【大阪】特急白鳥の思い出【青森】
2001年3月に廃止された大阪ー青森間の特急白鳥の思い出について語るスレです。
(現行スーパー白鳥、特急白鳥は除く)
嫁とは特急白鳥の車内で知り合った 福井白鳥に"乗り損ねた"事がある。
チビの頃でよく覚えてないが、暮れ間近、新潟駅でいつまでたっても来なくて、そのうち新潟始発のいなほに乗る事に…。ところがこのいなほもいつまでたっても接続列車の遅れとやらで発車しない。
ようやく発車した時は辺りが薄暗くなりかけてた。
翌日、福井白鳥が1日遅れで秋田を出たとニュースでやってた >>352
釧路14時05分発 おおぞら2号 函館0時25分着
函館0時45分発 青函2便 青森4時35分着
青森5時00分発 白鳥 大阪20時03分着 グリーン船室用は淡緑で、接続列車からの乗客用にはマル特の印刷があったよね。 昭和50年代後半にはグリーンも普通船室も同じ名簿だったように記憶する。
便所、洗面所のある車両に乗船名簿がぶら下げてあったよ。なんらかの理由で
名簿を受け取り損ねた人への配慮だろうね。 関東在住者としては「白鳥」はぁまり縁がなく、全区間乗り通したのも1回だけだが、
東北ワイド周遊券で旅している時には秋田−青森でたまに利用していた。
大阪からの長旅をしてきて、夜21時頃に到着した「白鳥」に乗ると、最早車内は“夢の跡”という雰囲気だった。
デッキの屑籠はとうに溢れて弁当殻が散乱し、車内はタバコの煙と埃くさい空気で淀みきっていた。
とてもじゃないが、看板列車に程遠い雰囲気で、ぁまり良い印象が残っていない。 客は
大阪ヤクザと東北の貧乏人ばかりで、良い印象はなかったよ。 最初は「県庁所在地だけ停車」みたいな国鉄発表で、正力松太郎がごねて
高岡停車とか、色々あったなあのDC特急。
富山電化で全指定の急行「越山」が出来たら、大阪−富山間の下り「白鳥」が
取り易くなった。トルコンに異物混入で立ち往生して、C57X2牽引で
大幅遅延や,上りが上野編成と直江津でドッキング出来ず、2本に分かれて
走ったり----それに切手の間違い印刷とか話題が多かった。 停車駅が少ない列車という優越感に浸れる特別急行「白鳥」
普通の特急が停車する駅を通過する時の何ともいえない気持・・
利便性など考えない、あの孤高の特急にもう一度乗りたいねえ。
北陸新幹線開業前に、そして運転可能な車両が廃車になる前に
なんとか復活運転してくれないものだろうか。
採算を考えれば、貸切で復活運転のようなことをしないと無理なのかも。
○○教の臨時列車のように運転すればいいのかな?
「特急白鳥」教を作って走らせるしかないのかねえ。
小浜線だろうが五能線だろうが構わず走ったな。
戦後、冬季の間は北陸本線米原敦賀間が雪害等で
運行不能となった時、綾部経由の変ダイヤが設定
されていた。 上野・高崎・横川・軽井沢・長野・直江津・富山・高岡・金沢・動橋・福井
敦賀・米原・京都・大阪 もし今白鳥のコースを再現運転やるとしたら、やっぱり使用車両は683系かな?
