国鉄四国総局
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鉄模やってるけど
型式で検索して
四国以外の全国各地で使用されのフレーズを何度見た事か・・・orz
そんなかつての気動車王国、四国を大いに語りましょう。
>>31
素面に戻って思い出してみると、うわじま1号には
キニ56急行塗装が連結でしたな。失礼しました。
キニ56と言えば、2が朱5号塗装になって、キユニ28と共に国鉄末期まで走ってましたな。 「うわじま1号」といえばキニ56だよな。
昭和50年前半だと「いよ4号」も。
晩年は下り「土佐」の先頭にも立っていた。
「土佐2号」はキニ19からキユ・キユニ28まで色んな車両が付きましたね。 >>23
私も小松島さよならの日に撮影しました。
多方面において間違いの目立つウィキによれば、
ハニ5000形と書かれていますが私には確信が持てません。 四国の「普通列車」ってパターン性もなくいろいろ駅を通過したよな。
今でも覚えているのは土讃本線の入明と円行寺口。
この両駅に停車するのは上り1本のみで,残りのすべての列車は両方通過するか
どちらかの駅には停車するが片方は通過していた。
>>36
確かダイ改初日
円行寺口の踏切で下りの普通列車の通過待ちをしてたら
円行寺口に停まるようになったキハ47が思いっきり通過したので大爆笑
好きな子が乗ってたんだよねぇ
遂にキハ28・58の定期運用が…。
一つの時代が終わった予感がする。 昭和36年生まれです。宇和島で幼少時代を過ごしました。
松山に行くというのは大イベントで、そのための手段が急行「うわじま」でした。
八幡浜にアイススケートに行くのは普通列車。
特急用車両が初めて投入され「しおかぜ」が走り出したとき、
松山への修学旅行で乗りました。
ボックス席じゃなく、全席の背面にテーブルがあることに驚き、
急行とは違う車内の質感、静かさそしてスピードにも驚いたものです。
冷水器のペラペラの紙コップを記念品に戴きましたw >>39
「全席の背面」じゃなくて「前席の背面」です。 駅名看板の表示で通過列車の多い駅は()していたな。 >>41
あったあったwww
きたいよ ← まつやま → みつはま
(いちつぼ)
に、えっ?と思った消防のある日。
市坪。当時は田んぼの中、築堤の上の、ホーム一本の駅だったな…。
駅は、線路が分かれてて、駅舎があって、駅員さんが居るものだ、
と思っていた要衝の自分に、すごい衝撃を与えてくれた駅だったwww
昭和56年ころの八十場、讃岐府中なんかは上下一本づつしか、停車せなんだな。 >>41
スレ違いで恐縮だが,駅名標がカッコ書きくらいならまだいい。
駅名標にも,出札窓口に掲示されている運賃表からも抹殺されているケースもあったぞ。
四国じゃないけど磐越西線塩川駅。
駅名標からも運賃表からも,堂島,笈川,姥堂,会津豊川は抹殺されていた。 >>49
会津若松〜喜多方間は確かに塩川にしか停まらん列車多かったね。
土讃本線
大王信号場
って、字面がかっこいいよなw
線路付け替えでアボン残念。 関係ないけど、大王製紙って王子製紙の向こうをはって
つけられた社名らしい。
国鉄末期の高徳線の50系客車の簡易ビュッフェのメニューが気になる。
市販の時刻表には、どの列車に連結されているかは書いてなかった。 JR化直後の、プラ製のサボ、国鉄タイプながらフォントを変えた駅名標、
ユニットサッシのキハ20が懐かしい。 >>14
連絡船とはちょっと違ってたはず。
連絡船は阿波丸:赤 土佐丸:青だったけど、
キハ32は四トク配置のが青で四コチ配置が赤だった。 >33
52年3月改正
←高松
601D
<キニ56|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58> 四カマ81+41+21
108D
<キニ56|<キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58> 四カマ81+63+53+33 601Dのキニの戻り
211D
<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>|キユニ>|キユ25> 四カマ27+95+113 >>33
>>62
国鉄時代の四国は一度しか行かなかったけど、四国といえばゲテモノ郵便荷物気動車が
名物だったな。もっとちゃんと行っておくべきだった。 >>46
ほんとそう思う。土佐北川駅なんて川の上に木製枕木をプラットホームに
したホームも傾き加減の駅だった。 そんなかつての気動車王国、四国を大いに語れる人はもう誰もいない。 昭和57年に初上陸。キロ28が格下げされた、キハ28 5000番代の
急行指定席車が好きで、好んで乗った。夜行が主な利用で写真撮ってない。
高松駅では、半室合造から再改番されたヤツ(5301だっけ)も見た。
車内のどこかには キロハ28 1 の表記が残っていたような気がする。 年末年始がまだ大混雑の時代、急行指定に乗った。
立客が指定車両通路まであふれかえっていた。
車掌が一掃した。
この時ほど指定のありがたみ実感したときはなかった。
シートはガタガタだったけど。 〒のマークがついた、四国限定の形式の車両はあったが
〒のマークがついた車両は必ずしも四国限定ではなかった。 微妙にスレチかも知れないけど長い間の質問。
俺は子供の頃から国鉄特急の絵付きマークが
好きで、色んな本を見てきたんだが、
JR四国で181系や185系で走っていた特急で
風景画みたいなイラスト付ヘッドマーク(今のビッグXみたくシンプルじゃない奴ね)
付けて走っていた特急って
しおかぜ、南風、いしづち、うずしお、しまんと だけ?
特にあしずりがあったかなかったかが凄く気になってる。
某サイトにマークのバナーあるけど、そこに
四国特急の一部だけが見あたらないし…。
教えて、偉い御方。 宇多津駅
今でこそ要衝駅だが昔なんて・・・・
停車しない普通列車が多数あった。 >>80
185系導入時に しおかぜ・南風に絵が入り
63-4瀬戸大橋開通で絵が変更 いしづち・しまんと・うずしお登場
2-11の2000系量産導入でグラフィック化 宇和海・あしずり登場
この流れだったかと あしずりにイラスト型マークは無いですな >>83
おおthx!やはり絵入りは国鉄の専売特許だったのか…
お陰ですっきりしました。 30年前の急行全盛時代(もっと前かな?)、
急行のヘッドマークが島内で統一されたデザインで、
イラストこそ無かったが、好感が持てた。
キハ58の車掌台側だったか、ヘッドマークを付けた急行は風格があった。
185の特急、高徳線に特急という自体信じられなかったが、
落ち着いたデザインといい、ヘッドマークといい、
すっきりした印象でこれはこれで良かったし、
今の鋭い走りを見せる特急も良いが、
煙で汚れた車体、蛍光灯横に安定用電球が灯った車内、
ノッチを切った時に耳に残る線路のジョイント音とアイドリング音、
それなりに混んでいた車内・・・若年ファンに是非体験させてあげたいなぁ。
四国総局…。門鉄局みたくなつかしい響きだね。
急行うわじまと高松ー中村間の夜行快速が思い出。周遊券で宿代わり。 「周遊券」も、今となっては懐かしい。
動輪が描かれた国鉄の地紋の薄い券紙に、
墨色の活字で周遊区間までの往路の乗車券片と、
周遊区間が路線図で描かれた復路の乗車券片が、
ホチキスで留められていた。
検札で車掌さんが桜の花びらのような凹凸と穴が出来る鋏を入れてくれ、
決して愛想を振りまくわけではないが、丁重さが伝わってくる挨拶と
共に周遊券が手元に帰ってくる。
夜行だと車内が減光されていたなぁ、
結構混んでいても、お喋りする雰囲気が消えてしまう独特の世界。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
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( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
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旧客もすてがたいねー
高知〜高松よく乗ったよ。
DF50とかも懐かしいね。 昨日OHK開局40周年番組で昔の高松駅の映像が映ったよ 高松駅頭で道を訊かれた。なんでも久しぶりに来たら全部一変してたと。 GWに中村駅→足摺→竜串→宿毛駅→宇和島駅と周ってきたけど足摺・竜串周辺の
バスの本数の少なさには困ってしまった。その路線バスも地元の年寄りが
ポツリポツリと利用しているだけ。
瀬戸大橋開通直後の20年前の旅行ガイドブックを見ていると足摺・竜串周辺でも
路線バスが1時間ヘッドって書いている。
思えばキハ185投入→JR四国誕生→瀬戸大橋開業→2000系開発途上で
高速道路も一部区間のみだった、この頃が四国の鉄道が一番輝いていた時代であった。
昔、急行土佐の普通車指定席券を買ったらグリーン車を使っていたわ。得した気分やったわ。 四国のは格下げだったけど、それに触発されたか
のちに九州で、座席をG車のヤツに換えたキハ58の5000代が出た。
枕カバーは白のレース模様の透明なビニール製だった。 百ゲット
>>99
JR全社で廃車済みです。どこかで保存されているかはわからんですが。 第一讃岐丸に、第三宇高丸。長い間、第三桟橋に係留されていた。
四国総局の広報課は、確か3階にあったけど、その部屋から、2隻を
見ることが出来た。 高知で途中下車という形で切符を手に入れるため、高松で入明までの切符を買おうとしたら
「入明てどこね?」と言われ、説明してもらちがあかず、仕方なく高知までの切符を買った。
国鉄時代の話だけど、駅員の知識ってそんなもんなのかな。 >>103
入明はマイナーな駅やから他県ではわからなかったのでは。しかし説明してもわからんのはアホか運賃計算が面倒くさかったか たしかに、用意されている硬券以外の切符を発行するのは面倒だったのかもしれない。
なにしろ国鉄の駅員だし、こっちもガキだったし。 >>103
四国ではないが、JR新宿で俺の前のばあさまが「みんまや」と云っても
駅員氏は「すいません、何線ですが?」と判らず、時刻表の路線地図で
ばあさまが津軽線の先端「三厩」を指さしていた。
いくら自社線でも端から端まで判らないでしょう、いいじゃないの。 >>104
それでも、仮にも「四国の表玄関」を自負する高松駅の駅員たるもの、入明という駅名ぐらいは知っておかなくてはならないだろう。
ついでに言えば、どうして高松という駅名の前に「讃」の文字が必ず入っているのか、その経緯も(謂れを知らない駅員さんが実際にいる)。
(讃)高松→高知
さりげなく乗れたスハ44。
昭和50年から63年まで13年間も海で隔てられて、わびしい思いだったであろうキハ180-1。
信越線電化で飛ばされ、四国で寿命を終えた9両のキハ57。
長崎本線電化でED76を15両新製投入→これに伴いDD51が15両、米子運転所に転属→これに伴いDF50が4両、米子より高松運転所に転入
…四国総局はPC・DC・DLの余生を送る捨て場。 思い出せないんだか、瀬戸大橋開通前の高松駅は高徳線急行と予讃線特急急行と土讃線特急急行とはホームが分かれてた? 保守
来島どっくの坪内氏が
「私に四国の国鉄を任せたら数年で黒字にしてみせますよ」的なことを
豪語していた、と誰かが言っていた。氏の威光も晩年には曇ったが… そして蔦監督の乗車していたキハ5711が事故って廃車になった。 >>109
分かれてました。
高松駅0番線ホームは、もちろん高徳線専用。 お、そうそう。
中央西線電化で高松運転所にやってきたキハ181、洋式トイレを撤去して、
そのスペースが車内販売の詰め所に様変わり。 ttp://art2.photozou.jp/pub/338/1338/photo/714675_org.v1251604055.jpg 〒マークのキユ25懐かしいな
この車両は四国だけ
末期は急行も牽引してた 徳島の鍛冶屋原線が、今も残っていたら、どうなってたんだろう。 昭和47年1月廃止。 そういや四国の国鉄→JRでそれ以降路線まるごと廃止ってないよね。 あ、小松島港線があったか…(汗)…徳島県ばっかり… 鉄ピクの最初の四国特集で面白いことが書いてあった。
四国内の夜行列車は、本土決戦に備えて日中の空襲を避ける目的で引いた貨物列車の筋が元になってるんだってさ。
四国総局最初の仕事って所なのかな。 >>115
>中央西線電化で高松運転所にやってきたキハ181、洋式トイレを撤去して、
そのスペースが車内販売の詰め所に様変わり。
キロ180-1な。洋式トイレを撤去して、 そのスペースが車内販売の詰め所に様変わりしキロ180-151となった。
さらにキロハ180-5となるんだが。 ワフ21000・22000
門
鳥栖駅常備 ワフ
21325
中には、 札
岩見沢駅常備
ロ
ワフ
122532
四
高松駅常備
ロ
ワフ
121065 もある。
特に北海道と四国に有った。違いは黄線 北海道のは、車体下側
四国のは車体中央に黄線が入っていました。
四国オリジナルのキハ58ベースの郵便車(昭和59年だったかな郵便車廃止まで走った)
で、末期には急行いよ等に連結されたみたい。1〜4号まであり、1,2が平窓タイプ、3〜4がパノラミックウィンドーとなっていて、
印象も異なる。この時代普通列車にはまだまだ冷房化も進んでなかった時代に、作業効率向上のため冷房装置標準搭載でした。
ただこれらの車両は当時の郵政省所有で、純粋な国鉄の営業車両というのとは少し異なるようでしたが、
このキユ25をはじめ、キロ28格下げの5200番台など、気動車王国四国を支えた、
気動車急行たちが懐かしいです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています