まさに神話の世界だった、別府鉄道を語ろう
大阪や神戸から程近い場所とは思えないような
ローカルムードに溢れていた
別府鉄道について、思い出などを語ろう!! >>243 やはりこの会社は、地域社会に対する慈善事業として野口線や土山線の旅客営業を、
鉄道を残す目的(貨物輸送)がなくなる最後まで温存してきたのだな。
多木肥料は、同族経営企業らしいが、零細(一地方の資産家)なのに素晴らしい
事をしていたんだな。
ココに対し、鉄道友の会や、関係所轄行政機関、鉄道業界関係から表彰とか、
あってもよかったんじゃないのかな。 >零細
創 業 明治18年(1885) 3月
資本金 21億4,700万円
上 場 大阪証券取引所市場第一部、福岡証券取引所 >>244-245
当時の写真を見るとグッと来るものがありますね。
1月7日からイトーヨーカドー加古川店で加古川懐古展があって、別府鉄道関係の展示が少しだけどあるみたい。 >>245-246
多木化学って、化学肥料で世界に名を馳せる企業。
農業やってて多木の肥料知らないヤツは恐らく一人もいないクラスの
超有名企業だし、技術も実績もある優良企業ですもんな。
多木自体は、慈善事業というか地域貢献の意識もあっただろうけど
廃止の(当時の手続きなどの)厄介さを考えたら、僅かな赤字は
宣伝費・地元対策費として許容し、存続する方がラクだったんだろうな、
とヲッサンは思うのであった。
てか、製品搬出での鉄道輸送は多木としては止めるつもりはなく、
国鉄が土山駅の貨物取扱を廃止したが故の巻き添え廃止だから
国鉄貨物の改革がなければ、あれから暫く生き存えてたろうね。 >>248 ・・・って事は、黒字の上場企業で 時代遅れになる程 設備投資しないって
鉄道温存という事は、此処で働いていた人々は失礼ながら社内で閑職?
それとも、肥料作る会社だから あえて更新でむやみに、廃棄物を出さず環境に優しくと云う発想?
(この方がエゴ買えより、正論だな。) >>249
別府鉄道という独立した会社だし、鉄道事業以外にも
タクシー・ハイヤー事業もやってたから(てか本業?)、
会社としては普通に回っていたようですが。
事実上は、土山駅からの引き込み線だった路線を、
地元民にも開放してた程度のことだしねぇ。
野口線に関しては、ほぼ完全に地元貢献だけど
何やかや言いながら高校生とか一部の通勤者とかで
利用はあったんだよね>当時 現場はともかく、役員とか幹部は多木本社の窓際組だったのかも 懐かしいですね。保存のキハ101は解体されて跡形もなく消えていたけど、キハ2は大丈夫なのかな?。痛んでるなら修繕したい。ワ130の車体はまだ残ってた(保存じゃないけど)。
webで「二見の埋め立て地にワのは車体がある」というのを見たけど、今もあるの?
>>252-253
模型の製作の参考にもなるわこれ。
上からの映像ってなかなかないんだよね。
>>252
1:00頃の機回し線があるのは野口駅でしょうか
末期って国鉄と線路はつながっていましたか >>256 私鉄車両めぐりに、(昭和39−40位)時点の野口駅配線図が掲載。
既に繋がってないから 恐らくそのまま・・・。
キハ101無くなっちゃつたんだ。
片上時代の前照灯改造で愛嬌ある顔(異論は、あるだろうが。色とかこの路線の雰囲気で何故かコイツは許せちゃう。)
動画みても、可愛いな。
堕ち果て、解体という事は可愛い顔が災いして、最後は地方に散在する不気味な横浜タイヤの看板みたいな存在になって処分されたのかな?
可哀相に・・・
ところで、この手の前照明移設改造が 小湊や夕張(尾灯兼用で豪雪だから事情が少しちがうか?)でも行われてる何か訳でもあるのかな?