683だったら3両編成でも走らせられるから、それで何とか安く運行させられないかな。
どっかの旅行会社に仕切ってもらって団臨で…。大阪発青森着の往復1泊2日でどうだろうか。 >>366
683系では交流50Hz区間に入れない。
485系が残ってるうちは485系で、
485系がなくなったら、E653系しか選択肢は無いだろうね。
日本海縦貫線とは何の縁も無い車だが、実際に走れるのはE653系以外に無い。 E653系をJR西日本管内で走らせるには相当な費用がかかるだろう。
485系が消滅した時点で現実的には終わりだな。 >>358
新幹線開業後は東北ワイド利用者は北東北だけを移動することが多くなりましたね。南東北は在来線特急壊滅で移動しにくかったので。
秋田青森盛岡の間をひたすら動き回っていました。 末期の白鳥は哀れな姿だったね。「ゆのくに」+「しらゆき」というような停車駅状態だった。
食堂車なしのボロ車両と停車駅の多さは、もはや急行白鳥と呼ぶべきだったのかも。
>>366-369
そこでキハ181ですよ。
国鉄色に戻せばキハ82風に見えない事も無い。 >>371
それでも下りは、「雷鳥」+「北越」+「いなほ」よりは少ない停車駅だった。
上りは「雷鳥」区間で悲惨なことになっていたが。
それにしても、何で末期になって酉持ちになったのかね? >>372
485系がなくなる頃には、キハ181系なぞ残ってないだろう常考 >>372
以前団臨で西へ行ったこともあるE653系以上に訓練その他で無理がある >>373
つ[はくたか]への車両捻出と[新潟雷鳥]との走行距離調整 1999年、高校の修学旅行の復路(大阪〜鶴岡)が白鳥だった
往路は東京経由の新幹線乗継。
楽しい旅行の終わりが先延ばしされるような長い乗車時間がうれしかった
最先端の二階建新幹線よりも、歴史を背負った味のある車両のほうが印象に残っている
>>369
常磐線へのE657系(仮称)の投入でE653系の新潟転属はほぼ決定じゃなかったの?
いなほと北越は共通運用だから金沢までは乗り入れる可能性は大きい 白鳥の思い出。先頭車両が上沼垂色(っていうの?)のボンネット車で、自由席の座席が通路よか一段高くなっていていた。それに乗って青森へ。そっからはまなすにのり、北海道へ渡り北海道全線乗り潰し事がある。
>>379
その編成では183系グレードアップあずさ同様に、自由席車は通常簡リクだったけど。 昭和59年ごろだったかなぁ。
北海道に住んでいたおばさんが遊びに来て帰るとき、よく白鳥使ってたな〜。
確か、青森で連絡船の1便0:04発(だったっけ?)に接続してて、函館から北海だか北斗だかに接続してたよな。 >>380
列車によって指定席者が違うんで指定席仕様の自由席も存在したんじゃなかったっけ? >>383
グレードアップあずさも4号車がそんな存在だったな。
でも上沼垂の白鳥は9両通常編成の時は簡リク車3両が自由席。
ただ増結して11両になった時には、通常指定席車を自由席に回したことは有り得たのだろうな。
昭和50年代にはリクライニングもしない、隣の席とも分離していない、とんでもないボロ
車両が運用されることがあった。ホームにボンネットが入ってくると暗澹たる気持ちになった。
非ボンネットが入ってきたら、「ああ、よかった」と胸をなでおろす。
当時は大阪〜青森を何度も乗車せざるを得なかったので、その差は大きかった。
ロシアンルーレットみたいな車両運用はやめて欲しかったな。 >>385
直流車だとボンネット=非リクライニング、貫通、非貫通=簡リクだけど
485の場合非ボンネットで非リクライニングも存在してた >>386
非ボンネットでは、リクライニングしない座席にあたったことはなかったよ。
新車に近いような車両がほとんどだった。
それにくらべてボンネットは、天井のエアコンから水漏れするようなボロまで
使ってたなあ。ボロ車両に乗務していた当時の車掌さんは座席への苦情を含め
て乗客対応は大変だったんじゃないかな。 >>385>>387
昭和50年代の白鳥はずっと青森運転所の485系だったから、そもそもボンネット車は
存在してなかった。
ボンネット車が入るようになったのは昭和60年3月改正後、向日町担当で雷鳥と共通運用になってから。
あと昭和47年電車化直後の一時期に、ボンネット車を借り受けた時期があったが、
200番代落成後にほどなく返却された。
だから昭和50年代の話なら>>386が正しい。 >>388
ボンネットのボロ車両が運用されていたのは昭和60年に入ってからだったのか。
20年以上前の話で、よく覚えていなかったんだが、突然、ボロ車両が白鳥に入った
ことだけは覚えている。非ボンネットの白鳥が当たり前という気持ちが普通だったか
らね。あの当時よく乗った車両たちは、すでに廃車になってしまったんだろうなあ。 >>386
485の貫通(200番台)は、非リクライニング。
盛アオ時代は先頭車のボンはなかったが、200番台先頭車は結構あり、
ボン世代の中間車に至ってはかなりの数が混じっていたはず。
でも、なまじバッタンコ簡リク(リクライニングが固定しないタイプ)で13時間ってのも
これはこれで拷問のような気がするけど・・・。 >>390
確かにあの当時のストッパー無しの簡リクはどうなのよって感じだよな?
