まさに神話の世界だった、別府鉄道を語ろう
大阪や神戸から程近い場所とは思えないような
ローカルムードに溢れていた
別府鉄道について、思い出などを語ろう!! 有名な温泉地の「べっぷ」でなくて「べふ」
多木化学の専用鉄道と言っても良い存在だね
国鉄との接続駅土山も小さな駅だがもう一方の接続駅野口もえらいひなびた駅だったなあ
一度乗りに行ったが土山線の客車はまるで明治村にあるような客車をつないだ混合列車
客は俺と同行の友人のみでした
窓の木枠が腐ってボロボロだったのが印象にあるな
乗車体験は他スレに書いたから割愛するけど
あのニ軸客車が保存されるとは思わなかった。
でも細部は復元されてない。
別府鉄道のマークは、多木化学と同じだったね。 別府駅の近くの公園に置いてあったキハ100って、
解体されたんだよね。 確かに神話というか夢の世界
1980年台でも残って乗車できたことが奇跡としか言い様が無い
2軸客車もそうですが、野口線の41000も同じく今昭和30年代?といいたくなるような状況でした >>7
飾磨港線(正確には播但線の末端)は、別府鉄道とは関係ナクネ? 別府鉄道は、基本的には多木化学の出荷専用線であって
旅客輸送は「地域還元・貢献事業」として行っていただけだし、
逆にそういう形態だったからこその車両状況だったんだろね。
旅客需要があれば、少なくともあんな酷い接客サービスで
利用者が納得できる訳もなく、最低限の車両更新はしただろう。
それにしても末期の軽便以下の布陣だもんなぁ>土山線 高砂線の時間が悪くて土山線を優先にして野口にはいかなかったのが残念。
バケットカー、別府鉄道では本来の用途では使わなかったろうけど
戦後とかの混乱期に中の荷物が持っていかれたりとかはなかったのだろうか。 信じられないだろうがピクトリアルに2号蒸気+ハフ6+ハフ5+ハフ3+ハフ1+
キハ3+キハ1+キハ2という海水浴臨時列車の写真がある
別府海岸は遠浅で海水浴、潮干狩りでにぎわったそうな もし、今でも残ってたら
究極の保存鉄道になってたかも・・・。
ま、無理か。 16輌編成の0系ひかりが轟音上げて背後を通過する中、
客も音もなく土山からの客レが止まる姿を山陽のホームから
見ていたよ。 117系シティライナーの新快速が疾駆する傍らで
来る筈の無い客を待ち続けるオープンデッキの2軸客車。
その時代的に隔絶された空間を見てみたかったな。 ひとりじゃなく、鉄研団体でしか行った事ないのが悔やまれる orz
あれは、もっとのんびり見たかった&見ておくべき物だったよなあ。 廃線跡(松風こみち、だったかな?)の整備費が、物凄い金額だったそうな。
それだけの金があれば、鉄道が維持出来たんじゃないの?
と当時は揶揄されてたな。 >>14
時代のアンバランスの極限です。
オープンデッキのハフ7の乗り心地は、遅い割に異常に悪い。
座席も木造ベンチと記憶で、絶え間ない震動が座っていて下半身から伝わってくる。
台車と線路の問題?
3月でしたけど、もちろんデッキにも立ってみました。
別府港⇒土山は貨車なしで乗車。
その折り返しは土山から少しはなれて構えていたら混合列車で、構図見直しで慌てました。 廃止がとり立たされる以前のこと。
土山駅の国鉄出札口で恐る恐る「別府港まで」と言ってみたら、
立派な別鉄硬券があっさり出てきてほっとした。 >>17
乗り心地もひどかったけど、貨車の連結の仕方も荒っぽかったな。
乗り終えて車内で余韻に浸っていたら、いきなりガッシャーンとやられて、
椅子から床に転げ落ちたのも、今となっては良い思い出だよ。
ハフ7は、毎日あの衝撃に耐えていたんだよな。 初めて訪問した時、野口から別府港まで乗ったが、野口駅で待っていたのは
元国鉄→片上のキハ100。
バスケット付きのキハ2か3を期待していただけにがっかりしたけど、
今振り返るとキハ100でも貴重な乗車体験だった。 そういえば、終点の別府港から先に延長する話があったっと地元の人から聞きました。なんでも工業地帯か製鉄所の方面だとか・・・。途中にあった川重のタンクは甲種してたのかは誰かしりませんか? >>18
A型の青い硬券だったような覚えが。
車庫も見学させて貰えたな。
ダブルルーフ二軸客車と機械式気動車は貴重だったが、加古川のキハユニ15も珍しかった。 別別坂円藤野
府府 長原
港口井寺前口
●−−−−●特急
●●−−−●快急
●●−●−●急行
●−−●●●通急
●●●●−●準急 ハフ7は、大正末期につくられた木造二軸客車という点でも珍しい。 >>20
ちょっとズレますが、加悦でキハ08を期待していたのに、2度行って二度ともバケットカーが来てがっかり
超贅沢かもしれませんが、こんなこともありました
野口線は41000だけですね
ここと筑波鉄道で乗車できましたけどこれも十分すぎるほど貴重
>>22
加古川のキハユニ15ですね
3/6/9がいて、一段窓初期型の3、二次バス窓の9、そして赤坊主の6がいて全部貴重
全部正面が未改造で湘南スタイルでしたけど、赤坊主は大糸線の81の海坊主とともに異様な姿で強烈な印象がありました >>25
そうですか。俺は加悦でも乗車したのはキハ08でバスケットカーには
乗れませんでした。
>>26
どうも極端に期待すると、何故か外れたりするものなのでしょうかねw
バケットカーは、当時他でも乗車可能でしたでしょうか?
筑波鉄道に行ったのはもう少し前ですが、往時41000で復時がバケットカーであったような記憶があるのですがどうもハッキリしません
バケットカーに荷物があったりする貴重な機会は、当時でも稀だったと思います >>27
昭和52年に廃止された尾小屋、昭和47年に部分廃止された下津井電鉄(確かに
部分廃止までバスケットカーは走っていた)、玉野市営、昭和46年に廃止された井笠鉄道で
走っていた。 最新型の旅客車両が41000だなんて…、片上じゃこれが来ればラッキーだったのに…。 確か廃止の数日前の1月だったか2月には
雪が積もりましたな。
積雪のため駅なのか大きな踏切なのかよくわからんような構内でした。
あの時撮った写真はどこにおいたか忘れてしまいました。 >>17
「そらまあ、乗り物は一つも変わってへんでなあ。ゴットンゴットンゴットンとね。
乗り心地悪いですわ、ホホ。ガタンゴトンでしょ。」
と割烹着のおばちゃん。 >>30
確か最終日が大雪じゃなかった?
まあ平成生まれのおいらが聞いた話だから確証は無いがw >>30
廃止当日も大雪だったさ。
山陽本線のダイヤが乱れてて、土山〜加古川間の移動に予想外に時間を食った。
廃止日と同じ日、
形式写真の巨匠、西尾克三郎氏が逝ったんだよな。 現役当時でも、山陽別府駅とマンハイムあたりまでのの歩道状態だったな。
踏切通過のたびにタイフォン鳴らしていたのが夏菓子。 別府港の貨物の入れ替えが凄かった。
踏み切り番?が遮断機を手で直接持っていて、貨車の入れ替えの合間をみて
すばやく遮断機を上げ、人や車を通して、すばやく遮断機を下ろし、貨車を通す。
神業というかなんと言うか・・・ >>35
道路の交通量がおおいからだろけど、踏切はよく整備されてたなーとオモタ。 >マンハイム
そーいや目の前に平屋だけど床面積の大きいジャスコ別府店があったな。
別府駅跡にできたヨーカ堂に客を奪われたけど。 貨物列車に1両だけもうしわけ程度につながれていた客車をみた時にはビックリした。 廃止直前に乗りにいこうとして行く道中に突然行き先を野鉄に変更して結局乗り損ねた当時消防の漏れが来ますたよ 末期に本を売ってたよな。
買ったら別府港の車票モロタ。 最終日、別府港って記載のある車票の裏に
「雪により運休」って殴り書きしたやつ
が改札の所に置いてあった。
後日別府港駅にいったら捨ててあったんで
拾ってきちゃった 余談だけど、車票が何だかわからないって人、手を挙げて… ハフ3だったか?まるで叩き大工が板を線路と併行方向に張った様な客車
があったな。
それから早く廃車されたが元中越鉄道甲1型1号(国鉄1050)の3号機
が、100周年で店じまいしたイギリスのNasmyth Wilson製Cタンク。
連れの中越3号は今「礪波市のチューリップ公園」に保存(建物の中)。