1960〜70年代の路面電車総合 1系統
廃止された都市・路線はもちろん、現存するものでもOK。
懐かしい時代のの路面電車について語ってください。 RMライブラリー144号 145号は2分コラムで詳しい事は解りませんが
福島交通軌道線か名古屋市電 琴平参宮電鉄 秋田市電 山陽電軌 西鉄北方線
福岡市内線 荒尾市電のいずれか1つを紹介するみたいで、これらもいずれはやるみたい
でも144巻145巻以降は路面電車中心みたいです(稀に国鉄車両)
だから毎月21日はラッキーな日です。 >>461
戦後に開業した会社以外は皆ありましたけど? 貨物側線を持つ路面電車は多い。
それも砂利のような重量資材以外の、野菜とか日用品を運んだ路線は多い。
そして大半の廃止が早いので知られていない。 >468
戦後まで残った場合、概ね自動車が普及し始める昭和30年代に
入ると消滅してるようですね。
>>461
土佐電鉄も伊野の和紙を高知港へ輸送していた。 >>453
盛岡や鳥取の場合、県内に路面電車を有していた都市が他にあったけどね(花巻と米子)
盛岡なんて駅と繁華街や官庁街が離れているし、路面電車があってもよさそうなのにね。 >>472
花巻と米子には温泉があった。
盛岡は大正時代にすでにバスがあったので、作られなかったのでは?
鳥取は日本交通すら戦後の会社だし、謎だ。 >>474
そもそも仙台市電が昭和の開業。
盛岡と鳥取は仮にできていてもあまり路線網として機能しない程度の規模になりそうなんだよね。
よくある省線の中央駅と旧市街間の実質1本だけで面として伸びてないパターンというか。 鳥取はしょぼいけど盛岡は北東北一の大都会なんじゃなかったっけw >>477
秋田以上に雪対策が決め手になっただろうね。
あとはゲージの選択だな。 でも札幌にも函館にも、古くは旭川にも路面電車あったわけだし作ろうと思えば作れたと思う>青森盛岡 >>479
市電や郊外鉄道の免許・特許すらないのは発案者の不在だろうな。
だいたいこういう場合は篤志家が話を出して進めるものだが。 >>477
昔の青森空港が冬季運休で閉鎖だったように,路面電車は冬期間全面運休だな。
>>479
当時岩手一の実業家といえば金田一国士があげられる。銀行から電気会社、岩手軽便鉄道に花巻電鉄も所有していて花巻温泉開発に巨費を投じていた。
ういきぺであ参照
>>482
京助の義理のいとこだな。花巻より盛岡に力を入れていれば盛岡市電もできていたのだろうけど、金融恐慌でどうなっていたのだろうか? >475
> よくある省線の中央駅と旧市街間の実質1本だけで面として伸びてないパターンというか。
そのミニマムケースが桑名ですな。 >>484
当初計画通りすぐに拡張すればひっくり返せたんだろうけどね。
その後は近鉄に買収されるか市営化されただろうけど。 >485
なるほど。
北勢線が改軌されて直通してたら?とか
妄想が拡がる話でもありますな。 >>486
北勢線が1067mmに改軌されて桑名電軌と乗り入れていたら、近鉄合併後標準軌・名古屋線規格に改築されて名古屋から直通列車が走っていたと思う。
もちろん沿線開発されていまでも近鉄北勢線。
残る桑名電軌側だが、標準軌に一緒にされて路面電車として各種新車が導入されていたか、伊勢湾台風で廃線したかだろうな。
市営なら今でも桑名市電が名古屋市電あたりのお古を買って阿下喜まで直通していただろう。 鳥取に市電があったとしたら
鳥取駅〜県庁
鳥取駅〜瓦町〜裁判所
県庁〜(山陰道)〜鳥取砂丘
あたりか。
戦後日本交通or日の丸自動車が運営していたらそれなりに残ったかも。 大牟田といえば三池炭鉱の電機と電車型の客車が思い浮かぶけど
大牟田電車があった。鉄道雑誌の紹介は皆無に近い >489
ピクの過去30年間の西鉄特集増刊を丹念に探せば、どれかに載っていた気がする。 >>490
>490
たしかに車両についてはでているね。鹿児島本線をおーばくろすしていて電車が落ちて大破したとか
歴史は弱い会社の創立には長崎電気軌道の関係者がかかわっていたとか この前のピク特集にはダイヤが載っていたような。
電車も里帰りしたことだし。 RMライブラリー146号、147号は名古屋市電 それ以降秋田市電 琴平参宮電鉄
山陽電気軌道 西鉄北方線 福島交通軌道線 花巻電鉄 2度目 3度目の京都市電
都電 横浜市電 神戸市電 を今年度 来年度絶対にやる みたいだから路面電車の事
なら鉄ピクではなく共産主義者御用達の本RMライブラリーです
>>496
昭和12年にバス転換かぁ、ノーマークだった… 西日本の軌道は、車内券を収集のためにもう一枚、と申し出ても
決して売ってくれなかった、ようなことを、
故高松吉太郎氏が書いていたが、理由は何だったのだろう。 500げっと
「裁断箱」ってのは、下車時に渡した切符を
車掌がちぎって入れる箱のことなんだね。 正しくは「断裁箱」じゃない?
