【大阪】特急白鳥の思い出【青森】
2001年3月に廃止された大阪ー青森間の特急白鳥の思い出について語るスレです。
(現行スーパー白鳥、特急白鳥は除く)
嫁とは特急白鳥の車内で知り合った >>19
福井〜青森でも確かに長距離なのに、食堂車がないのと9両だから、格下に思われるましたな。今なら風格十分なのに、あの当時は北陸筋は12両がメインだからね。 >>18
日食青森のおっさんはパワフルだった。14時間乗務!車掌ですら交代刷るのに。
車内販売でツブオレンジしか無かった北陸特急で唯一青森県産アップルジュースが買えた貴重な列車。 この特急はいろんな人生をはこんできたんだね。
23の話を詳しく聞いてみたい。 昔の仕事やめた時、10日ほど北海道を回ったんだが
行きは舞鶴からフェリーで行った、帰りは飛行機で
そして大阪に帰って来て来春での白鳥廃止を知った
可能性は充分あったのに、何故乗らなかったんだ 57-11のダイヤでは確か、新潟駅で「白鳥2号」と「白鳥1号」が出会うダイヤになっていたはずですよね。 富山から長岡まで乗った時にものすごくゴミだらけだった。
やっぱり関西人や百姓連中はクオリティが高いなと肌で感じた。 >>32
この時の485系転配は大掛かりというか、凄かったように覚えている。
全国一社の国鉄時代ならではのことだった。 >>34
東北から九州まで転属させたっけね。
しかしその2年半後には鹿カコ表示の「ひたち」が走ったりして。 電車化されて程ない頃、鉄道ジャーナルの列車追跡で取り上げられた。
たしか大阪→新潟と新潟→青森の2回に分けて(2ヵ月に分けて)
誌面に掲載されたような記憶がある。
後半は夕闇迫る新潟駅ホームで先輩格の181系「とき」と並ぶような
シーンから記事が始まっていて、子供心にカッコイイなと思ったりしたもんだ。
>>34
九州ではあれで初めて485系「有明」の絵入りヘッドマークが見られるようになったものです
それまでは583系以外はすべてボンネット型で字だけのヘッドマークでしたからね
「にちりん」や「かもめ」「みどり」のボンネット型にも絵入りヘッドマークがついたのもこの頃だったでしょうか
「にちりん」や「みどり」はそれまでもボンネット型でしたが
「かもめ」のボンネット型はとても新鮮だったものです
>>36
リバイバル本にも収録されていましたよね。 遅れる、汚い(ゴミだらけ)、ボロイ(485系)だったから俺の一家には白鳥はかなり不評だった 女鹿(当時はまだ信号所)で2往復時代の白鳥同士の交換を撮ったのが思い出かな?
一生保管するぞー 46歳のオッサンが小学生の時の話。
485系1500番台の白鳥に乗りたくて乗りたくて
親戚んち行く時に親にせがんで京都ー福井だけ乗車した。
新製後、渡道する前の暫定的な使用だったというのは大人になってから知った。
ヘッドマークはステッカー貼り(絵入り前の白地のやつ)だったナ。
たしか突発臨で583の白鳥があった気が・・・
とにかく新潟始発や金沢始発など
突発が多かった。 RMの「さよなら白鳥」特集にも写真があったな>突発白鳥 特発はかがやき編成や白山編成はよくあった。
上沼垂の時は、同じ所属の4003M金沢または富山打ち切りで折り返し5002Mとか。 特発なんてすごいな。総合力が生きるね。
車両だけじゃなく、乗務員の手配とかダイヤの入力?とか。
今でもあるのだろうか? かがやき編成や白山編成の白鳥もあったの?
