろそろ直江津、やっと新潟、疲れた秋田、間もなく弘前で着陸間近、
って感じで時間的距離感がつかめた。 旅行会社社員です。
平成ひとケタのころ、お客さんが直江津→長岡の特急券を希望した際に
「この『しらとり』の指定席取って」と言われてしまって返答に窮しました。
>>456
私なら吹き出していたでしょうが
よく我慢しましたね しらとり と おおとりw
通し料金で特急券が発券されてたよね。 昭和39年9月30日、東京発151系特急のおおとりがおおとりだった。 >>459
( ´・∀・`)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー 西村京太郎トラベルミステリー
特急 白鳥 14時間
愛川欽也
三橋達也
森本レオ >>458
そうなんだ
白鳥に接続するのは
おおぞらと北海なのに 白鳥から乗り継ぐ時は北海道のどの特急でも通しの特急券が発券されてなかった? >>445
乗り通しも食堂車があると楽しいものだね。
俺は末期に乗り通した時、北陸線内は駅弁入手も容易だったが
羽越線じゃ、駅弁も売ってなくてひもじさ抱えて座ってよ(泣) >>467
その意味でも白鳥の食堂車は必須だったね。1000キロ以上走るのに食堂車なしとは
どうかしてると思った。
日本海ですらひもじいのに。 奥羽線内のひもじさには自分も参った。酒田の駅弁販売が最終販売ってのを知らなかった一回目のときは
青森まできつかったなあ。何度か乗ったけど、それからは酒田か鶴岡の業者の車販を必ず買うようになった。 北陸線内で富山で鱒の寿し買っておいて、夕食用にしたこともあったな。 そういうのって途中で食べるの我慢しきれなくなっちゃうんだよね。 大阪行きはだんだん賑やかになってくるし、夕方に着いちゃうからわびしくならないんだけど、
青森行きは新潟を過ぎて酒田から先あたりは辛かったなあ。
それで乗り継ぐ「はまなす」はもっと嫌だったけど、今となっては、「はまなす」にがんばって欲しい。 昭和58年には、宮口二朗、立川三貴が乗客を襲い、森川正太、北詰友樹がグリーン車を乗っとるエピソードがあった >>475
なんだなんだ?ゾル大左の日本乗っ取り計画か?? 福井発の白鳥1号には食堂車がない上、編成も短いのは誠に不可解 どんだけ改正しても最寄り駅に停車しないのが悔しかった
やっと停車するようになった頃には・・・
分かるよな? 末期は特別急行と呼べるような状況じゃなかったね
だらだらと長距離を走る急行・準急になってしまっていた
本物の特別急行「白鳥」に乗れた人は、ある意味で幸運なのかも 大阪を9時55分に出て青森には23時40分くらいかね。
途中で青函連絡船の搭乗希望者の名簿を集めていた とう‐じょう〔タフ‐〕【搭乗】
[名](スル)船舶や航空機などに乗り込むこと。「宇宙船に―する」「―員」
提供元:「デジタル大辞泉」 >>482
いつの頃からか不明だが、青森駅の連絡船乗り場で乗船名簿を回収していたように
記憶してるんだが・・。それまでは車掌が配って、回収してたね。東能代か大館を
発車した後あたりだったかな?それとも弘前発車後?
ボケてしまって記憶が飛んでいる。 サンダーバード+北越+いなほ+つがる=白鳥
指定席もマルスで分割登録していたのだろうか? 53・10・2の改正前は「白鳥」には専用編成が充てられたんだよな…。「はつかり」や「いなほ」
よりTsが1両多かったし、号車番号も逆だった。これは北陸側の都合を優先させたからか。
あと、宮脇俊三の「時刻表2万キロ」の中で青森から弘前まで「白鳥」の自由席に乗った、
って件が出てくるが、この時点(昭和52年5月)では「白鳥」は全車指定席だった。
まあ、東能代までは特定特急券で乗れて普通車の空席は利用できたが…。 カヌ車の編成の中にカツ車が組み込まれてて混色になってた白鳥を見て仰天したなぁ… 50・3・10の改正で、「日本海」「白鳥」「きたぐに」の3者は、
全て大阪―青森間の列車でありながら走行距離は互いに異なる、
という珍現象が生まれた.