機械式気動車の前照灯は、照度が低いとか・・・
それとも、偶然? 片上、小湊どちらかが、影響模倣? >>256
野口だね。ホームの外れに止まって何してるんだろ。
土山線の方、末期でもDB201が動いてたんだな。
漏れの場合、いついってもDD1351だった。 >ホームの外れに止まって何してるんだろ
折り返しに時間があるときは、いったんホームから北へ引き上げていた。
踏み切り脇に、職員用のプレハブの小さな小屋があった。
80年代に入ってからしか知らないけど、
本当の最末期はDD502はあまり見なかった気がするなあ。
DC302は加悦鉄道に貸し出されていたことがあったとのこと。
(加悦のDLが川重へ定検に出てる間、その代車に) >>247
行ってきました、写真、切符、部品等が展示されていて、
元車掌さんから切符を頂いたり、当時の話を聞く事もできました。
>>260
羨ましいです
昔営業でこの近辺回ってて
「ここを別府鉄道が走ってたんだな」と
思いながら歩いてました
イトーヨーカドー店内のテナントに営業行ってたので 247です。
懐古展に行ってきましたよ。
当時の映像が流れてたんですが、今でも変わってない建物が写ってたりしてると、何か嬉しい気持ちがしますね。 >>260
土山線の小柄なあの人だろか。
神戸新聞の記事で知ってはいたんだが、展示だけでなく人までいたとは。
それなら行けばよかったな…
今日、円長寺のキハ2を見てきました。
ひどい。
早くなんとかしないとキハ101と同じことになってしまいそう。
ガラスは割れ、窓枠も折れてしまってるし、廃車体のイメージ。 >>261
三連休の間だけ、ライブスチームの運転とスタンプラリーをやっていて、
参加者は当時の切符を貰えた様です。
夕方に行ったのでイベントは終了していたのですが、元車掌さんが展示コーナーにやって来て、
その場にいた人全員に残り物の切符を配ってくれました。
私が頂いたのは、加古川から別府港までの連絡乗車券で、裏に別府港駅の無効印が押してあります。
>>263
小柄な方ではなかったので違うと思います。 BANBAN-TV見れる人、
今週のぎょーさん知っとこ加古川という番組で別府鉄道やってるよ(15分) 別府鉄道の廃線跡をたどっているときに余所見をして
用水路にはまって手の指を捻挫して前歯を折った
そういう苦い思い出がある 社名が別府タクシー株式会社に変わったみたいだな。
この前タクシーに乗ったらインパネ上の名札にそう書いていた。 >>274
とうとう社名変わったんですね
鉄道持たなくなってかなり経つのに
鉄道を名乗ってる不思議さはありましたが
鋤マークは多木化学系列の証ですね
家が農家で多木肥料使ってるもんですから
気になります 加古川市が野口〜別府港と
高砂線の加古川線分岐点から野口駅まで買い取って
国鉄加古川駅乗入れ(使用料支払い)をしても
儲けはなかったですかね・・? >>276
当時の状況であれば、期待できるような状況ではなかったかな…
沿線は田園地帯だし、加古川の市街地も再開発前で拠点性は薄かったし、
それより何より別府が新市街化したのは、別府鉄道の廃止で捻出された
鉄道用地の再開発事業によるものだから、別府鉄道そのものが存続なら
ヨーカドーやらの商業施設群が出来ていないかと。 30年近く前は明石を過ぎると、田舎感爆裂でしたわな。
東は草津を過ぎると、田舎感満載でした。 >>276
今ならば・・・って気はするけど、劇的に変わった今の状況なんて、当時は想像できんわなw たしかミスタードーナツのある所が旧の本社所在地だっけか?
277にあるように、商業施設ができたのは別府鉄道が廃止になって用地ができたからであって
大規模な再開発/商業施設の建設がされてなかったら、
住宅やマックスバリュなどのスーパーがごちゃ混ぜになって並んでるだけの、
拠点性や集積もなく、パッとしないただの住宅地になってただけだと思う。
ただ、鉄道がなくなったおかげで開けたというのは皮肉だね。
>>279
ちょうどBANBAN-TVの番組でやってるね。
キハ101+キハ3+キハ2の3連貸し切り列車の写真も出てくる。 昭和50年代前半の別府鉄道のビデオがあるが、アップの仕方がわからん・・
今日、イトー○○ドーに行ってきたが、駅はもうちょっと東にあったように
思うが記憶違いか?駅前の道路がヘンに背向曲線になっているすぐ西だった
ように思うのだが >>282
別府鉄道のビデオ、是非拝見したいです。 >>281
別府鉄末期には平屋建てだが床面積の大きいジャスコ別府店が
マンハイム前にあったのだがな。 逆にそのジャスコぐらいしかなかったけどな
建物の変遷は
ボーリング場→ジャスコ→ビッグバーン(ジャスコのディスカウント)→ミドリ電化→終了 S57年に別府から土山行きの始発に乗った中野と川崎信号所にもきっちり運転停止した、あれはなんでやろう。客も俺一人で貨車もなかったのに。当時は違法承知で通過が地方鉄道の常識だったのに。 282です。動画をアップしてみました
撮影時期は覚えていませんが、昭和50年代前半、まだ廃止を言われて
いない頃だと思います
編集も何もせず、そのままのデーターです。またフリーのエンコーダーのロゴが入ってしまってます
ダラダラとしたものになっていますが・・・・
ttp://www.youtube.com/watch?v=zPkgIxv6Zbo >>287
感動モノですね。
野口の同時発車懐かしい、朝は高砂方面からの客が意外と多かった。 高砂線の気動車、キハ20の後ろが何気にキハ37と思われ
と言うことで、撮影時期は昭和58〜59年と推定 >>287
今みたいに安価な家庭用ムービーなんて普及していない時代だけに
非常に貴重な記録映像ですね。いいものを見せてもらいました。
私は昭和57年に土山〜別府港〜野口を1回乗ったきりですが
当時の記憶が鮮やかに甦ります。 見て頂きありがとうございます
昭和50年代前半と書きましたが >>289 さんのご指摘の通り、昭和59年ごろと思われます。
同じテープの後ろに同日ではないですが、EF62牽引の荷物列車のシーンがありましたので。
撮影機材は、ポータブル式のレコーダーとカメラで機動性は現在と比べ物にはなり
ませんでした。なにしろ普通のVHSのテープでしたから。
改めて見てみると、別府港駅の時刻表のシーンで、その横に運賃表が見えてますが
下関とか高松とかの運賃も書いています。別府港駅で国鉄全線の切符買えたんですね
客車を整理する時、ハフ6よりハフ7が残った理由はなんだろう。
国鉄のヨみたくオープンデッキがあり操車の際に利便があったとか?? >>292 特車(元ガソリンカーの癖に、戦車みたいに頑丈で重い)奴より
木造で軽いからも理由の1つ。
>>293
本当に三岐に戻せないものかな。
地元から別府鉄の名残が消えるのは惜しいけど。 SL時代の別府鉄道
ttp://drfc-ob.com/cgi-bin/tanoshiro/view12.cgi 円長寺のキハ2って、近年になって急速に劣化したような…
確かに、あのまんま放置が続けば、自然崩壊しそうだ。 廃止後、シートをかけられて放置(現在の場所)
↓
後年、松風こみち整備時に再塗装・整備
↓
荒れる
↓
お色直し
↓
再度荒れる・・・いまここ コブシかかってるな
これでタケカワ歌謡コンサート出演決定か? >>276
末期に乗り鉄に行ったら、野口での加古川方面乗り換え客が多いのが意外だった。
本当に加古川まで乗入れていたら,存続出来たかも知れないけれど-----
播丹鉄道時代に、潮干狩り列車が乗り入れていたらしいが隔世の感あり。
戦後野口の国鉄側線に、播丹最後の新車だったキハ520が放置されていた。 ピクの京大鉄研号に別府小の修学旅行用とかで年に一度土山線で
DL+キハ101+キハ3+ハフ7 という編成を走らせていたと言う記事があったけど、
こんなの走ったんだ。見たかったな。さらにハフ5もつけた4連もあったとか。
寺田裕一が廃止前のハフ7+ハフ5を珍しい!と紹介してたけど、それ以上だね。
地元の癖に知らなかったのか。
>>301 別府は払下狙ったのかな?ひょつとして資材不足にも関わらず播丹時代からの国鉄関係者が
旧知の別府が欲しがるか?気を利かせて留置したのいかな?