151系以来のロマンスシートって結構出来がいいと思うのは俺だけ? 東北新幹線開業後は大阪〜青森間を乗り通す乗客はめっきり減ったはず。
開業前は東海道新幹線+はつかりと白鳥ほぼ互角だったような。 >>392
元来直通利用客が少ない区間をそう断言してもな。
東北新幹線開業で急行きたぐにが新潟打ち切りになったから、関西から東北・北海道方面の
周遊券旅行客は白鳥利用指向が増えたはず。
東北新幹線利用はコストが高過ぎで、そのくらいなら日本海利用だったろう。
大宮暫定開業時は乗換えが不便過ぎだし。 青函トンネル開通の頃、あちこちのJR絡みのイベントで「白鳥」の機関車用HMを展示てたのを覚えてる?
特に函館駅ではイベント貸し出しの無い時はパネルコーナーで常設で展示していたの。
あれって、実際に何か「楽しげな事」を考えていたのではないだろうか? 先月、北海道旅行からの帰りに、青森から新潟までいなほに乗った。
4号車の自由席に乗車したが、白鳥や新潟雷鳥に使われていたグレードアップ車で、
このまま大阪まで連れて行ってくれるような気がした。
あと、秋田から車販が乗ってきたが、ICOCAが使えるようになったのも時の流れか・・。 >>388
食堂車も廃止になった(実際にはもう少し前から編成から外されていたけど)昭和60年3月の改正ですね。
編成の貫録もなくなったうえに老朽化が目立つ編成になってショックだったのを覚えています。車内の清潔さも青森の方が上に感じられたし。 >>397
まあ全ては他の列車と共通運用で効率化した訳だね。
青森の末期は鳥海と、向日町になってから雷鳥と編成が揃えられてたわけだし。
青森全盛期の頃は白鳥の編成がはつかり・いなほ・やまびこ・ひばりにも使用されてた。 大目玉ボンネットや貫通型の国鉄色の雷鳥・白鳥も走っていた。
グレードアップ工事される前の上沼垂車だった。 10年前の白鳥とはうってかわって
かなりひっそりと消えた青森いなほ
白鳥亡き後は在来線昼行最長特急として
地道のしかし確実に毎日の任務をこなして来たけど
最後の最後に運転打ち切りの刑
なんたる仕打ちだろうねぇ、、、 ダイヤ的に上野〜青森を白鳥で、って言うのはそう無理な話でもなかったんだね
直江津での待ち合わせ時間は絶妙といってもいい (国鉄にしては)
時間も金も余計にかかるけどこのルートを使った人って結構居るのかな?
上越線経由だけど、青森発着のいなほはこれが受け継がれたものなの? >>402
>時間も金も余計にかかるけどこのルートを使った人って結構居るのかな?
いないだろ
何のメリットがあるんだよ? 酒田から大阪に行きたいのだが新潟、富山、金沢とかで乗り換える毎に特急料金が・・・。
何とかしろ! >>405
寝台料金かかって結局損だな
酒田発17:22の普通に乗ると新津できたぐにに乗り継げるぞ
運賃10,190円+急行料金1,260円 JALの大阪線が軒並みダウンサイジングしちゃったから、東北から大阪に出るのが今まで以上に大変になるな。 昔、青森高岡間、別の年に金沢青森間乗りました。
緑色の田園が南下するほど黄金色に変わっていったのが印象的でした。 大阪行き白鳥で、景色がトタン屋根から瓦葺きに変わったあたりで「帰ってきた
なあ」と思っていたものだ。 >>411
関西、東北・北海道連絡特急という役割を失ってからなら珍しくはないと思う。
時代的に柏崎に停車しているということから、珍しい事ではないだろうね。
高校1年の夏休み(昭和57年)北海道ワイド周遊券を使って北海道旅行した
時に大阪→青森→青函連絡船→北海で札幌まで乗った。
青森で583系特急みちのくと同時に着くダイヤだったと記憶している。
13時間乗ってたけど苦にならなかったな。当時の雷鳥と比べて停車駅が
少なかったような・・・・・ 社会人4年目でようやく夏休み(有給)を1週間申請できたとき、
滅多にない長期休暇だったのでその休暇中に四国と北海道の両方を
強硬乗り鉄したことがあった。その時、真ん中の日を移動日として
「岡山(新幹線)新大阪/大阪(白鳥)青森」と乗りまくったもんだ。
もちろん乗割適用で、白鳥はやはり始発から乗ってみたかったので
わざわざ大阪まで一駅バックしたのが思い出される。
(青森からのはまなすも乗割だった。) >>413
高槻〜京都で、113系快速と爆走デッドヒートになりました? 柏崎とかに停まるようになったときにはショックだったな。 最末期の近江今津やらの停車なんか信じられなかったな。
その前の時点でうすうすは判っていた、でも信じたくはなかった
今走っている特急白鳥はあくまで青森発の雷鳥であって、「白鳥」という特別な列車ではないという事実を思い知らされた。
心のどこかで、そのうちスーパー雷鳥並の停車駅になるんだよ、、、と思っていたけど廃止だもんな。
話は変わるが、どうしてもボンネットが馴染めなかった俺は異端かな。
字幕でもイラスト幕でも200番台が一番似合う列車と思うんだが。
>>417
俺は今だに1000番台か1500番台の印象が強いな。
何にしろ非ボンネットの方が印象深い。
100番台が入るようになってそれこそ「雷鳥に取り込まれたか」と思ったよ。 >>417>>419
気動車特急時代があった列車に、ボンネット型が馴染めたのは少なかったな。
はつかり・つばさも非ボンネットイメージだったし。
例外がひばり・にちりん程度かな。 はつかりやつばさにボンネット運用あったの?
ひばりは結構見かけたけど。 >>420
やまばととかひたちとかみどりとかかもめは?
あとはつかりはそもそも485系のイメージじゃないな 本来200番台は東北系統で分割・併合を行う前提で作られたものだから
クロを除けば200番台が基本のはずだと思う
かもめ・みどりもみどりのクロしかボンネットのイメージないな >>424
200番台の登場する前のことは無視ですかそうですか >>425
200番台できた時にボンネット車を玉突きで追い出しただろがよ
難癖しか付けない野郎だな >>426
追い出される前の記憶は無いのかって話で
難癖でもなんでもないだろ 白鳥で大阪〜青森に乗って、食堂車で日本海を見ながら食事…
憧れだったなぁ。
まつかぜで大阪〜博多で食堂車、ってのとが二大憧れだった。
結局できずじまいで廃止されてしまった… 東京から青森いくのにわざわざ大阪経由で白鳥を使ったことがある。
新幹線〜白鳥の乗割を頼んだら「なにもわざわざ大阪まわりでいかなくても・・・」といわれ
「大阪で必ず北海道周遊券かいますから」といったら「いいよいいよ」といってくれた。 >>429
今でもトワイライトを使う場合、似たようなケースがありそうだw
以前の特急「白鳥」は、
上野発大阪行きでした(信越本線・北陸本線経由)。
いつから青森発になっちゃたんだろう?
上野駅を発車する「白鳥」が懐かしいね... >>431
釣られてみよう。「青森白鳥」「信越白鳥」って言葉をご存じか?
>>432
そういえば、分割・併合だった様な記憶も...
以前は、上野から軽井沢に行く特急は「白鳥」しかなかったんだよ
懐かしいねぇ...
80系DC特急「白鳥」
大阪編成は実に15時間以上もかけて直通運転するツワモノ特急だったな >>432
>信越白鳥
ウチの親父なんか、この列車を単に東海道本線経由で東京駅を突っ切って上野に向かうだけの列車だと思っていて
「親父、それは違うぞ!」と、いくら説明してもさっぱり理解ができなかったw >>438
当時は湊町(現JR難波)から関西本線経由で東京行きがあった時代だったしな。
東京から北陸直通も東海道線・米原経由金沢行きの能登号が存在したので、
経由線区もバリエーション豊富だった。 >>439
スレチで申し訳ないが
昭和末期まで紀伊勝浦行の寝台特急があったよね
最近紀伊勝浦まで行ったけど、
(言っちゃ悪いが)こんな所に東京から誰が何しに来るんだ?ってほどの地方都市のありふれた中規模な駅だった >>440
伊勢志摩南紀は昔は結構有名な新婚旅行の行き先だったりしたんだよ >>440
スレチついでで紀伊号の行先は紀伊勝浦だったけど、日中の車両停泊は新宮だった。 紀伊勝浦行「紀伊」は4兄弟のうちいちばん最後まで残ったやつだよね。
たしか東京から金沢湊町紀伊勝浦鳥羽行とあって残り3つは全部なくなったね。 >>441
なるほど
今からだと考えもつかないような需要があったんですね
ありがとう 高校入学のお祝いにともらった小遣いや、貯めておいたお年玉を使って
憧れの「白鳥」に乗りに行った。
東京在住だったので、名古屋までは「大垣夜行」名古屋から紀勢本線で
「はやたま」に乗り、二晩掛けての大阪入り。
大阪からの「白鳥」では食堂車へ3回行った。
まずは京都を出てから早めの昼食は「トンカツ定食」
金沢出てから紅茶を頼んで午後のティータイム。
新潟を出てから夕食は奮発して「中華定食」
食堂車のクルーに顔を覚えられ、夕飯の時にはサービスでコーヒーを
ご馳走してもらったっけ。
全区間乗り通さず秋田で降りて「津軽4号」のオロネ10で帰京。
なぜ白鳥を青森まで乗り通さなかったのかというと、八甲田が座席だけ
だったのと、オロネ10に乗りたかったから。
今にして思えばもったいないことをしたかも。
紀伊勝浦と新宮の間は名古屋方面からの列車と天王寺方面からの列車がそれぞれ運行されていたから地味に華やかでしたね。 >>445
それは昭和54〜57年の頃と思うけど、オロネ10を意識したのなら別にもったいないとも思わないな。
実際上越新幹線開業のダイヤ改正で全廃だったから。
白鳥全区間乗車に拘るなら確かにもったいなかっただろうが。 >>439
確か粟津かどっかが、長岡経由か米原経由の境目だったんだよな >>445
>なぜ白鳥を青森まで乗り通さなかったのかというと、八甲田が座席だけ
>だったのと、オロネ10に乗りたかったから。
東能代まで行けたのに >447>449
つまらぬ回顧記にお返事いただきありがとうございます。
思えばそれまで2晩夜行座席だったのと、確かオロネ10がもうすぐ廃止
と聞いてどうしても乗りたかったからでした。
白鳥で青森まで乗り通すよりもオロネ10の方が魅力だった訳で・・
東能代まで行って戻るというのは今初めて知りました。
とてもそこまで考えが及ばなかったというか・・・・
たぶん、乗車券を一周にして安く上げようとしたからだと思います。
・・おもえば、この時白鳥の食堂車で飲んだコーヒーが人生最初の
レギュラーコーヒーだったと。(インスタントは経験有り)
大阪発、青森行の白鳥は大阪を何時に出発してたっけ? 昭和36年
下り大阪発08:05発 青森23:50着
上り青森発05:20発 大阪21:12着
昭和47年
下り大阪発10:10発 青森23:50着
上り青森発04:50発 大阪18:48着