まさに神話の世界だった、別府鉄道を語ろう
大阪や神戸から程近い場所とは思えないような
ローカルムードに溢れていた
別府鉄道について、思い出などを語ろう!! >>301 別府は払下狙ったのかな?ひょつとして資材不足にも関わらず播丹時代からの国鉄関係者が
旧知の別府が欲しがるか?気を利かせて留置したのいかな?
戦争が8月15日に終わってくれたのも野口線のレールをふんだくられ供出寸前だった別府にとっては、神がかりった。
>>303
今販売中の鉄ピクアーカイブスセレクション19私鉄車両めぐり関西では、
24ページに2号蒸気機関車+ハフ6+ハフ5+ハフ2+ハフ3+ハフ1+ハフ7+キハ3+キハ1+キハ2
で海水浴客が鈴なりに乗車しているモノクロ写真が載っている。
>305
303です。みたみた!あれはすごいね。ブレーキとかどうしたのかね。
海水浴でにぎわったのは何かの記事で呼んだことがあるが、
あそこまですごい編成だったとは。
こんなのは過去の話と思っていたけど、京大鉄研号で廃止直前まであったのを知った。
あそこまですさまじいものではなかったが・・・・ 野口線に藤原製作所前と言う駅があったのだが
そう言う名前の工場はどこにもなかった。
70年代末の思い出でつ。 もう少し廃業が遅ければ、キハ3も三岐鉄道開業時の生え抜き車両だから佐久に還ったキハ2みたいに
同社が引き取り、近年開設した貨物博物館の車両達と一緒により善い環境で復元保存されたと思うのは俺だけかな・・・。
戦前の民鉄形ガソリンカーの中では、大分交通の耶馬渓 キハ101〜104と同様
多数が動車で後年まで生き残れた稀な事例だったのに・・。 土山線→野口線の乗り継ぎで小一時間あった。
「構内散策してもいい?」って聞いたら「好きなように見ろや」と快諾してくれた。
今更だがスレタイ良いよね、俺は神話に遭遇出来たよ。廃止時もなんかマッタリとしてたな。一部残ってたB型硬券が黄色のA券になってたよ。 1984年11月26日に最後の訪問をしたけど、鉄がわんさか居て、職員が殺気立ってたぞ(怖)
庫のそばなんて近寄れる雰囲気でなく、入れ替えしてた職員が「おまえらが騒ぐから、仕事にならんのだ!」と、DBの握り棒につかまりながら怒鳴り散らしてたのが、残念な最後だった。
84年11月ってもう線路が無いよ、それはそうと確かに末期は職員さんは多少イライラしてたけどオタの罵声大会とか無かったよ。俺が最後に訪れたのは1月15日で貨車は無かったからか? 別府鉄道への別れを惜しむかのような大雪となった、あの伝説の最終日に訪問された方がいらっしゃいましたら、思い出を語って頂きたいものです。 ああ、あの雪で山陽本線の時間が無茶苦茶で土山にたどり着くのにも苦労した記憶があるな。
最終日は判らぬが、その年の元日東京へ帰るのに山電のホームで電車待っているとDL+ハフ7の編成が
静かに別府駅停車する様子が見えたな。もちろん乗客は0。背後は0系の驀進音が響き、好対照だった。 そしてこの日、西尾克三郎氏が静かに息を引き取られた。 スポーク車輪ってまだ使っている会社あるのかな?
