まさに神話の世界だった、別府鉄道を語ろう
大阪や神戸から程近い場所とは思えないような
ローカルムードに溢れていた
別府鉄道について、思い出などを語ろう!! >>89
> 風情を重視 に一票。
むろん私ゴトキに真相がわかりうるはずもありませんが。
しかしソー鉄が代車を提案してたとは…
島原に旧鉄博の1号機にA8を交換トレードってのは有名ですが
(あの時代によくその重要性に着目したものです)。
2両も客車集める気があったなら、昭和50年代なら神中や旧相模のキハは
なりは電車にやつれていても、かなりの車種を残せたのではと妄想。 >>91
日車は江若キニ4・9が素敵すぎ。岡山で見たキニ13はもう廃車
になってた(キハ12?乗ったけどあれは…)けど、あのキハ04
よりもキハ07よりも堂々とした姿は忘れがたい。窓配置と窓寸
法のせいもあるんだろうけど、凄く長身に見えるのね。
加藤は下津井でカハ50のなれの果てのモハ110見ただけなので
何とも。ただ、日車のクハ5と比べて悪い印象は皆無。
川車は戦前最終期の西大寺キハ7(保存車)しか知らないが、
意外と小さくて驚いた覚えがある。3フィートだからてっきり
下津井クハ5・6より大きいと思っていたんだけどね。
梅鉢は井笠ホジ7を陸橋下で見ただけだが、見た目は一見ごつ
そうだけど間近に見た感じでは意外と柔な印象があった。
汽車・松井・丸山・雨宮は何分現物見てないので何とも言い
難い。
…しかし、岡山県南部をぐるっと回るだけで4メーカーの代
表的な車種をまとめて見ることができたんだよなぁ、岡山臨
港の廃止の頃までは。
別府と加悦も含めたら、日車は重要なサブタイプが単端式除
いてほぼ網羅できてたし。 >>89
SLブームを見て、うちも最近まで使ってたSLをスクラップにせず置いておけばよかった…って中の人がぼやいてたのを、なんかの本で読んだんだけどな。TMSか鉄ピクかはたまた…
おそらく昭和40年代後半か50年代前半頃の話だよな。 とにかく、別府鉄道って 車両構成とかも含めて模型的で最高だったなぁ。
戦前〜戦後に、かけて育った先輩ファン達は、嫌がるかも知れませんが、
客車や気動車に、塗られたツートンカラーも可愛くてとても似合っていたと思う。
消防の頃、金欠でNゲージの大型編成もの列車が、買えず
消去法で模型化で感心持ち始めたのだが、いつの間にか此の手の鉄道に
ハマってしまった。
ハフ5・7・・・自作でプラバン・ボール紙での窓開けは、苦労した。下回りは、
トミー2軸貨車とピイコ製2軸車下回り。ハフ7のデッキは苦労した。
結局針金で造った・・・取扱い要注意。
キハ101・・・妻窓が作れず、半ば諦めていたところGMのキハ04が出て、
奮発して買った。・・・何で1両は、キニなんだよっ 糞使えねぇなぁ。
ギョロ目ライトは、東急3000のランナーを、大山で買い更新車より暢達した
DD1351・・・裕福な友人が、カトー製後期購入時口説いて安く譲ってもらった。
グリルをプラ板で、潰たりしてそれらしく見立てた。
蒸機・・・当然 トミーの汽車会社タイプを吊るしで(要は、そのまま)・・・。
キハ1・2初代・・・チビ電の下回りだけ買い、プラペーパーで造った 何回も出来に満足出来ず
造り直した。
キハ2・3・・・側面は大山で旧国のランナーを漁り側板を駆使しつくった。キハ3
の妻板はプラ板で造った。荷台は、ストラクチャーの柵を改造した。
