長距離・夜行各駅停車
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いまではほぼ絶滅してしまいました。
薄暗い白熱灯の中、直角のシートに身を寄せ
朝焼けを見た遠い日。
そんな長距離鈍行・夜行鈍行のスレッドです。
マタリ語りましょう。 >>762
522レに乗るために宮内までなら乗ったよ >>762
乗ったよ。籠原まで11連、籠原で4連切り落として長岡まで7連。 >>763
>>764
三八豪雪で武生で運転打ち切りになったのって
それの下り列車? 高崎出身だけど長岡夜行は中学〜高校時代に30回ぐらいは乗った。上野から乗り通したこともある。
一時、毎週末のように乗って宮内で旧客に乗り換えて鯨波で下車して海に出てフラフラ散歩してた。
北朝鮮に拉致されなくってよかった・・・ 初めて乗り鉄をした1984年の春、大阪から福知山線と山陰線の旧客を乗り継いで米子まで行った。
本当は朝5時台の出雲市行きに乗りたかったけど、朝早いので親の許しがでなかった。
朝早い時間帯は車が飛ばすから、というのが、その理由だった。※当時、毬栗頭の14さい。
帰りは米子から上りの「山陰」に乗った。寝台車10系統だったけど、普通車は12系化されていた。
終点の京都に着くと、同じホーム向かい側に浜田行きの旧客が発車を待っていた。 長岡夜行や上諏訪夜行は関西在住ゆえに乗る機会に恵まれなかった。計画はあったけど。
なぜか、いつもガキ鈍345Mばかり乗ってた。
1984年〜85年頃のガキ鈍は東京から平塚辺りまでは帰宅のサラリーマンが目立っていたけど、
それ以降は若者ばかりだった。当時、18きっぷは一般化してなかったのか、ワイド・ミニ周遊券の人も目立ってた。
345Mは戸塚で横須賀線の電車と同時に発着してた。東海道線の線路をオーバークロスした
スカ色の113系がモーターを唸らせながら高度を下げ、こちら345Mと並走、この光景をみて
「さすがは東京、凄い」と感心してた。※戸塚は神奈川だけど >>759
1969年、昭和44年生まれだけど、この年代なら中学生になれば夜行込みの乗り鉄してた。
ガキ鈍なら中学生(小学生も?)から高校生がめちゃ多かったな。どこから来たの?、という会話もよくしてた。
うちの親の場合、旅の安全よりも「夜になれば警察に補導されんじゃないか」と心配してたな。ま、何もなかったけど。 >>772
ガキ鈍って言い方は初めて聞いたよ
ワイド・ミニの方が使い勝手良かったからなあ
1989年夏の比較
青春18切符11,300円
東京発北近畿近畿ワイド学割14,830円、14日有効
東京発南近畿ワイド学割14,210円10日間有効
大阪発東京ミニ学割11,640円7日間有効
名古屋発東京ミニ学割11,640円7日間有効8,650円7日間有効
東京発京阪神ミニ学割11,640円7日間有効 >>772
ガキ鈍って言い方は初めて聞いたよてかガキ電って言い方が首都圏一般的だった
1983年つまりまさにこのガキ鈍ガキ電153系から165系になったまさにこの年大阪から東京の大学進学したもんなんで
まぁあれだ、それはさておき、昨日即ち7月27日(土)急行津軽の臨時があったが見事にこの世代おっさんばかりだったな
まぁあれだ、こういう言い方は残酷だが35人亡くなった京アニ事件の命でないが2度と戻らない彼らの青春というものがこの土日だけでも戻った気分なんだろうYouTube見ながら何とも妙な気分日本海2号の青森〜秋田間のスジを最後の方は再現してたので個人的には面白かったが まぁあれだ、いい歳こいてるんだから、もう少し読みやすい文章書けよ >>772
「がきや」(大垣夜行の略)っていわなかった? >>777
関東の一部の一般人位しか使ってないと思う
たまたま非鉄の奴がガキ夜行と言ってて意味わからんかったからな
鉄は345Mや375Mと列番使うからな ガキ鈍は非鉄の大学生から聞いて知った
ガキ夜と言うのは寡聞にして知らなかった
当方は中央夜行が臨時で出てた最後の頃の世代 ガキ鈍は非鉄女子大生から聞いて知った
彼氏鉄思ったがそうでもないみたいだし
そう言えば新潟の女は当たり前かもだが165系ムーンライトえちごは勿論のこと165系全般(高崎発長岡・新潟行きなど)に詳しかったから隠れ女子鉄はいたのかも 大垣夜行以外の50年代以降、B寝台のマルス用に名前つけたやつ以外の441M(中央)、731M(上越)、731D(土讃)、
ここらへんには俗称は無かったのかな? >>738
RP夜行列車号では441Mは鉄の間では上諏訪夜行、古い山男にはニーサンゴーゴー(新宿発車時刻)
とあった >>783
かなりスレチだけど…
赤券ラストシーズン(2016年末-2017正月)の赤券に、赤券の歴史に敬意を表して
まさにその、345M(東海道)、441M(中央)、731M(上越)、731D(土讃)の
往年の「夜行普通の四君子」と同じ列車番号の車両乗務列車を狙って
4列車ぶんのそれらのレチ諸氏による手書き日付を並ばせてコレクションしてあるw
5回目はナイショ…いつか画像で見てください。 ところで。上越夜行は733Mとちがいましたっけ?
