まさに神話の世界だった、別府鉄道を語ろう
大阪や神戸から程近い場所とは思えないような
ローカルムードに溢れていた
別府鉄道について、思い出などを語ろう!! 廃止当時、三岐が保存車輌の収集に積極的だったらキハ2も里帰りしたのだろうか。 別府鉄道に最後に乗ったときの切符が出てきた
「別府港から土山ゆき」(額面30円)
別府港駅普通入場券(額面100円)
いずれも運賃変更印付き
運賃はいったいいくらだったのか??記憶はない・・・ キハ2は円覚寺の近くに保存されてたなぁ。
雨どいが無くなっていてイメージ変わっていたけど、まだ無事かなぁ。
円覚寺の駅は抜群に雰囲気が良くて、ホーム手前に子供が線路を横断
する看板があったな。あれってどういう意味だ?子供はここを渡れって
意味か?それとも運転手に対する警告か?それとも別の意味か?
>>51
駅の名前でいうなら円長寺だな。
本当に円覚寺という寺があるんならアレだけど。 >>52
ごもっとも円長寺だった。
で、その看板は?どうなの? 加古川市が野口線復活&野口〜駅間のLRT敷設を野望してるのは本当かねぇ。
まあ、確かに軌道敷は一般道へ転用せず保全されてるし、市役所〜駅間の道路は
結構広幅員で中央分離帯の処理も怪しいところがあったりするけど・・・ 復活は妄想だろうけど、野口線ルートのバスはマジで欲しい。
かこバスは、ちょっと大回り過ぎて遅いし・・・ 線路の継ぎ目のたびに脳天まで突き抜ける振動、側板がたわんで窓ガラスがビリビリ音をたて、車体が分解するかと思いました…。
二軸客車のあの最悪の乗り心地は最高でした!
まさに夢のような世界でしたね。 俺が訪問した時は葬式鉄であふれていてデッキは鉄で一杯だった。
それでも最悪な乗り心地は堪能できた。
それでも南部縦貫のキハ101には敵わなかったような。 鉄の友だち(複数)の土産に、別府の切符を買っていったんだが、
数日後、それが教室に落ちていたときはショックだった。
当時は、大手派ばかりで地方派は俺だけ・・・・・・ それはナカーマに恵まれませんでしたね…
だからって、大手私鉄の券売機券なら集めてたかどうかは疑わしげだけど。
いつのものかわからないが別府の「野口・土山両線車内乗車券」が
でてきた。頂き物だと思う。180円なり。 垂れ流し便所以外で車内の床下の線路風景が楽しめるのは別府の2軸客車だけだったな。
あそこの機関区の表札盗まれたんだよな。あの頃も盗り鉄は多かったけど、表札の盗難は珍しかった。 これまたもらいモンだと思うのだけど、58.12.14
別 府 港 から
中 野 ゆき
発売当日有効 130円
下車前途無効
(別府鉄道)別府港駅発行 別府鉄道の走行音を公開してるサイトがあるんやね。
発車時の短いタイフォンの鳴らし方が懐かしい。
初めて言ったときに乗ったのは、キハ2だった。
車掌さんが手でドアを閉めて鍵(引っ掛けるタイプ)を掛けてから出発したのをみて驚いた。
3回行ったけど、キハ101の走行は見ることが出来なかった。 現役の頃は、そこに在るのが当たり前だと思ってたから乗らずにいたら、消えてしまった。
そういう意味で後悔しきりなのは、俺にとって別府だけじゃなく、加悦、下津井、尾小屋、片上、鹿児島交通・・
あの頃は、まだ国鉄が面白く、折しも2万キロ全線完乗がブームの頃で、俺にとって私鉄は後回しだった。
あん時、乗ってりゃよかった、ていう路線は誰でもあるよね。 鉄ヲタ肥料屋が来ました
問屋主催のメーカー説明会に多木化学の人が来てて
製品説明の後に社内で見付かった昔のフィルムをDVD化した物を見せてもらったんだが
その中に別府鉄道の入れ替え風景や走行風景も入っていて良かった >>65
そのDVD商品化したら売れるかもょ?