下回りは、キハ3はトミックスボギー貨車利用でダミー
実車も後年は稼動してなかったらしいから善いのだ。
キハ2はキハ04シヤーシー切り詰めが災いし接触悪く不調になった。
出来の悪さで、飽きてしまい 何時の間にか処分されてしまったが、昨今の模型製品環境
はNでも凄い充実しているようで愕然、 羨ましい残しておけば良かった。
また、造ろうかな・・・・しかし車体自作の窓開けは、目にしんどいしなぁ・・・ しっこいが補足
DB201・・・シナノマイクロのDE10?タイプのショートを買い車体を、それらしく
自作ウエイトを、外したりて重心や集電が悪くなり不動車に
小型DL・・・トミー製CタイプDLを、改造失敗に懲りてそのまま使用。
不満はあったが、改造失敗リスク、小型DLが無いと始まらないので
・・・
キハ20・・・土山駅のジオラマ(勿論不出来!!)を造った時、奮発購入。しかし 狭いレイアウト
エンドレスでは満足に走れず・・・友人曰く「お前 買い物間違っている!」
以上 >>95-96 イタチでもおもろかった。
先日撮影地で友人と、江若(リアルでは知らない)のDD13
(国鉄よりちょっと先に出たという似て非なるヤツ)は
どこへ行ったんだっけ、という雑談になったが、
おかげで思い出した。どうも。
うろ覚えはいかんよなぁ。 >>95
つ ttp://homepage1.nifty.com/kitchen/zaiko43.htm 土山線に何回か乗ったけど、いつもハフ7だった。
ハフ5は最終運転間近の客車2両連結で運転したときにやっと乗れた。 >>98 ありがとうございます。
でも 俺のスキルの無さか打ち込んで検索しても当たらない。
張り付けるか?重複しにくいキーワード教えて頂けません?
「別府鉄道 模型」 で検索しても意外と凄い 驚! ものでして・・・。 連続ですまんが、誰も書込まないから書きます。
キハ101 は、外観上前照灯が腰下2灯(いわいるギョロ目)の他に
車体裾がステップと同じ低さまで伸ばされていますが、コレは
片上時代からの改造ですか? また理由は、騒音対策とか?
教えて下さい。 腰下2灯は来た時から(つまり片上時代から)
裾伸ばしは後の改造、何でかは知らないけど
このページに改造前の姿がある
http://www2.neweb.ne.jp/wc/m-hirai/befu0.htm いつでもある、いつでもいけると思って写真をあまり撮らなかったのが残念。 別府はどうだかわからないけど、国鉄から受託していた構内の入換作業の
無くなり、委託費が貰えなくなったのが響いた会社が多かったような。 入れ替え委託業務で、ふと思い出したけど。
江若廃業時に来た、当線きってのピーカー?DD1351って廃業時に一足先に居なくなっていた
みたいだけど、廃車・処分は何時ですか?
同じく、江若から廃業以前に江若が、熊延からDC251購入の玉突きで来たDC301
の廃車・処分は?
DD1351は鉄ピクの年鑑に岡山臨港へ行ったと書いてあったが
事実のほどは知らん(行ってたとしても部品取り用?その岡臨も同年廃止)
DC301は廃止よりずっと前に廃車解体(確か昭和53年ごろ) >>107 譲渡の年に廃業。実際 車両の移送はあったのですかね?
(移送していたなら、最後に兄弟再会か?)興味深い。
いずれにしても、岡臨は廃業間近にDD1352が壊れて、持て余しの同機を、
お友達価格?で譲ってもらったのかな?
俺の知る限り、別府にDD1351は、オーバースペックな気がするのだが・・・・
土山線に乗った時、中野で一旦バック…。何事かと思ったら、
新造のタキを引き取りに側線に入ったのでした。中野から別府港
までは、2軸客車+タキのボギー台車の「タン タン タタ…」を
堪能できました。古き良き時代の思い出です。 ガタガタギシギシ
という音しか覚えてない。
>>108
岡臨のDD1352は廃止後部品取り用として水島に行ってるから、
あれが故障した、というのはちょっと考えがたいし、そもそ
別府のは汽車製造による試作車で普通のDD13とは駆動系のメ
カが全然違う(エンジンと変速機は国鉄向けの初期車と共通
だけど)ので補修用部品取りには使いづらい筈。
それから、別府のDD1351は廃止の日に土山線でさよなら列車
を牽いてるので廃止前の処分というのはあり得ない。
ピクの記述は恐らく岡山臨港の105→DD1351(DD1352購入後
に改番)との混同の可能性が大。あの頃のピクって結構執筆
者にその辺に疎い人がいて誤記がそれなりにあったから、鵜
呑みにするのは結構危険。
ちなみに、別府が江若廃止時にDD1351を購入したのは、当時
国鉄に旧弾丸列車計画で取得していた加古川バイパス(実は
これが戦前の弾丸列車路線用地)沿いの手持ち用地を転用し
て東加古川操車場を建設するという計画(実は野口線を別府
が最後まで維持したのもこれと関係があって、野口から路線
延長して直接東加古川操車場に乗り入れるようにして、土山
線の廃止を計画していたためだったりもする)があって、そ
こで貨車入れ替えの受託をもくろんでいたからだ、という話
がある。 >>111 揚げ足取ったりせず、親切に教えて頂き有り難うございます。
川崎車輌のへの、引き込み線活用って車両部品納入以外だと、
新造貨車の発送のみ だつたのですか?他に電車・気動車とか
は別府鉄道の路線に足跡を残していないのですか? >>112
別府鉄道沿線にあった川車播州・加古川両工場は前者が建
設・運搬機械専門、後者が貨車量産専門で設立されたもの
で、いずれにせよ電車・気動車などの生産実績は皆無の筈。
電車・気動車の場合は艤装する部品納入の問題もあるから
兵庫工場以外で作るメリットはほとんど無い。 あとタキ5450や18600とかの高圧ガスタンク車の容器再検査も担当していた>川重加古川
別鉄廃止後は神戸港駅で上下分割して、台枠以下を残して
タンク体のみを陸送していた。 最後の通常営業用現役2軸客車って
別府
銚子
上武
でいいのかな? >>115
黒部峡谷もあるけどあれは営業用としては微妙な感じだからなぁ。
ただ、上武よりは尾小屋のハフ1(廃線まで残存)の方が後まで
残ってた筈。
>>117
そういや蒲原は70年代後半まで元阿南のガソリンカー
(確かダイレクトコントローラーの信号線を電動車か
ら直接引き出すという恐ろしい仕様の制御車だった時
代があったはず)とか2軸車が何両か残ってたっけ。
でも、庄内交通と熊本電鉄って1970年代に入ってから
も2軸客車残してた? >>118 ごめん熊本の食パンみたいな木造T車は、ボギーだった。しかも電動車だった。
静鉄のギョロ目クモハ100形?が入ってお役御免。
庄内は京王車の第2陣投入で、昭和41年廃車
もう一つ北丹鉄道に、日の丸から来たハ12がいた。こいつは取り敢えず、殆ど
使われなかったと思うが、昭和46年休止 昭和49年廃止迄いた。 >>119
もしかしたら、と思ったが熊電のはやっぱりあれか。
私が訪れた頃にはもう台車だけになって北熊本の側線に
転がされてたなあ。
北丹のは…そうか、一畑広瀬線上がりの奴か。
で、何か忘れてる気がして必死で脳内検索して、
ようやく一社抜けを発見。
大分交通耶馬溪線ハフ14-16・24-27あたりが1次
路線廃止(1971/10/01)まで在籍してたはず。
ここらは予備でも末期までそれなりに使われてた
はず。 山交高畠、羽後雄勝、北恵那もそのあたりまで残っていなかったっけ? >>121
北恵那の客車はク80の導入で1960年代半ばまでに全車廃車の筈。
羽後交通雄勝線はそうだね、明治村行った分が71年の内燃化ま
で一応在籍してたか。
で、山交高畠は……あの会社、2軸客車あったっけ? >>122 私鉄車両めぐり視たところ、単車との記述は無いけど ハフ1・2は、
不鮮明な写真から判断するに車端に板バネが左右一つずつ見えるから
単車だと思う。しかし何処まで残っていたか? >>123
そいつは確か1960年代前半くらいまでしか残ってなかった筈。
近江の日鉄自車とかが入って代替されてるから。 北恵那の2軸で横荘の貨車改造した奴は、すげ−ヨな。
コレだったら俺でも買えそうだ もう少し遅く迄残れば、誰か買っていたと思う。
時のズレは残酷だ。
そもそも、改造費に対し対費用効果が低くそうな不経済というか、ある意味贅沢
な改造だ。
コレに勝てるサブロク軌間客車は、島原鉄道の簡易小型客車位か・・・ >>124
そして、なぜか西武鉄道が引き取り1両は保谷に保存 のち解体。
もう1両は大井川鉄道に飛ばされ、新金谷の構外側線で長期の鳥葬の上、涯てた。 >>125
片上にもありましたな。ほとんどブリキの箱同然のが。 >>126西武って他にも不可解な、購入?下取りって事例って多いよね。
山形交通の一件は、廃止時一括売却とか なのかな?明治村みたいな
所に売ったり、自社でレジャー施設で使う目論見していたのかな?
上田経由で入った東急T車3350とか、一畑に一度嫁いで戻った クモニ1
とか不可解? 昭和20〜30年代の車両譲渡って
陸路輸送じゃないよね
国鉄線経由で移動したんだよね? >>129 非弱な(整備もそれなり・・・)地方私鉄の車が遠距離移動に
メタル等が、耐えるか?心配しているの?
小型・軽便のモノについては、積載貨車に載せているのでは?
耶馬渓←北海道 だっけ?の移動とかは、最寄り港まで線路 後は船便
じゃなかったけ。
標軌・馬鉄軌は仮トラで最寄り迄、
離れ小島※・地下鉄は、最寄り迄後は、台車(タイヤね)陸送では?
※上毛は東武 赤城延伸乗入れ迄 離れ小島だったが、開業搬入前
足尾線との間に仮線敷設したらしい。撤去した訳は、地元自治体借り入れ
の土地だから・・・
ダルマ状態でシキ車とかに載せて運ぶのを
「乙種鉄道車両輸送」といいましたっけか。
スレ汚し失礼。つぎ、いってみよう〜 山鹿温泉が、大阪市から買ったガソリンバスは、はるばる大阪から改造先
国鉄西鹿児島工場・自社工場まで自走かな?
やはり貨車積載かな?
いずれにしても、ガソリンバスを捜してくる情報力とセンターにジャッキ付ける
為、プロペラシャフトが車体中央干渉しない事理解している等この会社 カネは
無いけど、技術・発想力のある優秀な技工さんが居たんだな! 偉。 高砂に(新幹線見に)行った時、別鉄タクシー目撃した。
屋根の行灯にあのマークは健在だった。 >>132
いまならともかく、あの時代の道路じゃ自走ってのは
ちょっとあり得ない。
岡山あたりの国道2号ですら、砂利道だった時代だよ?
妥当な線で平貨車かシキに積載して輸送、あるいは
大阪港から船便だったんじゃなかろうか。 >>135
終戦直後に活躍したトレーラーバスは自走したらしいぞ
国道2号線にかかる木橋に重量制限があって、
普通のバスでは渡れないが、トレーラーバスでは
軸間距離が長くてうまく渡れたとか、
警官に見られて、こんなでかい車両をこんな狭い道路に
走らせるなんて本官が許さんとか言われたらしいよ >>136 132 です。>>135の指摘する通り、やはり陸送は無理だと思います。
理由 1タイヤが痛む
2そもそも、センターに方転用ジャッキを設ける為、プロペラシャフトが
車体フロアセンターに無い、不経済なガソリンバスをディーゼルカー導入後に
あえて、大阪から暢達しているわけで、燃料費・車両の痛み・出先の
トラブル等のリスクを鑑みたらやはり、鉄道貨車積載が経済的だったと思います。
私の無知におつき合い頂き申し訳ありません。
バスが橋の許容重量に、不相応なケースは結構あったみたいです。
昭和30年代新規路線開業ブームの頃は、結構新規路線拡張で各社
狭い道等 かなり無理して開業したみたいです。以前 車歴史の本で
非弱な橋が落下し谷底に落ちた大型ボンネットバスの写真記事を観た事
があります。
追伸 別府鉄道のお話を激しく逸脱させてゴメンなさい。 >>139 万一の時、自重も軽くブレーキもプアそうな ハフ7 のサイドブレーキ
で本当に大丈夫だったのかな? 当然数メートル引きずられるだろうが、
脱シューとかして壊れちゃいそう・・・。 「別府鉄道」の記事を鉄道書籍で読んで・・・
どこにあるのだろう?と九州方面を探したオレがいる。
>>142 此所って一時西鉄の関連会社だったでしょ。
だから 連接車は、北九州線や福岡市内線の似てた奴が入ったのかな?
私事ながら、大分交通は正直、非電化路線しか関心無い。 >>143
別大電車を悪く言うな!
カワイイ奴だったんだぞぉ・・・ はじめて別府鉄道に乗ったとき、
ハフ7の混合列車の印象が強すぎて、どんな機関車だったか記憶にない。 関係ないけど、北沢産業って地方鉄道の免許うけてたんだね。 東加古川の操車場計画が実現していても、この鉄道の廃止は免れないものだったろうか。 >>151
操車場の入換を引き受けて延命する作戦じゃなかったっけ? 明石駅を通るたびに、駅南側にある多木化学のネオンを見てしまうなあ・・・。 高砂線とセットで乗りに行ったのを思い出すなあ。
廃線後に仕事の関係で近所に行った時、明姫幹線に別府鉄道との立体交差用の
高架橋があって何とも言えない気持ちになった覚えもあるし。 別府鉄道って、
終列車がとてつもなく早かったような・・・。 >>156
そういえば、最終日に野口で最終列車を見送っても余裕で高砂線で加古川に出て神戸に帰れたような気がする。 廃線跡沿いに保存してあるバスケットカーの隣に、
廃線当時の駅時刻表が掲示してあったような・・・。 >>158
ttp://ku-gyou.net/Resources/2008/1105/P1090548.JPG 片上鉄道みたいに、数百メートルくらい線路が残っていて、
そこを2軸客車や爆ケットカーが保存運転していたら楽しかっただろうな・・・。 本体 多木肥料で、これだけ珍しい存在になる迄、温存して来たのに、
何一つ保存しなかつたのは、不思議だ。
規模、内容はともかく、地方の、一中小企業が鉄道を所有運営してきたという、事実は後々、
史実に残る名誉だと思うんだけどな・・・。 >>161
んなこたーねー。
その時点で要らないものは要らない。
無駄なものは無駄。それだけだよ。 近代化しそびれた鉄道を所有していたことを、恥とか黒歴史とか
認識してるわけはないよね…DVD?にも収録したくらいなら… >>161
確か多木の本社社屋は木造だったなw
仕事で本社の前を通った事あったが目を疑ったw
>>164
それはないと思います・・・。
鉄道会社としての別府鉄道はなくなっても
社名自体はバス・タクシー会社として存続してしてますよね
黒歴史扱いするならとっくに社名変更してるでしょう
上で例のDVDを見たと書いた者ですが
社内で発見された多木化学の社内風景を記録したフィルムに
別鉄の映像も入っていただけなので
今そのフィルムがどうなっているかもわからないです
すみません
>>165 どうも。
鉄道関連の現物が遺されなくても記録で残されていると信じます。 初めて乗った時(25年くらい前)、大阪近くに、こんな鉄道が残っているのが
驚異だった。単軸1両の客車を保線車両のようなDLが牽引していた。車掌さんは
その当時でも時代錯誤的なかばんを持って検札していた。
夢のようなひと時だった。 保存鉄道にするには立地条件が町すぎたのが惜しいです。
荒野じゃなく、町でもなくその境目。
今となっては片上の303で楽しむしかないね。
加悦にも確か動態のバケットカーはいたろ?
別府を味わうのは代車で代用。
別府鉄道廃止後、代替路線?の神姫バス東加古川〜宮西宮線は
日中でも走るようになったが後年朝夕だけの運行に戻っていたね。
別府はマンションや住宅増えているのだが、マイカー普及の所為か。 別府と片上のキハの色って同じですか?
単に別府が譲渡の際、気に入り そのまま使い 独自解釈?(微妙なブレンドとかね、)
で塗り直し、他車波及?
憶測だが、蒲原の(旧西武色 黄/焦げ茶) 紀州の(大分交通色)この類? 同等かは分らんけど、片鉄から101が入った直後、キハ2と3がショッキングピンク+クリームになったっけ。
本家の片鉄自体、末期には小坂と同じ色になっちゃったけど。 江若から来た DD1351は、何気に凄い多彩な経験・生涯だな。
江若では、お召しで国鉄借入れのマイテ49牽引
そして当地では、 御存知 ハフ7・・・まあ どちらも、展望車だが・・・
分け隔てなく、風俗嬢の股間の如く偉大な名器だ!!! 別府鉄道の廃線跡遊歩道「松風こみち」の整備費用って、ものすごい金額だったらしいね。
その金額があれば、鉄道を存続出来たのに…と皮肉られたとか。 まあ確かに遊歩道の整備費用で一時的には設備更新ができたかもしれんが
その後の運営・維持にはさらに費用がかかるわけで。
「かこバス」が運行開始されたってことは元々輸送需要はあったのだろうけど
その「かこバス」で何とかなってるっていうことはその程度の輸送需要しかなかったとも言える。
多木化学だけではなく神戸製鋼の専用線へと脱皮できてたら今も存続できてたかも?
といっても高砂線からの分岐線も未成線に終わったのだが。 >>175
でも肝心の国鉄‐JRが貨物取り扱いをしなきゃ終わりだからな。やはり生
きのこれなかったんでないかな。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
野口駅跡に寄りました
あそこに高砂線と別府鉄道の気動車が並んでたんだね >>170
宮西宮前に行く路線は十年程前に廃止されました……。 >>178
日本一さびしいターミナル駅と呼ばれた、あの駅? タイムマシーンで、別府鉄道現役時代を見てみたいな。 別府口のホームは裏の住宅の庭と化していたな。
そこの飼い犬がずっと寝そべっていたし。 >>175
かこバスは別府鉄道の代替ではなく、山電沿線や尾上地区での交通不便地域の救済。
別府と加古川市街地との連絡も意図されてはいるけど、それが主目的ではないし。
別府鉄道、いくら経費云々がどうにかなったとしても、社会的意義としては希薄な路線。
元が貨物用途だから、市街地や集落を無視して建設されてる → 旅客用途には不向き。
都市開発においても、農地や工場立地を考えると別府鉄道を基軸とした都市計画も無理。
多木化学の専用線としての機能が無くなった時点で、存在意義は完全に失われたんだよ。
野口線は社会貢献の一環として維持してたけど、それとて土山線の維持管理の延長線。
冷徹に考えると、無くなって然るべき路線だった。趣味的には残念だけどね。 しかしJRになってからの新快速の大躍進を考えると、高砂線ともども残しておけば…
って思わないこともないのよな。
朝ラッシュは新快速が15連で5分ヘッド、うち3分の1は加古川始発なんてことになってたりしてな。
そして別府鉄でなく山電があぼ(略
高砂線は加古川鉄橋の老朽化が最大のネックだったのかな。 >>184
高砂線については、加古川橋梁の老朽化が直接的原因だけど、
地元側が「高砂工場もあるし、廃止できないってw」と楽観してたら
まさかの「工場ごと廃止」でビックリ仰天!
つうことで、三セクにするにも準備不足で間に合わなかった、
という一面もあったように聞いたね@当時 今夜のNHK関西特集で別府鉄道の映像も放映されてましたね!
ご覧になった方はいらっしゃいますか?? ↑22日深夜(暦の上では23日)1時からBSで再放送します 鉄コレ10弾の片上を、キハ101に仕立てようとする俺が来ますた おまいは俺か。
末期には裾が一直線になってたけど、気にしなければレタリング変更で済むもんな。 >>190 そもそもキハ101の あの改造の理由は?
余程の事がなきゃ、改造しないと思うのだが・・・
騒音対策?・・・片上より住宅街を走るから・・・
老朽化しつつある、(電車と違いガソリンカーの軽量車体ゆえ)車体に対する 焼け石に水的 補強?
誰か、理由知りません?