786で述べた赤券は実家にあるので今すぐ確認できないけど、たしか733Mだったような・・ >>746
中川の域がかかってるとはいえ十島村営のフェリーとしまは三本髭ではないな
三島村営のみしま(これは近々新造船のフェリーみしまに取替)にはある 羽越本線の新津発秋田行の旧客で酒田の停車時間が1時間30分くらいあった列車はがあった
撮影と資料収集だったな 上越夜行一度だけ乗りました
赤羽→宮内、さすがにすぐには座れず大宮過ぎてしばらくして座れました
宮内で降りて、→来迎寺→西小千谷、おなじことをした人が数人いました
小千谷まで歩いて、越後川口→長野
信州ワイド+追加料金で使った記憶です 小笠原諸島へ行くのに関西から大垣→東京に乗った
隠岐諸島へ行くのに京都から米子迄「山陰」に乗った
疲れるのにようやったと思うw 大阪から米子迄「だいせん」に乗った
と言っても急行だからスレチではあるが
疲れるのにようやったと思うwと言うかJDのお姉さんと結構話がはずんだなあw
嗚呼、CoronaVirusに段々と疲れてきたもしもあの頃に時計の針を戻せるならば 昔は、現代の夜行高速バスみたいに
全世代乗ってたから、若い女性と一期一会の会話とか
ふつうにあったよね。女性側も人間味が残ってて
今の若者みたいにスルーとか無関心でもなかった。
おばちゃんが菓子くれたりした。 イケメン限定だが、同世代の異性と相席になって、話が盛り上がって住所交換からまた会うって事も稀にあったな クロスシートかつ会話が発生するような長距離列車(長距離を乗る客)って、
今や、通学生(〜高校迄)・交通弱者(ジジババ)・旅行者(中年〜シニア)、あとは乗りテツ旅行者(シングル)くらいだからな。 20台チンピラ「女と別れたんや」
70台じいさん「原因はセックスかぁ」
20台チンピラ「そうや・・・、ようわかるなぁ」
あぁ、夜行列車だからこその会話風景・・・。
34年前、宇高連絡船と接続した高知行き夜行の普通列車のなかでの会話風景でしたwww 夜行急行だいせんで同じ様な事あったな
もちろん急行だいせんだしスレ違いだが見知らぬJS、JC、JK、JDの相談相手はDJ番組全盛期とは言え今ありえないなw 鉄ヲタあるある
二十代とかの場合も台の字を使いたがる 数々の夜行に乗ったが
一番寝られたのは
さくらのオロネ14と
ながさきのオハネフ12
最悪が
なはのスハネ25
兎に角狭くて最悪 11年前下関発岡山行き普通に乗った
釜山からの帰り 長距離の夜行の普通列車の編成って、
やたらに荷物車が連結されていなかった?