と入れ知恵して、売れなかったらイヤだけど… 初代キハ1−2(旧レカ1−2)の単車は面白かった。ガタンガタンで窓ガラス
ビリビリ、1が日本車輌、2が加藤(コピー車)で2の方が前面が「角張って」
いた。2は予備車的存在だったが、1が土山線の蒸機と衝突して直す間定期運用
だった。最初に写しに言った時に2にまだ代燃釜がついていた。奈良鉄道の
古の単車も置いてあったが、なぜか叩き大工の3が土山線に主に使われた。
>>54
加古川市のLRT問題だけれど,あながち理由が無い訳ではなく、播州鉄道
の予定線図に山陽本線加古川駅の南側から「北在家」=(野口)までの予定線
が書かれてる。(注:高砂線開業後の「北在家」は戦後の「鶴林寺」の位置)
って、これは別府鉄道じゃなかった。勘違いだスマソ。
多木化学なら、実は昨日社長と某所でいっしょに酒飲んだ。
DVDのことはまた聞いておくわ。 >>70
今度飲む機会があったら、別府港に佇む木造3階建ての黒い洋館を見せてくれとおながいしてw >>54氏他加古川のLRT関係の方々へ
68ですが予定線図は「神野村保有文書」に出ていますから参考にされて
下さい。(今後LRT実現運動とかする時に)
播州鉄道の加古川が「じげ」=寺家町の事?と表示されていたり面白い
です。
(元短期間神野村村民) 国鉄が土山駅の貨物取扱をやめなければ、今でも走ってた。
と思いたい。
別府は小学生の時に野口線に一回乗ったきりなんだよなぁ。
確か三岐上がりのキハ2で、運転士さんがシフトレバーとクラッチ
操作で変速やるのを見て愕然とした記憶が。俺はあれと岡山臨港で
乗った江若キニ9の残党の2回しか機械式気動車の乗車経験ないんだ
けど、岡山の場合は結構込んでて運転台の後ろで見ることができな
かったので、かぶりつきで運転台直後から見た別府の分の方が強烈
な印象が残ってる。
ちなみに、車内で写真を撮ろうとしたら車掌に規則で禁止されてる
と言われて撮れなかったんだけど、あんな時代離れした鉄道だった
から、やっぱり恥ずかしかったのかねぇ、あれは。
あと、車両がアレな割に線路の状態が良くて、それどころか鉄橋を
架け替えたか何かでその前後のバラストが真新しかったのも印象的
だった。 >>74
俺は普通に写真撮ったが何も言われなかった。 おれはキハ2に乗ったときは感動のあまり、写真を撮るという意識は吹っ飛んだ。
というか考えが及ばなかったというか・・・。
>>74
そんなアホのレチ居たかなあ?土山線でも野口線でも言われた記憶がない。 野上じゃないけどその時期になんか些細なトラブルがあったんじゃね? >>66>>70
遅レススマソ。
書くのを忘れてましたが見せてもらったのは、
今から7年位前です。
フィルムは30分位でその大部分は多木化学の製品の製造風景とかでした。
別府鉄道については5分位だったような記憶が・・・orz
初めて別府へ行った時は、加古川線野口からでした。野口にはテッキリ蒸機+
混合列車が待っていると思っていたのに、バケット付きのDCがいたので若干
がっかりしたものです。
別府港では雨宮の1号機が入れ替え中、車庫には雨宮の2、日立の5などが待
機中。土山への帰りの混合は日立の5の牽引だったように覚えています。
1960年の冬だったと思います。 野口線は旧播丹鉄道と連絡して居た頃は海水浴や潮干狩り列車が加古川
から直通して居たが、昭和18年に鉄道省に買収されてから殆ど無くなった
筈。終戦直後に土山にキハ1か2が居たのを見ているが、その後はSL列車
(混合)が土山線、ガソやDCが野口線の主流だった。 ガソリンカーの排気が、どんな匂いだったのか嗅いでみたいです。 廃業前にも、ハフ7を買い戻す為、相模鉄道が、
蒲原鉄道の ハ2(雨宮製ガソリンカー 阿南鉄道キハ101を前身とする)
を、代替調達する話しがあったけど、何故お流れになったのですか?
・・・まぁ 機械式気動車好きの俺だが、例外に
雨宮は妻面の雨樋のRが嫌なので、好みではないから善かったのだけど・・・ >>86
なんか嫌じゃん。せっかくカコイイ客車だったのに、ガソリンカー流れに変わるのは。
ってとこじゃね? 雨宮は面白い独特の気動車を作っていた、播丹鉄道のレカ15だの同系が
北陸鉄道能登線(廃止)に居たが、角張った車体と播丹レカ15などは
ゲルリッツタイプに似た台車だった。最後は東濃鉄道笠原線で終わった
けれど(荷物台部分車体延長)。雨樋は余り気にならなかったが。 >>87 古典的で、木造だからヤもすれば一両客車減車時、元「特車」ガソリンカーで2両あった
ハフ5、※ハフ6温存で、処分されていたかもしれないハフ7が、ハフ5より重用されたのは
、軽いらしい。
「特車」と違い 軽量設計ガソリンカーベースの 蒲原ハ2 で、手を打たなかった
と云う事は、その時点(多分昭和40年代初頭?)で別府鉄道自身も、旅客営業
は、近隣住民へのボランティア・サービスとして、とらえあまりメリットの無い
近代化より風情を、意識のだろうか?
※ハフ6についても、相鉄から返還オファーがあったが、何故か実現していない。何故?
89 訂正 軽いらしい→軽いから、らしい
2両あった→2両まとまって 揃っていた 連続でゴメン。
俺の機械式気動車好みランク
☆☆☆☆日車・・・単端式は、秀逸だ。その後のびわこ型や流線形電車との関連性が興味深い。
☆☆☆加藤・・・猿真似と馬鹿にする人もいるが、マネも巧く安くやれれば凄い。オリジナルもあまり見劣りしない。
☆☆川車・・・造らせればソコソコもモノを造るが、所詮当時業界2番手
☆汽車・・・やる気ナシ 癖は、 あるが とりあえず頼まれれば、他所がやらない電気式を造ったのは偉い
☆松井・・・何で、日車より先に両運つくれたのに、木造なの?貧相!!
×梅鉢・・・丈夫だけど、あか抜けねぇ・・・井笠で何で日車じゃなくてコイツが残るの?西大寺も しぶとい!失礼!
○○丸山・・・デザイン方向性は、全く他社と影響関連無しただが、別次元のモノと
考えいる、九十九里鉄道の活躍もあるが、嫌いではない。模型化するなら
車両を、あれこれ増やしたくなる脅迫観念から解脱出来るから良いと思う。
××雨宮・・・妻雨樋・間延びした腰高の側面嫌、全くあか抜けない無気味、電車デザイン
も脈絡あまりナシでは?
