1960〜70年代の路面電車総合 1系統
廃止された都市・路線はもちろん、現存するものでもOK。
懐かしい時代のの路面電車について語ってください。 >>161
昭和40年代でも後半は全面広告車がいたよ
特に初代さんふらわあ就航記念の広告車は良かった。
真っ白い車体に車体裾部だけさんふらわあの喫水線に合わせた緑。
それにでっかい太陽マーク。
宣伝文は最小限に抑えた広告車は秀逸だった。
まあ、遠くからでも一目見ればさんふらわあの広告というのは分かるデザインなんだが。
50年代に入ると条例で鹿児島市電の全面広告が禁止されたから、上半分が一般塗装
に戻されたのには萎えた。
広告主のセンスが良ければ全面広告車も悪くないと思う。 松山の市内電車から全面広告車が消えたのはやはり条例ですか?
熊本ではまた復活させてしまったけど… >>162
カーフェリーの外装であれだけのインパクトと知名度の有った船無かったからね。
広告塗装車の最大のヒットは南海大阪軌道線の立石電機だね。 >165
オムロン・雲電車だね。
近年復活した時、緑の雲が復活しなかったのは残念。 今残っている161型は旧緑の雲電車が殆んどなのに皮肉なもんだね。 標準塗装は濃緑一色なんです。
オレンジ雲 高性能エアサス車
青雲 旧連結対応旧型車ワンマン車
緑雲 旧連結対応旧型車ワンツーマン車 南海軌道線が連結運転した実績はあったのですか?教えてクンでスマソ そうですか、それはどうも。SMEブレーキが多いなとは思ってましたが… >170
つttp://www.tombow-shuppan.co.jp/img/094.jpg 連接車と連結運転は違うだろ。
和歌山のは南海合併前に作った車両だし。
南海の連結運転は平野線の恵美須町〜平野 南海和歌山軌道線の海南側の画像ありますか?
市駅〜本町通〜和駅や和歌浦付近の写真は見たことがあるのですが
海南寄りのは一度も見たことがない。
興味なかったのかな。野上電鉄との連絡電停とか。。
あったら萌えるんですけど 連絡電停って言っても紀勢線を挟んで200メートルは離れてるぞw
野上電車前じゃなく野上電車口か野上電車道だな、あれは
萌えない萌えない まだ海南駅前の方が風情が有ったな。駅前の広告アーチもあったし田舎軌道の電停って感じが滲み出てたね。
野上電車前は、和歌山バスになってからも、廃線までそんなバス停名だったな。 で、結局画像はないの?
関西の路面電車で数多くの撮影資料を残しておられる小林庄三氏の作品にも
海南方の記録はない。撮影地に適していなかったのか。
でも>>178によればそうでもなさそうだし。 小林庄三っていつも同じ場所でしか撮らないし〜。
>>173の本でも住吉交叉前後 我孫子道前後 寺地町付近が殆んどだし。
平野線沿線なんて廃止直前以外の写真皆無に等しいし。
和歌山軌道線の写真に海南付近が少ないのは、
海南線に入らない車両が有ったのと単に撮影効率が悪いだけだと思うよ。
琴の浦のトンネルと紀勢本線との併走くらいしか見所が無いからね。 >>182
そういう事情なのか。
教えてくれてありがd。 みつけた「和歌山の汽車・電車」和田康之著P186海南駅前電停に停車する324号 みつけた「高橋弘作品集3路面電車懐かしい仲間たち」国鉄海南駅側から望遠で
停車中の電車をとらえたもの。この電停から駅川へ道路が狭くなっているのが、廃止後に
なってものこっていたなあ 「和歌山軌道線 画像」でググると「向日葵」というタイトルの個人サイトがヒットすると思う。
ここに数枚の写真がUPされてるよ。
リンク禁止なのでここには貼れないけど、カラーで状態もいい。 和歌山軌道線といえば和歌山城をバックにした公園前交差点か、木造の信号塔があった和歌浦口、国鉄和歌山駅前の
3箇所くらいしか撮れる場所はなかったね。 電停に「駅前」を名乗りながら乗降場から駅改札口まで数分歩かされた海南駅前 >>187
少し道幅は狭いが海南や日方付近で普通に撮れたよ。当時は車も少ないし。
紀三井寺〜布引は専用軌道だったし。
>>188
海南駅前は一応駅前アーチの所だから踏切を越えてなお歩かされる野上電車前よりずっとマシ。
同じ南海の天王寺駅前の方が詐欺に近い。あれは近鉄百貨店前。 和歌山軌道線には野鉄と連絡するメリットなんか無かったように思う。 和歌山電軌が南海に合併された時、南海の在来車(阪堺・上町・平野線)と車番が重複する事は無かったのかな?
100番台、200番台、300番台は大阪にも和歌山にもあったはず。
あれは、ようするに紀勢線が開通する前の名残なんだろうな>>野上前。 >>191
同一事業者でも営業地域が異なれば番号の重複は問題ないですよ。
軌間も違うから車両の交流もないですし。
ちなみに戦前の合同電気時代は和歌山と三重(宇治山田市)で同時期に路面電車が営業されていました。 そういえば西鉄にも福岡と北九州とで重複ナンバーごろごろいましたね。 ケロヨン電車の異名もあった321形は新製後わずか数年で廃線になってしまったが
伊予鉄に行った一両以外はみんなお釈迦にされたの?
だとしたら当時の南海って結構鷹揚だったんだな。
というか、廃線になるほど経営が悪化してたとは思えないのだが。
国体道路整備だけが理由なのだろうか。 >>195
道路整備にかこつけて、行政側が撤去したがっていたんでしょう。
そういう意味では別大線も似たようなものかもね。
まあ、当時の南海は昇圧でヒゲ新を潰したくらいなんだし。 >>195
当時は路面電車退潮時代で引き取り手がなかったのと、和歌山の車両は収容力も小さかったからね。
もし大阪軌道線並みの車体巾と長さがあれば車体は大阪へ転用されてたかもね。 >194
500は大牟田・福岡・北九州で重複していた。 >197
しかも、当時の主な引き取り手は軒並み1435mm軌間だし、
改軌せずにすぐ使える余剰車もゴロゴロあったからね。 南海合併後に転入した三交神都線や秋田市交の中古車はいずれもケロヨン車同様に前照灯が2灯化されているね。
前方注視を容易化するためとはいえデザイン的には不恰好。
和歌山には特別な事情があったのかな。
併用軌道区間では却って自動車等の運転者に悪影響を及ぼすと思うのだが。 在来車に2灯車がないから、恐らく和歌山軌道線がずっと存続していたなら車両更新を機会に在来車の2灯化も施工したかもしれないね。
今となっては真相は解りませんが。
321型に関して言えば塗装のせいもあるけれどカエルみたいで愛嬌が有りましたよ。
当時のケロヨンの人気(ケロヨンは今見ると相当不気味だけど)の影響もあったのかな?
どちらかというとケロヨンではなくコルゲン興和のケロちゃんの方がイメージに近いんだけどね。
旧型車の2灯は本当に夜見ると不気味でしたが。 和歌山電軌の2灯化はトンネル内の保安度を高めるためだったと何かの本で読んだことがある。 >>202
在来一灯車の改造へ波及していないところを見ると緊急かつ必須のものではなかったということだね。
専用軌道で飛ばす所だったからねえ。
在来車は塗装も和軌時代を頑なに踏襲していたからね。現場は南海式の体質や仕事の進め方と合わなかったのかも知れないね。 >>204
>>現場は南海式の体質や仕事の進め方と合わなかったのかも知れないね。
それは実際にあった話のようです。知人の親が旧和歌山電軌の庶務経理部門に勤務していましたが、
その人の話では、旧和歌山電軌の人は合併後も南海社員の事を「大阪もん」と呼んでいたそうです。
管理系の職場にしてこの有様ですから、現場の意識はもっと熾烈なものがあったのかもしれません。
和歌山電気軌道の廃止は国体の道路整備にかこつけた組合潰しというのをどこがで聞いたけど、本当かどうかは別としてゴタゴタはあったんだろうね。 たしかに前照灯は和歌山仕様がいいが、
塗色はケロヨンの金太郎腹掛けの方が好きだったな。
ツートンの場合、上半分がクリーム系なら下半分は濃色の方が視覚的に落ち着く。
和歌山のブルーは少々薄すぎるように思った。 >>205
バス部門の話だが、和歌山電軌を合併してから13年で、結局和歌山バスとして再独立(100%出資の子会社だが)させるのだから
なにかとやりづらかったのだろうな。 和歌山市内線の話は今まで少なかったからな。
買収して10数年で廃止、新車も10年足らずで大半が廃車、それほど経営状態が悪いわけでもないのに国体道路の建設を理由にというのも?な点があるし、
南海としては念願の和歌浦進出だったはずなのにあっさりと切り捨てたというのは裏があったのだろうね。 南海は合併後ケロ電を7,8両新製投入したまでは良かったが、
その後の体質改善は結局他社からの中古車を買い入れてお茶を濁しただけだった。
特に秋田から来た4両は戦後生まれなのに三重から来た戦前生まれの車よりも乗り心地が悪く(音もやかましかった)、
利用客からは不評だったようだ。 >210
秋田のは豪雪地帯で痛みが激しかったのもあるだろうな。
三交はデザインは古臭いが作りがしっかりしていたようだ。 秋田の劣化が激しかったのは保守をろくにやってなかったかららしい。
秋田市交の経営が苦しかったためで、市営だからこそ60年代半ばまで走り続けられたのであって、もし純民営だったら高度成長期前に廃止されててもおかしくないようなくらいの低収益路線だった。
廃止後、市は一日でも早く市電事業の精算を済ませたがってた。
登場時はエース扱いだった60形も鉄くず同様の値段で売り払おうとしていたのだろうか。
南海はそこに目を付けた??でも、どうせなら呉に行った200形を買っておけば良かったものを。 >212
>もし純民営だったら高度成長期前に廃止されててもおかしくないようなくらいの低収益路線だった。
旭川市街軌道とか、箱根登山あたりが息絶えた時期ですな。
>呉に行った200形を
岡山だってば。 三重交通の車両が作られた頃は、和歌山も同じ会社だったしね。
だから三重の車は狙ってたと思うよ。
昭和40年代の軌道線の中古導入は大阪軌道線も同じだから、
長期低落傾向の軌道線に対する設備投資の抑制と、
木造車淘汰を急ぐ必要があったからだろうね。 >>213
失礼。
仰るとおり嫁ぎ先は呉ではなく岡山。
書き込む前には資料を確認しておくべきだった。
申し訳ない。 >213
しかし、旭川市街軌道のほうは単車とはいえ頑丈だったのか、他市で活躍したんだな。
秋田にも行っているのが皮肉というか。
旭川の場合は戦後軍がいなくなって客が激減したのが痛かった。 昔の公営交通(特に市電)の経営はデタラメもいいところだったらしい。
さすがに地下鉄となると投資が膨大だからそうもいかなかったが。 都会の路面電車の公営化は住民のためというよりは、
都市部の交通という高収益の利権を民間に貪られてたまるかということだし。
もちろん都市計画とリンクした道路建設などの効用の面も大きいのだが。 土佐電鉄の御免〜安芸の電車は、よかったなあ。
あれ、廃止する必要なかったのに・・ JRのあほ >>219
念のため書いておくけど、鉄道建設公団は国鉄とはまったく別。
国鉄が戦後、ローカル線の建設に消極的だったために、
政治屋さんが作った組織。まあ功罪あるけれども。
国鉄末期、マスコミが国鉄叩きの材料に、
故意に混同して報道していたから、今でも誤解してる人は多いのかな。
未成線の高架橋を指して、こんな無駄遣いして、みたいな。
スレ違い失礼。
土電の伊野電停も改築されてしまったなあ…。(一応軌道修正) >219
土佐電鉄の安芸線は赤字で廃止考え始めたところで阿佐線建設話が持ち上がったからな。
四国の鉄道は私鉄ががんばっている分国鉄のふがいなさが一時目立ったが、
JRになってからは長距離輸送が相当良くなってきたし、うまく住み分けするほうがいいだろうね。
土佐電鉄の鉄道線は営業補償目当てで廃止された、って聞いたけどガセ?
sage >>218
都会・地方問わず、戦時中〜戦後にかけて沢山の公営交通が生まれている。
戦中派が函館とか秋田、川崎市。電力統制との絡みや戦時輸送の担い手ってことだろうな。
戦後組は、関西の中小都市の公営バスが代表的な存在で、こっちは地方自治の自主独立と関わっているんだろう。
事実、この時期は全国各地で公営バス設立の動きがあって、民営バス会社といざこざが起きている。
>>223
それは当然考えられていたでしょう。実際、一部の路線敷が流用されているわけだし。
宮崎交通鉄道線しかり、江若鉄道しかり。 >224
函館は1897年開業の馬車鉄道を始祖とし1913年電化。
秋田は1889年開業の馬車鉄道を始祖とし1922年改軌・電化。
和久田さんの最新作に目を通してから、も一度おいで。 >>225
函館市交通局と秋田市交通局がいつできたか?って話なんだが・・・・。 >226
確かに、秋田は1941年、函館は1943年に市営化されてるね。
だったら、もーちょっと書きようがあると思うんだけどね。
>戦中の公営化が函館とか秋田、新規開業が川崎市。
というように。 >>228
1行目に「公営交通が生まれている」とあるし、
元となった>>218は「路面電車の公営化」だから問題ないんじゃないか?
民営の路面電車が公営化された経緯は、
莫大な運賃収入を行政の財源にしようとして市が買収したケースと、
にっちもさっちもいかない路面電車を半ば救済の意味も込めて市営化したケースがある。
前者は神戸や横浜、後者は今話題の秋田。
昔から秋田の路面電車は儲かってなかったんだよ。
>233
それがあったか。
これは県の失敗を民間で救済した例だな。 戦時中の交通統合では、他の交通機関を含めても、公営から民営は富山と八戸市営バス→南部鉄道(戦後に返還)の2例だけだものね。 しかしそんな富山でも営業規模は最盛期の半分くらいになってるよね。
路面電車という業態がそもそも今にそぐわなくなってきてるといえるのでは。 >238
富山市営のまま昭和40年代前半で廃止になった場合の姿を想像してみた。
都電6000形コピーが主力で、ツーマンのまま廃止になった姿が浮かんできた。
異論反論、歓迎申上候。 >240
射水線や笹津線の乗り入れはなかっただろうな。 今鉄ピクの174号みたら茨城交通水浜線の部分廃止の記事があって、富山・岡山・南海和歌山が車両を買おうとしたが仙台が1両300万円で129〜138を買ったとある。
記事には
・平時は20〜40分ダイヤだったが最終日は無料で捌ききれずに20分ごとに増発&続行運転
・茨城交通発足時には会社収益の65%を稼いでいたが昭和30年以降は赤字転落
・昭和38年度は営業係数188
・残りの水戸駅前〜浜田は35分間隔、浜田〜大洗が70分間隔で昭和42年度までに廃止予定
と貴重な情報が。
同号には「札幌の誇り/躍進する札幌市電」という札幌市電の成長を載せた記事もある。 水浜は既に昭和30年で赤字転落だったのか。
厳しいのうう。 >243
水浜は全線単線が致命的だった。
複線なら都心は5〜10分おきにするなどして市内線として残ったかもしれない。 昭和30年といえばまだモーターリぜーション前だから、
その時点で赤字を出すようでは、戦争が無ければとっくの昔に廃止でしょうな。
世の弱小鉄軌道は戦争のおかげで延命したと思われる例も多いしね。 >>246
そうか?
名鉄も昭和30年代までは鉄道が赤字続きで、
バスに食わしてもらっていた時代がある
地域事情とかわかってなかったら結論は出せないだろ しかし30年以後も地味にではあったが新車を投入していってたよね。
特に最後期の2,3両は中々のハイレベル車ではなかったかな。
赤字になっても一応、攻めの経営をしてたってことなのかな。 でもポツンポツンと入れてただけでしょ。
一方で保守状態の悪い戦前製の木造単車も多く走らせていたわけだし。
市内電車の利便性は頻発運転の実現で初めて確保できるもの。
その点で>>244氏の指摘の通り、肝腎の中心部区間が単線では
早晩寿命は決まっていたような。。。。 昭和39年。俺の親父はセドリックカスタムを購入し近所のみんなから羨望のまなざしで見られていた。まだマイカーが珍しいころ しかも朝の続行運転は、交換設備の有効長よりも多い車両を走らせて、
かなりややこしい行き違いをしていたそうだし。 スレからずれるが、茨城県の鉄道発展を妨げたのは地磁気観測所と思う。
あれさえなければ水戸電鉄も当初計画通り電車で開通できただろうし、関東鉄道なども電化でき、常磐線も直流電化で早期電化できた可能性が高い。
保育社カラーブックスの「路面電車」って覚えてる人います? >>253
わしが別大線電車のある広告看板に気付いて過去他スレでちょっとした話題にw (年齢が知れるが)
昭和30年代に札幌市電の北部地域への延伸で、
何故か気動車を採用、形は他の路面電車と同じで
屋根側面中央部にエンジン排気口があって、
発動機特有のモクモクボッボッが特に発車加速時には見られた。
他の都市では気動車路面軌道は無かったのだろうか? >>256
「徳川」の広告ですね。
確かにあれは公共交通機関のモノとしてはw >>258
戦前の岡崎市内線とかに例は有るけど、
戦後は札幌と花巻電鉄(鉄道区間のみか?)位かも? 札幌市の非電化区間は電化するほどの需要はないが、市中心部に車両を直通させて利用客の便を図りたいために