戦争が8月15日に終わってくれたのも野口線のレールをふんだくられ供出寸前だった別府にとっては、神がかりった。
>>303
今販売中の鉄ピクアーカイブスセレクション19私鉄車両めぐり関西では、
24ページに2号蒸気機関車+ハフ6+ハフ5+ハフ2+ハフ3+ハフ1+ハフ7+キハ3+キハ1+キハ2
で海水浴客が鈴なりに乗車しているモノクロ写真が載っている。
>305
303です。みたみた!あれはすごいね。ブレーキとかどうしたのかね。
海水浴でにぎわったのは何かの記事で呼んだことがあるが、
あそこまですごい編成だったとは。
こんなのは過去の話と思っていたけど、京大鉄研号で廃止直前まであったのを知った。
あそこまですさまじいものではなかったが・・・・ 野口線に藤原製作所前と言う駅があったのだが
そう言う名前の工場はどこにもなかった。
70年代末の思い出でつ。 もう少し廃業が遅ければ、キハ3も三岐鉄道開業時の生え抜き車両だから佐久に還ったキハ2みたいに
同社が引き取り、近年開設した貨物博物館の車両達と一緒により善い環境で復元保存されたと思うのは俺だけかな・・・。
戦前の民鉄形ガソリンカーの中では、大分交通の耶馬渓 キハ101〜104と同様
多数が動車で後年まで生き残れた稀な事例だったのに・・。 土山線→野口線の乗り継ぎで小一時間あった。
「構内散策してもいい?」って聞いたら「好きなように見ろや」と快諾してくれた。
今更だがスレタイ良いよね、俺は神話に遭遇出来たよ。廃止時もなんかマッタリとしてたな。一部残ってたB型硬券が黄色のA券になってたよ。 1984年11月26日に最後の訪問をしたけど、鉄がわんさか居て、職員が殺気立ってたぞ(怖)
庫のそばなんて近寄れる雰囲気でなく、入れ替えしてた職員が「おまえらが騒ぐから、仕事にならんのだ!」と、DBの握り棒につかまりながら怒鳴り散らしてたのが、残念な最後だった。
84年11月ってもう線路が無いよ、それはそうと確かに末期は職員さんは多少イライラしてたけどオタの罵声大会とか無かったよ。俺が最後に訪れたのは1月15日で貨車は無かったからか? 別府鉄道への別れを惜しむかのような大雪となった、あの伝説の最終日に訪問された方がいらっしゃいましたら、思い出を語って頂きたいものです。 ああ、あの雪で山陽本線の時間が無茶苦茶で土山にたどり着くのにも苦労した記憶があるな。
最終日は判らぬが、その年の元日東京へ帰るのに山電のホームで電車待っているとDL+ハフ7の編成が
静かに別府駅停車する様子が見えたな。もちろん乗客は0。背後は0系の驀進音が響き、好対照だった。 そしてこの日、西尾克三郎氏が静かに息を引き取られた。 スポーク車輪ってまだ使っている会社あるのかな?
住金の製品(国内独占)リストに入っているの? 昭和40年代だったが、I機関区長が偶然に俺が一時在学した学校の先輩だと
解ってクラの中まで全部見せてくれた。
あの時代はまだのどかさが残って居たし、土山線が中野を殆ど通過していた
のを覚えている。
別府鉄道が、高砂線の到着を待って出発していた感じ。逆もちゃんと合わせてた
ように記憶している。ホームは島式みたいなもんだし 野口での接続が良すぎて撮影してる時間がない…
という記述をどこかの本で読んだ事がありますね。 徹底的に合理化した上で、
東北・北海道方面への出荷用に貨物専業で残っていれば違っただろうに。
>>320
中野は文字通り野原の真ん中で、なぜ駅があるのか不思議だった。 >>324
国鉄の接続駅が貨物取り扱いを止めたから
廃止に追い込まれた。
このあたりの経緯は加悦鉄道の廃止と似ている。
>>326
確かに。もしも貨物輸送が続いていたならば、残っている路線もかなりあると思う。 硫酸コンテナ載せたコキ200の後ろにしがみつくハフ7・・・なんてなw >>328
ハフは 混合列車の客車としても緩急車としても使えそうだね。
噂に聞いた古い緩急車と乗り心地は一緒だったよ ハフ7
レールの継ぎ目なんか、バネが無いかのように拾って走ってた >>330
どちらも単軸だしね。
かえって荷物満載したワフの方が乗り心地よさそう。
ハフの乗り心地は想定内だったが、南部縦貫のレールバスに乗った時は怖かったよな〜 >>332
県道すら砂利道レベルのバスもあんなもんですよ。 >>332-333
あれはとにかく軌道状態が…
別府は貨物が多かったから並のレベルをクリアしていたけど、
縦貫は昭和40年代以降であれより劣悪なのは
旅客営業鉄道としては恐らく寿都か北丹位しか無いと思う。 遠足で大中遺跡に行って
非常掛けさせて機関士にお目玉くらったのはないしょの話
(元平岡小学校在籍) >>334
つ南薩
まあ北丹・寿都には負けると思うが…。 大中遺跡の保存車は事務所で鍵を借りて車内見学も出来るんだね。しかも記念スタンプやパンフレットもあるし。
あれは訪問する価値大ですな。 南薩は、夏は草ボウボウで前方視界が相当困難な場所もあったみただけど、
置石等の軌道支障、人身事故、車両故障の際の乗務員の故障処置、旅客避難誘導はどう考えていたのだろう?
あの状態じゃ虫刺され、草による切り傷は勿論、蛇等 の問題があるではないかと思う。
そもそも保線という部署というか、担当職員が末期には不在だったのだろうか?
(車両等、設備全般で扱う) 南薩も縦貫も今の国交省役人が見たら腰を抜かすレベルだな。
本線の枕木が平気で腐っていたし、
軌間の精度が出ていない事が目に見えてあからさまだったしw >>334 336
一畑広瀬線も仲間に入れてやって下さい。 >>339
南薩線の枕木があんまりな状態だったのでシャレで犬釘を引っ張ってみた。
あっさり、するりんと抜けた。それも一本だけではなかった。
慌てて元に戻したがあれで大丈夫だったんだろうか?
それでも脱線させてなかったんだから大したもんでしょ
(非公式に色々やらかしてた可能性もあるけど)。
近年では大井川で軌間おっぴろげて脱線なんてのがありましたな。
最近、リアルに命の危険を感じるレベルのスリリングな路線
ってのが無くなってしまって寂しいもんです。 銚子が最後のボロ私鉄だったのかも。あの濡れ煎餅騒動は触って乗れるボロ鉄道の葬送行進曲として理解しなくてはなるまい。(今もギリギリだって?)
ところで銚子ついでに、別府の客車の乗り心地って銚子の澪つくし号と比べてどんな感じ?別府は乗ってないけど澪つくし号なら乗った事があるので。 別府鉄道は、そんなに軌道の状態が悪いようには思わなかった
野口側のDCなんて普通のローカル線の乗り心地
土山側は単軸の客車が、乗り心地がひどかったわけでDCを入れていたら、並みの
乗り心地だったのではないでしょうか