あくまでも、俺の独断好みです。悪しからず・・・ >>89
> 風情を重視 に一票。
むろん私ゴトキに真相がわかりうるはずもありませんが。
しかしソー鉄が代車を提案してたとは…
島原に旧鉄博の1号機にA8を交換トレードってのは有名ですが
(あの時代によくその重要性に着目したものです)。
2両も客車集める気があったなら、昭和50年代なら神中や旧相模のキハは
なりは電車にやつれていても、かなりの車種を残せたのではと妄想。 >>91
日車は江若キニ4・9が素敵すぎ。岡山で見たキニ13はもう廃車
になってた(キハ12?乗ったけどあれは…)けど、あのキハ04
よりもキハ07よりも堂々とした姿は忘れがたい。窓配置と窓寸
法のせいもあるんだろうけど、凄く長身に見えるのね。
加藤は下津井でカハ50のなれの果てのモハ110見ただけなので
何とも。ただ、日車のクハ5と比べて悪い印象は皆無。
川車は戦前最終期の西大寺キハ7(保存車)しか知らないが、
意外と小さくて驚いた覚えがある。3フィートだからてっきり
下津井クハ5・6より大きいと思っていたんだけどね。
梅鉢は井笠ホジ7を陸橋下で見ただけだが、見た目は一見ごつ
そうだけど間近に見た感じでは意外と柔な印象があった。
汽車・松井・丸山・雨宮は何分現物見てないので何とも言い
難い。
…しかし、岡山県南部をぐるっと回るだけで4メーカーの代
表的な車種をまとめて見ることができたんだよなぁ、岡山臨
港の廃止の頃までは。
別府と加悦も含めたら、日車は重要なサブタイプが単端式除
いてほぼ網羅できてたし。 >>89
SLブームを見て、うちも最近まで使ってたSLをスクラップにせず置いておけばよかった…って中の人がぼやいてたのを、なんかの本で読んだんだけどな。TMSか鉄ピクかはたまた…
おそらく昭和40年代後半か50年代前半頃の話だよな。 とにかく、別府鉄道って 車両構成とかも含めて模型的で最高だったなぁ。
戦前〜戦後に、かけて育った先輩ファン達は、嫌がるかも知れませんが、
客車や気動車に、塗られたツートンカラーも可愛くてとても似合っていたと思う。
消防の頃、金欠でNゲージの大型編成もの列車が、買えず
消去法で模型化で感心持ち始めたのだが、いつの間にか此の手の鉄道に
ハマってしまった。
ハフ5・7・・・自作でプラバン・ボール紙での窓開けは、苦労した。下回りは、
トミー2軸貨車とピイコ製2軸車下回り。ハフ7のデッキは苦労した。
結局針金で造った・・・取扱い要注意。
キハ101・・・妻窓が作れず、半ば諦めていたところGMのキハ04が出て、
奮発して買った。・・・何で1両は、キニなんだよっ 糞使えねぇなぁ。
ギョロ目ライトは、東急3000のランナーを、大山で買い更新車より暢達した
DD1351・・・裕福な友人が、カトー製後期購入時口説いて安く譲ってもらった。
グリルをプラ板で、潰たりしてそれらしく見立てた。
蒸機・・・当然 トミーの汽車会社タイプを吊るしで(要は、そのまま)・・・。
キハ1・2初代・・・チビ電の下回りだけ買い、プラペーパーで造った 何回も出来に満足出来ず
造り直した。
キハ2・3・・・側面は大山で旧国のランナーを漁り側板を駆使しつくった。キハ3
の妻板はプラ板で造った。荷台は、ストラクチャーの柵を改造した。
下回りは、キハ3はトミックスボギー貨車利用でダミー
実車も後年は稼動してなかったらしいから善いのだ。
キハ2はキハ04シヤーシー切り詰めが災いし接触悪く不調になった。
出来の悪さで、飽きてしまい 何時の間にか処分されてしまったが、昨今の模型製品環境
はNでも凄い充実しているようで愕然、 羨ましい残しておけば良かった。
また、造ろうかな・・・・しかし車体自作の窓開けは、目にしんどいしなぁ・・・ しっこいが補足
DB201・・・シナノマイクロのDE10?タイプのショートを買い車体を、それらしく
自作ウエイトを、外したりて重心や集電が悪くなり不動車に
小型DL・・・トミー製CタイプDLを、改造失敗に懲りてそのまま使用。
不満はあったが、改造失敗リスク、小型DLが無いと始まらないので
・・・
キハ20・・・土山駅のジオラマ(勿論不出来!!)を造った時、奮発購入。しかし 狭いレイアウト
エンドレスでは満足に走れず・・・友人曰く「お前 買い物間違っている!」
以上 >>95-96 イタチでもおもろかった。
先日撮影地で友人と、江若(リアルでは知らない)のDD13
(国鉄よりちょっと先に出たという似て非なるヤツ)は
どこへ行ったんだっけ、という雑談になったが、
おかげで思い出した。どうも。
うろ覚えはいかんよなぁ。 >>95
つ ttp://homepage1.nifty.com/kitchen/zaiko43.htm 土山線に何回か乗ったけど、いつもハフ7だった。
ハフ5は最終運転間近の客車2両連結で運転したときにやっと乗れた。 >>98 ありがとうございます。
でも 俺のスキルの無さか打ち込んで検索しても当たらない。
張り付けるか?重複しにくいキーワード教えて頂けません?
