【大阪】特急白鳥の思い出【青森】
2001年3月に廃止された大阪ー青森間の特急白鳥の思い出について語るスレです。
(現行スーパー白鳥、特急白鳥は除く)
嫁とは特急白鳥の車内で知り合った JRになってから金沢・大阪間で乗ったことあるが、雷鳥に比べてやたら汚かったな。 民営化後に金沢大阪間で乗ったが、雷鳥がアコモ改良で
ハザ個別リクライニングだったのに対し、白鳥は連座式で
東の放置ぶりを痛感した思い出があるな… 昔は上野行もあったんだよな
大阪-直江津間青森行と併結で
しかも両方の編成に食堂車付いてたよな 俺は大阪青森間を合計10往復ほどこの特急で移動したな。
俺が大阪出身で彼女が青森出身だからお互いこの電車を利用した。
あるときには俺が大阪から下り白鳥に乗って、彼女が上り白鳥に乗って
中間地点の長岡で会う約束をしていた。 14、5年前の夏に大阪から東能代まで乗ったなあ。東能代からは五能線で一駅、能代まで。
母が食堂車が無い!ちゅうて怒ってた覚えがある。
母が子供の頃は秋田行くときは毎回白鳥に乗って…とか、白鳥には食堂車があって…うんたらかんたらて言うてた。
途中の停車駅で駅弁買っては食べ駅弁買っては食べで白鳥の中で五個ぐらい食べた。
その後秋田か酒田過ぎたあたりで、この先踏切事故うんたらかんたらで一時間ちょい遅れて東能代に着いた。
多分今までで一番長いこと列車に乗ってた一日だったな。楽しかった。 民営化される一年前に青函航路から乗り継いで青森から大阪まで乗った。 夏休みの時期で指定取れず早朝の青森駅のホームを走って先頭車のボンネット型車の席を確保できた、座席が簡易リクでない旧タイプでくたびれててお尻が痛かった。 上沼垂485時代に増結3、4号車が通常の1号車と2号車の間に連結されててお客さんが迷ってたなー
オイラそのとき通常の3号車に乗ってたから何度も「あのぉ〜、その席」って言われた(^ω^;) >>9
増3、増4号車は3号車と4号車の間じゃなかったかな? >>9
新カヌも京キトも>>10が言う様に3号車と4号車の間で増結してたハズ
JRになってからは新潟発着の雷鳥と共に束の新潟の車掌が乗務してた
大阪で見る束の白制服に何度ハァハァしたことか 優等列車の車掌の制服(の色)をほかと違えてる例は
JR化以後どれだけあるのだろう。
♯スレチでごめん…白鳥には乗ったことないんだよ〜
♯屋根上2灯のクハ481-1500代を新大阪で見た時には萌えたけど… 増結の話だけど
新カヌ時代で「白鳥」のみ単独で増結する時は増結車が向日町の車両だったんだよね
それから、新カヌ色で運転当初は新カヌ色に国鉄色と言う組み合わせで走ってたんだよね
ちなみの、そこ頃はまだ大阪駅経由での回送でした 北海道からはまなすに乗って青森まで来て大阪まで行くために朝6時の白鳥に乗った。
定刻の6時10分に青森駅を出発するも大雪のため弘前に15分遅れ、鷹の巣で1時間遅れ
秋田には4時間遅れ、羽後本荘で5時間遅れのため結局その日の運行は停止になった。その日は
秋田で列車ホテルとなり暖かいお茶とおにぎりが用意された。おにぎりとお茶がこんなにおいし
いと思ったことはなかった。
翌朝秋田新幹線で大阪に帰ることになった。
こんな旅行大学生の時にしかできないとおもうな。
いい思い出だ。 白鳥といえば能生騒動でしょう
後年その騒動のあった能生にも特急は停車したが
一時期「しらゆき」の格上げの増発「白鳥」は能生には停車しなかったっけ?
昭和60年の大学受験の帰りに青森から大阪まで乗り通した。ハザは簡易リクライニングだった。
起点から終点まで乗ってたのは俺だけと思いきや、車内販売のおっさんもだった。
車内販売のおっさんスゲーと思った。 2年半だけ存在した福井白鳥についても語ってください
S57-11 急行しらゆきの格上げで白鳥1.4号となる
S60-3 廃止
結構な長距離を走ってたが(多分昼行特急だと大阪白鳥、まつかぜの次くらい)
食堂車は末期とあってか連結されてなかった。
青森→大阪に一度だけ乗ったことが有る。
ところが羽越線内の強風による減速運転で30分遅れてしまい、
さすがにこの遅れは取り戻すことができなかった。
それどころが雷鳥のダイヤ確保のため富山駅手前で10分近く
更に足止めされてしまって、長距離昼行の悲哀を感じた。
大学入学前の春休みに青森に出かけたときに初めて乗った。
京都から青森まで乗った。車窓のさまざまに変わりゆく景色に長旅なのも苦にならなかった。
青森から京都に帰る時に東北、東海道新幹線周りで帰る予定を変更して青森から大阪まで白鳥に乗った。
その車内で知り合った彼女と付き合うことになった。
俺は京都、彼女は青森出身なのでお互いに白鳥をよく利用したな。
2000年春に彼女に病気が見つかり、2001年3月1日に彼女は他界した。
偶然か、その翌日に特急白鳥が廃止になった。
そんな思い出がある特急白鳥はやっぱり数ある電車の中でも別格です。 修学旅行で大阪→青森を利用。
300人くらいの団体だったので自由席が1両減車されていて
えらい混雑になっていたらしいw
編成が実質半減すりゃそうなるわなぁ(苦笑) 映画「約束」の舞台がこの列車。南下してきて福井辺りでショーケンがタイーホされる。 >>19
福井〜青森でも確かに長距離なのに、食堂車がないのと9両だから、格下に思われるましたな。今なら風格十分なのに、あの当時は北陸筋は12両がメインだからね。 >>18
日食青森のおっさんはパワフルだった。14時間乗務!車掌ですら交代刷るのに。
車内販売でツブオレンジしか無かった北陸特急で唯一青森県産アップルジュースが買えた貴重な列車。 この特急はいろんな人生をはこんできたんだね。
23の話を詳しく聞いてみたい。 昔の仕事やめた時、10日ほど北海道を回ったんだが
行きは舞鶴からフェリーで行った、帰りは飛行機で
そして大阪に帰って来て来春での白鳥廃止を知った
可能性は充分あったのに、何故乗らなかったんだ 57-11のダイヤでは確か、新潟駅で「白鳥2号」と「白鳥1号」が出会うダイヤになっていたはずですよね。 富山から長岡まで乗った時にものすごくゴミだらけだった。
やっぱり関西人や百姓連中はクオリティが高いなと肌で感じた。 >>32
この時の485系転配は大掛かりというか、凄かったように覚えている。
全国一社の国鉄時代ならではのことだった。 >>34
東北から九州まで転属させたっけね。
しかしその2年半後には鹿カコ表示の「ひたち」が走ったりして。 電車化されて程ない頃、鉄道ジャーナルの列車追跡で取り上げられた。
たしか大阪→新潟と新潟→青森の2回に分けて(2ヵ月に分けて)
誌面に掲載されたような記憶がある。
後半は夕闇迫る新潟駅ホームで先輩格の181系「とき」と並ぶような
シーンから記事が始まっていて、子供心にカッコイイなと思ったりしたもんだ。
>>34
九州ではあれで初めて485系「有明」の絵入りヘッドマークが見られるようになったものです
それまでは583系以外はすべてボンネット型で字だけのヘッドマークでしたからね
「にちりん」や「かもめ」「みどり」のボンネット型にも絵入りヘッドマークがついたのもこの頃だったでしょうか
「にちりん」や「みどり」はそれまでもボンネット型でしたが
「かもめ」のボンネット型はとても新鮮だったものです
>>36
リバイバル本にも収録されていましたよね。 遅れる、汚い(ゴミだらけ)、ボロイ(485系)だったから俺の一家には白鳥はかなり不評だった 女鹿(当時はまだ信号所)で2往復時代の白鳥同士の交換を撮ったのが思い出かな?
一生保管するぞー 46歳のオッサンが小学生の時の話。
485系1500番台の白鳥に乗りたくて乗りたくて
親戚んち行く時に親にせがんで京都ー福井だけ乗車した。
新製後、渡道する前の暫定的な使用だったというのは大人になってから知った。
ヘッドマークはステッカー貼り(絵入り前の白地のやつ)だったナ。
たしか突発臨で583の白鳥があった気が・・・
とにかく新潟始発や金沢始発など
突発が多かった。 RMの「さよなら白鳥」特集にも写真があったな>突発白鳥 特発はかがやき編成や白山編成はよくあった。
上沼垂の時は、同じ所属の4003M金沢または富山打ち切りで折り返し5002Mとか。 特発なんてすごいな。総合力が生きるね。
車両だけじゃなく、乗務員の手配とかダイヤの入力?とか。
今でもあるのだろうか? かがやき編成や白山編成の白鳥もあったの?
末期に白鳥上りを直江津へ撮りに行ったら
6連の特急色クロハ編成がやってきた。
>>48
京都車時代の上り新潟特発は上沼垂6連の時もあった。 上り特発で富山から681系が使われてた事もあったな
その時は「臨時」扱いだったけどな 青森始発が遅れて秋田から秋アキ車で特発
それも遅れて新潟から新カヌ車で特発
それがまた遅れて金沢から金サワ車で特発
大阪に上り白鳥が4本到着、なんてことはなかったであろう。 特発ネタ興味深く拝読しております。
それにしても体験談盛りだくさんで諸氏には敬服しますマジで。 末期でも大阪発遅れか途中打ち切りで秋田→青森でかもしか編成の白鳥特発とか 以前の北陸特急は充当列車ごとにカラーが異なり
臨時便や急な編成変更が楽しみのひとつだった。
どれだけのバリエーションがあったのやら・・・
俺もチビの頃、東能代の祖父母の家に行くのに上越新幹線+白鳥3号が定番だったな。
一度、東能代まで一人で行きたいと親にダダこねたら、じゃあ新潟までならいいよって事になり、新潟まで祖父が迎えに来る事になった
新潟の乗り換え口のとこで青いリュックに真っ赤な広島カープの野球帽かぶって走って来る俺を祖父が目を細めて迎えてくれたな
新潟〜新発田間は車内を探検してあつみ温泉辺りから日本海の夕日を見ながら食堂車ってのが俺の定番で祖父も嫌な顔せずに付き合ってくれた。食堂車では祖父が向かいでビールを飲み、俺はカレーを食べた。
車窓もすっかり暗くなり、酒田手前辺りから段々飽きて、ウトウトして、目が覚めたら秋田。あぁ、今年も来たなと実感して東能代に着くと田舎独特の雰囲気に包まれる感じがした。
少し大きくなって鉄知識もそれなりになった頃、東能代から祖父が新潟まで迎えに来るという事は物凄いシチ面倒くさい事だと実感した。おそらく、朝一白鳥で新潟まで迎えに来て、白鳥で俺を連れ帰ったんだと思う。因みにこのコースは祖父がもう一回、祖母も二回付き合わされた
また、更に大きくなって初めて彼女が出来た時も二人で白鳥に乗った。食堂車もなくなって、編成も短くなってたけどやっぱり特急白鳥だったな。
ボチボチおっさんになった今も祖母が健在でたまに行くのだが秋田からいなほの最終に乗ると色々思いだす >>57
あの当時は広島が強かったですものね。
でも3号が着くぐらいの時間って、東能代の駅前はさぞかし寂しかったことでしょう。
>>58
確かに寂しい雰囲気だったけど駅はいつも暖かい感じがしたな
冬に行くと特にそう思った。雪でビッショビショになったデッキのドアが開いて、寒いから首すくめながら階段登って反対側の改札口に行くと、モコモコのニット帽?にドカジャン着た近所のジサマバサマ達が、家族はまだかと背伸びしながら待ってるんだよ。
家族で行く時は祖父もジサマバサマ達の中の一人で車で迎えに来てくれてさ、改札口の前でハイライトくわえて待っててくれたな。改札を出て、祖父に手を引っ張られながらふと後ろ向くとさ、見届けたかのように雪ダルマになった白鳥号の最後尾車両がサァーッと抜けてく訳。
色々思い出すと駅よりも東能代の駅から見た雪ダルマの白鳥号の車内の方が寂しい感じがした。秋田過ぎた辺りでは客がほとんどいなかったし 白鳥3号というと57-11ダイヤのときでしたから、その頃にはもはや既に青函連絡のお客さんは激減していたということなのでしょうね。
途中で「あけぼの6号」との離合がありませんでした? >57 59
見やすいようにその半分くらいで改行してくれ 18歳、大学に落ちて浪人が決まったときに大阪から青森までこの特急に乗った。
車窓を流れる景色に見とれながら列車は青森に着いた。
翌朝は竜飛岬に向かった。春は近いというのに海は猛烈な時化だった。
竜飛岬から1キロメートルほど歩いたところのがけの上で女の人が海を見つめていた。
荒れる海を見て何かを祈っているようだった。 >>63
羽越本線は災害は多い。
以前に「いなほ」が脱線転覆した砂越ー北余目間の最上川Bだが(「白鳥」にも共通するが)
S20年代に母が川沿いの道を毎日酒田の高校まで通学していた。母言うにはまさに風の通り道
であり冬は凍結したアイスバーンの上の薄っすらと雪が積もりまるで強風の中、亀の甲羅の上
を歩いているようだったとの事。
法面災害や地すべりも新潟〜山形県境から山形県にかけて多く、最たるものではS32に五十川
ー小波渡間で大崩壊があった。このあたりは線路付け替えされている所も結構多いな。
線形もカーブが多いので村上〜鶴岡にかけては「白鳥」の全行程で最も表定速度の低い区間
だった。
崖の上から海を見ている女性に声をかけたが反応はなくもう一度声をかけてみると
びっくりしたようにこちらを見た。
ただ黙っている、沈黙に耐えきれなくなり俺が声をかけようとすると女性は猛烈な
勢いで去って行った。すると女性があわててたのか雪道に足を取られてころんだ。
「大丈夫ですか?」と声をかけるもただ黙っている。とりあえず肩を貸して近くの民家まで
連れて行って手当てをしてもらうことにした。
雪の中を20分ほどほぼ抱きかかえるような感じで女性を運んだ。
その時女性は泣いていた。なぜ泣いているのか分からなかった。
民家で手当てをしてもらうと竜飛岬のバス停から三厩駅までのバスに乗った。 「白鳥」は人気のある列車ですね
他のスレにも「白鳥」の話題は多いですし
「白鳥」というのは優雅な名で日本海を北へ北へと駆け上がる列車にふさわしい名だとも思います
九州人の私は「白鳥」に乗ったことも見たこともありませんが
「白鳥」のファンでDVDまで持っています
一時期ひばりに485のボンネット赤スカート車が使われたが
白鳥にも使用されたのだろうか。 青森の彼女に会うために大阪から何回も乗ったな。
もう廃止から七年になるのか。 >>72
仙台車が白鳥運用に入った事はないと思うが。 このスレは鉄道路車板の時はレス伸びてたのに懐かし板だと伸びないね…(´・ω・`) まだ廃止されてから時期がたってないからじゃないかな?
まだ10年たってないだろ >>76
鉄道路車板の時はスレ立って1ヶ月後にはレス番は簡単に100に達してた 「ひばり」に赤スカート車が使用されたことはないはずです。
赤スカート車自体、S50年から10年近く、九州に封じ込められていたし、
向日町時代、唯一の上野顔出し運用は「はくたか」だった。北陸に赤スカート車
が活躍していた時代、青森持ちの「白鳥」にボンネット車はなかった。
最晩年がそうだったせいか「白鳥」イコールボンネットのイメージが強いが、
「白鳥」に定期的にボンネットが使用され始めたのはS60年以降。
食堂車がなくなり、黄金期の風格が失われた以降である。
ただ、電車化直後、一時的に青森に貸し出されたボンネットが使用されたことは
あったらしい。
「ひたち」に赤スカート車が使われ始めた頃、新幹線上野開業直前の年末年始臨
で「ひばり51号」が設定されたことがあるが、これに勝田の485が充てられた
ので、もしかしたらそのとき赤スカートの「ひばり」が実現したかも・・・