【大阪】特急白鳥の思い出【青森】
2001年3月に廃止された大阪ー青森間の特急白鳥の思い出について語るスレです。
(現行スーパー白鳥、特急白鳥は除く)
嫁とは特急白鳥の車内で知り合った >>316
モーニング娘。の絶頂期だったな・・・と別の事を思い出してみる。 西ナントカ・西クズ・西カス・タブーチ・西葛軌道=田淵洋治(@明電舎)の特徴より抜粋
・自身のサイトへのリンクや、見苦しいAA、汚いAAや改変コピペを自己陶酔か馬鹿の一つ覚えのように張る癖がある。
・特に自分のサイトのリンクはとても重要。アフィリエイトの小銭稼ぎとGoogleのPageRank維持が人生の慰め。
・極度の自己顕示欲のためNゲージ3大メーカースレなど、自分が目立たないところにはあらわれない。
・露骨な誘導と肥大した自尊心でWikipediaからは「異形の精神の持ち主」として追放、復讐を宣言するも不発に終わる。
・2chでも同じことをやって何度もアク禁を食らう。しかし規制の後プロバイダを替えた模様。
・鉄道模型や鉄道懐かし板に出没し、気に入らないことがあるとコピペや連投を始め、複数IDで自作自演しスレッドを荒らす。
・自身が提唱した「妄想模型鉄道規格」が無視されたことが根底にあるのか?
・老舗鉄道模型系出版社やモデルワーゲン他特定鉄道模型メーカーなどに恨みがあるらしい 。
・挑発されるとノコノコ出てきて、他人を装い意味不明な言動を撒き散らすが自己顕示欲の誘惑に負け正体を晒す
・平日の早朝深夜と土日祝日に集中して荒らすことで実社会のストレスを発散している。
・学歴を誇示する割には頭が悪いので、他人の張ったAAやテンプレをすぐパクリ、特定個人名に改変して貼るのが精一杯。
・GoogleのPageRankや、過去のTMS・海外雑誌掲載歴などを針小棒大誇示するも、実態を知られて衆人からは黙殺される。
・経歴や権威付けにやたらこだわるが、自身の知識や歳相応の人格が欠如しているので実像はただの頑固で偏屈なオッサン。
・私生活や所属企業での自分への評価に不満があるのか、鉄道模型業界で名を成そうと画策するも、結果は実社会と同じ。
・ポータルサイトと嘯くサイトを作るも、自身の不徳からWikipediaスパムサイト認定を受ける。
・当然鉄道模型業界にも人車軌道研究者にも全く相手にされず、自作自演でGoogleのPageRankを上げるオナニーの日々。
・職場で窓際に居るので火病の発作が抑えきれなくても好きな時にスレ荒らし。
そして以上の内容を指摘したり晒し上げるとすぐ逆ギレを起こし、
火病の見本のごとく吠えたり連投自演でスレを壊すことで暴れるのが
自己顕示欲の発露でしか自分を誇示できないキチガイ西ナントカのお約束
青森行きの白鳥が村上駅を出た後、しばらくして電源切り替えのため車内が
薄暗くなるときがあった。ああ、遠くまで来たなあ、いよいよ東北地方に入る
んだと思う一瞬だったねえ。
>>326
その前に2回電源切り替えのため車内が薄暗くなってるんだけど >>327
その前の2回は昼間だからあんまり薄暗くならないかと 夜の電源切り替えは独特の雰囲気だよ。長距離列車で最後の切り替えだから余計
に感じるのかも。切り替わった後に車内が元の明るさに戻り、空調設備がウォーン
と再起動した時、白鳥が生き返った感じがしたものだ。 塗装が新潟色?のボンネット白鳥。
「はまなす」乗るのに、よく利用した。
冬場、猛吹雪でワイパー故障して秋田で抑止食らったっけな〜w 運行開始時
気動車列車として運行距離世界一
電車列車として運行距離世界一 だったようですが、現在のそれぞれ世界一の
運行距離の列車は何なのかな? >>333
名古屋〜熊本「つばめ」も長そうだけどやっぱ「白鳥」だったのかい?
>>333
TGVみたいな半集中動力車をどうするのかという捉え方の問題があるので一概に言えない。
また、イギリスの鉄道ギネスブックが、余りに西欧偏重(もしくは英国内レコード偏重)で
日本なら幾らでもこれを上回る記録がありそうな物だが、という事例ですら体系的に知ることができない。
本家のギネスブック日本語版自体が三流出版社から出るようになって質が低下してるのでどうしようもないのだろうか。 >>334
京都〜西鹿児島間だった“なは”や“きりしま”よりも距離が上回ってたからな>“白鳥”
確か昭和50年代に見た子供向けの鉄道本でオーストリアの端から端まで走る奴が“白鳥”に匹敵する距離を走る、ての
は見た覚えがあるが >>333
電車に関しては、新幹線博多開業の時点で終了してるくらいなので、
他にいくらでもありそうな。。。 キハ80系時代の「白鳥」は、同じ向日町運転所所属の「まつかぜ」と
車両が共通運用だったこともあり、80系気動車6両編成一本が青森から博多まで
走行していたことになる。当然、塩害・雪害による車両の傷みも早かったであろう。 そういや今のトワイライトの下りは昔の白鳥〜おおぞらのダイヤに近いな。
客車化によるスピードダウンとトンネル開通によるスピードアップがうまく掛け合わされている感じですね。 末期には松任か石動か忘れたけど、明らかに格下の駅にも停車していたね。
1970年代初めの停車駅は
大阪・京都・米原・敦賀・福井・芦原温泉・加賀温泉・金沢・高岡・富山・直江津
・長岡・東三条・新潟・村上・鶴岡・酒田・羽後本荘・秋田・東能代・大館・弘前・青森 新潟で方向転換してバタバタと座席の向きを変えたのを覚えてる。
夜明け前の青森駅を上野行はつかりと同時に出発して、能代あたりで朝陽を拝み、新潟手前で下半身麻痺となり、
乗車疲れのため食堂車で体を癒し、金沢までねばった。
白鳥の中で、日の出と日没を迎えて、青森〜大阪まで14時間。
ホンマにしんどかったけど、もう乗れないのは淋しいね。
昭和49年、北大受験の帰りに乗車した。北大は不合格でした。
某所で運転してました。
末期はぼろぼろのボンネットばかりでしたね。
2B増結時は停車位置に気を遣ったのを思い出した。 >>343
一年違いですね。
昭和50年の春に京大受験の為に乗車しました。
新潟を11時過ぎに出て京都に18時ごろ着いたと思う。
当時は当然の事ながら、上越新幹線はなく、ときひかりルートよりも時間的に
も日本海周りの方が早い事も有って、大阪方面には他に昼行北越2本と急行
越後1本が有って、上野行きの朝夕のときと並びかなりの人気列車だった。
近所に国鉄に勤めている人がいて、買ってもらったような記憶がある。
京大は不合格でした。 >>348>>349
隣県の売薬大学、当時で言うところの駅弁二期校 三回乗った。古い順に、
・福井⇒東三条
夏休みに、友達の実家にお邪魔した。
・青森⇒京都
北海道旅行の帰り。ほとんど寝てたような。w
・大阪⇒青森
廃止が現実化してから、乗るためだけに朝の飛行機で東京から飛んだ。
多分最後と思い、グリーンにした。雪の青森駅に着いた時には、疲れたが
やはり来てよかったと思った。 >>351
初めて乗ったのは昭和45年8月上旬の万博時。
新潟→大阪、DC時代。
神戸の親類の家に着いたときは21時過ぎだった。
切符が取れただけましと言う感じで、妹と同じ号車以外は家族4人座席も号車
もばらばら。
大阪到着前に隣の通路側に座っていた人が切符を取り出し、その切符を覗き見
たら、釧路から大阪市内行きだったのを覚えている。
何時間かかったのだろう?
携帯もない時代だったから、親父が立席特急券客で混雑する車内を何両もかき
わけて金沢発車後に食堂車に行くように指示していた。
夕食には早めに行った事も幸いして20分ほど待って食事にありつけたが、食
事を終えた頃には長蛇の列が出来ていた。
福井白鳥に"乗り損ねた"事がある。
チビの頃でよく覚えてないが、暮れ間近、新潟駅でいつまでたっても来なくて、そのうち新潟始発のいなほに乗る事に…。ところがこのいなほもいつまでたっても接続列車の遅れとやらで発車しない。
ようやく発車した時は辺りが薄暗くなりかけてた。
翌日、福井白鳥が1日遅れで秋田を出たとニュースでやってた >>352
釧路14時05分発 おおぞら2号 函館0時25分着
函館0時45分発 青函2便 青森4時35分着
青森5時00分発 白鳥 大阪20時03分着 グリーン船室用は淡緑で、接続列車からの乗客用にはマル特の印刷があったよね。 昭和50年代後半にはグリーンも普通船室も同じ名簿だったように記憶する。
便所、洗面所のある車両に乗船名簿がぶら下げてあったよ。なんらかの理由で
名簿を受け取り損ねた人への配慮だろうね。 関東在住者としては「白鳥」はぁまり縁がなく、全区間乗り通したのも1回だけだが、
東北ワイド周遊券で旅している時には秋田−青森でたまに利用していた。
大阪からの長旅をしてきて、夜21時頃に到着した「白鳥」に乗ると、最早車内は“夢の跡”という雰囲気だった。
デッキの屑籠はとうに溢れて弁当殻が散乱し、車内はタバコの煙と埃くさい空気で淀みきっていた。
とてもじゃないが、看板列車に程遠い雰囲気で、ぁまり良い印象が残っていない。 客は
大阪ヤクザと東北の貧乏人ばかりで、良い印象はなかったよ。 最初は「県庁所在地だけ停車」みたいな国鉄発表で、正力松太郎がごねて
高岡停車とか、色々あったなあのDC特急。
富山電化で全指定の急行「越山」が出来たら、大阪−富山間の下り「白鳥」が
取り易くなった。トルコンに異物混入で立ち往生して、C57X2牽引で
大幅遅延や,上りが上野編成と直江津でドッキング出来ず、2本に分かれて
走ったり----それに切手の間違い印刷とか話題が多かった。 停車駅が少ない列車という優越感に浸れる特別急行「白鳥」
普通の特急が停車する駅を通過する時の何ともいえない気持・・
利便性など考えない、あの孤高の特急にもう一度乗りたいねえ。
北陸新幹線開業前に、そして運転可能な車両が廃車になる前に
なんとか復活運転してくれないものだろうか。
採算を考えれば、貸切で復活運転のようなことをしないと無理なのかも。
○○教の臨時列車のように運転すればいいのかな?
「特急白鳥」教を作って走らせるしかないのかねえ。
小浜線だろうが五能線だろうが構わず走ったな。
戦後、冬季の間は北陸本線米原敦賀間が雪害等で
運行不能となった時、綾部経由の変ダイヤが設定
されていた。 上野・高崎・横川・軽井沢・長野・直江津・富山・高岡・金沢・動橋・福井
敦賀・米原・京都・大阪 もし今白鳥のコースを再現運転やるとしたら、やっぱり使用車両は683系かな?
683だったら3両編成でも走らせられるから、それで何とか安く運行させられないかな。
どっかの旅行会社に仕切ってもらって団臨で…。大阪発青森着の往復1泊2日でどうだろうか。 >>366
683系では交流50Hz区間に入れない。
485系が残ってるうちは485系で、
485系がなくなったら、E653系しか選択肢は無いだろうね。
日本海縦貫線とは何の縁も無い車だが、実際に走れるのはE653系以外に無い。 E653系をJR西日本管内で走らせるには相当な費用がかかるだろう。
485系が消滅した時点で現実的には終わりだな。 >>358
新幹線開業後は東北ワイド利用者は北東北だけを移動することが多くなりましたね。南東北は在来線特急壊滅で移動しにくかったので。
秋田青森盛岡の間をひたすら動き回っていました。 末期の白鳥は哀れな姿だったね。「ゆのくに」+「しらゆき」というような停車駅状態だった。
食堂車なしのボロ車両と停車駅の多さは、もはや急行白鳥と呼ぶべきだったのかも。
>>366-369
そこでキハ181ですよ。
国鉄色に戻せばキハ82風に見えない事も無い。 >>371
それでも下りは、「雷鳥」+「北越」+「いなほ」よりは少ない停車駅だった。
上りは「雷鳥」区間で悲惨なことになっていたが。
それにしても、何で末期になって酉持ちになったのかね? >>372
485系がなくなる頃には、キハ181系なぞ残ってないだろう常考 >>372
以前団臨で西へ行ったこともあるE653系以上に訓練その他で無理がある >>373
つ[はくたか]への車両捻出と[新潟雷鳥]との走行距離調整 1999年、高校の修学旅行の復路(大阪〜鶴岡)が白鳥だった
往路は東京経由の新幹線乗継。
楽しい旅行の終わりが先延ばしされるような長い乗車時間がうれしかった
最先端の二階建新幹線よりも、歴史を背負った味のある車両のほうが印象に残っている
>>369
常磐線へのE657系(仮称)の投入でE653系の新潟転属はほぼ決定じゃなかったの?
いなほと北越は共通運用だから金沢までは乗り入れる可能性は大きい 白鳥の思い出。先頭車両が上沼垂色(っていうの?)のボンネット車で、自由席の座席が通路よか一段高くなっていていた。それに乗って青森へ。そっからはまなすにのり、北海道へ渡り北海道全線乗り潰し事がある。
>>379
その編成では183系グレードアップあずさ同様に、自由席車は通常簡リクだったけど。 昭和59年ごろだったかなぁ。
北海道に住んでいたおばさんが遊びに来て帰るとき、よく白鳥使ってたな〜。
確か、青森で連絡船の1便0:04発(だったっけ?)に接続してて、函館から北海だか北斗だかに接続してたよな。 >>380
列車によって指定席者が違うんで指定席仕様の自由席も存在したんじゃなかったっけ? >>383
グレードアップあずさも4号車がそんな存在だったな。
でも上沼垂の白鳥は9両通常編成の時は簡リク車3両が自由席。
ただ増結して11両になった時には、通常指定席車を自由席に回したことは有り得たのだろうな。
昭和50年代にはリクライニングもしない、隣の席とも分離していない、とんでもないボロ
車両が運用されることがあった。ホームにボンネットが入ってくると暗澹たる気持ちになった。
非ボンネットが入ってきたら、「ああ、よかった」と胸をなでおろす。
当時は大阪〜青森を何度も乗車せざるを得なかったので、その差は大きかった。
ロシアンルーレットみたいな車両運用はやめて欲しかったな。 >>385
直流車だとボンネット=非リクライニング、貫通、非貫通=簡リクだけど
485の場合非ボンネットで非リクライニングも存在してた >>386
非ボンネットでは、リクライニングしない座席にあたったことはなかったよ。
新車に近いような車両がほとんどだった。
それにくらべてボンネットは、天井のエアコンから水漏れするようなボロまで
使ってたなあ。ボロ車両に乗務していた当時の車掌さんは座席への苦情を含め
て乗客対応は大変だったんじゃないかな。 >>385>>387
昭和50年代の白鳥はずっと青森運転所の485系だったから、そもそもボンネット車は
存在してなかった。
ボンネット車が入るようになったのは昭和60年3月改正後、向日町担当で雷鳥と共通運用になってから。
あと昭和47年電車化直後の一時期に、ボンネット車を借り受けた時期があったが、
200番代落成後にほどなく返却された。
だから昭和50年代の話なら>>386が正しい。 >>388
ボンネットのボロ車両が運用されていたのは昭和60年に入ってからだったのか。
20年以上前の話で、よく覚えていなかったんだが、突然、ボロ車両が白鳥に入った
ことだけは覚えている。非ボンネットの白鳥が当たり前という気持ちが普通だったか
らね。あの当時よく乗った車両たちは、すでに廃車になってしまったんだろうなあ。 >>386
485の貫通(200番台)は、非リクライニング。
盛アオ時代は先頭車のボンはなかったが、200番台先頭車は結構あり、
ボン世代の中間車に至ってはかなりの数が混じっていたはず。
でも、なまじバッタンコ簡リク(リクライニングが固定しないタイプ)で13時間ってのも
これはこれで拷問のような気がするけど・・・。 >>390
確かにあの当時のストッパー無しの簡リクはどうなのよって感じだよな?
151系以来のロマンスシートって結構出来がいいと思うのは俺だけ? 東北新幹線開業後は大阪〜青森間を乗り通す乗客はめっきり減ったはず。
開業前は東海道新幹線+はつかりと白鳥ほぼ互角だったような。 >>392
元来直通利用客が少ない区間をそう断言してもな。
東北新幹線開業で急行きたぐにが新潟打ち切りになったから、関西から東北・北海道方面の
周遊券旅行客は白鳥利用指向が増えたはず。
東北新幹線利用はコストが高過ぎで、そのくらいなら日本海利用だったろう。
大宮暫定開業時は乗換えが不便過ぎだし。 青函トンネル開通の頃、あちこちのJR絡みのイベントで「白鳥」の機関車用HMを展示てたのを覚えてる?
特に函館駅ではイベント貸し出しの無い時はパネルコーナーで常設で展示していたの。
あれって、実際に何か「楽しげな事」を考えていたのではないだろうか? 先月、北海道旅行からの帰りに、青森から新潟までいなほに乗った。
4号車の自由席に乗車したが、白鳥や新潟雷鳥に使われていたグレードアップ車で、
このまま大阪まで連れて行ってくれるような気がした。
あと、秋田から車販が乗ってきたが、ICOCAが使えるようになったのも時の流れか・・。 >>388
食堂車も廃止になった(実際にはもう少し前から編成から外されていたけど)昭和60年3月の改正ですね。
編成の貫録もなくなったうえに老朽化が目立つ編成になってショックだったのを覚えています。車内の清潔さも青森の方が上に感じられたし。 >>397
まあ全ては他の列車と共通運用で効率化した訳だね。
青森の末期は鳥海と、向日町になってから雷鳥と編成が揃えられてたわけだし。
青森全盛期の頃は白鳥の編成がはつかり・いなほ・やまびこ・ひばりにも使用されてた。 大目玉ボンネットや貫通型の国鉄色の雷鳥・白鳥も走っていた。
グレードアップ工事される前の上沼垂車だった。 10年前の白鳥とはうってかわって
かなりひっそりと消えた青森いなほ
白鳥亡き後は在来線昼行最長特急として
地道のしかし確実に毎日の任務をこなして来たけど
最後の最後に運転打ち切りの刑
なんたる仕打ちだろうねぇ、、、 ダイヤ的に上野〜青森を白鳥で、って言うのはそう無理な話でもなかったんだね
直江津での待ち合わせ時間は絶妙といってもいい (国鉄にしては)
時間も金も余計にかかるけどこのルートを使った人って結構居るのかな?
上越線経由だけど、青森発着のいなほはこれが受け継がれたものなの? >>402
>時間も金も余計にかかるけどこのルートを使った人って結構居るのかな?
いないだろ
何のメリットがあるんだよ? 酒田から大阪に行きたいのだが新潟、富山、金沢とかで乗り換える毎に特急料金が・・・。
何とかしろ! >>405
寝台料金かかって結局損だな
酒田発17:22の普通に乗ると新津できたぐにに乗り継げるぞ
運賃10,190円+急行料金1,260円 JALの大阪線が軒並みダウンサイジングしちゃったから、東北から大阪に出るのが今まで以上に大変になるな。 昔、青森高岡間、別の年に金沢青森間乗りました。
緑色の田園が南下するほど黄金色に変わっていったのが印象的でした。 大阪行き白鳥で、景色がトタン屋根から瓦葺きに変わったあたりで「帰ってきた
なあ」と思っていたものだ。 >>411
関西、東北・北海道連絡特急という役割を失ってからなら珍しくはないと思う。
時代的に柏崎に停車しているということから、珍しい事ではないだろうね。
高校1年の夏休み(昭和57年)北海道ワイド周遊券を使って北海道旅行した
時に大阪→青森→青函連絡船→北海で札幌まで乗った。
青森で583系特急みちのくと同時に着くダイヤだったと記憶している。
13時間乗ってたけど苦にならなかったな。当時の雷鳥と比べて停車駅が
少なかったような・・・・・ 社会人4年目でようやく夏休み(有給)を1週間申請できたとき、
滅多にない長期休暇だったのでその休暇中に四国と北海道の両方を
強硬乗り鉄したことがあった。その時、真ん中の日を移動日として
「岡山(新幹線)新大阪/大阪(白鳥)青森」と乗りまくったもんだ。
もちろん乗割適用で、白鳥はやはり始発から乗ってみたかったので
わざわざ大阪まで一駅バックしたのが思い出される。
(青森からのはまなすも乗割だった。) >>413
高槻〜京都で、113系快速と爆走デッドヒートになりました? 柏崎とかに停まるようになったときにはショックだったな。 最末期の近江今津やらの停車なんか信じられなかったな。
その前の時点でうすうすは判っていた、でも信じたくはなかった
今走っている特急白鳥はあくまで青森発の雷鳥であって、「白鳥」という特別な列車ではないという事実を思い知らされた。
心のどこかで、そのうちスーパー雷鳥並の停車駅になるんだよ、、、と思っていたけど廃止だもんな。
話は変わるが、どうしてもボンネットが馴染めなかった俺は異端かな。
字幕でもイラスト幕でも200番台が一番似合う列車と思うんだが。
>>417
俺は今だに1000番台か1500番台の印象が強いな。
何にしろ非ボンネットの方が印象深い。
100番台が入るようになってそれこそ「雷鳥に取り込まれたか」と思ったよ。 >>417>>419
気動車特急時代があった列車に、ボンネット型が馴染めたのは少なかったな。
はつかり・つばさも非ボンネットイメージだったし。
例外がひばり・にちりん程度かな。