「別府鉄道 模型」 で検索しても意外と凄い 驚! ものでして・・・。 連続ですまんが、誰も書込まないから書きます。
キハ101 は、外観上前照灯が腰下2灯(いわいるギョロ目)の他に
車体裾がステップと同じ低さまで伸ばされていますが、コレは
片上時代からの改造ですか? また理由は、騒音対策とか?
教えて下さい。 腰下2灯は来た時から(つまり片上時代から)
裾伸ばしは後の改造、何でかは知らないけど
このページに改造前の姿がある
http://www2.neweb.ne.jp/wc/m-hirai/befu0.htm いつでもある、いつでもいけると思って写真をあまり撮らなかったのが残念。 別府はどうだかわからないけど、国鉄から受託していた構内の入換作業の
無くなり、委託費が貰えなくなったのが響いた会社が多かったような。 入れ替え委託業務で、ふと思い出したけど。
江若廃業時に来た、当線きってのピーカー?DD1351って廃業時に一足先に居なくなっていた
みたいだけど、廃車・処分は何時ですか?
同じく、江若から廃業以前に江若が、熊延からDC251購入の玉突きで来たDC301
の廃車・処分は?
DD1351は鉄ピクの年鑑に岡山臨港へ行ったと書いてあったが
事実のほどは知らん(行ってたとしても部品取り用?その岡臨も同年廃止)
DC301は廃止よりずっと前に廃車解体(確か昭和53年ごろ) >>107 譲渡の年に廃業。実際 車両の移送はあったのですかね?
(移送していたなら、最後に兄弟再会か?)興味深い。
いずれにしても、岡臨は廃業間近にDD1352が壊れて、持て余しの同機を、
お友達価格?で譲ってもらったのかな?
俺の知る限り、別府にDD1351は、オーバースペックな気がするのだが・・・・
土山線に乗った時、中野で一旦バック…。何事かと思ったら、
新造のタキを引き取りに側線に入ったのでした。中野から別府港
までは、2軸客車+タキのボギー台車の「タン タン タタ…」を
堪能できました。古き良き時代の思い出です。 ガタガタギシギシ
という音しか覚えてない。
>>108
岡臨のDD1352は廃止後部品取り用として水島に行ってるから、
あれが故障した、というのはちょっと考えがたいし、そもそ
別府のは汽車製造による試作車で普通のDD13とは駆動系のメ
カが全然違う(エンジンと変速機は国鉄向けの初期車と共通
だけど)ので補修用部品取りには使いづらい筈。
それから、別府のDD1351は廃止の日に土山線でさよなら列車
を牽いてるので廃止前の処分というのはあり得ない。
ピクの記述は恐らく岡山臨港の105→DD1351(DD1352購入後
に改番)との混同の可能性が大。あの頃のピクって結構執筆
者にその辺に疎い人がいて誤記がそれなりにあったから、鵜
呑みにするのは結構危険。
ちなみに、別府が江若廃止時にDD1351を購入したのは、当時
国鉄に旧弾丸列車計画で取得していた加古川バイパス(実は
これが戦前の弾丸列車路線用地)沿いの手持ち用地を転用し
て東加古川操車場を建設するという計画(実は野口線を別府
が最後まで維持したのもこれと関係があって、野口から路線
延長して直接東加古川操車場に乗り入れるようにして、土山
線の廃止を計画していたためだったりもする)があって、そ
こで貨車入れ替えの受託をもくろんでいたからだ、という話
がある。 >>111 揚げ足取ったりせず、親切に教えて頂き有り難うございます。
川崎車輌のへの、引き込み線活用って車両部品納入以外だと、
新造貨車の発送のみ だつたのですか?他に電車・気動車とか
