【チャマゴン】京福電鉄福井支社【チャマリン】
>>143 今でも永鉄分岐のカーブ跡のさらに外周に空地があるけれど、
それがかつての丸岡線ホームへつながっていた平面交差の軌道跡。
現在の駐車場、駐輪場やバス駐車場にも貨物用側線があった。
永平寺街道の踏切にはまだ丸岡線の軌道跡が舗装されずに残っている。 >>144
ありがとう。行ってみたいですね。昔を偲べそうです。 勝山〜大野廃止後の代替バス、JR化後もしばらく方向幕に
「国鉄」大野駅前って表示していたのはいつまでだったんだろう。 >146
「JR」と「国鉄」両方並んでる姿を写真に撮った。
「国鉄」標記で入ったバスは、廃車までそのままだったと思われる。
役に立たない情報でスマン。 >>147
すごい写真ですなw
レスありがとう。
役に立たないなんて事は無いですよ。
経年考えて方向幕そのままにしていたって事なんですな。 西長田の丸岡線残骸は今どうなってますか?
1979年に訪問した時は割合に残っていたのですが 越前鉄道(直系)・永平寺鉄道・三国粟原電気(対抗)は、京都電灯系で合併前から系列
当初非電化で開業の丸岡鉄道は、四方を京電に囲まれ吸収された外様
本当は、南越や福武、鯖浦 側と一緒になりたかったのかな?
>>149
西長田駅の丸岡線ホームのレールは
ホームから踏切までの間に変電所建てたから短くなったね。
2両編成は停められないかも。 三国芦原線はJRと併走してるのによく生き永らえてるなあ。 >>152
ニッチな需要をうまくつかめてるからねえ 東急からデハ3300を買ったが10年足らずでお釈迦に。
同じく南海からモハ1201を買ったが10年あまりで車体のみお釈迦に。
随分と鷹揚な金の使い方だな そこらへんが京都電燈時代の経営感覚なんでしょうね。
その後、遅まきながら合理化に邁進したみたいですが。
ところが行き過ぎて整備まで合理化してしまい、例の事故二連発につながったんでしょう。
事故さえなければ次は泉北の100系がくるはずだった。。。 >>157 京都とちがい豪雪で、車体痛みが進み易い環境だから戦後大手の中古が安価に手に入るようになってから
車両政策を変更したらしいよ。
ただ、使い勝手がよかったのか、小田急からの中古や南海からのカルダン車は延命して維持に努めたよな。
>>159 本当なの?
そうなれば泉北車は少数派なので近似の東急8000の進出も可能性が期待できたな。 えち鉄 より 車体色とマークは、京福時代の方が好かった。 酒気帯びで京福運転士逮捕
6日の朝早く、京都市内で車を運転していた、京福電鉄の運転士の
男が酒気帯び運転の疑いで逮捕され、警察ではこの男が逮捕される
直前に別の車に追突する事故をおこして逃走したことから、
ひき逃げなどの疑いでも捜査しています。逮捕されたのは、
京都市内に路線を持つ京福電鉄の運転士で、
京都市山科区御陵荒巻町に住む松尾光起容疑者(53)です。
警察によりますと、6日午前5時ごろ京都市下京区の交差点で、
松尾容疑者の運転する軽自動車が、前に停止していた
普通乗用車に追突しそのまま現場から逃げたと言うことです。
通報を受けた警察が、現場からおよそ5キロ離れた
山科区内で松尾容疑者の車を見つけ、停止を求め調べたところ、
松尾容疑者の息から基準を超えるアルコールが検出されたことから
酒気帯び運転の疑いでその場で逮捕しました。
調べに対して松尾容疑者は「酒を飲んで運転した」と
容疑を認めているということです。
追突された乗用車を運転していた43歳の
男性が首や腰の痛みを訴えていることから、
警察は自動車運転過失傷害と、ひき逃げの疑い
でも詳しく調べています。
運転士が酒気帯び運転の疑いで逮捕されたことについて京福電鉄は
「本人に対しては、事実確認をしたうえで、厳正に対処する」とコメントしています 戦後 国鉄越美北線建設時 越前本線を買収しなかったのは何故だろう?
・・・仮に買収が行われたとしても江若鉄道同様土地収用なるだろうが・・・
・・・趣味的には、買収されずに済み大変嬉しいが、京福電鉄はひょっとして買収回避の政治力を発揮していたのだろうか?
結局 越美北線は、越美南線と結ばれ全通することなく長大ローカル線になってしまった訳だが、本当に越美線の全通を早期か安価に真剣に考えていたなら
越前大野まで新規に路線を敷設せずその分の資金や労力を九頭竜より先の延伸に使うべきだったよな。
開業が、早まればそれだけ鉄道需要の衰退までのタイムリミットに間にあった訳だし・・・。 >>167
平行私鉄を買収するより独自路線建設が多かった気がする。 関東の今市〜新藤原も国鉄線として着手されたらしい。
予算執行率8%くらいで凍結されたような気が。 泉北101が来てたならまた違った面白さがあったんだけどなあ・・
阪神赤胴車やジェットカーは今ひとつ好きになれん。 >>170 他社でもあるけど雪国でステンレスって寒々しない?
悪い色じゃないけど、京福時代の色(クーリームに小豆帯)って視認性とか悪そうなのによく採用したなあ〜
・・・同様に富山地鉄の特急車の色も・・・ _追記_ 白系主体の塗装は、雪国だし吹雪の時とか考えるとなあ〜
名鉄が、3900系なんかで短期間採用した すみれ色 だって遠方視認や退色で止めたのに・・・。
>>172 レス遡って穿り返せば出てくるよ。 意識不明の重体だった運転士はその後回復されたんでしょうか?
ずっと気になってます。 >>173
保育社カラーブックスで3900のライトパープルをカラーで確かめることができるが
淡白な味わいがあってもっと広がってくれても良かったと思った。
そうか、保安面で問題があったんだね。
スレ違いなので続きは名鉄スレでやります。スンマソン 京福大野駅にはビルが建ってたんだな。
今も残ってるのだろうか。
昭和58年ごろ(廃線10年経過)にはまだ往年の雰囲気が残っていたのだが。 当時大手私鉄から初めて放出された南海のカルダン車を受け入れた際(ひょっとして南海1201の大量購入と抱き合わせか?)
何故全車湘南顔を選定して購入出来なかった(一部古い貫通を購入対象に)のですか? 南海は優等列車用として4編成必要だったから、京福側が選定など
出来る余地などなかった。 >>190
>全車湘南顔を選定して購入
あくまで不要品の売却だから文句があるなら買ってもらわなくて良いよ。
という感覚だろ。
南海と京福の力関係を見たら選べる立場に無いのは分かるよな? >>191
付け足すと、湘南顔の11009系は7編成あって、新しい方から順に4編成を1000系に昇圧、更新したので余った先頭は3編成分。
京福が欲しい4編成分揃えるには貫通形の11001系も買う必要があった。
買う側の都合で無理やり売らせたのは東急5000系を長電に譲渡したケース位かと。
この時に東急が最初に提示したのは3450形だった。 こないだ、仕事で8年ぶりに福井に行き、えち鉄にも乗った。
福井在住の時はもっぱら勝山線利用だったのだが三国線を初体験。
アテンダントの娘は中の上くらい、小柄で可愛らしかった。
福井口から乗ってきた常連とおぼしき厨房の女の子と駅間で談笑してたが
アナウンスの時の標準語と談笑時の福井弁のギャップに萌えた。
また、自分が福井に居たころはアテンダント導入直後でみんな堅い感じだったけど
時を超えてすっかり地元になじんでるんだなってのを感じた。 >>191 >>194
南海に残った車両よりも京福に譲渡された車両の方が結果的に長生きだったけどな。 >>198 南海1201形は本家 貴志川線のヤツが一番長生きしたじゃん・・・・
もっとも南海は製造時の資材事情&しっかり状態のいいヤツを手元に残したいた訳だが・・・
若い頃の手塚さとみの衝撃写真集の撮影に使われたのは、何の号車だったのかな?
・・・殆ど戦前造られた時の侭の内装みたいだが・・・・あの電車が造られた時代よもや
あんな撮影をするとは誰も思わなかっただろうなあ〜(それこそ 噴飯モノだろうな。) 越前本線も京福大野までの路線を廃止しなければ良かったと思います
国鉄時代の越美北線は列車の本数が少なく 利便性では京福電車が勝っていて輸送需要がそれなりにあったと思います
どういった経緯で勝山と越前大野の間が廃止されたのか廃止の日付けはいつだか知りたいです。やはり台風とか災害が原因ですか? 福井までの料金に倍以上の差があって需要は少なかったこと
南海車の導入でトンネルの拡幅が必要になったこと
この2点が大きかったんだろうな >>201
廃止して何の問題も無いということは
逆に言えば越美北線程度の需要しかないんだよ 具体的な回答もせず、他人をバカにする事で自己満足するヤツ
いまだにこのスレにいるんだな
こういった輩が調べるのは、すべてネットだったりする
これもいつものオチ モハ3007+モハ3008に乗りたかったよ。
南海もJRや阪急とか小田急、東武みたいに鉄道博物館があればよかったんだけどなあ・・・・・・・・・・・・・・ 社会操作 エージェント松本・村上 ロックフェラー帝国の陰謀-見えざる世界政府(原著1976年) 工作員 集団ストーカー 天変地異 で検索。 スーパー雷鳥チャマゴン号
大阪〜勝山間(福井から京福電鉄越前本線乗り入れ) いいねえ
越前本線はまず120km運転、問題なければ160kmに上げる えちぜん鉄道になり元気を取り戻したのは、アテンダント導入とともに嬉しいけど、
塗装は京福時代のバス色(バスと違い肌色じゃなく白に近いクリーム?)の方がよかった。
社紋も今の相模鉄道みたいなギリシャ文字?の公式記号みたいなヤツは・・・
電車も南海からきた2001とか日車タイプの231,241が少し残っていれば最高だったよな。 昔茨城から乗りにいったなあ
元南海のモハ3000で福井から東古市まで。
整然と並んだクロスシートと読書灯?に驚嘆の声を上げた
茨城でもクロスシート車はあったが、あんなに美しくはなかった。 南海時代に貫通型だった1編成を
冬は隙間風が入って寒くなるのが嫌だからと言ってわざわざ2枚窓に改造したのもあったっけね
オリジナルの湘南顔でなくて直立型の2枚窓で違和感あった 昔の三国芦原線の写真で三国で国鉄三国線のキハ04と並んだ写真何処かにない? 初乗車が3000
乗り換えたのが2100
停車中の240を眺め、帰りに乗ったのも2100
冷房車に当たらなかった、88夏の思い出 京福の京都社員態度悪いから嫌いや。
なんであんなどうでもいい私鉄の社員があんな偉そうやねん。
阪急や近鉄ちゃうねんぞ。
あんなんイランから消えろ >>221
いいなあ
241目当てで神戸から遠征したが目にすることが出来たのは元阪神と元南海ばかり そうそう。昭和50年代中盤からは南海と阪神で占められてしまい
急速にバラエティに乏しくなってつまらなくなったね そんな中で人知れず転入し人知れず消えて行った元東急車。 あの東急からの買い込みは一体何だったのだろうね
物凄い無駄遣いに思えたわ >>226
同じです。
自分の運の悪さを呪ったよ。
タイトな旅程を組んでしまったので、狙ってる電車に逢えるまで粘ることができなかった。
当時は、一旦予定が狂ってしまうと宿の手配が大変だった。
今はネットで機動的に動けるから良い時代だね。 南海からヒゲ新を譲り受け、それまでの田舎っぽいツートンカラーから白地に紫の帯に締め変えた時に
会社のやる気(笑)を感じたものだが、まさかあんな形で終焉を迎えるとは‥
当時、白は汚れが目立って保守に不利としてあまり採用されなかったんだがね。 >>229 南海の大型車を大量投入しても永平寺線に入れなかったり
老朽化したプロパーの小型車も残って居たから
小型車の更新(取替)需要もある程度あったんでしょ。 永平寺線懐かしいな、初めて訪れた時30分毎にバスと交互運行で運悪くバスで永平寺に行ったわ。福井駅で切符を買う時に直通バスを勧められた。芦原温泉もそうだけどバスが圧倒的に速いのな。 俺も福井駅で受付の人に奇異の目で見られた
当時から永平寺へ電車で行こうという鉄チャンは
多く訪れていたはずで、こういう“暇人”は
見慣れていると思ったのに。 永平寺線廃線跡に色々オブジェが残って居るけど、
230か240を1両でイイから残して欲しかったな。
えちぜん鉄道で再開前 東古市の永平寺線分離部分に永平寺線に入れないヒゲ新
が、置いてあったのはどちらも再起できない因縁? >>222
福井から三国へ帰る際の事だが
芦原湯の町駅で私一人に
運転士:お客さん何処まで乗るの?
私:三国です
水居、三国神社と駅の直前で徐行
お客がいないと分かると加速、三国で私が降りると車内灯消して三国港へ回送w
その頃からなんかやる気が無い様な感じやったね >>237 ある意味 経済運転なのでは?