末期に白鳥上りを直江津へ撮りに行ったら
6連の特急色クロハ編成がやってきた。
>>48
京都車時代の上り新潟特発は上沼垂6連の時もあった。 上り特発で富山から681系が使われてた事もあったな
その時は「臨時」扱いだったけどな 青森始発が遅れて秋田から秋アキ車で特発
それも遅れて新潟から新カヌ車で特発
それがまた遅れて金沢から金サワ車で特発
大阪に上り白鳥が4本到着、なんてことはなかったであろう。 特発ネタ興味深く拝読しております。
それにしても体験談盛りだくさんで諸氏には敬服しますマジで。 末期でも大阪発遅れか途中打ち切りで秋田→青森でかもしか編成の白鳥特発とか 以前の北陸特急は充当列車ごとにカラーが異なり
臨時便や急な編成変更が楽しみのひとつだった。
どれだけのバリエーションがあったのやら・・・
俺もチビの頃、東能代の祖父母の家に行くのに上越新幹線+白鳥3号が定番だったな。
一度、東能代まで一人で行きたいと親にダダこねたら、じゃあ新潟までならいいよって事になり、新潟まで祖父が迎えに来る事になった
新潟の乗り換え口のとこで青いリュックに真っ赤な広島カープの野球帽かぶって走って来る俺を祖父が目を細めて迎えてくれたな
新潟〜新発田間は車内を探検してあつみ温泉辺りから日本海の夕日を見ながら食堂車ってのが俺の定番で祖父も嫌な顔せずに付き合ってくれた。食堂車では祖父が向かいでビールを飲み、俺はカレーを食べた。
車窓もすっかり暗くなり、酒田手前辺りから段々飽きて、ウトウトして、目が覚めたら秋田。あぁ、今年も来たなと実感して東能代に着くと田舎独特の雰囲気に包まれる感じがした。
少し大きくなって鉄知識もそれなりになった頃、東能代から祖父が新潟まで迎えに来るという事は物凄いシチ面倒くさい事だと実感した。おそらく、朝一白鳥で新潟まで迎えに来て、白鳥で俺を連れ帰ったんだと思う。因みにこのコースは祖父がもう一回、祖母も二回付き合わされた
また、更に大きくなって初めて彼女が出来た時も二人で白鳥に乗った。食堂車もなくなって、編成も短くなってたけどやっぱり特急白鳥だったな。
ボチボチおっさんになった今も祖母が健在でたまに行くのだが秋田からいなほの最終に乗ると色々思いだす >>57
あの当時は広島が強かったですものね。
でも3号が着くぐらいの時間って、東能代の駅前はさぞかし寂しかったことでしょう。
>>58
確かに寂しい雰囲気だったけど駅はいつも暖かい感じがしたな
冬に行くと特にそう思った。雪でビッショビショになったデッキのドアが開いて、寒いから首すくめながら階段登って反対側の改札口に行くと、モコモコのニット帽?にドカジャン着た近所のジサマバサマ達が、家族はまだかと背伸びしながら待ってるんだよ。
家族で行く時は祖父もジサマバサマ達の中の一人で車で迎えに来てくれてさ、改札口の前でハイライトくわえて待っててくれたな。改札を出て、祖父に手を引っ張られながらふと後ろ向くとさ、見届けたかのように雪ダルマになった白鳥号の最後尾車両がサァーッと抜けてく訳。
色々思い出すと駅よりも東能代の駅から見た雪ダルマの白鳥号の車内の方が寂しい感じがした。秋田過ぎた辺りでは客がほとんどいなかったし 白鳥3号というと57-11ダイヤのときでしたから、その頃にはもはや既に青函連絡のお客さんは激減していたということなのでしょうね。
途中で「あけぼの6号」との離合がありませんでした? >57 59
見やすいようにその半分くらいで改行してくれ 18歳、大学に落ちて浪人が決まったときに大阪から青森までこの特急に乗った。
車窓を流れる景色に見とれながら列車は青森に着いた。