は別府鉄道の路線に足跡を残していないのですか? >>112
別府鉄道沿線にあった川車播州・加古川両工場は前者が建
設・運搬機械専門、後者が貨車量産専門で設立されたもの
で、いずれにせよ電車・気動車などの生産実績は皆無の筈。
電車・気動車の場合は艤装する部品納入の問題もあるから
兵庫工場以外で作るメリットはほとんど無い。 あとタキ5450や18600とかの高圧ガスタンク車の容器再検査も担当していた>川重加古川
別鉄廃止後は神戸港駅で上下分割して、台枠以下を残して
タンク体のみを陸送していた。 最後の通常営業用現役2軸客車って
別府
銚子
上武
でいいのかな? >>115
黒部峡谷もあるけどあれは営業用としては微妙な感じだからなぁ。
ただ、上武よりは尾小屋のハフ1(廃線まで残存)の方が後まで
残ってた筈。
>>117
そういや蒲原は70年代後半まで元阿南のガソリンカー
(確かダイレクトコントローラーの信号線を電動車か
ら直接引き出すという恐ろしい仕様の制御車だった時
代があったはず)とか2軸車が何両か残ってたっけ。
でも、庄内交通と熊本電鉄って1970年代に入ってから
も2軸客車残してた? >>118 ごめん熊本の食パンみたいな木造T車は、ボギーだった。しかも電動車だった。
静鉄のギョロ目クモハ100形?が入ってお役御免。
庄内は京王車の第2陣投入で、昭和41年廃車
もう一つ北丹鉄道に、日の丸から来たハ12がいた。こいつは取り敢えず、殆ど
使われなかったと思うが、昭和46年休止 昭和49年廃止迄いた。 >>119
もしかしたら、と思ったが熊電のはやっぱりあれか。
私が訪れた頃にはもう台車だけになって北熊本の側線に
転がされてたなあ。
北丹のは…そうか、一畑広瀬線上がりの奴か。
で、何か忘れてる気がして必死で脳内検索して、
ようやく一社抜けを発見。
大分交通耶馬溪線ハフ14-16・24-27あたりが1次
路線廃止(1971/10/01)まで在籍してたはず。
ここらは予備でも末期までそれなりに使われてた
はず。 山交高畠、羽後雄勝、北恵那もそのあたりまで残っていなかったっけ? >>121
北恵那の客車はク80の導入で1960年代半ばまでに全車廃車の筈。
羽後交通雄勝線はそうだね、明治村行った分が71年の内燃化ま
で一応在籍してたか。
で、山交高畠は……あの会社、2軸客車あったっけ? >>122 私鉄車両めぐり視たところ、単車との記述は無いけど ハフ1・2は、
不鮮明な写真から判断するに車端に板バネが左右一つずつ見えるから
単車だと思う。しかし何処まで残っていたか? >>123
そいつは確か1960年代前半くらいまでしか残ってなかった筈。
近江の日鉄自車とかが入って代替されてるから。 北恵那の2軸で横荘の貨車改造した奴は、すげ−ヨな。
コレだったら俺でも買えそうだ もう少し遅く迄残れば、誰か買っていたと思う。
時のズレは残酷だ。
そもそも、改造費に対し対費用効果が低くそうな不経済というか、ある意味贅沢
な改造だ。
コレに勝てるサブロク軌間客車は、島原鉄道の簡易小型客車位か・・・ >>124
そして、なぜか西武鉄道が引き取り1両は保谷に保存 のち解体。
もう1両は大井川鉄道に飛ばされ、新金谷の構外側線で長期の鳥葬の上、涯てた。 >>125
片上にもありましたな。ほとんどブリキの箱同然のが。 >>126西武って他にも不可解な、購入?下取りって事例って多いよね。
山形交通の一件は、廃止時一括売却とか なのかな?明治村みたいな
所に売ったり、自社でレジャー施設で使う目論見していたのかな?