一時期地方の路線バスで行われた遅延にカコつけた間引き運転なんかと違い問題ないのでは? >>238
軌道法ではokで鉄道法でアウトだったような記憶があるが北鉄でもやってたな。 >>239
>>222だけど
鉄道法では確かにアウトだそうです
仕事の関係で、その事を当時の芦原町役場に勤めてる人に話したら
京福にその事を言わなきゃダメと言われたよ
ちなみに、その電車は三国港行きの最終での話です お客さんに下車駅を聞いて臨機の対応するよりも
機械的に一駅一駅客扱いする(もちろんこれが正しいのだが)ほうが
何も考えずに済みそうなものだが でも現場はそういう考えにはならない
不思議なものだ 小田急→相鉄の中古車を見たくて福井口駅で時間潰してると
ゆっくりと車庫線から姿を現して自分の待つホームの前で止まってくれたときの感動は
忘れられない
欲を言えば乗りたかったのだが惜しくも回送で
ドアを開かずにそのまま福井方面に消えていった 元京王や元東急よりも古かったのに一番遅くまで生き延びられたんだな >>245
てことは出番は朝夕のみか
そりゃ貴重だな 阪神からジェットカーや赤胴を買うまでは
日中は南海1201ばかりで
たまに転クロ付き11001が来た
昭和50年からの10年だけで持ち駒がガラリと入れ替わった >247
窓が小さくて車内は電球が二つ三つだけで
朝でも暗かった 京福事故直前の、東古市(今の永平寺口駅)の駅員の態度は最悪だった
福井から本線に揺られ、今は亡き永平寺行に乗り変える時、車両を撮影してたら、
「早く乗れよ!」と、憎悪剥き出しに怒鳴り散らしてきた
発車時間までは1〜2分あり
俺もまだ若く頭にきたから、
「何?その言い方?百姓が!」とフラッシュたいて目潰ししてやったけどね(笑)
他のサイトみても、東古市駅停車中に車内を撮影してたら
怒鳴ってきたとか酷い証言があった
あそこの駅員には、出自が貧しい奴がいたみたい(笑)
京福福井で事故!とのニュース聞いた時、
この駅員が信号操作でも誤ったんじゃないかと真っ先に疑ったもんだ(笑)
全線を乗り倒したけど、勝山駅とか山側の駅員は何かノンベンダラリとしていたな
三国側は割と良い接客だった
えち鉄移管の時、京福から移籍希望のベテランも、
サービス精神を重要視して選考をしたみたいだから
この東古市の駅員は落ちただろう(笑) この方は‘車掌’となっているが、92年はもうワンマンになっていたはずだし、
停車中の電車という事で、ホームにいた駅員の可能性が高い
京福福井の運転士に限っては、可もなく不可もない人ばかりだったし
http://hwm6.gyao.ne.jp/ennosita/p_keifukuf.html
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ちなみに、私もこの写真を撮った日、電車の窓を開けて撮影していたら、東古市駅での交換待ちの際、
いきなり車掌に「おい、窓なんか開けてんじゃねえ!」と怒鳴りつけられ、私は窓から手や首を出していたわけではないので、無視していたら、
なんとこの車掌、私の後を追い「おい、てめえ聞こえねえのか!」と追い打ちの怒声を私に投げた。私は、京福電鉄福井支社宛に、文書で正式に抗議したが、なしのつぶて。
##################### えち鉄設立当時京福の残党は極力辞めて貰ったと前社長が語ってるからいないだろう
ただ、福井から引き上げた当時の京福お偉いは今のえち鉄見てどう思ってんだろうな 野上は、廃線=会社解散確定だから、社員がキリキリする気持ちも解らなくもない
(かと言って、不正乗車や盗り鉄でもないマニアに当たり散らす事を正当化する事は出来ないが
社会人として金貰って公共交通を転がしてるわけだし)
京福は、赤字路線とはいえ、失職の危機があったわけでもないのに
運転士は、逃げようと思えば逃げられたのに
最後までブレーキを掛けようとして殉職した神対応なのに、
何故駅員は、ああも雲助が散見されたのか不思議だ
追っと、事故絡みは御法度だったか
ただ、個人的には戒めとして、定期的に軽く触れる事も必要かなと思う
不快な方はngにしてください なんかここを見てると駅員や乗務員に不快な思いをさせられた人が多いみたいだが、
えちに転換するまでに4、5回訪問して
一度もそういったことに遭遇しなかったおれはラッキーなのか? 駅ビル化してる西福井駅に京福帷子ノ辻駅の雰囲気を感じる
設計施工は同じ会社だったのだろうか 70年代後半、福井市内で踏切の事故が増えたから自動警報器の設置を進めることになったものの思うように行かず、そのかたわらで福鉄は着々と自動化
なんか、こういうところからも差が出始めてたのかなと今から思う 福井鉄道は危機感あったと思うよ
京福は気持ちのどこかで最後はどうにかなるとタカをくくってた 1970-1980年代
京福は京阪系
福鉄は名鉄系 昨日からすごい大雪だが昭和56年豪雪では車両の屋根上の雪下ろしが間に合わず分厚い雪を乗っけたまま走ってる3000がTVニュースに流れた
全国のニュースにも出た 昭和56年ならボディーはアイボリーだから頭から足元まで白ずくめに紫の帯びという、さぞかしクールな出で立ちだったのね どこかの駅で立ち往生してしまって保線要員がせっせと雪掻きしてる映像もあった
あれも56年豪雪 >>267
中古は中古でも赤胴車はクーラー付で夏はありがたかったし、車内照明も明るく南海ヒゲ新よりも評判良かった そんなにロングシートがダメなのか
足を伸ばせるから実はクロスシートよりありがたい 京と若狭ならわかるが
越前とのつながりはどこからなんだ >>278
配電統制令により、京都電燈が配電事業を関西配電(関西電力の前身)・北陸配電(北陸電力の前身)へ、発送電事業を日本発送電へ譲渡し解散するのに伴い、同社の京都(嵐山線・叡山線)と福井(越前線)での鉄軌道事業を引き継ぐため1942年に設立され、同年中に傍系の鞍馬電気鉄道・三国芦原電鉄が合流した。
京福の社名は、鉄軌道事業を行っていた京都と福井それぞれの頭文字を採ったものだが、京都と福井を結ぶ鉄道計画があったわけではない。京都は祇園を始め夜間の電力需要が多く、福井は逆に織物工場が稼動する昼間の電力需要が多いため、互いの電力を融通するために前身の京都電燈が建設した「京福送電線」が語源となっている
だそうです 確かに、赤胴は革命的だった
静鉄→福鉄も、同時期だったか?
何だかんだで、冷房ほどありがたい装備品はないからな
満員の通勤通学輸送でも、皆が等しく受けられるサービス
冷房化が完了すると、目に見えるサービス改善のネタがない 京福を由来はわりと有名な話ではないかな
まあ金名線みたいな例もあるけどね 大正にすでに京都電灯に嵐山電気鉄道と越前電気鉄道が所属している 東武東上線の"上"
上信電気鉄道の"信"
三岐鉄道の"岐"
小湊鉄道の"小湊"
名松線の"名"は目指していた土地まで到達できなかった レス281番で書けばよかったが、281号の正面は異様にのっぺりしていた
尚284号は更新しなかったので普通だった 警報音 ジャンジャン が鳴ったら
わたらないでください >>277
始発から終点まではそこそこ距離あるし暇つぶしに読書は別に不自然ではなかろう
そういえば、早朝時間帯には勝山発福井行きの「特急」が1本だけ運行されてたな >>289
わかる
今でもそこそこ需要は見込めたのでは 北陸鉄道との接続駅(大聖寺,動橋,粟津,寺井駅)が急行全部通過になってしまう事態は予測不能だとしても,
越美北線には普通列車が日に1桁往復だったから
特段脅威的でもないのにあの当時は脅威と見えたのだろうか 客の食い合いで経営母体の大きい方だけが残ったんだろ >>287
夕方に福井発勝山ゆき「急行」もあったような 昭和60年頃にはすでに永平寺線は日中はバス代行だった。
鉄道が消えて、いまは無人バスか… 京福から分離されたときに名前を越前電気鉄道にしたらよかったのに 金津~東古市廃止の時は本当は全区間廃止にする予定だったが
参拝客輸送に微かな望みをかけて東古市~永平寺は残した 京都電灯→京福電気鉄道
東京電灯の方は
江ノ島電気鉄道(藤沢-鎌倉)
伊香保電気鉄道 (高崎-渋川,前橋-渋川,渋川-伊香保) なんで金津が起点になったの?
湯治客と参拝客を結びつけた? 福井-三国港が今もありますが
三国港-金津-本丸岡-東古市とつながっていた >>306
ほう、そういう考え方もあったか
寺社参詣も湯治も昔は代表的なレジャーだからな >>272
然し何でAU13だったんだろ?
流石にバンドン型連結器は使ってないよな? 国鉄駅と城下町を結ぶために鉄道が開業するほどに資本力のある街だったのね>丸岡 >>309
さすがにバンドンではない
他車と連結できないとマズいしな
それにしても、武庫川線の3301は暖房車
屋根上の物体は単なる飾り、錘
ココへ来て、一転して単車で冷房可能に