翌朝は竜飛岬に向かった。春は近いというのに海は猛烈な時化だった。
竜飛岬から1キロメートルほど歩いたところのがけの上で女の人が海を見つめていた。
荒れる海を見て何かを祈っているようだった。 >>63
羽越本線は災害は多い。
以前に「いなほ」が脱線転覆した砂越ー北余目間の最上川Bだが(「白鳥」にも共通するが)
S20年代に母が川沿いの道を毎日酒田の高校まで通学していた。母言うにはまさに風の通り道
であり冬は凍結したアイスバーンの上の薄っすらと雪が積もりまるで強風の中、亀の甲羅の上
を歩いているようだったとの事。
法面災害や地すべりも新潟〜山形県境から山形県にかけて多く、最たるものではS32に五十川
ー小波渡間で大崩壊があった。このあたりは線路付け替えされている所も結構多いな。
線形もカーブが多いので村上〜鶴岡にかけては「白鳥」の全行程で最も表定速度の低い区間
だった。
崖の上から海を見ている女性に声をかけたが反応はなくもう一度声をかけてみると
びっくりしたようにこちらを見た。
ただ黙っている、沈黙に耐えきれなくなり俺が声をかけようとすると女性は猛烈な
勢いで去って行った。すると女性があわててたのか雪道に足を取られてころんだ。
「大丈夫ですか?」と声をかけるもただ黙っている。とりあえず肩を貸して近くの民家まで
連れて行って手当てをしてもらうことにした。
雪の中を20分ほどほぼ抱きかかえるような感じで女性を運んだ。
その時女性は泣いていた。なぜ泣いているのか分からなかった。
民家で手当てをしてもらうと竜飛岬のバス停から三厩駅までのバスに乗った。 「白鳥」は人気のある列車ですね
他のスレにも「白鳥」の話題は多いですし
「白鳥」というのは優雅な名で日本海を北へ北へと駆け上がる列車にふさわしい名だとも思います
九州人の私は「白鳥」に乗ったことも見たこともありませんが
「白鳥」のファンでDVDまで持っています
一時期ひばりに485のボンネット赤スカート車が使われたが
白鳥にも使用されたのだろうか。 青森の彼女に会うために大阪から何回も乗ったな。
もう廃止から七年になるのか。 >>72
仙台車が白鳥運用に入った事はないと思うが。 このスレは鉄道路車板の時はレス伸びてたのに懐かし板だと伸びないね…(´・ω・`) まだ廃止されてから時期がたってないからじゃないかな?
まだ10年たってないだろ >>76
鉄道路車板の時はスレ立って1ヶ月後にはレス番は簡単に100に達してた 「ひばり」に赤スカート車が使用されたことはないはずです。
赤スカート車自体、S50年から10年近く、九州に封じ込められていたし、
向日町時代、唯一の上野顔出し運用は「はくたか」だった。北陸に赤スカート車
が活躍していた時代、青森持ちの「白鳥」にボンネット車はなかった。
最晩年がそうだったせいか「白鳥」イコールボンネットのイメージが強いが、
「白鳥」に定期的にボンネットが使用され始めたのはS60年以降。
食堂車がなくなり、黄金期の風格が失われた以降である。
ただ、電車化直後、一時的に青森に貸し出されたボンネットが使用されたことは
あったらしい。
「ひたち」に赤スカート車が使われ始めた頃、新幹線上野開業直前の年末年始臨
で「ひばり51号」が設定されたことがあるが、これに勝田の485が充てられた
ので、もしかしたらそのとき赤スカートの「ひばり」が実現したかも・・・ もとい、
60年3月以前は勝田に485の配属はなく、「ひたち」の485は仙台持ちだった。
改正を待たずに「ひたち」に投入されはじめた赤スカート車は一時的に仙台所属だったのかなあ??? 2往復目の「白鳥」は福井発着となる初の定期特急でした。