北海道の函館〜札幌方面のそんな列車は、
列車番号が荷物専用列車の数字で、
客車が申し訳程度の2〜3両の事も。
全国的にそんな列車は、
早朝に到着したそれぞれの駅で、
荷物車から前夜出発した大都市で大量に積み込んだ、
全国紙の新聞の束をホームに投げ下ろすのが見られた。 >>779
首都圏の在住者だが、ガキヤという言い方に覚えがある。 >>779
首都圏かつて在住者だが、ガキ電という言い方に覚えがある。 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%80%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#%E6%9C%80%E9%95%B7%E8%B7%9D%E9%9B%A2%E6%99%AE%E9%80%9A%E5%88%97%E8%BB%8A
東京ー門司とどっちが長いんだろう ttp://mikaka.org/kohorogi/rail/824/long.html
こんなリンクもあったので参考までに >>816
米原でなく大阪発着か
サンパチ豪雪で立ち往生 大阪〜青森を2泊3日とか凄まじいのあったな
全区間乗り通す人いたのか疑問 >>820 東海道新幹線開業時まで大阪・青森間30〜31時間で走る各停があった。
大阪を夜遅く出発し青森に翌々日の早朝到着の二夜行列車だった時期もあるが、青函転落戦に乗り換えて函館に午前中到着することになるから、全区間乗りとおす人もいたのでは。
昭和20年代に比べると、そのような客は減少していったのだろうけど。 シベリア鉄道なんぞ6泊7日でウラジオストクからモスクワまで乗りとおす客がいるわけだし。昭和30、40年代はこのルートで日本からヨーロッパまで行った若者が相当数いたという。まだ、航空機が高根の花だった時代。 >>822
更に昔、関釜連絡船経由で釜山からヨーロッパまで列車の旅が出来たと聞いた。
今も北朝鮮を抜けることが出来たら可能なんだけどね。 貧乏人御用達だっただろうな
今の格安夜行バスみたいな感じか 敦賀発の4連が播州赤穂まで行くようになったら乗り通してみたいな
赤穂線内の需要って8連を入れるほど高いのかしら教えて地元の人♪ ながさき、山陰、はやたまは乗車の機会があったが、からまつは時刻表で見ただけ
釧路まで行く人ではなく帯広で大半下車でしたのですかね >>808
荷物のおまけですからね
だから長距離普通夜行は荷物列車廃止と共に激減した >>822
うちの伯父は70年代に学生でしたが
シベリア鉄道で渡欧してましたね >>828
確かにからまつは帯広で朝を迎えるから、そこから釧路までは午前の普通列車に
過ぎなかった。
池田で池北線の始発に接続したから、松山千春が足寄へ帰省の際に愛用した列車だった。
でもそもそも夜行区間の利用者が少なくて、夜行急行で代替できたから廃止が早かった。 復刻時刻表1968年に昼行の(米原〜)大垣〜東京というのが有るけれど
これは80系だったのかな。 >>834
一等車の連結はある?それ次第で153系も否定できない。
その改正で大垣夜行が153系で登場したし、急行東海も東京〜大垣で運転してた。 >>835
夜行は1等マークがあるけれど
東京23:30⇒美濃赤坂7:27
大垣20:32⇒東京4:35
昼行にはついていない
東京5:19⇒大垣13:40
大垣3:36⇒東京12:07
大垣5:33⇒東京14:00
米原12:12⇒東京21:10 >>836
1969年7月号を見た。
これはダイヤはほとんど変化ないけど、等級制から現在のモノクラス制に変わってるね。
確かに同じ列車が存在してグリーン車マークもないので、80系の可能性が大だね。
それにしても大垣3時台発の東京行きは驚き!名古屋でも4時台発着で!
でも東京12時過ぎ着は、今の方が乗換えが多いけど速い! >>833
夜行「狩勝」(後の「まりも」)が全席指定だったし、救済列車としての役割もあっただろうな >>837
改正前まであった大阪発東京行きの区間短縮だね >>836-837
当時の大垣夜行は東京到着後に、そのまま急行東海で名古屋・大垣に折返したのか? 広域的運用といえば早岐に所属の14系寝台車が、
あかつき〜日本海で青森まで行っていた事だなw
日本海が雪害等で運休すると、翌日のあかつきが運休になるという・・ 441M
発車時は床も人で埋め尽くされるが
茅野で皆んな居なくなってたまげた >>846-847
八ヶ岳、蓼科登山の目的で、小淵沢で小海線に乗換える利用者が多かった。 >>849
確か1時間も待たなかったし、小海線気動車も乗換え客を見越して、早めに入線してたのでは? >>850
というかそもそも八ヶ岳とかメジャールートは茅野からバスだよね
茅野だと10分待ちくらいでバスが接続してたんだよ
小淵沢は4時59分着で小海線が6時8分発とかそんな感じ >>845
走行距離は片道1800キロ にはビックリ 441Mから小海線始発、確か小海線は前夜からのホーム留置で、441M到着前からエンジンかけてて車内入れたよ。駅そばもやってたし。 小淵沢クラスの駅でも終夜解放だったんですね
当時の駅って現代のコンビニみたい
行けば灯りがあって人がいて暖を取れて小腹も満たせるという・・・ 夜中、早岐の長時間停車
線路に降りて、長時間露光してる写真が有るわ
上りのながさき 九州には雪も地震もない
そう信じてた時期がボクにもありました。。 >>858
富良野〜新得間の1日の車での移動人数は
けっこうあるのにねぇ。 それでも営利企業が狩勝峠の線路を自費で維持するほどではなかったんだよね
道路はいいよね(´TωT`) と言うか道路と鉄道両方維持は無理なんだろ
そういう時にどちらか選べと言われたら道路になるよね >>859
まあ狩勝峠越えなので。
今は鉄道が使いにくいわけですか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています