鉄道郵便を語るスレ
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郵便物の輸送を鉄道が担っていた時代もありました。
郵政省所属車(クモユ141、キユ25ほか)や鉄道郵便局などなど
鉄道郵便全般の思い出を語るスレです。
郵便車 - Wikipedia
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B5%E4%BE%BF%E8%BB%8A
移動する郵便局、「鉄道郵便」の時代 | エキサイトニュース
ttp://excite.co.jp/News/bit/00091160222221.html
>>537
昭和57年11月改正までっぽいねぇ
この改正で急行十和田から郵便車と荷物車が外れる&客車鈍行が電車化 >>532
車掌とのやりとりの実際がかなり遮断度高いな……
まさに「車掌室以外全部郵政省の陣地」だったんだな
鉄道模型板の
荷物車・郵便車スレで
合造車(キハユニとかクモハユニとか)で
郵便室の区分棚はどの程度使われたのか?
というのが話題になっている >>539
郵便法第10条に「信書の秘密厳守」が謳われてるんで
乗務に関係ない車掌は立ち入り禁止の筈です。
それにしては、ジャーナルの86年12月号の特集で再掲のあった区分室の写真
作業中なのに何で入れたんだ?って思ったら
送達証切って郵袋を「締めてる」トコだったから
中身の郵便には関係ないっていうことで撮影許可してもらえたのね。 過疎ってるので(^.^)
客車のスレで10系軽量客車グループ以降の郵便車の構造と系列が一致しなくなっていると言う書き込みで揉めてるみたい。
こちらに書かないなんてスレ違いですよね(笑)
ナオスマカ10系12系14系20系35系47系50系客車を語る
101 :回想774列車[age]:2011/02/19(土) 18:12:31 ID:oV4gbafr
99
100
荷レ現役当時は精子にもなってなかった癖に、生意気言うな。脳ミソ掻き回したろか!
ナオスマカ10系12系14系20系35系47系50系客車を語る
107 :回想774列車[]:2011/02/19(土) 18:44:03 ID:oV4gbafr
>>103
偉そうに高見の見物か?
近付くのが嫌でも、俺から近付いてやろうか?
おじさんがファビョってるスレですね(笑) あっちROMってたけどご本人ここに来てたのか
ワロタwww このスレでは車両関係はウエイト低いからなあ
実務とか制度がメインの話題になってしまうわけで 突然の書き込み失礼いたします。
大変遅くなりましてすみません…勤務時間の件書き起こしてみました。
(スイッチの件などであまりお役に立てませんで恐縮です…。
とあるサイトさんでは「車掌さんの呼び出し連絡用スイッチ」とありましたので
そうなのでしょうか…OB会の時にでも聞いてもらおうと思います)
父に調べるためオユの画像など見せましたところ「いまだに郵便車両を見るとぞくぞくする」
といっております。
郵政博物館に行きたがっているのでなんとか連れて行きたいものです。
●勤務時間はその日の乗車便の行き先で変わる。
総勤務時間は1万560分/4週と決まっており、この時間になるように乗務時間を調整する。
これ以上になると残業がつく。
1万560分に足りない場合は「予備時間」を使う。
降車してから構内で積み替え作業を行ったり、書類作業などをして調整する。
把捉ひもを切ったり、鉛玉を結びつけたりはこんな時にやっていた。
自分で勤務時間を把握して「今週は時間が足りんから降りてから構内作業して帰ろう」と
予定を立てたりした。
乗車前には「準備時間」があり、大体発車30分前くらいが充てられた。
(発車30分前には出勤しておく)この準備時間は総勤務時間に入る。
●特急だと大体夜中の1時に発車して朝の6時に到着、各停だと昼11時に発車で
夕方6時半ごろ到着になるので、間に合うように出勤する。
どの便に乗るかは分局の「指定主事」がつくった勤務指定表をもとに振り分けられる。
分局総定員120名のうち乗務者は80名いた。
各週休(月曜日が休みの人、火曜日が休みの人…と曜日毎に出勤者のリストがある)
で振り分けられ、急用で予定外に休む人があると「予備出勤」の人が代わりに乗った。
予備出勤は交代制で1年に2回くらい回ってくる。
その週は休みでも何かあると出勤になるので出かけられない。
●指定主事は乗務員からたたき上げの人がなる。
経験を積んだ時に上から指定主事をやれと指名され偉くなっていく。
乗務をやめて分局で業務をする。
分局には事務の人や構内で積み下しなどする人もいるので全員が乗車するわけではない。
●鳥栖行きは荷物が少ないので二名乗車、門延下り二名、鳥大上り1二名、
東下りは多いので東下り1四名乗車、東下り2は六名乗車だった。
内訳は6名なら便長、赤(現金担当)、区分、書留、速達、把捉わけ、
ハイハイ(下っ端…荷物の仕分けで赤ちゃんのようにはいつくばるから)、となっていた。
この順番は必ず給料額順になっていた。
年功序列というより一日でも早く働き始めた人が上になる。 ●宮崎から帰る便では終点に着く前は駅が少ないので列車が止まらず時間が足りなくなり
戦争みたいになった。
慌てて荷物をまとめて前掛けを畳んだり原簿を逓信鞄にしまったりスリッパから靴に履き替えたり、
着くまでにすべてきれいにしておくのに忙しかった。
降車してからの作業は、報告書を書いたり、事故があれば事故の内容を上にあげる書類を書いたり、
残務整理をするのだが30分では終わらない。残業になる。
●入局してからしばらくすると必ず九州内の分局に異動させられて鍛えられる。
異動せんと本採用にしてくれん。
「外」に行って帰ってこんと「本物」じゃねえと言われていた。
移動先での業務が辛くてやめて行った人もおるが、鉄郵は郵政省の仕事の中でも特に待遇が良かったので後悔する人が多かった。
22才で門司分局に異動して九州全体を把握する業務についたおかげで九州全体の知識がつき、帰ってからだいぶ楽だった。
熊本に行った人、熊本から来た人、長崎や鹿児島に行った人がそれぞれ同期で戻ってきて、皆の経験をもとにして作業するから得
意分野があった。
●入局したころは、駅の分局に宿泊室があり、一階の畳の部屋に布団と枕をならべて寝ていた。二段ベッドになってからは二階の
部屋に移った。小倉などに会った目覚まし装置(背中に敷いて寝て時間になると空気が入って押し上げる装置)はなかったので、
構内作業の人が起こしに来てくれていた。分局で寝るのはみんな何もかも知っているので安心だったが、出張先で寝ると目覚まし
は便長だけなので宿泊室で寝るとき緊張していた。一階には逓信鞄をまとめておく場所や、分局長が扉の鍵を補完する金庫などがあっ
た。専用の散髪屋さんが三階にいて常駐していた。
●年末になると新巻鮭のお歳暮が多くて、専用の長郵袋に入っていた。
包装が悪いのがあって、塩や水が漏れてきたりするので他の郵便につかないように気を使った。
門司の地下道に広い保管所があって、列車に積む順番に鉄の赤台車に荷物が積んである。
年末の荷物はお餅が多かったのでねずみが郵袋を食い破ったりしていた。
門司に積み込む荷物の原簿があって何便に何の荷物を載せるときっちり指示がある。
駐在で構内の指示をする職員さんがいて時間通りに荷物を積み込むようエレベーターで待機している。
そこに台車を積み込んで乗せるために運んでいく。
とりあえず、まとめて見ました。
ご質問いただいた方には遅くなり申し訳ありませんでした・・・
足りない部分などありましたらまたお知らせください。
荷物車を一台丸ごと借り上げて郵便車にする話とその際に使用する錠前の話も聞きましたので
まとめたものをまた書き込みさせていただけましたら幸いです。 >>517
>>500様のお話では門鹿東線も小郵袋から書留取り出して区分、記録していたようですね。
麻ひもに鉛玉(封緘)通したやつで小郵袋の口を縛ってニッパーでつぶしました。
大阪でしたけど、阪青線の場合、当時の担当は乗務かばんにそんなの200本ほど入れて乗りました。乗務前にひも切って鉛通す作業までしたかなぁ?できてあったのが置かれていたのか?
下っぱで書留担当することがなかったのですが補助として手伝いはしました。重たい鉛ひもでしたので「おまえのかばんにも入れてくれや」とか言われて持ち込んだものでした。
阪青上一、上二では数多く締めました。京都府以西、航空結束一円が数多くありましたので。2人で送達証書いて2人で締めて、ニッパーが1個なので取り合いして、それ締めたらこんどは継越小郵袋と合わせてまた送達証2人で書いた・・・深夜の車内が目に浮かびます。
ちなみに、うちのオユ10公開日には、それの実演もやります。「敦直乗務員」という赤乙開けると現金書留が出てきます。(封筒の中身は古新聞です)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~YAMACAT/FRPS/hokuriku/090425/090425.htm 郵便車の暖房はどうなっていたのですか。
寒冷地では無暖房で頑張っていたのですか? 追加
停車中の便所利用はどうしていたのですか。
構わずに垂れ流し便所を利用されていたのですか。 暖房は蒸気暖房と電気暖房を牽引機の種類によって切り替え。 >>558
DD13で郵便車含む編成を牽引したという事実が無い。
ちなみに、客車列車牽引運用があった水郡線の場合、ホヌ30を連結していた。
他にも牽引していた事例はあるけれど、鉄道郵便運送が無い路線(和田岬線・姫路港線)か
郵便車を連結しない臨時運用(紀勢本線和歌山〜和歌山市)しか無かった。
混合列車の場合、蒸気暖房を使えるのは、蒸気暖房搭載牽引機の次位に
客車と一緒に連結され、その後に貨車が連結されている場合のみ。
電気暖房も同様。
蒸気暖房・電気暖房非搭載牽引機及び、牽引機の次位が貨車の場合は、ダルマストーブです。
客車には、温気暖房機が混合列車対策の為に装備されていましたけど、郵便車には付いてたのかな? >>559
>DD13で郵便車含む編成を牽引したという事実が無い。
何でこんなこと断言できるの? >>561
だから何でそういう事実がないと断定できるの? >>563
つまり照明できないようなことを事実であると主張してる訳よ
おかしいだろ >>553
元二乗さま
麻ひもに鉛玉を通したのは、自分の分局では一番新入りさんがやる
仕事だったと言っていました。
乗車前の準備時間(30分)は忙しすぎるので、降車後の残務整理時間や
荷物車に郵便を取りに行く時などの余った時間を使ったそうです。
(すみません、メモが手元に無いのでうろ覚えです)
深夜の車内の静かな争奪戦、仕事が目に浮かびます。
オユ10公開、便長を連れて出かけてみたいです…計画を練っていつか必ず。
実演見たら便長は泣くかもしれません。
郵便車の冷房について(南国の話)と、トイレの話聞いてみました。
便長は今日鉄郵同窓会に出かけて行きました。
例のスイッチの件も聞いて来てくれるといいのですが。 ●冷暖房の話
クーラーが入りだした年代を聞き損ねましたが(出がけでありましたので)
クーラーが入る前は締め切りの蒸し風呂、天井の風を取り入れるところ以外は
空気の出入り口が無いためでっかい氷柱を休憩室にたてていたとのことです。
外側が木、中にトタンを張った大きなたらいのような入れ物に氷柱を入れて、
周りでトマト冷やしたりしていたそうです。
蒸し風呂の中の作業の後食べるそのトマトが天国のように美味しかったとか。
冷房が入りだしてからは、門司ー鹿児島間でずっとつけっぱなしで寒いくらい良く冷えた。
郵便車専用の冷房のディーゼルエンジンがあり、ボタンひとつで一発でかかっていた。
ボタンは郵便車の休憩室についていた。
他の車両のエンジンが止まってもそのディーゼルエンジンはずっとかけっぱなしだった。
●暖房は、SLの時代もディーゼルも、機関車からの配管が車内に通っていてよくきいた。
区分棚の下にそのパイプが通っていて、金属のパイプがあつあつになって足元から上に
熱い空気が上がってきた。
冷房は自分たちでスイッチをいれられたが、暖房スイッチは調整権限を車掌さんが
持っていたので車掌さんに入れてもらっていた。
乗る前に車掌さんと相談して、「今日は(圧力)何キロくらい入れるかい」と聞かれ
「何キロくらいにしちょくれ」とお願いしていた。
よくきくので熱くなったら車掌さんに連絡して調整してもらっていた。
いきなり色々書きこんですみません…
間違いなどありましたらお知らせください。
●トイレについて
先ほど聞いたところ、トイレは停車中は基本使用禁止とのことです。
(書かれておられるように、垂れ流し型であったため)
郵便車には専用のトイレがついており、他の車両のトイレを使うことはなかった。
ただ、荷物車と郵便車が連結している時や、キハユニ(郵便車と車掌さんの車両が連結?)
の時は車掌さんと一緒に使っていた。
荷物車と郵便車の間にトイレがついているので、お互いの車両には入らない。
オユには専用のトイレと洗面所が休憩室側についていた。
さらっと聞いただけなので、つじつまの合わない事を書いておりましたらすみません。 >>518 >>565
500さま
そうですか、麻ひも鉛玉通しが新入りさんの仕事だったとは。大阪では書留担務者の仕事だったような記憶ですが、準備で手すきのときに手伝いしたような気もします。
いまオユ10車内には、セット済みの麻ひも+鉛のほか、未セットのパーツも保管してまして、通し作業など小道具作りもお客さんに体験?させてみましょうか。
オユ10公開は、いちおう4月23日に照準を当てています。広報できる段階であらためてお知らせしますね。
郵便車の冷房は寒いくらいに効いていました。今は床下エンジンがかからなくてあきらめています。
鉄郵同窓会、うちも4月にします。2年に1回だったのが去年から毎年開催になり、鉄郵談義に花が咲きます。
時刻表ですが、とりあえず個人の乗務カバンに1冊ありまして、転勤した先輩のを引き継ぎました。このたび、金沢のものを入手しましたが、結束表、区分規程などといっしょに綴られています。
国鉄の時刻改定による訂正、区分取扱い、受渡局改訂などで赤ペンで訂正、別紙をノリ貼付けなどがくり返されていますが、なぜか所掌区域以外の路線図などは訂正されていなくて、大昔の局名が書かれたままだったり。
人間関係は厳格な中にも便長や先輩を慕う風潮は大いにありました。行先地の乗務員事務室で昔は若手が便長の靴磨きやったとか。
糸崎では立ち飲み屋で飲み食いさせてくれて便長のおごりだったことが思い出されます。
以上、いろいろ思いつくまま。
>>568 元二乗さま
余談ですが、自分も関西におりましたので「お前のカバンにも入れてくれや」の言い回し
懐かしくなります。
オユ10車内で鉛玉通し体験いいですね、マニアックで自分は好きです!
我が家にも未セットパーツがどこかにあるような。
一分間に何本出来るか競ったら面白そう。
オユ10公開、いつもスケジュールを見ながら指をくわえる状況になっておりました。
何度かある中の一回にでも参加できたらなあと考えております。
熊本鉄郵分局同窓会、泊り込みで盛況だったようです。
ビデオでとりたいくらいですが、ついていってインタビューとかしようかな・・・
だんだん集まる人も少なくなり何かしたい気持ちになってきています。
全国のOBが集まって鉄郵談義なぞできたらさぞ豪勢でしょう。
便長は寝床でプリントアウトを読んでいます。錠前や借り上げの郵便車の話も
まとまり次第書かせていただけたら幸いです。
>>519 >>520 >>569
500さま
乗務行路や寝室のお話がありましたので私からも。昭和50年代の話です。
大阪鉄郵ではどの路線にも乗務行路番号がありました。
月間行路表が渡されると自宅カレンダーに書き込みします。
最近見たテレビで車掌の行路表が出ていましたが、郵便車ですと車掌のように行ったり来たりではなく、
行き先での折り返しは1回か2回です。
番号は基本的に2桁の数字で表し、十の桁で行きの便を示し、一の桁で帰りの便を示したので、番号を見ればどの便で行き、
どの便で戻るかが一目でわかる仕組みでした。
例:第一乗務課(東門線の大阪〜岡山・糸崎)の場合、
行きの便 1→東門下一 2→東門下二 ・・・ 6→阪門下?
帰りの便 1→東門上一 2→東門上二 など
なので、「12」行路であれば東門下一で糸崎で折返し後、東門上二で戻る。
第二乗務課(阪青線の大阪〜敦賀)の場合、
行きの便 1→阪青下護送 2→阪青下 3→阪金下 4→阪富下 6→阪長下
帰りの便 1→阪青上一 2→阪青上二 3→阪金上 4→阪潟上
なので、「61」行路であれば阪長下で敦賀で折返し後、阪青上一で戻る。
といった具合です。実はもっと複雑で東門線はたいていの便で扱い便と護送便がペア連結なっていて、護送の場合は往復で4桁になる法則でしたが、
やはり一目で何に乗るのかわかるように工夫されていました。
その他、亀阪線、阪鶴線(鳥取、福知山、東舞鶴)方面の番号は忘れましたが法則に基づいて付番されていました。
さて出勤時刻ですが、行路ごとに乗る便の発時刻のだいたい1時間前になっていて、制服に着替えて乗務課に行き、確認表に押印します。
そのとき、自分の氏名と行路番号を対比する箇所に押印して担当さんに示し、指定された者が指定時刻に出勤したことを確認したもらったような記憶です。
折返し先の乗務員事務室で何をしたかは定かでありませんが、寝過ごし、事務室集合の遅刻は許されませんでした。
自分の行路を認識しておいて、帰りの便では寝室でもひとりで起きる場合もあって誰かが起こしてくれる訳ではないので、目覚まし時計をよく点検し、
カバンにもうひとつのマイ時計を持参して、時計2台に起こしてもらいました。
敦賀の22行路なんか、仮眠は3時間程度のとんぼ帰りでしたし。
二段ベッドの話ですが、糸崎も敦賀も乗務員が多いので寝室も多く、寝室単位でも一斉に寝たり起きたりではありませんから、
先に寝ていても後から来た乗務員が入る気配で目を覚ましたものです。
ここで乗務行路が関係してくるのですが、寝室の扉わきに「どのベッドが○○行路の□□担務者」とか書かれていますので、
毎回ベッドが違っても間違わずに使用していました。
一斉に寝室を使わないというのがわかりにくいかもしれませんが、ある便、例えば阪青下に乗務員が7人乗っていたとしますと、
帰りの便は人によってまちまちで、とんぼ帰りする22やら、翌日夕方まで過ごせる24やら担務者によって異なるので、
事務室に着いてもすぐ寝る人と食堂でお酒をいただいて歓談する人に分かれます。
また、24の人が翌日の夕方に阪潟上で集合すると、24の人やら44、14の人やらで総勢7人になって敦賀から乗務するという仕組みです。
その他、JRの車掌区、列車区でも、主に特急ばかり乗る組(ベテラン)から通勤電車ばかりの組があるのと同様に、鉄郵でも数字1〜5の組があって、
1なら便長クラスだったはずです。
私は5組の中で、14やら31やらいくつかのパターンが指定されていたので、月間で5種類くらいの勤務が休日をはさんでローテーションしていました。
ほか、急な変更でてんやわんやしたこと、その他ハプニングもありますが、長くなりますのでこの辺にしておきます。 オユ10公開日は4月23日です。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~YAMACAT/FRPS/hokuriku/110423p/110423p.htm
缶コーヒーBOSSのCMにオユ10が出てきます。ホームページでもちょっとPR。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~YAMACAT/FRPS/hokuriku/hokuriku.htm 確かに、背景に少し写っていますね。
ttp://www.suntory.co.jp/softdrink/boss/rainbow/cm.html
元二乗さんが交通新聞社新書から本出したら真っ先に買いに行く。 ♪やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、
やんやんやん、やんやんやん、やんやんやん、やんやんやんやん
>>572 元二乗さん
ttp://www.bl.mmtr.or.jp/~idu230/his/sinbun/nimotu/36.htm
大阪〜米原間に車内区分車が3両いますが
この場合東門上りの車と大門上りの車の間の幌は繋がってたんでしょうか?
また、米原〜長岡までの車両区分車での接続待ちはどうされていたんでしょうか?
いらっしゃいましたらご教示願えれば嬉しいです
>>577
すいません、大阪で大門線は解放されて
入れ替わりに長岡行きが連結されるんで東小倉〜米原間は実質2両でした。
お詫びします。 突然ですが、質問させてください。
郵便車の画像を見ていると、区分室の採光窓が固体によっては
白塗りだったり、あるいはスモークっぽく見えたり、
あるいは透明のガラスのように見えるものもありますが
実際に、区分をしていた時代の車両で多かったのはどれなのでしょうか? 577さん。ありがとうございます。
これまで、阪門上と阪長下とは、郵連結する荷物列車が同じなので、
便車が直通するものと思っていました。
思いこみは怖いですね。
>>577
このたびの荷36レは編成表を見ると見事な多層建ての郵便車連結をしています。
砕いて説明しますと
大郵3 阪長下 大阪→米原
四郵1 東岡上護送 岡山→汐留
門郵1 東門上三 東小倉→汐留
大郵1 阪門上 東小倉→大阪
が絡んでいまして、すべて乗務員が乗り、護送以外は扱便です。大阪で解放と増結がありますが
岡山米原間では編成中に郵便車は3両あるということです。貫通幌については、郵便車どうしが
連結されていてもつながっていなかったはずです。もとより、車両間を往き来するものではなく
1両ごとに別々の便であり、乗務員の仕事は独立しています。何より、貫通扉は内側から施錠して
安全を図っていました。
長くなりますと文字大杉にひっかかりますので、接続に関することは別途説明します。 【結束と最先引渡し】
次に接続についてご質問ですが、以前説明しました鉄道便どうしの結束というのは規定時間内に結束
指定駅を発車する他便のほか、同一列車に併結されていた複数の郵便車が、分割により先行、後続
又は別方向へ向かう便へも積み替え可能な限り結束便になり得ます。
今回の荷36レにあっては、あらかじめ岡山で東岡が加わり、大阪では阪門を切り離すと同時に阪長を
増結するという入れ換えが短時間に行われたということで、大阪では以前お話しした他便への結束
が行われています。具体的には、東岡、上三、阪門の各便から阪長に対して滋賀県長浜塩津間及び
福井県以北阪青線方面が主なものです。大阪では各便とも大量の郵袋が降ろされるので、わずかな
連絡時間で阪長宛の郵袋をホームで選別するのは駐在も大変です。そこで「最先引渡」という制度
がありまして、車内で郵袋の山を積み分けるとき、大阪鉄郵引渡のつまり他線積み替え郵袋とは別
に阪長宛は別の山にしておいて、大阪駅でドアを開けるとすぐに「阪長の最先やで」と駐在に言い
ながら引き渡すと、台車に乗せて阪長が連結される位置に持って行くわけです。そのあとで鉄郵宛、
中郵宛通常、大阪小包宛と分けながら降ろして行きます。あと、わずかながら阪門車内で岐阜県以
東のブツが出れば、同じく最先引渡にて上三に渡される場合もあります。
一方、阪長は大阪積み込みの郵袋は引込線で停車中に飲み込まれているので、入れ換えで荷36レに
連結されたあと、最先引渡のブツも追加で積み込まれ、作業開始となります。
また阪門は最先郵袋だけを降ろすと入れ換えされて引込線に入ってからぼちぼち全部のブツを降ろ
していたと記憶しています。 >>579
連投ごめん。
当オユ10の区分室採光窓は白っぽいスリガラスです。車種により白強化プラスチックや透明ガラス
もあったかもしれません。
>>583
元二乗さん、レスをいただきありがとうございました。 >>582
ご回答ありがとうございました。
あと阪長下の米原での入れ換えは乗務している局員の方も一緒に乗ったまま行われたのでしょうか?
また、東岡上りオユ12は「無証締切大郵袋」の扱いだけのように思うのですが如何でしょうか?
甚だ勉強不足で申し訳ありませんが、以上ご回答願います。 >>582
便乗質問です。
阪長下の米原での待ち時間中(655着1033発)、米直下が先に発車していますが(800発)、
阪長下から米直下への積替ってやってたのでしょうか?
>>585
東岡上護は、大阪で高等信の積み込みもしてたかと思いますが・・・
どうでしょう?<元二乗さん
>>585
順にお話していきます。
阪長下に限らず、阪潟上、阪金上下便にあっても大阪米原間は荷物列車、米原以北
は普通列車というパターンであればいずれも米原駅で入れ換えがありますが、乗務員
は乗ったまま作業を続けています。前後にしゃくられたり、連結の衝撃で作業に夢中
でも、どっち方向へ引き上げられてどこへ持って行かれるかはわかっていたものです。
次に東岡上護送ですが、搭載していたのは、四国各県、玉野、岡山等で積み込まれた
関西地区以東のブツが中心です。特に岡山以東からは締切郵袋、それも大型通常、速
達小包、普通小包を主体に積み込むようになっており、高等信は上三などの扱便に搭
載となりバランスが取られていました。東門線じたいは扱い、護送がペアで併結の列
車が多かったので、おおよそはそういう積み方をし、諸規程にも明記されていました。
一方、岡山など分局がある駅では、他線からの積替え締切郵袋にあっては、そういっ
た原則がありながらも、駅ごとの定数というものが決められていて、扱い、護送が併
結される列車では、その日の出具合によって、郵袋種別にとらわれずに積み込む場合
もあり、護送に有証郵袋が全く載らないかというとそうでもありません。特に小包の
有証などは護送でも多く入りました。
また、扱い又は護送便と締切便が併結される列車にあっては、有証郵袋は締切便に積
まずに乗務員がいる扱い又は護送便に積むことが明記されていました。
>>586
阪長下には乗務する機会がなかったので米直下に結束したかについてはよくわかりません。
米原で停車中に米直が先に出ますが、米原敦賀間は締切であるため乗務員が乗らず、敦賀
から敦直乗務員が乗ります。米原では、駐在により敦賀以北扱いの郵袋が積込まれたはず
ですが、阪長の高等信もかなりあるので、敦賀以北を全部積み替えますと阪長の車内はが
らがらになりそうですので結束した郵袋があったとしても限られたものだったはずです。
乗務したOBさんをさがして聞いてみますので気長にお待ち下さい。
東岡上護送の大阪以東の積込みの詳細は乗務が名古屋鉄郵の浜阪乗務員だったのと、鉄郵
駐在の差立て事務をしたことがないので詳細は不明です。高等信のほとんどは上三のほう
に積まれたと思われます。 ウィルスソフト入れてるのにユキチカに感染するくらい低い確率だ...
詳しいスレですね。
部外者の知らないばかりでした。
駅のホームに郵便ポストがあったり
駅前のポストに出すと早く着くと言われてましたし。
短い停車時間に受け渡しをしているのを
うるおぼえで覚えています。
今思うと鉄道郵便はエコなんですね。 >>590
ホームの郵便ポストは今ふうのタイプが京都駅なんかにありますね。
鉄郵の時代は大阪駅でも各ホームの柱にへばりつくような小型のポストがありまして、
駐在員が各ホームを回って集めていました。また回収頻度が1日3回なんてものでは
なく、7回前後くらいだったと記憶します。また、各地の駅前ポストについては鉄道
便の受渡しがある駅ではご指摘のとおりで相対的に市中のポストよりも早く届くとい
う定説がありました。理由は直接乗務員に渡されるからで、車内で日付印により消印
され、区分棚から差立てられますので、郵便局を介するより早く送達されたものです。 駅前のポストで出すと早く着く理由が分かりました。
結構一般の人が知っていたと思います。
ホームのポストは地方は小型で柱に付いているタイプが多かったような?
郵便の消印の下の方は
一般の郵便局は時間帯ですが
鉄道郵便は東青ナントカと略号みたいの入っていたと思うのですが
行路名??便名だったのですね。
今思えば、取っておけば良かったかなと。 >>592
鉄道便日付印は上から運行区間、日付、便番号(乗務員交替便は乗務区間も)が示されて
いました。日付印を紹介するサイトがありますし、オークションでも消印済み郵便物が出品
されていますね。
主な用途は郵袋送致証など各種書類に押印するためのものですが、車内引受郵便物はそれを
用いて消印したわけです。静止局(鉄郵の呼び方)の手打ち消印は金槌形ですが、便の日付
印は棒形なので、逆手に持って押印台でゴム板敷いてブツを並べて押しますので、押しにく
いものです。阪青の大阪や京都の数よりも亀阪下りの奈良なんかの方がわんさとあって手こ
ずったことを記憶しています。「郡山、早ぉさがせぇ、次やどぉ」なんて焦ってました。 >>593
アレは棒型でしたか。
ブツを消印するのに槌型は高速で叩けて便利なんですが
一般局の伝送・発着で使う棒型ではさぞ難しかったかと察します。
蛇足ですが、自分は一般局で伝送やってた時に、簡易記録(現・特定記録)の受領証の日付印を全て棒型印で捺す「内職」をやったことがありました。
何せ大口の顧客の受領証でしたので、捺し終わった時には手首が3日間言うことを利かない状態だったのを思い出しました。 >>594
棒型であった理由はおそらく携行して持ち込むのにコンパクトだということでしょう。
通称「カツ」と呼ばれていて、携行する肩掛けカバンのことを「カツ箱」と呼んでました。
中には植日付文字、ピンセット、黒印肉などが入ってまして、今でも逓信博物館には収蔵
されていて、鉄道郵便展で見ることができました。伝送発着も棒型だったですか。鉄郵、
分局の駐在でも棒型のカツでして、夜中に通路を歩いていると事務室内から「トトン、
トントン・・・」という音が長いあいだ響いてました。日付植え変えたらその日に使う送致証
なんか数十連発でまとめ押してしていたようです。
ようで、事務室の外に
>>593
詳しい内容有り難うございます。
消印は郵便物におすのが第一目的じゃ、なかったのですね。
揺れる車内でおすのは、大変でなかったのでは。 一般局だと棒型持ってたのは窓口と発着、特殊かな?
>>596
通信日付印(為替印もだけど)は、郵便局の実印(公印)であり認印であり訂正印です。
今でもそれなりの効力は持ってるけど、国営時代のそれは半端じゃなかった。 >>588
どもです。
とある資料に、米直下便に、高崎以南宛小包郵袋を積載云々と書かれていたので、少し気になって。
やはり時間的に難しかったのかな・・・?
>>597
その通りです<棒型
二本以上あったら、一本は星活(時刻記載部分が☆)にしてありました。
今もだっけ?
国営時代なんて、誤埴なんてやらかした日にゃ、即始末書・・・・・・
>>598
ウチの支店では現役です。
特定局等の窓口ではシャチハタになってるとこもありますが。
(碓氷・横川の局でシャチハタに化けたのを見たときは、ぶったまげました)
しかし、自分はここ何年も時間の所を換えた覚えがない…
日付印は郵便課の命でもあったんで、時間の部分を間違えて押印機を回したら
当事者、総務主任、お内裏様と始末書取られて、挙げ句黄色の紙で
「( ゚д゚)先日日付印の誤植が管内◯局で発生しました云々」
と、周知が回るハメに。
年賀状なんか引き受け日の日付印押印して年内に配達したら・・ >>598
今も★★★は現役ですな
でも、支店によっては自前(?)で回転式ゴム印を特注しているところもあって、
某支店の輸送課の印は運送記でよく見る
実は今勤務している支店も、完全に内部用だけどあるセクションで特注印使ってます
>>596
揺れる車内のカツ押しですが、狭い押印台にゴム板敷いた上で逆手で棒形を握って押します。
少数ならきれいに押せるんですが、どばっと持ち込まれたときにゃトランプ並べしてどどど
・・・と連続押しするので結構疲れます。黒肉はもともとべたつかないようにインク少なめに
してましたから、印影が薄いブツが多かったはずです。愛好家さんの持ち込みもありました。
>>598
米直下の長野県以南搭載は敦直乗務員の結束方でそうなっていまして、直江津で東直便に直通
したからです。少なくとも米原発の時点では、その方面の搭載はせず、94地域まででした。 31.11の復刻版時刻表を見てると、本文の列車名の下の方に〒マークが付いてて
巻頭に「ポスト備付主要列車」とあるけど、このマークっていつ頃なくなったんかなぁ。
ちなみに、付いてる列車と、郵便車連結区間
急行「阿蘇」東京〜門司
急行「雲仙」東京〜門司
急行「明星」東京〜大阪
急行「日本海」大阪〜青森
夜行準急 名古屋〜長野
夜行準急 上野(常磐線)盛岡
夜行準急 上野(上越線)新潟
夜行準急 函館〜旭川
急行「大雪」函館〜旭川
急行「まりも」函館〜根室
夜行準急 小樽→網走(片道)
>>601
愛好家の持ち込み?そんな事出来たのですね!
昔写真を見た事ありますが区分棚があったようなので
区分もしながらと大変だったと思います。
地方でキハユニ26?という車両を見た事があります。
運転室、郵便室、客室と分かれ1両になっていました。 車内消印がほしくてホームのポストから何度も手紙だしたけど
ついに手に入れることはできなかった。 >>604
郵便物の積み下ろしをしている時に、郵便車内の人にお願いして渡したものだ、、。 近江や島原なんか比較的末期まで郵便車があったがあれって護送だけですか?近江は朝一番の貴生川から該当列車に乗ったけど郵便車が付いてるよ〜っと友人と話したが興味がなかった。いま思えば勿体ない。 >>606
近江は末期まで車内区分してたはず。
島原もじゃなかったかな?
>>607ありがとう
あっ乗ったのは貴生川7時1分発だったの思い出した。 >>603
ある日のこと、停車中にドアをノックした人がいたので規則上で扉は開けませんが
落とし窓開けて用件聞くと「このハガキ出して下さい」と言い同じ宛先の住所氏名
が書かれていたハガキを10枚ほど差し出しました。方向的に受けられる宛先だった
ので引受けましたが「印影をまっすぐに、ていねいに押して下さい」とのこと。
最初は「???」と思いましたが、郵趣愛好者の日付印収集目的かなと理解して
ゴム板の上に1枚1枚乗せてはまっすぐ置き、インクもしっかりつけてからきれいに
押して区分さんに手渡しました。何度かはそういう人からの手渡しがあった記憶します。
いまごろ貴重なコレクションとなっているでしょう。
>>604
ホームのポストなんですが、鉄郵、分局が集めても、受持集配局が集めても列車に直接
持ち込まれないと車内消印にならないんですね。タイミングや方向があると言いますか。
★鉄郵の場合
駅構内ポストなどから集めると事務室に持ち帰ります。大阪鉄郵の場合は駐在の部屋に
区分棚があって、消印しないまま方向別に区分します。鉄道便送達の方向は、各便にブツ
を渡す際に送致証といっしょに渡しますから車内消印となります。それ以外の大阪府など
自動車便方向や航空便方向はすべて大阪中郵に引渡しました。
★ローカル線の駅前ポストなど
案外ここに入れると車内消印が多かったです。それは、近在局が収集するのですが、鉄道
便に積み降ろしするために駅にやってきた局員がホームに行く前にポストを開けるからで
す。そのとき、積み込む列車に沿う方向のものを送致証といっしょにひもでくくり乗務員
渡しになりますが、それ以外は局に持ち帰り、局で消印されます。どちらの消印になるか
はタイミングに左右されますね。乗務中はほとんどの駅で何通か消印するブツが入りました。
これを通称で「開函」(読み方→かいかん)と言いまして、投函の対語かなと理解してい
ました。ちなみに当時はあちこちの駅に入場券など郵送依頼したことがあり、返信封筒が
よく鉄郵印で戻ってきたものです。
>>606
近江は米原貴生川便(通称べいき)、島原は諫早加津佐便ですね。59年2月以降は生き残ら
なかったですから最後まで扱便だったはずです。 637−21時代の富貴局へ郵袋運んでいた、五條〜富貴の路線バスがいつの間にか廃止・・・
>>609
>「開函」(かいかん)
今でも使ってるよ。局前ポスト開けるって意味で。
>>609
>「このハガキ出して下さい」と言い同じ宛先の住所氏名
が書かれていたハガキを10枚ほど差し出しました。方向的に受けられる宛先だった
試験通信です、というドッキリカメラ どっかの駅の業務用エレベーターに
〒マークがついているのがあった鉄道郵便の名残だったのだろう?
上下に開くタイプで、色は茶色だったような? ゆうパック、翌日午前中配達の地域縮小へ
郵便事業会社(日本郵便)は29日、ゆうパックの標準配達日数を8月28日から一部変更すると発表した。
荷物を受け付けた翌日の午前中に届けられる地域が狭まる一方、翌日中に配達できる地域が広がる場合もある。
ゆうパックとペリカン便との統合に伴い、小包のみを積載していた運送便を、郵便物と一緒に運送することにした。
物流の効率化で年間200億円以上のコスト削減が見込めるという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110729-00000836-yom-bus_all
将来郵便鉄道輸送も復活するかもな、いちいちトラックで個別に輸送するよりコスト削減になるとかで >>615
今はやってないの?
少なくとも'90年代には、やっていた時期があったよね >>615-616
北海道−関東で翌々日午前の配達になる時は
JRコンテナの場合があるようだ。 ゆうパックは、たとえば関東−北海道間だと、航空機輸送禁止指定の荷物は、JRコンテナで運ばれている。
追跡サービスを見ていると、貨物駅最寄の支店を経由するから、わかりやすい。 >>614
結局元の木阿弥かよ(´・ω・)
(地方便は元々郵便物のパレットと一緒に差し立ててた)
>>619
今の日本の政策決定階層(政治家、財界、官僚)は東京以外は無人地帯くらいにしか思っていない
田中角栄経世会亡き後は都会利権の清和会の天下だからな、政治とカネも問題もスルー 上の方でレスがあるけど
コンテナ輸送は数年前の段階ではやっていたぞ
(いつぞやの「ねんきん特別便梅田駅放置プレイ事件」の時はJRコンテナに入れたまま引き取らず放置していた)
>>622
安い郵便の遠距離輸送は今でもJR貨物だ。
岡山→新越谷 がかなり活躍している もう各停タイプの郵便列車が通用しそうな地域って無いのかねぇ
定期列車にキユニなんなか繋いでさ 5トンコンテナにパレット5台しか積めないからな〜
輸送効率の悪さは1つのネック(もう1つは貨物のダイヤの悪さ) >>624
身延線、飯田線、大糸線なんかには使える予感。 >>625
それは頭の悪いコンテナ業者。
普通はロール7台がピッチリ入る。
おまけに折り畳んだ青パレ2台まで付けてくる某九州地区の支店(や◯や、やず◯でよくご存じの…)もあるぞ 新幹線で輸送するという観念はないのだろうか?
(航空便のない東京―名古屋間をはじめとして
新潟や仙台そして盛岡などへの速達など)
>>630
昭和55年ごろ、構想が新聞に載ってたような(既出)? >>630
手間かかるからやんないんだと思う。
今は東京駅から名古屋駅に運んでもどっちも駅前で作業してないから。 >>634
今は郵便局は窓口しかやってないのはご存じだよね >>587
>>614
関東では綾瀬便が復活するらしいですね。速コツは不明ですが。
そういや航空郵袋には昔は一般信も普通に納入してて
速達が含まれる場合は青緑の看板を使いましたね。
最近見掛けないけど今でも使っているのでしょうか?
あれって袋に縫いつけられた看板を差す縁の太い枠の
せいで朱線が見えなくなるのを防ぐ意味があるらしいですね。
納得しました。
>>元二乗さん
鉄郵の場合、書留は一般・現金・簡易を分けて区分して
別把束・郵袋納入したのですか?
あと大型書留通常は航空輸送出来なかったようですが
その際の看板には大型印を押したのですか?
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