1960〜70年代の路面電車総合 1系統
廃止された都市・路線はもちろん、現存するものでもOK。
懐かしい時代のの路面電車について語ってください。 >>27
いまだに嫌いな車両が出て来ると漁礁に汁!と騒ぐ漁礁厨はいるけどね。 >>20
路面電車先進国といわれるドイツにも、
意外とそんな感じの電停、多いんだよなあ・・。
もっとも乗り降りが終わるまで、クルマの交通がシャットダウンされるようなところとかもあったり。 阪神国道線は、安全地帯が無かったので、乗車時には、車掌が窓から出した赤旗
を合図に、側道から電停めがけて走っていった事を思い出します。
ちゃんと車は止まってくれたものの、怖かったですよ・・・ 路面電車の置かれた立場を象徴するような光景ですね。よくここまで復権したものです。 岡山電気軌道の清輝橋線が共同溝工事のため
路側を走ってた時期があった、なんてのももう「懐かし」では。 ビミョーにスレチかも知れんが、鉄道線の電車が路面を走る光景は迫力あったな。
ワシの記憶では山陽の兵庫〜長田間、
モハ63改め700形の走行シーンが印象的だった。
もちろんその頃はモハ63なんて知識はなかったけどね。
後は黙っていても誰かが犬山橋・・なんてのももう「懐かし」かな? 別大線の電車で岡山に行ったのがあって何度か狙ったが乗れなかった。
車体更新され見る影もないうえ、自動加速は引き継がれなかった。
松山には和歌山から来たのがいた(すでに無い)が、
いつ行っても車庫の中。ちらりと覗けた木目の化粧板の内装に萌えた。 他都市から名古屋に引越してきた者です。
昔、名古屋にも路面電車が走ってたみたいですが、その時の様子を知る方いましたら、教えて下さい。 >>35
機会があったら、地下鉄赤池駅から少し歩いたところに、
レトロでんしゃ館?(市電・地下鉄保存館)という
ちょっとした博物館があるので訪ねてみるのもいかがかと。 西日本の路面電車では、記念に、といっても決して余計には切符を売って
くれないと、故高松吉太郎氏が書いていたけどやっぱり本当ですか?
言われてみれば嵐山電車と京津線はそうだったような気がします。
私が乗るようになったころにはあらかたワンマンカーになっていました… >>39
京福も京津線も断られた事無いです。趣味発売の可否は販売員によりけりです。むしろ関東の私鉄の方が買いにくい印象です。西日本の軌道は乗換え券なんかはタダでくれる会社多かったです。 >>40
ご教示感謝です。
その時、嵐電では無効印を押してもらい、切符をいただきました。 函館市電の500形は、前扉のドアエンジンが最後まで電磁弁ではなく
運転台からの空気コックの操作で開閉していた。
両替機もわりと後まで機械式で、運転士は終点で折り返すとき
両替機、運賃箱、回数券のカバン、逆転器とブレーキのハンドル、
上述のコックハンドルなどを持ち歩かなければならなかった。 >>24 >>25
ちょっと前まで漁礁として電車やバスを沈めてた。
が、
鉄の厚い船などと違い薄い鉄で出来た物は魚が長く根付く漁礁となる前に崩壊しちゃうので、
たんに海中投棄と代らないと判明したから。
同じ理由で航空機も沈められなくなった。
昔、バスや路面電車に木をくくりつけて沈めていた。
他の問題点は崩壊が早いのでダイバーが車内徘徊してる時に崩壊されてら困るからとも。
漁礁として沈められた電車やバスを探検するのが多いんだとか。
今、漁礁として沈められるのは船の他、戦車や工場プラント物など。
厚めの鉄板で出来ているのがほとんど。 >>43
魚礁化中止にはそんな理由があったとは目からウロコです。
最近ではニューヨークの地下鉄の中古が沈められてたけど
鉄板も厚いのだろうし、ダイビングスポットにはなりにくい洋上だったかも。 仙台住んでたから仙台市電しか知らんかったのたが…
日テレのドラマ「水もれ甲介」で都電荒川線がよく出たが,警笛がタイフォンなのにビクーリした。
路面電車はずっとエアーホイッスルがデフォだと思っていたので…。 阪堺はタイフォン(別名景気のええラッパ)からバス用ホーンに。 >>44
横入りだが、ニューヨークの地下鉄は1960年代からステンレス車の導入をしている。
それを漁礁として沈めているから鉄鋼車よりは漁礁として長持する。
豆知識だが、ニューヨークの地下鉄で1983年から導入されたR62車輌は神戸の川崎重工が製造。
新しいR142S、R143、現在も納入されているR160Bも川崎。
最新車輌は神戸と米国、二箇所で製造納入されている。 さすがに沈められたニューヨークの電車は1940年代の鋼鉄製車両だった。板違いハゲしくスマソ 漏れの思い出は阪神甲子園線
上甲子園から浜甲子園迄金魚鉢が走っていた
甲子園に野球を観に行くときとか三ノ宮のデパートに連れて行くときなんかに良く乗った
あの頃は歩道もアスファルトじゃなくて敷き石、広い電車道から一歩入ると砂利道だった
万博の頃の事でした >>50
たまたま甲子園に出場することになりいやいや夜行の応援バスに乗った球場
の近くの駐車場におりたがそこからつかわれてない線路がのびていた
もしかしてあれがそうだったか
NYの地下鉄車輌、古いステンレス車輌も一部は廃車されてるよ。
逆に鋼鉄車輌の若い年数の一部は残って営業運転してるし。 横浜市電のポイントが、係の人もいないのに切り替わるのが不思議だった。 岡山電気軌道の清輝橋停留所には、電車の接近を知らせる黄色いランプが
他都市で同様のものがつく前の早い時期から設置されていた。
曲線で見通し悪いから、待ちくたびれさせない工夫だろう。
横浜市電の桜木町にもそんな装置があったそうだが、写真で見ただけ。 俺の地元、和歌山も市電はヤ●●の女に手を出したのごとくw
海に沈められました・・。
ところで阪堺のボーコレクターっていつごろまで残ってたっけ? 鹿児島市電の700形(大阪市の3001を連接にしたヤツ)に狙って乗った。
うしろの方に乗っていたらけたたましい気笛が。
女子高生が後部運転室に積んだカバンが、気笛のペダルの上に
崩れたものとわかった。 私の思い出は名古屋市電。
市電の沿線に一時いた関係で、就学前には毎日見て育ちました。
1400型などが大きな音を立てて走っていくのや、1900型の静かさ、
軽快な800型のかっこよさをよく覚えています。
1550型以前は白熱灯にニス塗り、青モケットでしたが、この白熱灯は
通常の電球と管型がありました。
1900以降は蛍光灯に明るい塗りつぶしの車内、エンジのモケットでした。
時々連接車にも乗りましたが、連結部の大きな丸い渡り板?が印象的でした。
これらは今でも赤池のレトロ電車館で見ることができ、(1900はなく2000ですが)
「よくぞ残してくれた!」と思います。 >>58
本でしか見たことがなかった名古屋市電2000型
台車部分がスカートで覆われてスマートな車体で,あの時代のPCC系の電車ではこれが一番と思っていましたが,この5月に初めて赤池まで見に行ってきました。
大きな窓,それを更に大きく見せるため窓枠すら省略されてる箇所もあって,細やかな設計に感心。
自分が住む仙台市の最初のボギー車になる筈だった車両が,注文流れで名古屋市電1070型になったものの,車体幅が狭くて嫌われていたこともわかりました。
>>59
アレは俗に言う注文流れじゃなく、割り当てを受けて作ってたら
名古屋が産業戦士輸送で大変どころの騒ぎじゃなくなったんで
仙台分全部と呉分約半分が取り上げられたというだけですから。 >>33
交差点に停車中のは6000かな。
横切っているのは8000。
あと千住の都バスと京成バスが出ていた。
都バスはキャピクリの旧塗装と美濃部色。 >>58
2000型の窓枠の省略は、私も赤池で現物を見て初めて知りました。寒くなかったのかなぁ。
自分はPCCといえば都電の5000を思い浮かべます。(現物を見たことすらないのですが)
それから、仙台の市電の名古屋の少し後になくなってしまいましたね。確か緑を主体とした塗装の
スマートな車体の電車がRJあたりに載っていた記憶があります。
>>60
どの本を見ても「注文流れ」としか書いてないので、そのような裏話があるのは初めて知りました。
それにしても「呉」をもじって900型、「仙台流れ」をもじって1070型というのは、シャレがわかるというか、
いいかげんというか・・・。 都電のPCCは5500形なんですが…(ボソ
大型だった都電5000、見たかった… >63
都電の5000は大阪市電的な大型車両で量産計画もあったのに不景気で中途半端な数量に。
>>50
俺の親の田舎は浜甲子園だったから阪神甲子園線はよく乗った
甲子園駅と浜甲子園駅には立派なプラットホームもあって
結構乗車率良くて廃止直前も12分間隔で走っていたんじゃないかな
廃止と聞いたときはえええええという感じだったよ 沿線住民は大反対だった様に思います。甲子園駅から浜甲子園までは、乗客多かったですしね。
車両の整備状態も良く、残そうと思えば残せたと思いますが、給電設備や整備環境等の問題で、同じく乗客の多かった
北大阪線同様に、廃止の選択を取ったのだと思います。 >>56
ボウコレクタは昭和40年代末まで205型に残ってたよ。大型車の更新が先で、小型は後回しになったからね。 Yゲルなんて呼び方もあったようですね >ボウコレクタ
最後までつけてたのは富山の3530あたり? 殆んど営業用違うだろ。それなら阪堺のTR1も最近までボウだったぞ。 >>56
あれは当時お魚のアパートに再度のご奉公と新聞に出てたから、ヤ○○にひっそり沈められた訳じゃないってw 他のスレで東京の都電には事業者側により保存された車両が少ないと
書かれていたが、戦災前の青山車庫にはお宝が眠っていたのかな?
「内国勧業博覧会のスプレーグ式電車」だけかな? 路面電車は、停留場・車両ともにリニューアルが後手に回りすぎた。
リニューアルもなにも、生き残るだけで精一杯だった時代があった。
関係ないけと、終電車の方向幕が赤だったところって
都電と土電のほかにあった? 横浜市電とか? >>79
古いままでも車に邪魔されず普通に走れればねえ。 阪堺の終電字幕についてありがとうございます。
最近はPTPSなんてのもありますし、路面電車にも導入例がありますが
直線側の電車優先信号、歴史は意外と古く(昭和28年に特許出願?)、
東京はそうなってたらしいんですが、
交通信号が昭和35年に交通局から警視庁に移管になって廃止だそうな… こないだ阪堺電車乗ってきたけど、
何気にあの鉄道は良く生きているなあという感想
なんか設備が他の路面電車に比べて古いのがそのまま生き残っている
普通鉄道を乗り越えるところなんて今時珍しいかも
正直町並みも古いというか以下略..... 古いのが生きていると言うより、昔が最先端の軌道だった過去の遺産のお陰と言うか。
堺のLRT計画がずっこけたら路線の存続すら怪しいが。 電停、車両ともに近代化を怠ったのは事実だ。
何といわれようと早く改革に着手すべきだった。 >>87
それは歴史の後知恵やね。「何と言われ」たら、どのように相手を説得するのか?
地方の場合 軌道系交通が斜陽になった時代は、
バスに更新する方が圧倒的に費用が安く収益性も高かったから、
路面交通の近代化の回答がバス化だった。
大都市の場合 軌道系交通の近代化は地下鉄建設が進められ、
優先度の低いところはバスで近代化を計り、地下鉄の補完も担わせる事にした。
地下鉄建設に多額のの費用が掛るから、路面はバスで一元化して、費用対効果を追求した。
当時は路面電車は斜陽産業だったから車両メーカーも新車開発を殆んどしていなかった。
(大都市での廃業が多く中古の供給が山ほどあったから)
そんな時代に車両の近代化やシステムの近代化を構築しようにもノウハウを持っている所が無い。
結局路面電車の近代化はエコロジーが叫ばれている今しか出来なかったという話。
これすら一過性のブームで終わるか、永続的な採算性が見込める分野に育つかまだ判らんが。
繰り返し言うが、路面交通を近代化できなかったのではない。
当時考えられていた最も簡単で効果的な近代化の手段が路面電車の更新ではなくバス化だっただけ。 大半の路面電車のバス化は定時性の喪失により失敗に終わったけどね。
この時代に路面電車活性化の手を打てなかったことは、どうしても悔やまれる。
広島や松山のように地下鉄を必要とするほどの規模でない都市はちゃんと路面電車が存続しているから、
時代の趨勢に流されやすい日本人気質の中ではよく残ったと逆に感心する。つまりムードではなく、ちゃんと費用対効果が冷静に計算されたと思われるから、
これはこれで良かったと思う。
まあ、大分や和歌山のように一般人から見て残念なところも有ったのも否定はしないけど、
残せなかったところは、内部的に何がしかの問題点を包含していたのだろうと思う。
路面電車不要論は大都市ほど酷かったように思う。
その点でいうと広島はよく残せたな。 札幌はオリンピックが無ければもう少し路線残ってたんだろうね 岐阜のマイカードライバーは、安全地帯がない停留所での
路面電車が乗降中の一時停止をよく守っていましたね。 岐阜はあかんやろ。岐阜市議会の廃止決議まで通っていて、名鉄でなければこの時代に廃止だ。
広島は地下鉄計画や軌道敷の高架道路化計画などがあった。100万人都市で路面電車が基幹交通として残ったのは奇跡といえる。
そう。ゼネコンはウハウハ。
広島は地下鉄のパンフレットまで作っていた。路面電車はルートを変更してデルタ南部の一部分のみにする計画になっていた。
路面電車の廃止は近代化以前より交通麻痺によるダイヤ乱れ+架線施設による都市景観で廃止された要素が大きい。
住民にしたら電車なのに時間に正確で無い、架線が景観を醜くくしてると言ってたし。 軌道敷を車から守り大量輸送機関の路面電車を育てるのが行政の仕事だろうに。 渋滞の対策で「クルマの通行台数も」規制するという当たり前の事を実質的にやらなかったしな。(今もだが)
当時、というか高度経済成長期以降現在までの交通政策は、結局クルマ拡張政策でしかなかった。
実際、市電を廃止して渋滞問題が解決した例を寡聞にして知らないのだが。 市街地を「通過する」車が多い都市ってのは結局車が通るだけになるからねえ。
車拡張にしろなんにしろ、車をうまく逃がす工夫をしなかったから集中しすぎるんだよな。
道路は渋滞してるけどシャッター街というような地方都市の場合は特に街に用のない車が集中してるんじゃなかろうか。
車のために何かやったわけでもなく、車が増えるのに対して何も政策をしなかったというのが正しいかな。 実際、何処の都市も車台数増大により交通麻痺によるダイヤ乱れが深刻だったし、
何より架線施設による都市景観、交差点上では蜘蛛の巣になった!
これらの理由に施設維持費用もバスと比べ増大したので市電廃止された。
同様にトロリーバスも施設費用と架線問題で廃止された。
廃止された頃って、効率優先で公害問題も出てたけど誰も市電やトロリーバスを環境に結びつけなかった。
何しろ1970年で車の保有台数の飛躍、それによる税収、交通事故でも絶頂期を迎えた。
この波に逆らうことは出来なかった。
廃止前の1960年代後半でも渋滞時、軌道内に車は入らないでください!と宣伝してても、
平気な顔して車やトラックは入って走行してたし、バスも渋滞になると軌道内を走行してた位だった。 それでも持ちこたえた今の路面電車たちは極めて優秀だよ。
賞賛に値する。 路面じゃないからスレ違いだが主要国道との平面交差を理由に
道警に廃止勧告された定鉄なんてものもあった訳で・・・ 逆に嫌われるほど人気があるというしね。運転士に対して、安全で利用しやすい市電をなぜ廃止するのかと、食って掛かる市民も多かったらしい。 鎌田彗が推測してたが、各地の市電廃止ラッシュには廃線撤去事業の土木利権が絡んでいたかもしれない。代替路線としての地下鉄建設の利権なんかもプラスされる訳だが。
今の時代に例えればこんな感じか。
市電=地方在来線(の優等列車)
地下鉄=整備新幹線
各地の市電が相次いで廃止された理由の一つに運転者の人件費だという説が
あります。つまりバス化すると、バス運転士の方が人件費が少なくてすむと
いうのです。
たしかに、電車の運転士には高給取りが多かったかも知れませんが。 >111
昭和50年代入ると共同溝工事をするようになったから、
土木関係で動く金額は地下鉄がなくとも大きくなりましたなぁ。 >>111
それはないんじゃないかと。
路面電車が廃止された昭和40年代は
公共投資が目白押しだったので、
そこまであこぎになって仕事は取って来ないんじゃない?
まあ、一切ないとは言い切れないけどさ。
政界を揺るがした疑獄事件は戦前からあったしね。 いまの世界的な自動車産業の崩壊を見ていると、この当時の路面電車と同じだね。
嫌われまくり。 >>114
軌道施設は道路管理者に無償譲渡すれば撤去義務は免除されましたしね。 今年後半の急激な自動車産業の崩壊は予想できなかった。
この時期の路面電車と重なる。 >>112
そのときは確かにそうなる。当時の給与体系は年功序列だから、
一度縮小の計画が出れば(実行されなくても)若い新人の採用を控える。
→平均勤続年数が増えるということは平均賃金が高くなる。
歴史が長いし、路線網もできているから年齢の高い人も多い。
バスは、当時路線網を広げる最中だから勤続の長い人は少ないし、
若い新人をたくさん採っていたから平均勤続年数も短いので平均賃金も
低いしね。
いまはその若い人がみんなオッサンになって勤続=賃金が高くなってる。
で、分社化やら委託やら嘱託やら廃線やらになってるのだけれど。
自動車産業の衰退が凄まじい。かつての路面電車を見るようだ。 しかし一時的にせよガソリン価格が倍近くまではねあがったのに
第一次オイルショックのときのような公共交通への回帰が
起こらなかったのはなぜだろう。
それだけむかしより可処分所得の割合が増えているのかな? >120
公共交通を使う苦痛>自家用車に乗る苦痛 という考えなんだろう。 >>120
電車はともかくバスはまともに使えないイメージが強いんじゃないかと
みんな車から転移すれば道路空いてまともに動くようになるんだけどね理想論だけど 自動車業界全滅!の見出しが踊っている。
路面電車はどうなる? 「廃電車レクイエム」戦後次々と廃止された路面電車たちの保存されたその後を
写した者だがシュールだね。
過去が懐かしくなかった時代にというエッセーは違った見方をおしえてくれる カラーブックスで、消えゆく路面電車という特集があった。
消え去らなくて本当によかった。