これは、山科―近江塩津間と新津―新発田間の経路のせいで,
「日本海」 1023.5km 湖西線,羽越線経由
「白鳥」 1040.0km 湖西線,新潟経由
「きたぐに」1059.5km 米原,新潟経由
ってことだったからだけど,或種の面白さを感じた。
あと、当時の「白鳥」に関しては、新潟経由で道草なんかしてて
新津通過とはけしからん、みたいに思った。
格別な理由は思い出せないけど…。 >>489
互いにってのは二つの事柄について使う言葉だよ 対象が幾つあろうと1回の比較はその中の2つ取りだして、が普通だろ。
要はn個の事象があれば、nC2回の比較を行うってことだ。
まあ、「全て互いに異なる」とか何とか言うのがより正確だろうけど。 >>490-491
そんなことどうでもいいよ。
それよりも、その三種類のうち、形を変えつつも二種類がしぶとく残ってるって
のは不思議と言えば不思議。今「白鳥」があれば、どれ位の需要があるかなぁ。 >>487
とは言ってもグリーン車1両を足しただけだけどなw
>>492
30年程前から実態は雷鳥+いなほと言われていた。
その頃からさすがに日中の長距離移動は、乗客に敬遠されがちだった。 ご存知と思うが、JR西は金沢以東への長距離列車を廃止するだと (鉄道唱歌)
今日もJRご利用頂きましてありがとうございます
大阪を定刻の10:12に発車いたしまして
この先、東海道、湖西、北陸、信越、白新、羽越、奥羽本線を日本海沿に1040kmを
走ります青森行き特急「白鳥」号です
先頭が9号車、一番後ろは1号車です
停まります駅の停車駅と到着時刻は次の新大阪を出ましてからご案内します
車掌は途中の新潟までJR東日本のアンパンマンとバイキンマンがご案内します
よろしくお願いします
まもなく渡ります鉄橋を渡りますと直ぐに新大阪です
新大阪の次は京都に停まります
(鉄道唱歌)
「昭和36年10月改正 時刻表を愉しむ本」を見たんだけど
http://www.yosensha.co.jp/book/b93154.html
当時北陸本線を走る特急は「白鳥」だけ!
当時の子供達にとっては憧れの列車だったんだろなー。
昭和36年は私の生まれる前だったけれど、その10年後に
私は毎日キハ82「白鳥」を見てたんだけど、13両編成で走るその姿は
実にかっこ良く、憧れの列車だった!
しかし、その後、すぐ485系になってがっかりした憶えがあるな。
お盆中は11両増結だった白鳥
いなほの8両なんて比べ物にならない威厳があったな >>498
そのお盆輸送の時に11両運転がJR東日本側に伝わってなかったのか
よく酒田や秋田で乗ってきた人が車掌になにやらクレーム付けてた
たぶん、乗車口の事でクレーム付けていたんだと思う
確かに青森でも3号車の乗車口か増3号車で4号車乗車口が増4号車で5号車が3号車と
2両ずつずれていたしな
でも、お盆や年末年始の時期は11連白鳥でも青森口では輸送過剰でも秋田辺りではほぼ満席だったからな >>498
そういうときは「増結11両」と書きます
「11両増結」だったら通常両数プラス11両という意味になってしまう 9両+11両か。
すごいわ。
てか485系の13両編成あったよね。
キハ82時代だったかな? 最近は短編成が多くてつまらんのう
多客期ではくたか12両とかあるのかな? 一応突っ込んでおく
>>475 放送は1985年11月か12月だったよ。
西村ファンだった俺、その番組見たかったけど、大学受験真っ盛り
のときで見れなかった(当時ビデオなし)。
再放送願ったけど、数年たってやった。 >.489
今頃すまん。
S55.3、福井から磐越西線方面に向った時、時間帯のよさから白鳥を福井から利用。
新津に停まってくれれば磐越西線の普通列車にすぐ接続できるのだが、残念ながら通過。
長岡で後続の「とき」に乗り換えれば、磐越西線の普通に接続できるので、長岡乗換。
当然、特急料金は別、正直痛い出費で、国鉄を恨んだ。(当然、まじめに払いましたw)
で、その時の編成
クハ481-1016 ↑新潟
モハ484-206
モハ485-102
モハ484-602
モハ485-145
サロ481-130
サシ481-41
モハ484-263
モハ485-161
モハ484-1059
モハ485-1059
クハ481-1029 ついでに、ときの編成
クハ183-1027 ↑新潟
モハ183-1042
モハ182-1042
モハ183-1053
モハ182-1053
サロ183-1007
サロ183-1117
モハ183-1045
モハ182-1045
モハ183-1006
モハ182-1006
クハ183-1012
おかげで183と485の窓の高さの違い、回転式腰掛と簡易リクライニングの座り心地の差を体験できた。 白鳥伸雄 競輪解説者(←選手)なら知っているが・・・ 西武ライオンズに白鳥浩徳ってのがピッチャーでいた。今スコアラーやってる。 日本海までなくなってしまうとは・・
需要の変化とは恐ろしい >>507
青森の485系って1972年以降製の電気釜世代の車両ばかりというイメージがあるね。
逆に向日町とか南福岡の485系はボンネット世代のイメージが強い。
もっとも仙台は先頭は電気釜でも中間10両は全部キノコクーラーという編成が多かったような。
ひとつ言えるのは東日本は電気釜、西日本はボンネットというイメージがある。 >>513
サロとサハはキノコクーラーなしという罠 >>513
昭和50年代だと
白鳥 しらさぎ 加越 ・・・・・ボンネット以外
雷鳥 白山 はくたか ・・・・・・ボンネット
の印象がある。
東日本でも、「ひばり」と「あいづ」の仙台方はボンネットのイメージがある。