住金の製品(国内独占)リストに入っているの? 昭和40年代だったが、I機関区長が偶然に俺が一時在学した学校の先輩だと
解ってクラの中まで全部見せてくれた。
あの時代はまだのどかさが残って居たし、土山線が中野を殆ど通過していた
のを覚えている。
別府鉄道が、高砂線の到着を待って出発していた感じ。逆もちゃんと合わせてた
ように記憶している。ホームは島式みたいなもんだし 野口での接続が良すぎて撮影してる時間がない…
という記述をどこかの本で読んだ事がありますね。 徹底的に合理化した上で、
東北・北海道方面への出荷用に貨物専業で残っていれば違っただろうに。
>>320
中野は文字通り野原の真ん中で、なぜ駅があるのか不思議だった。 >>324
国鉄の接続駅が貨物取り扱いを止めたから
廃止に追い込まれた。
このあたりの経緯は加悦鉄道の廃止と似ている。
>>326
確かに。もしも貨物輸送が続いていたならば、残っている路線もかなりあると思う。 硫酸コンテナ載せたコキ200の後ろにしがみつくハフ7・・・なんてなw >>328
ハフは 混合列車の客車としても緩急車としても使えそうだね。
噂に聞いた古い緩急車と乗り心地は一緒だったよ ハフ7
レールの継ぎ目なんか、バネが無いかのように拾って走ってた >>330
どちらも単軸だしね。
かえって荷物満載したワフの方が乗り心地よさそう。
ハフの乗り心地は想定内だったが、南部縦貫のレールバスに乗った時は怖かったよな〜 >>332
県道すら砂利道レベルのバスもあんなもんですよ。 >>332-333
あれはとにかく軌道状態が…
別府は貨物が多かったから並のレベルをクリアしていたけど、
縦貫は昭和40年代以降であれより劣悪なのは
旅客営業鉄道としては恐らく寿都か北丹位しか無いと思う。 遠足で大中遺跡に行って
非常掛けさせて機関士にお目玉くらったのはないしょの話
(元平岡小学校在籍) >>334
つ南薩
まあ北丹・寿都には負けると思うが…。 大中遺跡の保存車は事務所で鍵を借りて車内見学も出来るんだね。しかも記念スタンプやパンフレットもあるし。
あれは訪問する価値大ですな。 南薩は、夏は草ボウボウで前方視界が相当困難な場所もあったみただけど、
置石等の軌道支障、人身事故、車両故障の際の乗務員の故障処置、旅客避難誘導はどう考えていたのだろう?
あの状態じゃ虫刺され、草による切り傷は勿論、蛇等 の問題があるではないかと思う。
そもそも保線という部署というか、担当職員が末期には不在だったのだろうか?
(車両等、設備全般で扱う) 南薩も縦貫も今の国交省役人が見たら腰を抜かすレベルだな。
本線の枕木が平気で腐っていたし、
軌間の精度が出ていない事が目に見えてあからさまだったしw >>334 336
一畑広瀬線も仲間に入れてやって下さい。 >>339
南薩線の枕木があんまりな状態だったのでシャレで犬釘を引っ張ってみた。
あっさり、するりんと抜けた。それも一本だけではなかった。
慌てて元に戻したがあれで大丈夫だったんだろうか?
それでも脱線させてなかったんだから大したもんでしょ
(非公式に色々やらかしてた可能性もあるけど)。
近年では大井川で軌間おっぴろげて脱線なんてのがありましたな。
最近、リアルに命の危険を感じるレベルのスリリングな路線
ってのが無くなってしまって寂しいもんです。 銚子が最後のボロ私鉄だったのかも。あの濡れ煎餅騒動は触って乗れるボロ鉄道の葬送行進曲として理解しなくてはなるまい。(今もギリギリだって?)
ところで銚子ついでに、別府の客車の乗り心地って銚子の澪つくし号と比べてどんな感じ?別府は乗ってないけど澪つくし号なら乗った事があるので。 別府鉄道は、そんなに軌道の状態が悪いようには思わなかった
野口側のDCなんて普通のローカル線の乗り心地
土山側は単軸の客車が、乗り心地がひどかったわけでDCを入れていたら、並みの
乗り心地だったのではないでしょうか 貨物列車があるから保線の手は抜けないか。そう言えばタキなども入線していたっけ。 最初に土山線の線路を通ったという貨車の新車も多数あるんだよね。 廃止から30年経つが、よもやあのあたりも住宅地ができるとは思いもせなんだ。
>>343
両方乗りましたけど、
・別府のハフは、細かい振動が膝や尻から伝わってきて快適とは程遠い記憶
ただし速度が遅いためか極端な横揺れではないように思い出します
・銚子の澪つくし号は横揺れのほうが大きかったような
銚子までの上りに乗ったのですが、最後の一区間は下り側にも連結で、非連動の中間に挟まれたサハ状態
起動時が微妙で、引っ張れているのか押されているのか何やら変な振動
適当な記憶で申し訳ございません 銚子は知らんけど、別府のはたしかに「動揺」というより
「振動」と「突き上げ」だった記憶がある。 別府亡き後、三木鉄道の二軸単車の気動車に乗り久しぶりの乗り心地を楽しんだが
それさえもなくなってしまった。 門司レトロトロッコに乗ってきたが、時速15kmでこの振動と突き上げ。
別府鉄道を思い出してしまった。
二軸単車に乗りたくなって来た。いま乗れるのは
上記の門司、南阿蘇、清流しまんと、三笠ぐらいなもんか?明治村休止。銚子は? >>350
北条の古が紀州鉄道(旧御坊臨港)に居るのでは?
別府のキハ1-2と三木の180-1、180-2とは同じドシンバタンでも三木の
方が格段に乗り心地が良かった。時代の格差と技術の進歩と云うか。 >>352
銚子は廃止。ユ101(ユは郵便ではなく遊覧の意味)なら外川に留置(放置?)
されてる。 電車だったらあと函館、土電、広電あるけどやっぱり亡き別府鉄を偲ぶなら動車に牽かれてコットンコットン行くのがいいわな。 畑違いになるけど
子供の頃乗った近鉄東信貴鋼索線の乗り心地がそんな感じだった
ワイヤーに引かれて「ドシン!…ドシン!(約15〜20分ぐらいその繰り返し)」 試運転だったりして。
車内にぎっしり小学生がいたら遠足の臨時かな?とも思うんだけど。 廃止の約2週間前に親にせがんで大阪から連れて行ってもらって一往復乗車しました。
日曜日のせいもあってか駅も車中も閑散としていたなあ。
名残を惜しむファンの混雑を予測していた父が
「何や、人おらへんやん。こら無くなっても(廃線になっても)しゃあないなあ」とポツリと言ったのを覚えてます。
元は5号機?6号機?
http://8.pro.tok2.com/~shimpei/0001/502_album02/images/P20408.jpg >>358 >>359 当時の鉄ピク 私鉄車両めぐりを観ると 昭和40年以前くらいまで夏は海水浴客の為
気動車も含めた客車総出の列車があつたみたいだよ。 >>363
昭和50年代でも、お盆や正月なんかに貨物がウヤの時は、DCが代走してたよ。 昭和50年代でも混合列車だったのは、ここくらいでは? 夕方の片上発柵原行きも機関車と客車の間に有蓋車をはさむことがあつた。 >>365
昭和50年代という言い方なら、国鉄でさえまだ残ってたんじゃね?
尼港線とか、清水港線とか。 銚子とか蒲原ではまだ電車が貨車を牽いていたな。
国鉄なら釧網本線や五能線、倉吉線とかも。 別府鉄道って貨物は化成肥料や塩酸、濃硫酸以外にどのような貨物を運んでいたの
DB20とかいう機関車が爆音をあげていた。
めちゃ古い屋根の客車で、振動もすごかった。
国鉄とか近くに走っているにしては、時代差が
有りすぎな感じがしたな。 写真で見たことがあるのですけれど、肥料や薬品輸送が中心の別府鉄道で
国鉄の無蓋車が写っていた事あるのですけれど、別府鉄道では鉱石の輸送が
あったのですか?写真は昭和50年代の別府港駅です。 無蓋車だから鉱石とは限らんだろう。
鉱石を積んだ無蓋車の方がレアだと思う。 子供ながらに
プロパンガスのタンク車の巨体(長さ)には驚いたものです。
多木の子会社のしき島商事はまだ社紋の入ったボンベ扱ってるかな(引っ越したんで後のことは知りません) 国鉄の時代 肥料工場で使う硫安や醤油工場で使う食塩 塩酸の原料になる工業塩を本来ならホッパー車で運ぶところを無蓋車にシートをかぶしてじかに積んで運んだことがあるみたいでけれど
別府鉄道でも実際にあったのかな? 土山の丸尾カルシウム(だったかな?)はトキにシート掛けて使ってた。
土山の入換は別府鉄道担当だったと思う。 土山の貨物の入換が無くなるので、委託料収入が入らなくなる
ことが別府鉄道にとどめをさしたのでしたっけ。 〇尾カルシウムは確か国鉄の専用線一覧表には土山ではなくて別府港駅に専用線を設置していると記載されている。
石灰石を炭酸カルシウムに加工している会社 今残っていたら、どれだけ観光収入になっただろうか。
でも、やっぱりやっていけないかな? >>382
土山の東端に、東洋機械とは別の線路があって、そこに真っ白に汚れた積み込みホームがありました。
そこにホーロー看板で「○尾カルシウム」と掲げられていたもので、土山という説明をしました。
となると、あの施設は別府港の出先? 関東某所の、保存2軸客車を見てきたけど、よくモニタールーフや魚雷型ベンチレターを復元したな。
窓はオリジナルと違って二段のままだけど、
別府時代の面影を残した、と思うことにしている。 大阪の鉄道マニアがうらやましかったよ。
尼港線
和田岬線
別府鉄道
高砂線
飾磨港線
川西国鉄前駅
休日にちょこっと遊びにいくだけでこんだけネタ線があるなんて・・・(by東京都民)
ついでにいえば「1円電車」も近いといえば近かったよね。 東京から行くのに較べれば確かに近いんだが、結構難関線が多くてなあー。
「ちょこっと遊びに行く」感覚では乗れないとこもあった。
近いからこそ、その1往復だけのためには行きづらい、というか。
それよりは、客もいないのにすげー本数を確保していた昔の鶴見線とかの方が
休日ちょこっと乗りには便利でうらやましかったよ。
ひと駅ごとに降りたとしても、集札はないし、すぐ次の電車来るし。 >>398 関西のソレは、寂れ方が魅力的なんですよ。
良くも悪くも東京周辺はローカル線も整備されすぎている。 中古のハイモ180とか? まぁちょっと考えにくいけど。 >>391-392
まあ、そんな辺りだろうね。
しかし今の別府の発展ぶりを見ると「残ってれば…」と思ったりするが、
その別府の発展は別府鉄道廃止による鉄道用地売却が主因だから
何とも言えんもんがあるよな…。
まあ野口線は、かこバス別府線として復活したようなもんだが。 >>391 >>392 何気に想像すると面白いテーマだね。
旅客輸送は、あくまで貨物輸送に対する地元への見返りみたいな感じで 無愛想とか、ではないけど
商売っ気ない会社だし・・・・。
でもやはり、時代のすう勢で野口線に常用に1両冷房車(無論ワンマン)を導入していそうだな。
富士重のレールバス・・・沿線開発が進めば役不足か・・・
岡臨のキハ1003→紀州のキハ60?
片上のキハ800
機関車はDE10 国鉄以外の出所もありえる。
こんな感じか・・・。
相鉄に還ったハフ7以外結局マトモに保存維持できなかったのは、とても残念だ。
加悦鉄道あたりが引き取ってくれたほうがベストだったと思う。
ところで加悦鉄道って何故 場違いに(保存価値は認めるけど関連性が無いよな)、南海1201を保管したの?
>>394
単に「電車も欲しい・・・・」って理由だけだったような。 >相鉄に還ったハフ7以外結局マトモに保存維持できなかったのは、とても残念だ。
レスの意図がよくわからんが、
保存車ならDC302とハフ5が播磨町に、キハ3が生まれ故郷にきちんと保存されてるわけだが。
そもそも保存車で解体されたのはキハ101だけ。キハ2は荒れてる。 廃線跡の道路への整備費用って、「これだけのカネがあったら、鉄道存続出来たんじゃないの?」と思えるくらいの高額だったような…。
土山線なら今残ってても少しは需要あったかもな。
今、3セクで導入されてるような新型車のピストン輸送なら30分間隔運転も可能かな?
野口線は高砂線とセットじゃないと機能しないしなぁ。
スレチ気味だが、もし高砂線が残ってたら、高砂周辺民はみんな加古川に出て新快速に乗り、山陽はさらに大打撃だったろうな。
土山線も同じで、現存しててマトモなダイヤで走っていたら別府あたりの人の多くがJRに流れてたかも。
ま、こんな妄想を色々考えるのも楽しいね。 >>396 すまん・・・そういえば廃止前から冷や飯を食らっていたキハ3は、幸運にも佐久に還って幸せな余生送っていたんだな・・・。
でも キハ101が、野垂れ死にしたの残念だ。
キハ2は、三岐の開業時の車なのだから貨物輸送の博物館を立ち上げて同社で一緒に保存して欲しいんだがな・・・(社内で知るヒトはもう居ないのかな?)
おれが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしい
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうだ
その世界では有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報だよ
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタだね、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識だろ?
キハ2(初代)がダンプと衝突。修理中の代車として三岐からキハ3(元飯山)導入し、
そのディーゼルカーの性能や燃費良さに追加で三岐よりボギー車のキハ2入れた。 今は知らないが、昔(昭和20後半〜40年代)の三岐鉄道って車輌を無駄に潰さず精力的に他社に売却してる
(売り込みをかけている)みたいだね。 電化で不要になった車は最後に残ったキハ2両以外全部捌いているな。
北陸に行ったキハ7なんか捨値みたいだし(だから?北陸もあっさり漁礁に廃棄)。