1960〜70年代の路面電車総合 1系統
廃止された都市・路線はもちろん、現存するものでもOK。
懐かしい時代のの路面電車について語ってください。 逆に嫌われるほど人気があるというしね。運転士に対して、安全で利用しやすい市電をなぜ廃止するのかと、食って掛かる市民も多かったらしい。 鎌田彗が推測してたが、各地の市電廃止ラッシュには廃線撤去事業の土木利権が絡んでいたかもしれない。代替路線としての地下鉄建設の利権なんかもプラスされる訳だが。
今の時代に例えればこんな感じか。
市電=地方在来線(の優等列車)
地下鉄=整備新幹線
各地の市電が相次いで廃止された理由の一つに運転者の人件費だという説が
あります。つまりバス化すると、バス運転士の方が人件費が少なくてすむと
いうのです。
たしかに、電車の運転士には高給取りが多かったかも知れませんが。 >111
昭和50年代入ると共同溝工事をするようになったから、
土木関係で動く金額は地下鉄がなくとも大きくなりましたなぁ。 >>111
それはないんじゃないかと。
路面電車が廃止された昭和40年代は
公共投資が目白押しだったので、
そこまであこぎになって仕事は取って来ないんじゃない?
まあ、一切ないとは言い切れないけどさ。
政界を揺るがした疑獄事件は戦前からあったしね。 いまの世界的な自動車産業の崩壊を見ていると、この当時の路面電車と同じだね。
嫌われまくり。 >>114
軌道施設は道路管理者に無償譲渡すれば撤去義務は免除されましたしね。 今年後半の急激な自動車産業の崩壊は予想できなかった。
この時期の路面電車と重なる。 >>112
そのときは確かにそうなる。当時の給与体系は年功序列だから、
一度縮小の計画が出れば(実行されなくても)若い新人の採用を控える。
→平均勤続年数が増えるということは平均賃金が高くなる。
歴史が長いし、路線網もできているから年齢の高い人も多い。
バスは、当時路線網を広げる最中だから勤続の長い人は少ないし、
若い新人をたくさん採っていたから平均勤続年数も短いので平均賃金も
低いしね。
いまはその若い人がみんなオッサンになって勤続=賃金が高くなってる。
で、分社化やら委託やら嘱託やら廃線やらになってるのだけれど。
自動車産業の衰退が凄まじい。かつての路面電車を見るようだ。 しかし一時的にせよガソリン価格が倍近くまではねあがったのに
第一次オイルショックのときのような公共交通への回帰が
起こらなかったのはなぜだろう。
それだけむかしより可処分所得の割合が増えているのかな? >120
公共交通を使う苦痛>自家用車に乗る苦痛 という考えなんだろう。 >>120
電車はともかくバスはまともに使えないイメージが強いんじゃないかと
みんな車から転移すれば道路空いてまともに動くようになるんだけどね理想論だけど 自動車業界全滅!の見出しが踊っている。
路面電車はどうなる? 「廃電車レクイエム」戦後次々と廃止された路面電車たちの保存されたその後を
写した者だがシュールだね。
過去が懐かしくなかった時代にというエッセーは違った見方をおしえてくれる カラーブックスで、消えゆく路面電車という特集があった。
消え去らなくて本当によかった。 >>120
オイルショックの頃みたいに一家に一台じゃなくて一人に一台の時代になってて
公共交通の衰退っぷりが比較にならないよ。
回帰しようにももはや回帰する先がないようではどうにも。 いまは経済危機で車を手放す人が急増している。公共交通回帰は進むよ。 >いまは経済危機で車を手放す人が急増している
乗り控え、買い控えは聞くけど手放す話はあまり聞かないな 北九州福岡なんかも路面電車残せなかったのかな?
あの凄まじい大量のバス見てると何とかやっていけたと思うが。一部区間だけでも。 スレ違いかも知れないけど↓を書いた者です
路面電車だったような気もするけどハッキリ記憶が無い
今の銚子電鉄に似てたから多分路面電車
当時チンチン電車と呼ばれてました
↓
乗ったことのある廃線を語るスレ
http://schiphol.2ch.net/test/read.cgi/jnr/1220123714/395 >>130
水浜線を探してみたら廃線跡紹介ばっかりで
とりあえず見つかったのがコレですだ。
h丁丁p://11.pro.tok2.com/~mu3rail/link144.html サンキューです
今の携帯環境では詳しい見れないのでパソコンを直してから見ようと思います
少なくとも40年ぐらい前に廃線になってたみたいなので記憶が曖昧ですが現在の勝田〜阿字ヶ浦線みたくほのぼのした路線でした
千と千尋のチンチン電車(気動車)?みたく
また大洗鹿島線は当時とは少しルートが違うみたいですが鉄橋はかなり長く撤去されず残ってたように思います
>>119
>>123
日本のメーカーはまだ一社も潰れてない訳だが?
鉄道は中小の車両メーカーの多くは淘汰されたし、鉄道事業法改正以後廃線ラッシュ。
ヨーロッパで自動車メーカーがトラムの製造してたと記事を見たことがある…。ソースは忘れた >>134
熊本市電の超低床がダイムラー・ベンツ系の企業だったはず。
第2か3編成が登場したときベンツのシンボルのスリーポインテッドスター付けていた。 >>135
今はその鉄道車両製造部門も、他に買われて、懐かし化してしまった。 スレ違いっぽいが、筑豊電鉄は面白いね。
鉄道線なのに軌道線用車両なハンデを逆手に取ってるように見える。
地方小私鉄でディタイム12分ヘッド、休日でも15分ヘッドはなにげにスゴいと思う。
しかも、市街地区間では高架化も進めているしね。
次は通谷駅高架化で計画を立ち上げるらしい。再開発と込みらしいのでいつになるか
わからんけど。
しかし2000形は高速運転で酷使されてる割りに、なにげに寿命長いな。
もうちょっとしたら車齢50年行く車が出るんじゃないか?
あっちこっち総取替してるし、予備部品もしこたま抱えてるから当分大丈夫なんだろうが。 高速運転と言えば西鉄の専用軌道区間もかなり速かった記憶が。
西鉄は軌道法だと思ったけど40km/h超えていたようなのは気のせい? >>138
(公式には)気のせいです!
実際はかなり飛ばしてたね。
平行する道を60キロくらいで走ってると電車に軽くちぎられたし。
特に福岡から来た500形や300形の更新車は北九州仕様の45キロワット電動機に
換装していたから、そりゃもうスゴいことになっていたな。
元が低出力の軽量車だから、走りたがるのを抑えた走りをしなければならなかったとか。
北九州形は全鋼製車とか重量級だからこの出力で丁度良いけど福岡形は半綱製車
とか全金属軽量車だから出力余り気味。
本当ですか?俺は北九州市内線の新設軌道には3位式の信号機があって
時速60kmだかが特認されていたと聞いたけど… 末期の北九州線。
陣の原あたりの道路で併走した時、ピッタリ速度を合わせたら50km/hだった記憶がある。 >>140
鉄道ダイヤ情報1993年7月号には
>熊西〜折尾間で自動閉塞方式を採用し、2位2現示の信号機を備える
>最高速度60km/h
とある 電停の待合環境は最悪だったな。屋根無し柵無し時刻案内無しは当たり前。 東京スカイツリーの立地は最強だ!
★東武伊勢崎線 押上駅 直結
★都営浅草線 押上駅 直結
★東京メトロ半蔵門線 押上駅 直結
★京成押上線 押上駅 直結
★東武伊勢崎線 業平橋駅 直結
上記「5路線が集結する」スーパークロスジャンクションの真上にそびえ建つ。
この立地の素晴らしさは、新宿駅や池袋駅に直結する百貨店に匹敵する。
今の東京タワーよりもはるかに立地は良い。
古くからの江戸市街地にもごく至近だ。
国際観光都市、浅草からもわすか1km!徒歩15分以内で散歩がてらで行ける。
★東武伊勢崎線 浅草駅 徒歩
★東京メトロ銀座線 浅草駅 徒歩
★都営地下鉄浅草線 浅草駅 徒歩
こんなスーパー凄い立地に建てられるのに、なぜか辺鄙なところだと思われているのが不思議だ。
★JR総武快速線錦糸町駅 徒歩
★JR総武緩行線錦糸町駅 徒歩
★東京メトロ半蔵門線錦糸町駅 徒歩
半蔵門線で錦糸町からも一駅。歩いても1.4km徒歩20分だ。
三越前や大手町・渋谷からも乗り換えなし!
都営浅草線なら日本橋や東京駅(宝町)や銀座や新橋や浜松町(大門)からも
一本で行ける。
想像を絶する観光名所になるのは間違いない。
>>143
岐阜市内線、どこが電停かわからないから途中で乗れずに、忠節から新岐阜まで歩いちまったことがあるw 修学旅行。お前は鉄マニだからと団体行動から抜け出させてもらい
乗ったは熊本市電。中扉が開くと放送が。
「焼酎、危険物の持ち込みはご遠慮ください」。
さすがは九州!と思たがよくよく聞けば焼酎ではなく「鳥獣」だったよ。 鳥獣って表現もたいがいなものだとおもうがなw
生物学的にはおかしいんだが、鳥獣と聞くとまずカエルとウサギがおもいつく。 鉄道の筑豊も含めると、熊本 長崎 鹿児島
四国の松山 高知もそうだが本州で無い西日本の主要都市ばかり(本州を含めたら広島と岡山も)に
路面電車が残ったのは偶然とは言え興味深いね。静岡以東の本州は東京以外皆無だし。まあ大きな都市が無かったから仕方ないけどね・ 昭和41年のいつ頃か忘れたが、四ツ道路から呉市電に乗ったことがある。
呉市電は広から川原石までの一系統の単純な路線だったが
広島市より古い路面電車だった。
広からの峠を越えて本通を下り、四ツ道路を右折し、呉駅前を通過する経路で
この四ツ道路をまっすぐ進むと、海上自衛隊があり戦前は
呉鎮守府があったところ。さらに奥に行くと戦艦長門や
大和を建造した造船所にぶち当たる。
四ツ道路を左折して坂を少し登ったところに清水ヶ丘高等学校があり、
国生さゆりや島谷ひとみが通うことになるのは市電が廃止(昭和42年)された
ずっと後のことになる。
以前は川原石に桟橋があり、対岸の江田島小用方面に行く連絡船があったが
今は廃止されたようだ。 >>150
仙台市電廃止の直前に父親の転勤で仙台に再度住むことになった。
ビクーリしたのはモハ2000型。仙台の車両と比べすごく大きく見えた。
ドア間に車掌台や立席スペースがなくシートがびっちりというのも新鮮。
モハ3000型は重厚だが,前の折戸と中の両開ドアが新鮮だった。
しかし,昼間に走行しているのを見たことがほとんどない。2000型をわずか一度だけ見たきり。
市電廃止の3月31日を待たずにどちらの形式とも,長町車庫側線でバラバラにされていた。
2003年に呉まで行って,安芸阿賀の駅近くの公園に保存されている2001と対面してきた。
だいぶくたびれた風貌だったが,残っていて嬉しかった。・゚・(ノд`)・゚・。
あとバスで呉駅から広交叉点まで乗ったが,途中の勾配の長さときつさに驚き。こんなところを軌道が…
昔こんな道を電車が走っていたのは凄いと思った。
>>151
その気持ちは分かるわ。
おれも平成4年に21年ぶりに和歌山の市電を松山で見たとき嬉しかったよ。
こちらは保存じゃなくて放置で解体の運命だったけど、もう一度現物に対面できた嬉しさの方が強かったな。
欲を言えば冷房改造されてもう少し長生きして欲しかったけど。 松山の81号は何度行っても古町の車庫の奥だった。
あるとき、開け放たれたドアから木目風の内装がちらりと見えた。 >>151
でも、2001はこのあと解体されたんですよね。松山からは1両戻ってきましたが・・・ >>153
松山の81号は平成4年の頃は一番外に近いところに放置されていたので形式写真も取れました。 松山の元和歌山の81号、撮れてよかったですね。それと
ピクの私鉄車両めぐりを見たら、呉市電の2000の登場のころの写真で
上窓に「空気ばね電車」と書いてあるのが読めて面白いです。 >>154
>151です。 Σ(゚Д゚)ガーン
松山から里帰りした1001との顔合わせを期待してたのに…
>>152
81には平成元年に古町車庫の片隅で対面してきました。
既に運用から外れていた時期で,外見はきれいでしたが色あせていました。
つーか、1001を復元するために2001を部品取りにしたんだったような。 昭和40年代の鹿児島市電は元気だった…
当時は確か16系統くらいあって複雑な運行形態だった
伊敷線、上町線も健在の頃
車両も昭和44年までは
200、210、300、400、460、500、600、700連接車、800
とバラエティに富んでいた
今とちがって標準塗装のみだから、形はバラバラでもある種の統一美があったなー
今は広告電車だらけでダメですな >>161
昭和40年代でも後半は全面広告車がいたよ
特に初代さんふらわあ就航記念の広告車は良かった。
真っ白い車体に車体裾部だけさんふらわあの喫水線に合わせた緑。
それにでっかい太陽マーク。
宣伝文は最小限に抑えた広告車は秀逸だった。
まあ、遠くからでも一目見ればさんふらわあの広告というのは分かるデザインなんだが。
50年代に入ると条例で鹿児島市電の全面広告が禁止されたから、上半分が一般塗装
に戻されたのには萎えた。
広告主のセンスが良ければ全面広告車も悪くないと思う。 松山の市内電車から全面広告車が消えたのはやはり条例ですか?
熊本ではまた復活させてしまったけど… >>162
カーフェリーの外装であれだけのインパクトと知名度の有った船無かったからね。
広告塗装車の最大のヒットは南海大阪軌道線の立石電機だね。 >165
オムロン・雲電車だね。
近年復活した時、緑の雲が復活しなかったのは残念。 今残っている161型は旧緑の雲電車が殆んどなのに皮肉なもんだね。 標準塗装は濃緑一色なんです。
オレンジ雲 高性能エアサス車
青雲 旧連結対応旧型車ワンマン車
緑雲 旧連結対応旧型車ワンツーマン車 南海軌道線が連結運転した実績はあったのですか?教えてクンでスマソ そうですか、それはどうも。SMEブレーキが多いなとは思ってましたが… >170
つttp://www.tombow-shuppan.co.jp/img/094.jpg 連接車と連結運転は違うだろ。
和歌山のは南海合併前に作った車両だし。
南海の連結運転は平野線の恵美須町〜平野 南海和歌山軌道線の海南側の画像ありますか?
市駅〜本町通〜和駅や和歌浦付近の写真は見たことがあるのですが
海南寄りのは一度も見たことがない。
興味なかったのかな。野上電鉄との連絡電停とか。。
あったら萌えるんですけど 連絡電停って言っても紀勢線を挟んで200メートルは離れてるぞw
野上電車前じゃなく野上電車口か野上電車道だな、あれは
萌えない萌えない まだ海南駅前の方が風情が有ったな。駅前の広告アーチもあったし田舎軌道の電停って感じが滲み出てたね。
野上電車前は、和歌山バスになってからも、廃線までそんなバス停名だったな。 で、結局画像はないの?
関西の路面電車で数多くの撮影資料を残しておられる小林庄三氏の作品にも
海南方の記録はない。撮影地に適していなかったのか。
でも>>178によればそうでもなさそうだし。 小林庄三っていつも同じ場所でしか撮らないし〜。
>>173の本でも住吉交叉前後 我孫子道前後 寺地町付近が殆んどだし。
平野線沿線なんて廃止直前以外の写真皆無に等しいし。
和歌山軌道線の写真に海南付近が少ないのは、
海南線に入らない車両が有ったのと単に撮影効率が悪いだけだと思うよ。
琴の浦のトンネルと紀勢本線との併走くらいしか見所が無いからね。 >>182
そういう事情なのか。
教えてくれてありがd。 みつけた「和歌山の汽車・電車」和田康之著P186海南駅前電停に停車する324号 みつけた「高橋弘作品集3路面電車懐かしい仲間たち」国鉄海南駅側から望遠で
停車中の電車をとらえたもの。この電停から駅川へ道路が狭くなっているのが、廃止後に
なってものこっていたなあ 「和歌山軌道線 画像」でググると「向日葵」というタイトルの個人サイトがヒットすると思う。
ここに数枚の写真がUPされてるよ。
リンク禁止なのでここには貼れないけど、カラーで状態もいい。 和歌山軌道線といえば和歌山城をバックにした公園前交差点か、木造の信号塔があった和歌浦口、国鉄和歌山駅前の
3箇所くらいしか撮れる場所はなかったね。 電停に「駅前」を名乗りながら乗降場から駅改札口まで数分歩かされた海南駅前 >>187
少し道幅は狭いが海南や日方付近で普通に撮れたよ。当時は車も少ないし。
紀三井寺〜布引は専用軌道だったし。
>>188
海南駅前は一応駅前アーチの所だから踏切を越えてなお歩かされる野上電車前よりずっとマシ。
同じ南海の天王寺駅前の方が詐欺に近い。あれは近鉄百貨店前。 和歌山軌道線には野鉄と連絡するメリットなんか無かったように思う。 和歌山電軌が南海に合併された時、南海の在来車(阪堺・上町・平野線)と車番が重複する事は無かったのかな?
100番台、200番台、300番台は大阪にも和歌山にもあったはず。
あれは、ようするに紀勢線が開通する前の名残なんだろうな>>野上前。 >>191
同一事業者でも営業地域が異なれば番号の重複は問題ないですよ。
軌間も違うから車両の交流もないですし。
ちなみに戦前の合同電気時代は和歌山と三重(宇治山田市)で同時期に路面電車が営業されていました。 そういえば西鉄にも福岡と北九州とで重複ナンバーごろごろいましたね。 ケロヨン電車の異名もあった321形は新製後わずか数年で廃線になってしまったが
伊予鉄に行った一両以外はみんなお釈迦にされたの?
だとしたら当時の南海って結構鷹揚だったんだな。
というか、廃線になるほど経営が悪化してたとは思えないのだが。
国体道路整備だけが理由なのだろうか。 >>195
道路整備にかこつけて、行政側が撤去したがっていたんでしょう。
そういう意味では別大線も似たようなものかもね。
まあ、当時の南海は昇圧でヒゲ新を潰したくらいなんだし。 >>195
当時は路面電車退潮時代で引き取り手がなかったのと、和歌山の車両は収容力も小さかったからね。
もし大阪軌道線並みの車体巾と長さがあれば車体は大阪へ転用されてたかもね。 >194
500は大牟田・福岡・北九州で重複していた。 >197
しかも、当時の主な引き取り手は軒並み1435mm軌間だし、
改軌せずにすぐ使える余剰車もゴロゴロあったからね。 南海合併後に転入した三交神都線や秋田市交の中古車はいずれもケロヨン車同様に前照灯が2灯化されているね。
前方注視を容易化するためとはいえデザイン的には不恰好。
和歌山には特別な事情があったのかな。
併用軌道区間では却って自動車等の運転者に悪影響を及ぼすと思うのだが。 在来車に2灯車がないから、恐らく和歌山軌道線がずっと存続していたなら車両更新を機会に在来車の2灯化も施工したかもしれないね。
今となっては真相は解りませんが。
321型に関して言えば塗装のせいもあるけれどカエルみたいで愛嬌が有りましたよ。
当時のケロヨンの人気(ケロヨンは今見ると相当不気味だけど)の影響もあったのかな?
どちらかというとケロヨンではなくコルゲン興和のケロちゃんの方がイメージに近いんだけどね。
旧型車の2灯は本当に夜見ると不気味でしたが。 和歌山電軌の2灯化はトンネル内の保安度を高めるためだったと何かの本で読んだことがある。 >>202
在来一灯車の改造へ波及していないところを見ると緊急かつ必須のものではなかったということだね。
専用軌道で飛ばす所だったからねえ。
在来車は塗装も和軌時代を頑なに踏襲していたからね。現場は南海式の体質や仕事の進め方と合わなかったのかも知れないね。 >>204
>>現場は南海式の体質や仕事の進め方と合わなかったのかも知れないね。
それは実際にあった話のようです。知人の親が旧和歌山電軌の庶務経理部門に勤務していましたが、
その人の話では、旧和歌山電軌の人は合併後も南海社員の事を「大阪もん」と呼んでいたそうです。
管理系の職場にしてこの有様ですから、現場の意識はもっと熾烈なものがあったのかもしれません。
和歌山電気軌道の廃止は国体の道路整備にかこつけた組合潰しというのをどこがで聞いたけど、本当かどうかは別としてゴタゴタはあったんだろうね。 たしかに前照灯は和歌山仕様がいいが、
塗色はケロヨンの金太郎腹掛けの方が好きだったな。
ツートンの場合、上半分がクリーム系なら下半分は濃色の方が視覚的に落ち着く。
和歌山のブルーは少々薄すぎるように思った。 >>205
バス部門の話だが、和歌山電軌を合併してから13年で、結局和歌山バスとして再独立(100%出資の子会社だが)させるのだから
なにかとやりづらかったのだろうな。 和歌山市内線の話は今まで少なかったからな。
買収して10数年で廃止、新車も10年足らずで大半が廃車、それほど経営状態が悪いわけでもないのに国体道路の建設を理由にというのも?な点があるし、
南海としては念願の和歌浦進出だったはずなのにあっさりと切り捨てたというのは裏があったのだろうね。