上田経由で入った東急T車3350とか、一畑に一度嫁いで戻った クモニ1
とか不可解? 昭和20〜30年代の車両譲渡って
陸路輸送じゃないよね
国鉄線経由で移動したんだよね? >>129 非弱な(整備もそれなり・・・)地方私鉄の車が遠距離移動に
メタル等が、耐えるか?心配しているの?
小型・軽便のモノについては、積載貨車に載せているのでは?
耶馬渓←北海道 だっけ?の移動とかは、最寄り港まで線路 後は船便
じゃなかったけ。
標軌・馬鉄軌は仮トラで最寄り迄、
離れ小島※・地下鉄は、最寄り迄後は、台車(タイヤね)陸送では?
※上毛は東武 赤城延伸乗入れ迄 離れ小島だったが、開業搬入前
足尾線との間に仮線敷設したらしい。撤去した訳は、地元自治体借り入れ
の土地だから・・・
ダルマ状態でシキ車とかに載せて運ぶのを
「乙種鉄道車両輸送」といいましたっけか。
スレ汚し失礼。つぎ、いってみよう〜 山鹿温泉が、大阪市から買ったガソリンバスは、はるばる大阪から改造先
国鉄西鹿児島工場・自社工場まで自走かな?
やはり貨車積載かな?
いずれにしても、ガソリンバスを捜してくる情報力とセンターにジャッキ付ける
為、プロペラシャフトが車体中央干渉しない事理解している等この会社 カネは
無いけど、技術・発想力のある優秀な技工さんが居たんだな! 偉。 高砂に(新幹線見に)行った時、別鉄タクシー目撃した。
屋根の行灯にあのマークは健在だった。 >>132
いまならともかく、あの時代の道路じゃ自走ってのは
ちょっとあり得ない。
岡山あたりの国道2号ですら、砂利道だった時代だよ?
妥当な線で平貨車かシキに積載して輸送、あるいは
大阪港から船便だったんじゃなかろうか。 >>135
終戦直後に活躍したトレーラーバスは自走したらしいぞ
国道2号線にかかる木橋に重量制限があって、
普通のバスでは渡れないが、トレーラーバスでは
軸間距離が長くてうまく渡れたとか、
警官に見られて、こんなでかい車両をこんな狭い道路に
走らせるなんて本官が許さんとか言われたらしいよ >>136 132 です。>>135の指摘する通り、やはり陸送は無理だと思います。
理由 1タイヤが痛む
2そもそも、センターに方転用ジャッキを設ける為、プロペラシャフトが
車体フロアセンターに無い、不経済なガソリンバスをディーゼルカー導入後に
あえて、大阪から暢達しているわけで、燃料費・車両の痛み・出先の
トラブル等のリスクを鑑みたらやはり、鉄道貨車積載が経済的だったと思います。
私の無知におつき合い頂き申し訳ありません。
バスが橋の許容重量に、不相応なケースは結構あったみたいです。
昭和30年代新規路線開業ブームの頃は、結構新規路線拡張で各社
狭い道等 かなり無理して開業したみたいです。以前 車歴史の本で
非弱な橋が落下し谷底に落ちた大型ボンネットバスの写真記事を観た事
があります。
追伸 別府鉄道のお話を激しく逸脱させてゴメンなさい。 >>139 万一の時、自重も軽くブレーキもプアそうな ハフ7 のサイドブレーキ
で本当に大丈夫だったのかな? 当然数メートル引きずられるだろうが、
脱シューとかして壊れちゃいそう・・・。 「別府鉄道」の記事を鉄道書籍で読んで・・・
どこにあるのだろう?と九州方面を探したオレがいる。
>>142 此所って一時西鉄の関連会社だったでしょ。
だから 連接車は、北九州線や福岡市内線の似てた奴が入ったのかな?
私事ながら、大分交通は正直、非電化路線しか関心無い。 >>143
別大電車を悪く言うな!
カワイイ奴だったんだぞぉ・・・ はじめて別府鉄道に乗ったとき、
ハフ7の混合列車の印象が強すぎて、どんな機関車だったか記憶にない。