長距離・夜行各駅停車
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いまではほぼ絶滅してしまいました。
薄暗い白熱灯の中、直角のシートに身を寄せ
朝焼けを見た遠い日。
そんな長距離鈍行・夜行鈍行のスレッドです。
マタリ語りましょう。 時期はそれぞれずれますが、長距離普通の記憶
東海道線:大垣行き、昼では浜松行き
中央線 :長野行き
高崎上越線:長岡行き
高崎信越線:高崎行き、ただしこの後長野行き、さらに新潟行き
東北線:一ノ関行き、福島行き
常磐線:仙台行き
通しで乗ったのは、大垣行きだけでした 中央線の長野行きというのは、いささか不思議に感じたもんだ。 あの時の朝方小淵沢で極寒のなか食べた立ち蕎麦旨かったなぁ
よくあんな時間に開いていたもんだ
先日行ったらまだ健在なのが嬉しかったよ 各停ではないけど、小淵沢から白馬方面に行くときに夜行のアルプスに2回ほど乗ったな。
夜中3時頃だったけど、待合室のそば屋は開いてたっけかなぁ。
夜中でもストーブは点いていて、回りに人が群がっていたのは記憶にある。 >>206
朝6時20分に出て途中長時間停車しながら長野に15時過ぎに着いた思い出がある。
潮沢のスイッチバックにも入った記憶がある。
荷電が付いていたかは忘れたけど車両は115系。
あれから20年以上経つけどまだ115系走っているんだよな。 戦後すぐの混乱期は通勤電車にブラインドがないのは当たり前だったが夜行列車には必ずブラインドがあった 上越線新前橋〜越後湯沢延長の半夜行は一番利用した1995年夏は985M〜9985M
という列車番号だったと覚えている。
上野を出る頃は通勤客と登山客が呉越同舟、「この電車は本日に限り越後湯沢まで
参ります」の車掌の放送にサラリーマンが「寝過ごし出来ないな」とヒソヒソ話している
のが面白かった。
新前橋で大体通勤客は捌けちゃって馬鹿停のあとは快速運転、沼田、土合で登山客の
大量下車があり結構利用されていたと思う。終点の越後湯沢まで行く人は朝一番で
浅貝行きのバスに乗ったりしてたね。
そのちょっと前までは冬季も走っていて石打まで行っていたそうなんだけど、
生憎その頃はスキー熱が再発する前だったから利用出来なくて残念。 >>211
長岡夜行の廃止後多客期に延長運転ありましたね。
あれで越後湯沢までいって翌朝6時ころの一番に
乗り継いだことあります。
待合室にはストーブがあってよかったな。 >>212
冬の越後中里も、待合室の俺一人のためにストーブ焚いてくれたな。
今のJRだったら、無駄な燃料費とかいわれてしまうのだろうなあ。
昔と比べて、夜行動人口は増えているはずなのに、夜行列車は減っている不思議。
夜間の人件費と光熱費の削減のためってのも大きいのだろうね。 昭和20年2月、福岡から北海道の塘路に疎開した。
途中駅から乗ると絶対に座れないので、
座席を確保するため、博多始発の列車を選んだ。
と言っても、選択の余地はなく、
当時、博多を始発とする列車は1本だけ。
前日の夕方から駅に並んで列車を待ち、翌朝、
博多を朝5時前に出る東京行鈍行に乗った。
夜8時頃に底冷えする上郡で降り、駅で夜明かし。
朝6時か7時頃に上郡始発の青森行に乗り、
次の日の夕方、青森着。
決死の連絡船で、函館には深夜に着いた。
函館の街中にある親戚宅へ行く。
親戚と合流して、午後3時頃発の根室行鈍行に乗り、翌朝釧路に着いた。
釧路から網走行に乗って、いよいよ塘路に到着、
ちょっと歩いて疎開先に着いたらすぐに日が暮れた。
釧路に着いたのが朝で、ほど近い塘路の疎開先ですぐに日没。
自分でもよく分からない。すでに記憶が曖昧だ。 >>214
現役の戦前生まれの方でつか?
だとしたら多分最長老だお・・・ 一年くらい前だったか、84才vipperとかいうスレがあったなw 35年前位まえに山陰本線で京都駅から普通列車に寝台車が付いていた列車に
乗った覚えがあります
どなたか、その列車のことわかるひといますか? >>218
夜行鈍行「山陰」だな。俺も何回か乗った。 >>220
おおっ、これは懐かしい。山陰とだいせんは福知山で相互に乗り換えが出来たのですね。これは初めて知った。
この頃は時刻表を眺めているだけで、旅への思いを馳せながら何時間でも過ごす事が出来たなー。 確か西村京太郎の小説ネタにもなったな…>福知山での「山陰」の「だいせん」待ち
福知山でリヤカーに積んだ駅弁売りめがけて走ったなぁ。真夜中にw ここのスレでは「はやたま」くらいしか知らない俺は若造なのであろうか。 ありがとうございます。
青春がよみがえってきます。
>>223
はやたましってるならながさきとか山陰も知ってるだろ? >>225
そのころは「はやたま」じゃなくて南紀じゃね? >>226
南紀 南紀が特急の名前になってはやたまに改称 寝台非連結になって愛称無しに
って流れだよ
>>227
からまつは少し廃止が早いから知らなくてもおかしくない 夏のながさきは寝苦しかったなー
人いなくて必ず横になれたんだけど S47.8の事だったが中央東線の夜行で
新宿23:45南小谷行き「アルプス11号」、23:55発長野行き425レの間に23:50発臨時の
普通電車で上諏訪行き夜行があった。
これが165系4+4の8連で冷房付き。これだけでも乗り得だが乗った車両を今でも記憶
しているがモハ165。当時の電車編成で調べるとモハ165の入った4連は身延線の「富
士川」で甲府停泊中の間合いは間違いないところ。
またダイヤも面白く、甲府では1番線に停車中の「アルプス11号」に追いつく。この
列車は3番線に入線して2〜3分の停車後に「アルプス11号」に対し先発。
そして次の竜王でバカ停があり、「アルプス11号」、後続の臨時の「たてしな?」に
抜かれる。ちょっと推理ネタにでも使えそうなダイヤだった。
ちなみにこの列車は小淵沢の大築堤でC56牽引の「八ヶ岳高原」の撮影には大変便利な
列車だった。この板の中でもこの列車にお世話になった人もいると思う。 >>231
これには出ていないが
高千穂51号ハ座とべっぷの10系寝台なら乗ったことがある。
幼少ゆえあまり記憶が無いのが残念 時刻表かぁ。
10系寝台車内部かと思たw
山陰、はやたまは乗りました。座席ですが。 糸崎駅のうどんスタンドに長距離列車のニオイを感じる。閉鎖されてるけど…
あの駅、基本無人なんだけど未だに管理局境界駅(岡山・広島。現在は支社境界)で運行上の「要衝」なんだな… 凄い大ベテランが居るw
健康で長生きされてください、214さん。 二等車って長距離列車の連結はデフォだったのですか?
三等級制時代の話です。 瀬戸大橋開業一年前のダイヤ改正で、高松→高知に奇跡の客車夜行鈍行が復活したけど、乗った人いる?
50系の夜行鈍行では唯一だと思ったけど。
俺は一回だけ乗ったけど、もっと乗っておけばよかったなあと思う。しかし当時のリア十には東京から四国に行くのは18切符とはいえ遠すぎたよ。 >>243
自分が乗ったときはガラガラで、車端のロングシートに横になって爆睡できたな。
早朝の高知駅は寒かったが、接続する中村行きはグリーン車開放でこれまた天国だった。
あの頃は鈍行の旅そのものを楽しめた最後の時期だったと思う。
18切符の利用人口は当時より増えていると思うけれど、列車自体は単なる安価な移動手段になってしまった。 >>244
おお仲間よ。
俺が乗ったのは9月だったんだけど、結構寒くて眠れなくて、高知に着いたらトンボ帰りで高松行きに乗って寝てしまったよ。気が付いたら大歩危小歩危。
そういえば50系の発電機ベルトが一晩中キュルキュルいってたわ。それもあって寝不足だったのかも。
もう一度、あんな体験してみたいが、もう無理なんだろうなぁ。
今売ってるピクに、長距離夜行普通列車の特集?が・・・ >>242
そうだよ。
特急や急行など優等列車の設定が極めて限定的で
本数が少なかったことが、最大の理由だろうね。
つまり、長距離移動も普通列車が当たり前→2等車が必要。 >>247
並ロが多かったかな。
東海道だとスロ51とか特ロもあったな。 数ある二等車のなかでも
オロ30 スロ33 オロ36 オロ40
が、俺は好きだったな。 >>249
581や583等を彷彿とさせる車輛群ですな
おっと、言葉の使い方が逆かな?
581登場時に 「並ロを彷彿とさせる車輛」 って言うべきだったか PCの普通長距離にはそれこそ普通に付いてたオハネ/オハネフ12。
あまりに普通だったので撮りもしなかったのが悔やまれる。 >>252
その形式名に、12系にも寝台車があるんだと勘違いしていたガキの頃の俺・・・。 82年の時刻表が出てきたので見たら
新宿-長野の普通夜行があった
懐かしかったなぁ >>258
山男列車?の上野-長岡も残ってなかった? 札幌〜大阪間と東京〜鹿児島中央間に長距離普通列車復活!(急行でもいいけど)を妄想してみる。 >>261
その前に石北本線に全線をまともに走る各駅停車の普通列車がほしいな。 長距離列車は乞食の超低価格休憩所になるから治安のために今後も減らされる一方だな 高千穂を姫路の3番線で見た事があったんだけど、
姫路って運転停車だっけ?客扱いしてたっけ? 下りなら、まだ客扱い可能な時間に姫路を通っていたので、客扱いしている筈。
昭和47年(1972)3月に下りに乗車した。確か姫路駅に進入するとき播但線のホームにC57の牽く列車が
煙をあげていたのを見た記憶があります。 上野−長岡夜行は深夜時間帯でもほぼ各駅に停車していて、停車駅の少ない
大垣夜行と違って律儀な列車だとガキの頃思ってた
時刻表に通過のマークがあったのは俺の記憶だと
浦和、井野、上牧、岩原スキー場前、八色
急行ゆけむりが停車する上牧通過だけが謎だった 昭和57年11月14日までは宮内で米原行き客車鈍行522列車に接続して神だった そのルートで来迎寺で降りると、魚沼線乗り潰しに好都合だった >>267
駅員の勤務の関係じゃないか?
山陰地方の朝4時頃の下り列車で浜田〜益田間を全部通過する
客車普通列車も記憶にある。途中当時特急が停車しだした
三保三隅もあった。
この頃定期特急が1本でも停車して定期普通列車(含快速等)が1本でも通過する
という駅に凝っていて
三島,新大阪,神戸,西明石,青堀,佐貫町,保田などと並んで三保三隅があった。
三島は新幹線停車で上り大垣夜行が通過
新大阪,神戸,西明石は新幹線停車で新快速通過
青堀,佐貫町,保田は一部「さざなみ」停車で快速通過
三保三隅は夜行でもなく快速でもない普通列車が通過していたので印象が深い。
1980年頃のお話でした。 今となっては三保三隅も普通はおろか快速も停車する。 鎌手ー岡見ー三保三隅ー折居ー周布ー西浜田ー浜田
いまでも空んじて言える駅名(なぜか東海道〜山陽〜山陰と駅名を暗誦したんだっけ) >>258
青春18切符が出た頃ですなあ。
釧路から長崎まで夜行乗り継ぎの旅をしたのが懐かしい思い出 >>275
「からまつ」はすでになかったな
札幌から48レに乗るのか?