福井始発の朝の下り、福井終着の夜の上り特急自体は、ずっと存続し、
「北越」を経て、現在は「はくたか」にこのパターンが存在します。 ひばり赤スカート車とはクハ481 1〜18ではなく100番台(誤塗装)車のこと。大向に転属後雷鳥、山陽線で本来の赤スカート車と共に運用後クリームスカートに塗り替えられた珍車。 >>80
60-3で大阪持ちに変わったときにボンネットが恒常化したんでしたよね。
食堂車が外されたショックを生で実感している人間としては、正直あの編成で喜んでいる人の気が知れませんよ。 84>
100番台の誤塗装赤スカート車はたしか106番だと記憶しています。
仙台配属の100番台は101〜104番までの4両。これはクロ481の101〜104と
ペアで作られました。例の106は生粋の向日町車なので仙台経験はないはずです。
ちなみに仙台配置の101〜104は長らく仙台暮らしが続き、
新幹線上野開業時のS60年に向日町に配属されました。
>>85
国鉄時代の白鳥といえば200・300・1000番台の電気釜スタイルだったからな。
古い図鑑にあった青森で583系「みちのく」と並ぶ写真が忘れられない。 >>85
確かに往年の日本海縦貫花形特急としての風格は晩年にはなかったな。
まるで安楽死させられるかのように手抜きアコモのまま放置されてたし… 車体も青森持ちの時には綺麗に清掃されていたのに、向日町持ちになったら急に汚れてしまいましたよね。
あれは単なる車齢の違いだけが原因だったんじゃないと思う。 >>86
赤スカート車、盛アオ所属のクハ481−109
ひばり運用中の写真が某ホームページに掲載されてます。 >>90
ホントだ。
そいう事はボンネットがはつかりにも入ったって事か??? ボンネットの「はつかり」は見てみたかったですね
「白鳥」は当初「日本海」あたりと共用で583系で運転される予定だったのですか? >>92
定員面でそれはなさそうだけどね。
それに電車化の際にも専用編成入れた位だし。 47年の盛アオ充当は白鳥、やまびこ、ひばりのみだよ ボンネットのはつかりと言えば、気動車特急時代のイメージしか思い浮かばん。 >>81
仙台の485系って、先頭車は200/300番台クハ481で残り10両は全部キノコクーラー(一部483系ユニット)
というのが結構あったような。逆に向日町は先頭がボンネットで中間は非キノコクーラーというイメージがある。
これは東北では定員を増やす為にボンネット型が嫌われ、逆に向日町はボンネットクハの配置が強く要請
された故の出来事らしい。
>>87
白鳥のクハ481ってある意味1500番台が象徴的に感じる。
13連時代もその後上沼垂時代も先頭を飾ってたし。 90>
不勉強で申し訳ありませんでした。
盛アオの配置された100番台は仙台配置車が一時的に貸し出された
物だと勘違いをしていたようです。
96>
おっしゃるとおり、東北上越新幹線開業前の大ムコ車はボンネット中心の
クハとは対照的に、中間者はAU13E搭載車が多かったでね。
仙センもそうだが、ボンネット配置がない盛アオ車も、キノコ型モハユニット
が以外に多かった。更に盛アオには、仙センには存在しない、キノコ型サロもあったような気がします。 94>
47年当時の盛アオ485の担当が「白鳥」「ひばり」「やまびこ」のみ
という事は、当時の「はつかり」はまだすべて583系で運転だった、という
事ですね。でも「やまびこ」「ひばり」運用に就いた盛アオ車はどうやって
基地の青森に帰ったのでしょう??