自分、30台後半だけど「高松吉太郎」って最近まで
「よしたろう」って読んでたけど「きちたろう」が正解なんだね 大阪市電2601形などは、大阪に居た期間よりも、広島時代の方が
長くなって久しいが、年代をあまり感じさせない。 昭和45年に、国道1号線でクルマから見かけた、
クリーム色と緑の電車は、豊橋の市内線だったのか… >>502
ただ下回りを見るとやはり年代を感じませんか? 筑鉄って新車入れないの?(いい加減 古いと思うのだが・・・・) 路面電車の場合昭和30年代生まれでも冷房つけてるしね。
車齢50年超でも保守さえしっかりやってれば問題ないかも。 広島はなんと戦前生まれの電車にも冷房をつけている。 低床路面電車で連接車走らせている会社って車輪の直磨の問題どうしているのか?どなたか知りませんか?
元々車両の構造上 車輪直径も鉄道より径が小さいくなるから持たないきがするし・・・
あと中間台車の心皿の磨耗が早い問題とか・・・・。
某社で困っているんだけど・・・。 >>513
某社で困ってることは某社で解決するだろ
お前はただのヲタなんだから心配しなくていいんだよ 西鉄の三車体連接は有名だったが
そんなに乗客があったのですか?
東京や大阪に出現しなかったのはなぜ? 東京に限れば都電には連接車は導入されなかったが、玉電には200形が導入されたことを考えると
法令上の問題で導入できなかった、という訳ではないと思う
トラバーサーを含む車庫の大改良が必要であったり
大都市東京というイメージに反して急坂や急カーブが多く、道路幅にも余裕が無い路線を多数抱えていた
都電に連接車は不向きだったというのが妥当なところではないか >518
> トラバーサーを含む車庫の大改良が必要であったり
以前ピクの都電特集に掲載された車庫構内配線図を見ると、間口が広いが奥行きの浅い車庫が多く、
またトラバーサへ乗らなければ他の留置線へ転線できない構造が一般的だったのが、連接車導入を
阻んだ理由でしょう。
。
1系統のような条件のいい路線であれば、土佐や京都、大分のような連結運転を採用しても良かった
かもしれませんが。 >517
八幡と戸畑の2つの製鉄所の最盛期は、相当なものだったらしい。
西鉄バスに「製鉄構内営業所」なるものが設けられていたくらいなので。
逆に言えば、この2つの製鉄所の縮小が、北九州線の命運を決めたようなもの。 >>520
北九州線についていえば、廃止要因は
製鉄所の規模縮小
道路の幅
西鉄のやる気の無さ
モノレールの存在(当時は全線置き換えを検討していた様子)
等が挙げられる >521
> モノレールの存在(当時は全線置き換えを検討していた様子)
そういや、計画あったね。
東西線に黒崎からのもう1つの南北線。
確か、東西線だけは懸垂式にするとかいう話だった記憶が。 >>518
東京は大都市のイメージだが溜池や赤坂などに割と急な谷(坂)が在るんだよな。
昭和25年頃の飯倉、溜池付近では満員のバスが坂を登らずに、
乗客が降りてバスを押して一緒に坂を上がったことや、
飯倉片町の坂を33系統、六本木通りの六本木-溜池の急坂も6系統が走ってたし。 東京で戦時中に旧4000形かなにかにバス流用のトレーラーを
牽かせて走らせる「親子電車」の試験をした写真を見た。
北九州線の衰退要因には、鹿児島本線が便利になったこともあるかも。 行き止まり終点が多い都電では、使い勝手悪かったのでしょう。
ループ線は、三田、千住とか一部の車庫にしかなかったし。
一方、「親子電車」方式の成功者・京都は、ターミナルの京都駅がループなのと、
主要路線が循環系統なのとで。 >>521
並行するJR鹿児島線の増発&新駅増加の影響も大きいな。
JRが増発&新駅増加したことで他都市における地下鉄のように
都市内の高速輸送機関として脱皮してしまった。
>>517
昭和30年代、製鉄所通勤でごった返していた朝の北九州線は45秒間隔だった時代もあるそうだ。 都電に連接・連結車は試運転以外には出なかったけど
戦前には5000形をTc-Mcの2両編成にする構想が市電気局内に存在したみたいですよ。
これが実現していたら終戦後の車庫改築や道路整備にも反映されて
都電が連接車王国になっていたかもしれませんね。 6500形も連結運転構想の下に設計されたと見た覚えありますが、
どの程度根拠のある話なんでしょうかね? 都電7000のデッドコピーの土電600は連結運行してたし
本家もやっていれば… >>527
仮に都電が連接車王国になったなら、戦後は片方がTcだから早晩、電装化されそうな予感。
5000形の連接車、名古屋市電2600形〜3000形みたいな感じの車体になるってことだね。 >>521
北九州と言えば貨物列車しか走らなかった北九州市営 彩流社の「路面電車の記憶」買ってきた。
個人的には見たことが無い写真が多かったので満足。 三線で貨物走らせてたといえば、川崎市電もそうだったと聞きましたがホント?
関係ないけど、いま松本駅から浅間温泉に行くバスは1時間おきですって?電車時代より減ったのでは。 >>536
〉路面区間ではなかった
そうでしたか、ありがとう。 >>538
デハじゃなければモハかw
冗談はおいといて
松電の木造電車は
上高地線→奇数
浅間線→偶数 >>535
バスになっても10分毎とか本数多かったんだけど
新しく浅間線と新浅間線を繋ぐ形で循環系統が出来たので
それから外れる浅間温泉は本数激減しちゃった ヨ-ロッパでは1970年代後半から1980年代前半にかけて製造された路面電車の外見が旧型と一線を画すスタイルとなった
路面電車が電気ガス水道と同様の社会インフラとして位置付けされているからこそであろう ドイツではケルン〜ボンの郊外電車すら路面電車風の電車に置き換えられてしまった。
標準化、大量生産ということなのだろうか。
1980年代、2000年代(超低床車)と20年毎程度で車両陣が一新されたのは
まるで日本の私鉄電車(とJ束)みたいでもある。
都市圏の広がりの差なのだろうが、欧州の路面電車が担っている役割を
日本では普通サイズの電車がこなしているのかもしれない。 >>524
3117がバス車体を牽引する写真がどこかに出ていた 昔は蓄電池を充電するのに、架線電圧を抵抗で降圧してたんだな、勿体ない。 東京オリンピックまでに女性専用車の廃止させよう
<女性専用車両にはこんな女が生息しています>
東急東横線沿線に生息、女性専用車両を利用する男性客に暴挙謀略しまくりのおばさん
http://www.youtube.com/watch?v=Jf0qxSGr7fs&list=PL1k4xaNSVVuMH4s3w1YOTynHcO6CM1cgp
オリンピックで来日した海外の男性にまでも及ぶ男性への侮辱
女のわがままを許容してしまった日本の恥
男性を差別した悪質な女のわがままである女性専用車両をを廃止させよう ブリル21Eを伊予鉄道のモニ30だっけ?が履いてたが、
最近、同車は車体が溶断された状態で伏木に運ばれたと聞いた。
その後どうなったか誰か知らない? 反社会的企業「JR東日本」が行った男性客に対する悪質な乗車拒否作戦
JR東日本の本社職員・支社職員・駅員が行った
寝台特急あけぼののレディースゴロンとシートに乗車者する男性客への乗車拒否バリケードです。
男性を侮辱した人権侵害の一連の模様をご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=taqjOajeu5E&list=PLZFU6ES8QfYprxusuhSXsAQcvu5y6y40q 1970年4月から1973年5月まで札幌在住。中央区宮の森にいたので
1系統の円山公園から西4丁目は幾度となく乗車した。 都電6000・3000・4000形の相違というか付番の際の区分けの定義は何だったのだろう?
一応6000新造
3000(旧3000)の車体更新
4000(旧4000)の車体更新
というコトになっているが、6000の初期車は3000の改造名義で台車も流用している
3000には、王子買収車が種車や新造車もあった
4000にも種車に王子買収車がありまた、種車の旧3000,旧4000間でも車体更新以前に一部は改番や形式編入をしている すみません、最後まで残ったダブルポール使用路線はどこですか?
戦後で、東北方面だったと記憶しています 秋田市電くらいしか思いつかん
でも二本挿して走ってる写真は見たことない 秋田って2本ついてるのは戦前のをそのままにしてただけで
戦後はそういうふうにシングル使用だったんですね。勉強になりました
本当に最後まで、ちゃんと旧来の意図のままで
ダブル上げてたところってどこだろう。
戦後早期とかだから、もうすでに知る人がいなくなってるのかな。 秋田市電は車庫で休んでいる時もポールを上げたままにしてたようで
古い写真を見てるとそういうのが多い
よくないことだそうだ >秋田市電
吉川文夫さんが東北紀行みたいな企画でチクッと書いてましたね。 >558
どういう点が良くないのか教えてくれまいか。 えらい亀レスだが最後のダブルポール電車は
山梨交通電車線ではなかんべか
1954年にビューゲル化しているんですが 前に東京南砂に住んでいたが、かつて都電砂町線というのが走っていたらしいね。
あれがあれば、亀戸までスムーズに行けたんだろうか。 明治通りが上下線とも湾岸道路方面の車であふれてるから
残念だがまともに走れまい