筑波鉄道
1987年3月31日に惜しまれつつ廃止された筑波鉄道(旧・関東鉄道筑波線)。
あれから21年。そろそろあの頃を思い出してみませんか?
患部を切除しなかったために死に至った典型例だと思っております。 確か快速【つくば】で終点の岩瀬を通過する【つくばね】と言う紛らわしい名前の電車急行が有った。
小田か北条あたりがニュータウン開発とか当時してたら廃線は免れていたかもしれない。 関鉄は距離が違うとは言え竜ヶ崎線のワンマン化は早かったが筑波は終始車掌乗務。
北条や筑波、真壁などの主要駅以外の交換駅でも結構委託販売で切符を売っていた。 鉾田線→鹿島鉄道も、素人考えじゃあ部分的に
残せたんじゃないかと思うが、実際はそうはならなかった。
沿線に宅地が開けたとかでKR-500を買って増発したくらいだったのに。 >>41
石岡〜常陸小川だけ・・ということになろうが、現状、バスの本数は1時間に2本で
土浦〜常陸藤沢のバスの本数の半分なんだよなあ・・・。
そりゃ残せないのも当然と思う。 >>42
そうですか…いまはバス路線の末永き活躍を祈るのみです。 つくば科学万博のついでに筑波鉄道に乗ったんだが、乗車区間は、
土浦−筑波で、バスに乗り換えて、ロープウェー→ケーブルカーと
乗ったんだ。そして筑波から土浦へ帰った。そのとき乗らなかった
筑波−岩瀬は、未乗のまま廃止になって、今でも漏れは後悔してい
る。
何時も乗車する時は新土浦からで真鍋機関区に車を停めさせて頂いていた。
確かまだ営業中でキクハ511だったと思うが車体の天井部分が駐車場に転げていた。
最終日前は乗らずにただひたすら撮り捲っていた。
キハ 504だったと思うがこの車も特別塗装となり筑波山が車体に描かれていた。 花火大会のときも虫掛駅あたりからは結構見れたんでは? 土浦駅ー筑波さんぐち間バスで鉄道風の切符を販売して懐かしむ
ことはできないのだろうか。復活は無理としても懐かしむイベントが
あってもよいのではないか。 >>40
鹿島鉄道もワンマン化はおそかったからね。
筑波鉄道現役時は鹿島鉄道も全区間車掌乗務だった。
龍ヶ崎線は距離が短いからワンマン化も早かった。 龍ヶ崎線は途中駅が1つしかないから、ワンマン化しやすかった
ってのもあるんだろう。
以前同線には、朝だけ3両編成があった。
車掌というか運転士兼務の人が菜っ葉服姿で放送してた。
ここが茨城県の私鉄の想い出を語るスレでよいということなら、
日立電鉄のワンマンカーも懐かしい。
全国でも導入は早かったほうのはず。
旧型電車の頃は、お賽銭箱然とした木?の運賃箱が
置いてあるだけで、両替機もなかった。
でも、無人駅での乗り降りは少ないか、あっても定期券所持客が
多いらしく、さほど困っていなかったように見えた。
営団車に置き換わってからはついに一度も乗らずじまいだった。 というか、鉄道線のワンマン化1号が龍ヶ崎線。2位が電鉄。 当初岩瀬〜宇都宮も計画してたらしいね。
ただ、トンネルとか鬼怒川橋梁とかで多額の費用が必要になるから断念したそうだ。 >>35
14系もありましたね。写真でしか見たことなかったけど。
しかしキハ58は写真すら無い。多分、急行「ときわ」の
車両だろうけど。 投下
ttp://www.nicovideo.jp/watch/sm4737242 真鍋での車両交換がおもしろかったね。旧真鍋駅で臨時停車して土浦行きの後ろに1両増結(締め切り)。戻ってきたところで後ろを切り離す。同じような方法はいまでも銚子でやってるかな。 JRと関鉄共同でバスは花火競技会の専用チケットはあるみたいだけど硬券ではないみたい。
硬券そのものを作ろうとすると改札鋏やストッカー、ダッチングマシーンも必要になるし結構復活設備に金が掛かるからやらないと思うよ。 常総線のキハ310の中には、種車の国鉄キハ17系時代に
台車がDT22にはきかえられているものがあった。 >>67
キハ 600更新前以外は非貫通のキハばかりだった鹿島を除き関鉄系列の気動車には必ず貼って有った。
漏れもそのステッカーは5年前位の水海道イベントで購入した。 筑波鉄道は楽しい路線でした。今もあったら(会社はあるが)鹿島以上に注目されていたでしょう。
筑波号・・・旧客(スハ43他) 12系 14系
昭和58年ごろ乗りました。上野から関門のEF81 302に牽かれ土浦へ
そのまま筑波鉄道の1番ホームへと転線してから筑波鉄道のDD501に付替え
筑波へ向かいました。12系客車でしたが殆んど乗客はいませんでした。
最後の乗り入れ・・・キハ58・28
昭和61年9月頃に真壁地区の園児輸送目的でキハ58系6両編成が乗り入れた
そうです。車両は水戸区の車両です。2台エンジンの旅客車が筑波線を走ったのは
初めてかな?
筑波山号・・・キハ25?
日立から岩瀬経由で筑波へ乗り入れた、筑波山号という列車があったそうです。
詳細はわかりませんが、キハ25系数連が入ったそうです。
水戸線乗り入れ・・・キハ500・800
筑波線の気動車も小山や笠間へと乗り入れを行っていました。
水戸線内では単独ではなく、国鉄車との併結運転で乗り入れたそうです。
下館で真岡線の気動車に併結されたかも知れませんね。現在、鉄道博物館や
佐久間レールパークに保存されているキハ11と筑波線の気動車と併結された
可能性はあります。(キハ11 25・26は新製時から真岡所属)
そのほかにも乗り入れがあったようです。
キハ751〜754、755がいた頃の朝の常総線は押さえておくべき
だったと禿しく後悔。 筑波鉄道の気動車は、最後までドアか、半自動ドアでした。閉めるのは、車掌が操作していましたが。
駅に着いたときは、車掌がロックを解除して旅客が手で開けていました。乗車する客も手で開けていました。
ドアに、手で開けてください。と書いてありました。 筑波山より中継…
今日廃線跡のリンリンロード脇の県道を車で走ってたら厨学生の兄ちゃんが帰宅途中だった。 ところで、TX開業して走り始めた、TXつくば駅〜岩瀬の急行バスはどうして失敗したんだろう。
真壁あたりの人が都内に出るのには便利だったろうに。
今現在、「筑波鉄道の代替バス」として機能してるのは、土浦〜筑波ぐらいか・・・
筑波〜真壁は1日数本だし、真壁〜岩瀬は廃止になっちゃったし・・・ 真壁の住人は、筑波鉄道があったころは、鉄道で東京に日帰りで行くことが出来た
けど、今は、どうしているのかな。 >>74-75
全員「クルマ」使うんだよ。
つくばまで車で行ってもいいし、そのまま常磐道乗って東京まで出てしまうのだって普通。
真壁・岩瀬急行は開業した頃はそれなりに乗っていたが
暫くしたら空気輸送になっちゃった。 かくして加平付近の渋滞は解消されないのであった。
って、茨城のクルマはどこまで行くのやら。 鹿島鉄道なんかは、車庫が石岡ではないところにあれば
ヲタが少しは収益に貢献したのに…って焼け石に水だろうけど… 筑波鉄道で好きだった車両は元江若鉄道のキハ511
あの顔つきが可愛かったし、車体と菱枠型台車の組み合わせがチグハグでたまらんかった。
車体の側面が同じような岡山のオバQがあったけどアスベの関係でアボーンになってしまったらしい。 キハE531系
車体はキハE120系と同じ車体で、
走行用エンジンはカミンズDMF14HZAが
2台搭載された軽快気動車の2エンジン車。
変速機はDW14B-Bで、変速1段・直結2段の
多段式で、コンバータは3段6要素。
走行性能は、例えば50km/hでの動輪周引張力は、
約2,800kgであり、キハ58系の約1,200kg、
キハ65系の約1,600kgと比較して大幅に向上しており、
30‰の登坂において、補機負荷100%・乗車100%でも
60km/h以上を出すことができる。 TXは他と乗り入れないならなぜ狭軌で作ったんだろう?
歴史の亡霊?…板違いなのでsage >>83
狭軌でも160km/h出せるから別に問題ないってところでは 筑波や鹿島も最高速度は65km/h。当時の車両性能と駅間距離ではそれ以上の速度を出すのは無理。
乗り降りの少ない駅は快速運転しても良いとは思っていたが駅付近の踏切遮断タイミングが短くなるので問題になる。 筑波線は短尺レールが使用されていましたね。
そのため、単行でもトトントトンという忙しない
ジョイント音を立てながら走っていました。 筑波山ハイキングした後に、真壁駅から乗ったな。
夕方ごろ駅に着いたけど、ずっと列車来なかった。夜もとっぷり更けた頃、ヘッド
ライトが現れ、向かいのホームに見たこともない丸い顔の列車が停まった。
まもなくこちらにも列車が来たけど、何も変哲がない普通の気動車でガカーリしたよ。
あの丸い顔の列車は国鉄払い下げのキハ42000と知ったのは、ずっと後のこと。
それから数年後、やはり筑波山の登山の後、行楽時期のせいか長編成の列車が入って
きたけど、なんと2両目に見たこともない両端にバスケットを付けた車両が連結されて
いた。乗りたいと思ったものの子供の悲しさ、親に連れられ普通型の車両に。
こちらも相当後から、北陸鉄道から来た1両だけの珍車キハ541と知った。
この2つの思い出は強烈で、いつか模型で再現したいと思っている今日この頃・・・ 筑波線にキハ54系という2エンジンで、顔は211系の気動車が走っていたっけ? >>キハ541を、国鉄キハ54と同形だと思っているの?
だとしたら、そいつは大間違いだよ。
キハ541は、北陸鉄道で戦後生まれながら、ある意味旧き善き時代の味を残したて
造られた最後の車 バスケットカー でキハ461(元々キハ 04で原形に近い)と共に
最期の筑波鉄道で 宝物だった車だよ。
それは、何時ものルルーシュ=糸色望の荒らしだからさぁ。
現代の大平荒しを思い出してしまったのは何かの幻覚かな。 >>89
筑波鉄道廃止後、キハ541は引き取られる予定があったんですね。 >>91 違う?と云うか、保存の話しは挙がったか知らない。
ただ記念乗車券には、絵柄や図面選ばれているから、会社も価値は認めていたと思う。
だから、お役御免休眠後も廃業迄潰されなかった。
ちなみに、東武の78みたいな顔した キクハ10は、廃業間近の時期に潰された。 あの、キクハ10って、本来は何処向けに製造された車両なんだろうなあ・・・。 >>93 キクハ10は、さあ 初のトルコン車キハ48000(コイツも組合問題で既に
実用可能になっていた総括機能が付けられなかったヘタレだが、)落成後に、
古典的客車スタイルで造られ不可解に思われているが、未だ製作時点では
常総筑波鉄道もそういう事情もあり、気動車による長編成列車に踏み切れるか
多客時は、客車列車対応か決断に踏みきれなかったんじゃないの?
西の江若なんか戦後は、ディーゼル機関車の方が新車多いしねぇ・・・・
ちなみに、キクハ10潰している時、傍にいたベテランの整備担当の方の話しでは、
エンジンを付けて気動車化してみた所、振動が酷くどしょうもなかった。と語っていた。
・・・つまり 当初から気動車化なんて余り想定していなかったのでは?
まぁ精々電車改造気動車より、軽くしてエンジンスペース床下に開けて
おけば好都合だ位の考慮では?
ちなみに、俺の葬式鉄(コレも最終日ではない)行動はコレが、最初で最後。
なんか違うヨと、思ったから。 >>94
キクハ10って、日車の仕掛品を引き取ったものって聞いているけど・・・。
電車型気動車といえば、常総線のキハ40086も、謎の車両だよなあ・・・。 >>94 そうだったのですか?その事実は知らない。
確かに云われてみれば、アレだけ振って湧いた様に貫通だしね。
40086も仕込み品では、時期が時期だけに造っておけば、何処でも
買うと・・・パッと想い浮かばないのだが、日鉄自のこの時期、
この類似車方々にあると思わない?西武(旧武蔵野とか)
もしかして、マイナーメーカー日鉄自が、貯えていた資材を高率良く活用し
何処の会社にも売れそうな自社規格車を造りをシェア拡大を目論んだとか?
とにかく何処か、類似知りません?
見込み品といえば、茨交 茨城 ナハニフ21・22も東武電車スタイルで経緯が謎だな。 >>95
電車スタイル気動車は千葉の小湊キハ5800が残ってるね!
あと千葉には国鉄キハ10があるんだけど・・・ キハ821タイプ
>>97
国鉄キハ10て 鹿島臨海キハ1001のこと?
>101
そういうことではなく、キクハ10の主要寸法と小田急1650増備車の寸法を比較し、製造所と製造年を勘案してみるべし。 >>102 なる程ねっ・・・小田急から御殿場線乗入れ用の2個エンジン ディーゼルカー
購入の際 余力があるからと、漠然と付け合わせ程度の選択で購入した訳では
ないのね・・・
しかし ホハ1001→キサハ53→キハ511→キクハ1が 小田急1650と同形であるとは、
経緯・先入観等鑑みると、にわかに信じ難いな。先入観とは恐いものだ。
・・・此の事例に関わらず、琴電の譲渡車などで全く別物に見えた、車種同士が
同じカラーを、まとうと以外と似たイメージの車だった事に気付いたりした。
模型造りの時注意せねば・・・
>>103
2エンジン車は他に元南海のキハ755があったね!
潰されたキクハ10の屋根裏の木枠に「小田急1650」何やら書いてありましたけど
オタのイタズラ???
>>104 キクハ10の件 それは、初耳だね。
オタで当時そこ迄知識、意味深な事する人いるのかな?
現場に居合わせていながら、気付かなかった俺は、ダメダメだな。
こういう事こそ、古参の技工オッサンに尋ねるべきだった・・・後悔。
此のスレは結構 昔の千城県の非電化に明るい人が多いみたいだから
ちょっと 近隣の他所に話しずらさせて下さい。
原形が国鉄04で後年嫁ぎ先で2枚窓顔にされた 鹿島キハ411・412と
新潟交通クハ37まぁこちらは、電車だが・・・・の顔を見比べてみたかった。
廃止になった 茨城交通茨城線の大学前付近に戦後 茨交・常総筑波・鹿島
の3社が共同出資して設立した 関東車輌って どういうメーカー?
何故解消したの、何気に3社以外の工事 関東大手私鉄(確か東急?)
に戦災国電叩き直しだしたりしているし・・・何か知っている人教えて!
それと、京成は何故 茨交には、手出さなかった(手出せなかった)の?
水戸に百貨店開く位だから、テリトリーと考えていたと思うのだけど・・・ >>105
常総筑波は赤字経営対策で京成と東武の資本を受け入れ
のち労働対策から京成の支援強化を要請。
鹿島参宮は労使紛争が起きている状況の中、霞ヶ浦観光開発への
足がかりとして資本参加。
常総筑波と鹿島参宮では京成の資本参加した経緯が異なっている。
茨城交通はそういうスキがなかったのではないかと。
それにして、労使対立から大手私鉄に資本参加を要請した事業者って多いね。
北陸鉄道や秋北バス・十和田観光電鉄などなど・・・。
>>106 有難うございます。
常総筑波は、当初は京成だけに頼らず、東武も頼り二股かけて植民地支配を、一応
回避するつもりだったのかな?
こういう、労務問題解決の為の資本参加って 具体的に何するの?
当然資金を投入するのだと思うが、経営を安定させ従業員の賃金に
反映させるの?それとも、人員派遣で強硬派退治の治安出動? 東武は駄目だね!
余計な御世話だけど、この前、新宿からスペーシア乗ったんだけど
普通に抜かれるような速度の特急で2時間もかかってる。
あと、常総線が複線なのに野田線は未だに単線てどうしてなの? >>87
筑波線の原型42000…
ってキハ705ぐらいしかないよな?
あのころの筑波線って他の関鉄系三路線に比べて情報が少なくない?
初代キハ300とか400とかさらには新宮鉄道から来た付随車とか謎。 >>109
87ですが、保育社の「関東鉄道」によると、やはりキハ705以外に該当なさそうです。
ただキハ613は常総線所属とのこと。
87の件は昭和40年前半の頃だったので、それ以後に転属したのではないかと。
>>110
書類上かと思っていたのですが、キハ705はキハ07の原型で筑波線を僅かの期間走行したのですね!
ディーゼル特急に登場する「キハ04 23」はキサハ41801になり
真鍋で廃車されました。
関東鉄道を構成した各線の、車輌の転配キャッチボールを調べたら面白そうな気がする
のだけど、良い文献知りませんか? >>112
湯口さんですら匙投げたくらいだから・・・。 >>112
それ以前に関鉄グループで過去に車両が何両いたかしってるかい? 国鉄系だけでも
40000系:1両
41000系:13両
42000系:11両
10系:9両
(20系:8両)
30系:39両
0系を購入というかどうかは微妙だけどどんだけ大量購入してるんだw そりゃ即答は出来ないよ。
リアルに知らない時代もあるから、文献を漁らないとね。
ただ大体流転するは、我々の好きな「ガラタクタ機械式が原形の車」じゃん。 >>113
湯口さん、最盛期の水海道工場に出入りしてたりしたんだよな。
そういう人でも把握しきれないのが、ローカル私鉄のややこしいところで。
沿線住民で定点観測や動向把握のできる人ならともかく、なかなか難しいよな。 お前ら筑波鉄道の現役時代知らないくせに
知ったかぶってんじゃねーぞ^^ >>118 じゃあ 常総筑波時代 知っているのですか?
私は、そこ迄古い時代を知らないから興味を持っているんですよ。
かろうじて、トルコンにされちゃつた 竜ヶ崎のキハ41301とかは、
知っているよ。
興味のある事を、話しあう事が何故いけないのですか?
取り敢えず 関鉄時代は、既に此の手世界に目覚めていた。
但 餓鬼だから、地元に住まない私は、交通費に制約があり実見は少ない。
みなはん、仲良くせなあかんよ!
正月にな水海道へ行ったらキハ301あるやんか! 筑波走っとたやつ 驚いた
おっちゃんに聞いたらな、倉庫やて
筑波線は、中学の時に怪我をして通学で使っていて、乗り心地は揺れるというより
上下に飛び跳ねるといった具合、降車する時は扉を開けて降りていました。
高校のころ、土曜日は水戸発15時ごろの客車で帰ってきてたなぁ、なんて思い出します。
廃線の時に進学して20年ぶりに帰ってきて、不便になってしまったと思っています。 ↑ 水戸発15時ごろは水戸線です。岩瀬乗り換え筑波線。 ↑ 水戸発15時ごろは水戸線です。岩瀬乗換え筑波線 >>124
昔の列車は台車のバネがしっかりしていなかったため、
ガシャンガシャンという揺れで、東北本線や東海道本線などで
時速80キロを超える速度を出すと、荒波をもまれる船のようでした。 旧雄鉄車の一部は、アーチバー台車だったからなぁ・・・ キハ821も揺れたね! 特にブレーキを掛けたら・・・
DT19型台車は枕バネにゴムブロックを使っているからかな?
スレチだが鹿島臨海の臨港線1000がキハ10。筑波線よりは線路状態は良かったがやはり揺れた。
特にギヤーが減っていたのか起動時のショックが大きかった。 南部縦貫のキハ104はキハ58か何かのDT22に交換したので幾分乗り心地が良かった!
そういえば、このキハ104が入線後に廃車になってしまったキハ103という旧筑波鉄道の
気動車がありましたね。
確かに揺れた記憶があるなあ
土浦駅を出てすぐに無人扱いの車両を車庫で切り離しをするのはなぜ? >>132
それは車両の入換えのためですよ!
上り、土浦行きの列車は車両の入換えの際、真鍋信号所で回送車両を併結してから土浦に行き、上り列車として走ってきた車両を回送車両とし、真鍋で
併結した回送車両を筑波・岩瀬方面の下り列車として運用していました。これは全国でも珍しいですね!
>>131
「はつかり」に運用されていたキハ81系を、キハ82系との混結改造の際に台車の交換が必要となり、
余剰となった空気バネ台車をキハ58系に転用、玉突きでキハ10系に転用したそうな。 >>133
いつもかどうかはわからないけど、いつか銚子電鉄に行ったら
朝の700の2連を切り離すのに仲之町〜銚子で同じ手法を使ってた。