輸送量が逼迫していた当時、盛岡〜青森間に回送列車を走らすような
無駄なことはしないと思いますが・・・・ まさにその無駄な回送をやっていた。
ただし昭和47年の11月1日から12月20日まで「やまびこ3号」が青森まで延長運転された。
翌昭和48年10月改正で「はつかり」に485系が投入されたため、この無駄な回送もなくなった。 >>96
仙台の485は1号車が300番台、食堂車がキノコ、サロがAU13が固定でした。
プラス12号車がボンネット、中間モハがキノコが基本でしたが、一部12号車が200番台だったり、中間モハに1・2ユニットAU13が入っている物もありました。
>>97
盛アオのキノコサロ。
上から4つ目の写真の1番線の列車に注目。
多分ひばり13号(=盛アオ担当、17:15着)の回送前だと思います。
で写真に写っているのが17:28発はつかり10号かと。
ttp://www.geocities.jp/maahirai/JNR/hatsukari.htm
頻死の白鳥と揶揄されてた時代の方は、ご存命でしょうか >>102
76年から77年にかけての冬は大寒波で4,5,11号車が減車されていたがこの時代
の事? キハ80系時代に故障→C57に救援された話のことかと >瀕死の白鳥 ああ、頭の中をチャイコフスキーがエンドレスで…
それだけではなんなので、
485-1500が本州入りした時に捨てた台車が勿体ない… 仙台にはたった一両だけ、AU13クーラー搭載のサシ481がいましたね。
車番はたしか60番で食堂車としては最も最後に製造されたグループです。
「ひばり」終了と共にすべてのサシが引退となりましたが、この60番だけは、
「白山」の食堂車復活でサシが不足する、金沢へ転属していきました。 481-1500は偉い!電化区間全国制覇だっ 引退後は鉄博に入れてくれ!! >>109
国鉄色に戻して小樽か三笠のほうが面白くね? 大阪〜青森間(1040km)を日本海に沿って40年間走り続けた特急「白鳥」。
そこには喜びや悲しみそして星の数ほどの出会いがありました。そして今日最後の
お別れです。春の訪れを前にありがとうそしてさようなら…
2001年3月2日に大阪駅のLED案内板に流れてたメッセージらしいが
1040kmを昼行ではしってたのね。
白鳥とは関係ないけど、こんなメッセージを流していたとは、粋な感じですね。 国鉄最後の日、例の謝恩切符で青森→大阪乗り通した。東京住人にとってはこんな切符でもないと乗るチャンスのない未知の特急だった。
上野→青森まで18きっぷで行って待合室で夜明かししたこと、新大阪最終ひかりのあとに特発で出たある意味国鉄最後のひかり号東京行きに乗り東京まで戻ってきたことも含めてよき思い出です >>102
59豪雪の時、72時間遅れで福井まで辿り着いた上り白鳥の新聞の見出しが
『瀕死の白鳥』だったはず。 >>115
取材の時とは違ったはず>瀕死の白鳥。
宮脇さんが時刻表おくの細道で津軽鉄道から福井鉄道への連絡に使った数日後に巻き込まれたのが瀕死の白鳥だったが。取材で白鳥を使ったのはその翌年じゃなかったか? >>114
確か、その時の白鳥って先頭車が1500番台だったと思う
地元のニュースでも取り上げられて当時の福井駅の5番線に入ったんじゃなかったけかな? みんな知らんと思うが白鳥が走り始めたとき「能生騒ぎ」というものがあった。
能生の近くに住んでたからよく覚えている。
時刻表に能生駅に停車すると記載されて、小さな集落に特急が停車するということで
大騒ぎになった。初日に住民総出でセレモニーをして準備していたら停車だけして乗客の
乗り降りなしに発車してしまった。
あの時の村長やセレモニーに参加した住民のあわてようはすごかったな。
結局能生みたいな小さな駅に特急なんか止まるわけがなく
「能生はNO」なんて言葉まで生まれた。 >みんな知らんと思うが
>>みんな知らんと思うが
>>>みんな知らんと思うが >>118
たぶん能生騒動のことはここに来てる鉄ヲタならほとんどの人が知ってると思う。
俺もどこかのサイトでその内容を見たことあるがその当時はまだ生まれてない。
もしそれを生で観たのならあなた貴重な体験をしましたね。 >>118
どっかのサイトに載ってる内容まんまだな。 上沼垂の車って、白鳥のイメージにぴったりだったね。むしろ国鉄色になってがっかりした。 青函トンネルできる前の早朝の青森駅
連絡線からの自由席の人はダッシュで、はつかり2/みちのく/そして白鳥にダッシュ
しかし、東北線はまだ次があるとして、白鳥は大阪行きは昼はこれだけ
青森で立ち席になったら、どこまで座れないのか他人事ながら心配になりました
ちなみに自分は、北海道周遊券のため上野まで昼間の急行乗り継ぎでした >>124
東北線だって次の特急までは2時間半以上間開いてるんだから
座れないからって次の待つ人は少なかったと思うね
大阪へは2時間後に出るしらゆき乗って終点の金沢でくずりゅう乗り継ぎもあったし