でも青函を夜行にしないとその先の効率が悪いな 当時は青春18のびのびきっぷだったな
どこで略したらいいか困ったもんだ なんでも4文字にしないと気がすまない4つな人ですか 券売機で売ってないから
フルネーミング言って購入って恥ずかしいよ >>279
当時は「のびのびきっぷ」って言ってたが。
窓口でも「のびのびきっぷください」で通じてたし。
逆に「青春18」って部分が気恥ずかしかった。 >>8
画面に映ってる髪がフサフサのグラサンの男は誰ですか? 62年頃まで大垣夜行の車内で「青春のびのびきっぷではグリーン車のご利用はできません」とアナウンスする車掌がいた。 青春18のびのび切符の末ページのワッペンを
胸に張るのがかっこ悪いと思った。 >>270
>この頃定期特急が1本でも停車して定期普通列車(含快速等)が1本でも通過する
>という駅に凝っていて
>1980年頃のお話でした。
季節列車(臨時列車ではない)を入れると湯河原も加わったんだよね
特急のあまぎの最終便が湯河原停車
大垣夜行上下と下りの大垣夜行の前の普通列車熱海行きが、小田原〜熱海ノンストップで湯河原通過
「ながさき」のこげ茶色の夜行鈍行にまた乗りたい
北海道ならワイドでの夜行「すずらん」より函館−札幌山回り鈍行
冷房ないから夏は地獄だったなー 混んでるとき風上側はまるで風来なくて全開にするのに
風下の奴が寒いって閉める
よく喧嘩が見られたもんだ ガキの頃に親に連れられて
長岡行き乗ったなあ〜
暗くなった車窓の街灯の流れ方が
つい最近乗ったあけぼのと同じだったなぁ
(´・ω・`) >>285
スレ違いだけど、ある年の夏に乗ったミッドナイト自由席、キハ57の非冷房車はマジで地獄だった。
まさに車内は蒸し風呂状態、あんなでも窓は開けなかったんだから、みんな余程我慢強かったんだな。
これが指定席と自由席の差とみんな思っていたのかも。 おい、キハ56だろ
夏の夜の「ミッドナイト」56自由席は
押し込み式通風器全開、扇風機フル回転、
窓は二重窓の内窓を当然上げっぱなしにして、外窓の下一段を細く開けてる客が多かった。
いつ降り出すかわからないし、騒音も激しいからな。
夏だけど、明け方は寒かったよ。
それに懲りて、以後はカーペットカーの指定席確保に努めた。
どっちにせよ、森や長万部での深夜の長時間停車に独特の風情があったな。
全車指定席シーズンには全区間ノンストップ扱い(末期は新札幌のみ停車)だったが
自由席車連結時には森、八雲、長万部、東室蘭、苫小牧、新札幌、と客扱いだったかな。
特に長く止まる森と長万部では、寝付かれない連中が三々五々とホームから改札抜けて、
コンビニもない真っ暗な駅頭で自販機の缶ジュース飲んで、
DMHエンジンのアイドリングのみをBGMに、ぼそぼそと雑談していたものだった。 >>290
深夜にもかかわらず森と長万部は窓口が空いてたな。硬券入場券を買った覚えがある。 北海道といえば41列車だな初めて北海道に渡って最初に乗ったから、印象に残ってる。夏でもSGが効いていたのが、びっくりしたな。 >>292
「摩周丸」から乗り換えた列車だったんだよね? 20年ほど前に秋田発福島行に乗車しました。確か50系の客車でしたよ。 >>290
コンビニもない真っ暗な駅頭で自販機の缶ジュース飲んで
これぐらいしかすることがなかった時代もまた楽しかったね。
たしか夜中の長時間停車で「駅前コンビニ殺到」が話題になったのは中央本線の電車鈍行あたりだったかなあ。
(「旅と鉄道」かなんかのルポでそんなのやっていたような・・・7ー11も名前のとおり23:00頃までしか
やっていなくて24時間営業がぼつぼつでだした頃かな)
夜行「ながさき」に使用していた旧客車両、廃止になって運行が終了になったすぐ直後(もしかして翌日?)、
寝台車両を除いて直ちに早岐から高知運転所へと回送。
土讃線で余生を送っていた旧客のシートの横には夜行「ながさき」時代に乗客によって書かれた落書きがそのまま残っていた…
尚、この昭和59年2月ダイヤ改正による「ながさき」廃止→四国への回送を以って、九州地区の全線区から旧客は一掃。
>>297
いつ頃まで残存?
…やっぱり、淋しいぞ!!
http://www.saboten.sakura.ne.jp/~asakaze/nagasakijyosyou.htm >>300
少なくとも昭和60年3月まではあったんじゃないか?
>>300
http://jnr1980.at.infoseek.co.jp/contents3-4-1.html
少なくとも
>この昭和59年2月ダイヤ改正による「ながさき」廃止→四国への回送を以って、九州地区の全線区から旧客は一掃。
これは違うみたいだな >>300
石川優子のふたりの愛ランドが流行っていまる時に旧客で水俣まで行きました 鉄道ジャーナル列車追跡リバイバル「懐かしの国鉄客車列車」を見ると
昭和59年5月7〜9日の九州編で
鹿児島本線125レ 鳥栖→西鹿児島
日豊本線522レ 大分→門司港
が旧型客車の運行になってるから、昭和60年3月まで残存していたのではないかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています