消えた機関区
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西立川駅に付随した立川機関区 区名札は 立
ED16やEF15がホームから撮影出来た。 東海道線国府津駅の国府津機関庫。
現存して無いが、国府津機関庫の扇形機関庫は鉄道施設として建設が我が国第2番目、
鉄筋コンクリート建造機関庫では日本初、サンゴニッチというフランス人技師の設計。
ttp://www.gotembasen.net/kikou/2/page/koudu.html
1969年当時
ttp://homepage3.nifty.com/senrobata/19ban-10.htm
機関庫廃止後は先に転車台だけ撤去され、後に扇形機関庫を解体。
扇形機関庫解体前
ttp://www11.tok2.com/home/minami234696/20030331%20kouzukikankoenomichi4%20zenkei.jpg
(虚しくD52・72が機関庫に)
アップ
ttp://www11.tok2.com/home/minami234696/20030331%20kouzukikankoenomichi5.jpg
尚、機関庫解体は1982年頃。 この前吉松にいったけど、な〜んにもなかった。C5552だけ。
人吉には転車台と石造りの庫があった。 >>7
あそこの機関区、国鉄末期に見た事あるけど
なんかすごい廃墟みたいになっていた記憶があるのだけど...
詳しく覚えている人いますか?
あそこの機関区は私鉄上がりのせいか、他の路線には無い雰囲気がありましたね。
都市近郊の小さい機関区という感じで.... 東京南鉄道管理局 高島機関区
高島機関区は新鶴見機関区の支区として、東海道本線の貨物支線(品鶴線、高島線)と構内入換を担当。
高島機関区の所属機は特になく、区名板も「新」となっていた。
横浜駅から見えたラウンドハウスとターンテーブルで有名。
(現在は撤去済み)
よく横浜機関区と併用されがちだが、横浜機関区は本牧に在り、高島機関区とは違う。 横須賀線の久里浜にも「久里浜機関支区」というのがあったんだよね。
恐らく新鶴見機関区の派出所的なもんだったんだろうが、たった2両だけだったけど一応配置車両もあった。
ED17 24とED17 26。どちらも外国製の機関車で、バリエーションの多かったED17の中でも、
デッキ付きはこの2両だけだった。サイドの鎧窓の多さも特徴的で、小さいながらもなかなかカッコイイ機関車だった。
機関区のあったところは、今でも教習車が留置されている場所の辺り。小さな機関庫に、常時1両が格納されていた。
お願いすればいつでも見せてくれたね。
EF10に混じって1日2往復の貨物列車を牽引するのが主な仕事だったけど、
日産の車運搬の為の専用列車の増発でEF10の運用が増えるようになって、ついにED17も廃車となり、
それとともにこの「久里浜機関支区」も姿を消した。 機関区という言葉には「これぞ男の仕事場」というイメージがある 横浜開港120周年記念号の本番は、都合で見れないため、
数日前に >>15 のラウンドハウスに見に行ったら、
C58 1のテンダーにホイールローダーで石炭積んでるのが見えた。
あそこは高島機関区なんだ...不明を恥じまス。
今の横浜アンパンマンこどもミュージアムのあたりだったかな。 >>11
南九州はほぼ全滅だよね。
他には都城、志布志、そして宮崎。 南九州の砲金製の区名板が渋かった。
宮、吉、鹿など。 山梨県唯一の甲府機関区
甲府駅横にあったが今は消防署が建てられている 吉松は車両関係の設備はなくなってしまったけど、木造の事務所・詰所関係の建物は残っているね。
何気に貴重なのでは? >>23
熊本のレンガ機関庫だって惜しげもなく?壊されちゃったのだから
単純な保存は難しいのでは。行く機会があるなら記録すべきかと! >>25
小山機関区は、蒸気機関車館候補地として
ノミネートされたんですってね。
結果としては、梅小路にもっていかれたけど。 小山だったら、関東人としては行きやすかったのになぁ。 DD51がたむろしていた福知山
駅も高架化されて味気なくなった DD51といえば佐倉機関区なんていうのもあったような
関東じゃ珍しいDD51の巣
高崎にはDD51がまだ数両生き残っているんだっけ? 個人的イメージでは、佐倉は機関区でなく「佐倉機関庫」だな。明治大正の。
湊町 >>10
長町は再開発中だが、福島は無残だな。
W71や78、75とかが当たり前にあったのになぁ・・・
宇都宮なんかも57&58がよく側線で昼寝してた。
佐倉機関区はガキの頃に電車から眺めるのが楽しみだったなぁ。
千葉に住んでるとディーゼルは飽きるほど見られたんだが、
電気機関車は殆ど見られなかったから、ELはいないのかな?って、
いつもキョロキョロしてたが、結局見たことは無かったな。
思い返せば配置が無かったんだろうけど、
電化されてるのにディーゼルってのは何だか不思議だ。 前は鹿島神宮より先の貨物線には、架線が張られていなかったんだっけ?
いまはEL、行くよなあ。 ここまで小樽築港機関区が出ていない件。
現役時代は見たことがなく、ベイシティが出来る前のだだっ広い空き地
と、駅舎と国道に挟まれた狭苦しい駅前広場が印象に残っている。 >水戸鉄道管理局…内郷
水戸機関区 平機関区高萩支区 平機関区 原ノ町機関区 この板のみんなには釈迦に説法だろうけど、
第二機関区っていうと、たいてい電機専門だよね?
例外もあったかもしれんが。 >>39
鷹取機関区東灘支区
晩年のことしか知らんけど、1984.2の廃止後は、
神戸港のDD13が毎日鷹取から本線回送されていたね。
機関車自体は姫路第一機関区配置だった。
転車台も残っていたけど、2-3年ほどで撤去されたかな。 木曽福島って機関支区?
タンク機をチラリと見たが
デフついてたからC11だとばかり…
今考えると奈良井に保存されてるC12だったのかもわからん。
集煙装置つきD51が客貨に頑張る鉄道百年のころの中央西線、
架線柱が立つ直前の夏休みのことでした… >>47
木曽福島は機関区ですね。
最末期はD51が4両C12が2両の配置でした。
その内の1両がデフ付きのC12199でしたね。
ホームの目の前に小ぶりな扇形庫があったと思います。 >>48 そうですか、ありがとうございます。
夏なお涼しい奈良井の遠縁宅に泊まって、
蒸機の汽笛に目覚める夢のような日々でした… 米原機関区。
隣接して米原客貨車区もあった。
EF58、EF65-500Fに、客車は10系やオヤ31も配置されていた。
いまは電車の留置線。 浜松機関区
全盛期はダブルターンテーブルまであったのに
今じゃ西浜松の隅に追いやられたあげく廃車置き場に(泣) >>34
国鉄時代から国鉄部分は架線あったよ。
少なくとも昔の鹿島臨鉄が鹿島港南まで旅客営業していた時代には北鹿島まで電化していた。
話かわるが日田彦山線の豊前川崎は機関区あったのかな?
このまえ乗ったら,それっぽい跡地があった。
かつての分岐駅もいまや1面1線の無人駅。 >>42
岩見沢は札幌方に跡地が今でも建物ごと残ってるね
あれは第二機関区だっけか 羽越本線の酒田にも昔機関区有りましたね。自分の記憶では、EF81やDD51が構内を行ったり来たりしていたのを覚えています。現在は庫やターンテーブル周辺、さらには留置線付近は草ぼうぼうで、もはや昔の面影は無いですね。 そうでしたか…鹿島港南は最終日に行ったけど、勘違いだった… 中込機関区ってなかったけ?
C56のキャブに[込]が有った様な無かった様な 甲府機関区
昭和40〜50年代はEF64,ED61が多数留置。
昭和60年頃にはEF15が1両ポツンと留置されてそれが寂しく見えた。
現在では更地となって新しい建物、施設が建ちはじめたようだが。 糸崎・柳井、どちらも現役時代は知らんけど、
今思えば、何とも中途半端な場所にあって
電化後は代わりに電留線が作られた
現状では、似たような境遇だな。
糸崎なんか、未だ運転上はターミナルだけど。 奈良機関区
EF521が置いてあったと思ったが、久しぶりに奈良に行ったら大きな建物が建っていた。 いつも不思議に思っていた磐越西線日出谷って機関区でもあったのか?
時刻表みると始発終着列車がありモノによっては着時刻掲載で弁当もある。
そのくせ急行は通過して隣の鹿瀬津川に停車
柳井の跡地周りには、比較的近年まで国鉄の看板や枕木の再利用物が残ってたな。マンションの辺りだったかな。
機関区(ないしは貨物取扱駅)時代から現役と思われるカーキャッチャーが、2・3番ホームの待合室裏に置いてあったけど、今もあるのかな。新しいカーキャッチャーも並べて置いてあったな。 >>44>>58
竜華D51、C58、EF52、一次型DD13今思えば垂涎もののカマだらけ。 稲沢第一、第二機関区。
国鉄末期に一般解放を見に逝った。
その時見たユーロカマのインパクトは忘れられない。 高崎第一機関区。
「高一」は皆様お馴染みでは。今では真上を新幹線の高架が…
「甲組の肖像2」には、高二から転属したD52の姿が載っています。
夢中で撮影してたガキの頃は、D52の配属があったことなど全く知りませんでした。
半年足らずですがD62の配置もあったそうです。信越線での線路横圧試験中の記録が
高鉄運転史にありました。
当時の憧れは「築」や「糸」。D51やC58の「高一」なんてと思ったけど、
あのでかい貯炭場は今でも目に焼き付いています。 宇都宮機関区(宇都宮運転区)
南のほうにはEF57やEF56、58のある電気機関車庫があったけど
北の方には昭和50年代までコンクリ製の扇形機関区(4線のみですが)が
ありましたな。最盛期は何線あったのでしょうか。 飯田町機関区・浜川崎機関区
地味に、そしていつの間にかひっそりと消えてゆきました。 それにしても若い椰子がへーきで電気機関車、ディーゼル機関車を
通ぶって「カマ」と言うのにはめちゃめちゃ違和感あり杉
まあ意味が解かってりゃいいんだが・・・でもヤだな。
既に議論されているかも知れんけど、なんだかな〜、
と思いませんか?鉄懐板の皆の衆!
すれち須磨ソ。 電気ガマに油ガマ?おのが姿に驚いて、たらりたら〜りと油汗。
筑波山の麓には、機関車に積む滑り止めの砂の産地があると聞く…
キジウチって非鉄道用語? 水泳の鈴木大地君のオトンも機関区元現役、SL⇒EC >>76
浜川崎機関区って神奈川県川崎市幸区の新鶴見信号場構内にある
日本貨物鉄道(JR貨物)の新鶴見機関区のことだろ。
川崎駅から東京湾側の塩浜に在るのは川崎車両所な。 「沼」も跡形も無いみたいね・・・。
昔は自区のEF60がゴロゴロしていて、その他に御殿場線の73系やら
身延の戦前旧国やら通りすがりのEH10やEF65で賑わっていたんだが・・。
津山機関区
扇形庫とターンテーブルは現役。
中にはDE50とDD51
詰所がアボーンしているだけ。
資料室もあって将来本格的な博物館になるのか?。 佐倉区がDLで終わったのは成田空港燃料輸送の影響。
過激派の襲撃に備え架線を切られても運行出来る体制を確立させる為、電化後もDLが残った。
更にメーカーからの新製車両仮配置も行っていたと言う事実も。
北鹿島(現・鹿嶋サッカースタジアム)は国鉄時代から電化されていたが@〜B番線だけで現在は東日本の所有。貨物会社所有のCD番線と機回し線が電化されたのは平成13年の貨物電化から。 あったね。
鉄道100年で品川〜横浜を走ったC577は紀伊田辺ではなかったろうか。 昨日だったかテレビで東スポの豊後森区の跡の記事を紹介していたけど、ラウンドハウス(扇形庫)の様子を
「ギリシャ建築のような・・・」てなニュアンスで何度も話していた。
記事をそのままなぞったのだろうが、扇形庫の形態をギリシャ建築のような美しさとはファンはあまり言わなかった(今でも)ような気がするなあ。 そうとでもこじつければ、世間から注目され、
残す口実も生まれるのかもしれませんね。 >>93
昭和50年ごろ撮影許可取りに入ったら
「ああ、そこのノ−トに名前と住所書いておいて、んで本線だけは出ないでよ。」
今では夢のようなノンビリしてた時代。 池田機関区
ちほくのあったころはそれらしい痕跡はあったような気がするが >>99
昭和49年だったが遠軽機関区も記帳して構内許可の腕章すれば自由に構内が
1人で思う存分撮影出来た。いい時代だったな。
当時はD51が6両、9600が13両ほどいたが今では跡形のみかな。
>>91
ありがとうございます。
スレチだけど銚子から帰ってくる時、113系の前の方に乗っていたが
踏切の2つに1つには警備員が立ってて、列車に敬礼してた。
沿線の、のどかな風景に対してそこだけ物々しかった。 >>105
当時撮影をしていたら職質は免れなかった。駅などで警備をしていた方は鉄道関係の方が多かった様だけど駅間で警備をされていた方は警察関係の方が多く質問内容が厳しかった事が記憶に…
警察関係でも過去ヨッパライに乗って警備していた方もいるそうです。 宮-吹一・吹二-梅-米-稲一・稲二-名-浜-静-沼-国-新-東 新小岩機関区
蘇我機関支区
茅ヶ崎機関区
亀山機関区
和歌山機関区
紀伊田辺機関区
新宮機関区
新宮機関区紀伊長島支区
機関区なんて消えてくばかりだな。
これから新しく作られる機関区なんてあるんだろうか・・・ >>111
機関区がたくさんあったのは蒸気時代の名残。
機関車の付け替え(石炭と水を補給)や勾配区間での補助とかで拠点には必ず機関区があったもんだ。
蒸気が無くなっても、そこで働く人たちをクビにするわけにもいかず、国鉄時代はそのまま残っていた場合が多い。 >>83
存在しました。
「日本の蒸気機関車」による形式別配置一覧ではS22頃に開設したようだ。
C11が無煙化されたS46頃まで配属されている。
元々松浦線は私鉄買収で762mmから1067mmに改軌したのでそれに合わせた開設なのかな?
何故この場所なのかだが石炭輸送の関係で今はとっくに廃線となっている臼の浦線、世知原線
が分岐していたからだと思う。
松浦鉄道となった89年に通ったがガランとした広い構内が記憶に残っている。
>>83
>>113
無煙化された後も運用区として存在してましたが59-2改正で廃止。
軽便時代は上佐世保と世知原に機関庫がありましたが場所的に考えてこの場所だったんでしょうね。
機関区スペースはレールを剥がした状態で草むらと化してましたが現在は町立保育所・グランドになってます 南武線西国立駅に隣接してた立川機関区。ED16やオヤ61が泊まってた。懐かしい〜!しばらく行ってないけど跡地はマンションになったとか? >>113 >>114
83デツ
いろいろお調べいただきありがとうございます。
あやふやな記憶ですが松浦線にお召しが入線した時の記憶の絡みで覚えていたんです 糸崎機関区があった故に、平成になっても深夜の糸崎駅には多数の寝台特急が営業停車していた。
糸崎駅構内の電留線にくたびれた感じの電車が止まっているだけの駅だけど、運転上かなり重要な場所でもある。
岡山鉄道管理局と広島鉄道管理局の境目で、山陽本線の瀬野八越えの基地であり、軍都呉へ向かう呉線の列車もここ担当。
現業職場の所在地が同じでも、
伝統ある名前を変えてしまうのはなぜでしょうね。
機関区ではないけど、OFとかOYとか… >>117
>糸崎機関区があった故に、平成になっても深夜の糸崎駅には多数の寝台特急が営業停車していた。
その話、詳しく聞きたいなw
当時三原市に住んでいた俺には、糸崎には下関あさかぜが片道だけ止まっていたとばっかり思っていたがw 自分が少年時代の頃、SLブームが始まり、自分もあちこち出かけるようになった。
今みたいに詳しい情報が即座に分かる時代ではなかったので、まずは撮影に行く近辺のダイヤとか、
そういう情報を集めるのによく機関区に問い合わせをしたもんだ。ついでに撮影許可のお願いも入れて。
その当時は多くの機関区で事前に伝えておけば快く許可してくれた。
特に九州の各管理局、機関区は親切だったね。頼みもしないのに本物のダイヤグラムを返信に同封してくれたり、
訪れた際は手の空く範囲で協力やサービスもしてくれた。都会では見ることのできなかったC55やC57なんかを
実際に触ることができた感動は忘れないね。
まあ、中には返信用に入れた封筒の中身にたった一枚、「残念ですが業務多忙のためお受けできません」という
紙切れ一枚よこしただけの○野鉄道管理局とかもありましたけどね(笑)。
一般的には諸般の事情で撮影が許可できなくても、資料になりそうなものとか、丁寧なメッセージが添えられて
いたもんですが、ここだけは…。 >>120
そうそう、九州総局管内の管理局はどこも、親切でしたね。カコなんかは2分目のダイヤを送ってきてくれて、
「来られる日時がわかれば、事前にご連絡ください。」とかの一筆が添えられていて、駅から遠い機関区は
ヤミだけど、出区のカマに乗せてくれて、駅まで送り出しをしてくれたりした。
当時はどこ機関区にも、庫内手上がりみたいな「整備名人(?)」みたいな人が必ずいて、何かとあのカマは
どこどこにクセがあってとか話してくれた。食堂も、使わせてくれたし、まるでお客様扱いをしてくれましたね。
後日、記念写真を送ってあげると、積空銘板とか蒸気の教本なんかをお礼に送り返してきてくれた。年に数回
行っていたけど、「ふれあい」というのがありましたね。今ではとても、望めない様な出来事が堪能できました。
当時、親切にしてくれた方とは長年、年賀状の交換をしていましたが、数年前からほとんどの方が鬼籍に入られて
しまいました。業務でたまたま、お一人の家の近くに行く機会があり、お線香を上げにご自宅を訪問したら、奥様が
「鉄道を辞めてからも主人はいつも、あなたの事を話していましたよ。まだ、汽車を撮ってるよ。」って。
この時はなぜか泣いちまったな。この趣味やってて、良かったです・・・・。 四国が出ていないようなので。
高松、多度津、松山、高知、徳島。
小松島(支)、宇和島(支)。
連投、スマソ。 津和野駅構内の転車台は、小郡機関区津和野支区の転車台でよろしいでしょうか?
あと、SLブーム以前に廃止された機関区がありますね。
知っているのは、黒磯機関区や山北機関区。
山北機関区があったのを語る碑が山北駅の鉄道公園にあります。
戦時中に廃止されたそうです。
津和野はたしか山口線管理所と呼ばれていましたね。
機関区と何が違うんだろうと思っていました。
C57復活の時、渋い庫を見るのを楽しみにしていたら、
すっかり更地になって、奇妙な煙浄化装置があったのにガッカリしました。 >>123
山北機関区にはS6,3/1現在でD50が20両も配置されていますね。
当時でD50と言えば東海道、山陽、東北、北海道など主要な機関区のみだったので
流石に天下の東海道。
もうひとつ興味を惹いたのは函館本線の黒松内機関区。
S6,3/1現在でD50が11両!S3,9に室蘭本線が全通により長万部機関区が出来たので
S10には配置表では既に無くなっています。
余談だが当時北海道には黒松内以外でD50が函館に14両、岩見沢に6両、築港に16両
と多く配属されており、函館本線では旅客も牽いていたようだし、石炭輸送含む
貨物輸送も重要視されていたと思う。
>>123
大正期の路線改良で白河区に統合された…
もっともJR貨物の機関区として名前だけ復活したがw >黒磯区
>>124
地方路線には「○○線管理所」が結構存在したかと。
(場所により多少異なるが車両以外の施設管理も兼ねていたはず) >>113-116
45年に早岐区に全機転属。ですね
C11の里とか書いてあったな。
なぜか8620は配置されず、お召し機も「早」だった。
おっと、早岐機関区があった。
C11が特急「さくら」、8620が急行「平戸」の補機となったり(C11の代走?)
わずか数ヶ月ながらC60が配置されてた。
今でもレンガ造りの給水塔と転車台が残ってる。
駅自体も風情があっていいよ 東新潟機関区。
近くに行けば、たむろしているものと思って
親に頼んで東新潟駅へ。
地図を見ることなんて考えもしなかった小学校2〜3年生のころ。
DD13やDE15による操車場の入れ替えを眺めたことと、
帰りの電車からEF15を見たことだけが収穫。
でもいい思い出。
あ! ゴメン、消えてない機関区の話書いちゃった・・・。 国府津機関区の扇形庫に最後までかすれながらも残っていた
1:29:300
は今も忘れられない。
後年大学の講義でその意味が解った。
ハインリッヒの法則だね。高校の時、聞いたけど、あまり良く理解が
出来なかったな。 >>130 >>131
旧東京南局の現場に結構ありましたね<ハインリッヒの法則。
橋本駅や茅ヶ崎(相模線ホーム)でも見た記憶あり。
そう言えば、民営化後も残った 南チサ も
相模線電化で車両配置区としてはアボン。
このスレの仲間入りしてしまいましたね…。 >>68
C59164が梅小路に来る直前なぜか奈良機関区に配置されてたよね。 >>134
糸崎(だったかな)から奈良へ運んで、どっかの自治体に貸与の予定だったのが、消えたとか聞きました。
軸重があう線区ではないので、当然無火です。
数年間、奈良区扇形庫の左端っこに、逆向きに留置されてました。車籍あったのかな?
ナンバーは別途保管のようでチョーク書きでした。
梅小路が第一目的ではなかったようです。 天鉄関連では、新宮機関区はかなり地味なんじゃないか?
天シクと天タヘが無いと蒸気時代の紀勢線はやっていけんかったと思うが…竜華と亀山の陰に隠れている。 SLがそろそろ姿を消す頃、機関区の片隅に役目を終えたSLが何両も列ねて放置されていたり、
草むしてレールが見えなくなったような引込線の奥にポツンと1両だけ取り残されていたSL…。
そんな光景があちこちで見られた。
どれも既に車体は赤錆び、雑草がロッドにまとわりついていたり、窓も白く濁って割れていたりするSL…。
そしてSLの象徴でもあったナンバープレートが外され、そこにチョークで機番がなぐり書きされているのを見ると
本当に心が痛んだ。最早ただの“鉄くず”と化したようなそんなSLたち。
それから何十年…。その“鉄くず”が並んでいた機関区も大半が姿を消した。ある場所は茫々と草が生い繁り、
またある場所は小奇麗なマンションが建った。そこにかつてはもうもうと蒸気を吹き上げ、
これから列車の先頭に立って驀進するSLたちがあちこちでスタンバイしていたなど、
どうしても合点がいかないくらいに変わってしまった。
半世紀近くの月日が経つというのはそういうもんなんだろうな。 作並機関区。今は保線用車両が置かれている。
初めての交流電機の配置区。ED14,ED17などの輸入機がいたことも。 鳳は電車区のまま機関車配置だっけ?
それとも別に鳳機関区があったのか? 一と二って、一の方が機関車で二の方が気動車ってことで良かった? 「第一機関区」は非電化のSL、DL、「第二機関区」は電化のELっていう分け方じゃなかったか?
高崎、富山などはそうだったし。
その富山第一機関区には気動車も配置されていて、車体に表記される略号が[金トヤ−]というように
「−」が入るのが特徴だった。このような例が富山以外に1つか2つあったはず。 >>143
それはなかったと思うよ。高崎配置の気動車は[高タカ]だけだった。電車は新前橋[高シマ]だったしね。
略号で[一]が入ったものがあと1箇所くらいあったと思ったんだが思い出せない。
[金ツル一](敦賀)ってあったような気がするんだが…。
第一と第二があった機関区は、岩見沢、高崎、富山、敦賀くらいだったかな…? >>144
すまん、長岡第二(新ナカ二)だった。<新潟ローカル旧国 姫一、名一<車両の管理、姫二、名二<乗務員の管理 大ヒメ一、名ナコ一表記のDCがいた
吹一、稲一はSL,DL配置 吹二、稲二はEL配置
岩見沢一はSL配置、岩見沢二はDL,EL配置 >>148
「名なこいち」ではなく、「名なこー(音引き)」だと思ってた小学生時代。
>>144-148
この辺の大機関区は残っているの? 「機関区」自体がそもそもアレだからな。
第一第二が付いたのはもう無いだろ。
後継区はいくらでもあるだろうけど。 広島も第二機関区がありましたね。
第一はD52,D51,C11,C50など、つまり貨物と入れ替え。第二にはC62,C59など
客車列車の担当、そういう住み分けだったようだ。姫路も同様だったと思う。
>>152
姫路第二は相当な昔(終戦直後くらい)にDD13とキハだけの配置→その後乗務員だけの配置で動力車の配置がゼロに。
民営化直前に、第一を機関区(貨物)、第二を運転区(旅客)に改称して、それぞれ動力車を配置。。 >>144
S35頃まで福島にも第1,2が存在していたね。
第1が東北本線用のD51,D50,C59など。
第2が奥羽本線のEF16、福島電化により統合されたようです。
>>142
高崎はS22頃に旅客用SLが第1,貨物用SLが第2に。
S27の電化により第1がSL、第2がELに分かれています。
>>151
機関区ってのはJRでは貨物だけで、それも統合や改称しつつあるんですね。
機関士っていう職名も、あっても民鉄とか船舶とかですかね。 やはり山北機関庫でしょう。
つい最近まで(といっても20年前くらい・・?)転車台跡の大きな丸い穴が残って
いて、ゴミが放り込まれていたっけ・・・。 >>158
大正末期には山北に鉄道関係者が500人も住んでたとか聞いた。
家族も含めての数字なのかは知らぬ。 >>159
Wikiによれば駅員・職員で650名とか・・・。
それが今は早朝・夜間は無人駅!!
栄枯盛衰・・・。 >>160 どうも。
さて関係ないけど、戦後すぐの写真で、国鉄の電車か客車に
××檢車區
と書いてあるのを見たような気がするのだけど
そういう職場名あった時期があったんですかね?
工機部→工場なら知ってるけど。 >>161
「検車区」はのちの「客貨車区」「客車区」と実質的に同じものです。
>>162
サンクスです。やはり検車区は存在したのですね。
関係ないけど、明治時代の「機関庫」と、のちの「機関区」のあいだの
名称が、何かなかったですっけ? >>163
基本的には機関庫→機関区だったと思う。
戦前に機関区に変更した際、規模の小さいものは組織上、給水所になったものもある。 >>164
機関区の規模の小さいものとしては、機関支区とか駐泊所というものがあった。
>>164
ありがとうございます。勘違いだったようです。
>>165
どうも。「シーナリィガイド」で知りました。 保線の詰所を改造して作られた「カプセルイン恵比寿」。
空港への前泊なんかに重宝していたが、ひっそりと無くなってしまった。 亀レスだが>>149
漏れの場合は田舎に行くときに富山で見た気動車の「金トヤ一(いち)」の所属表記を
「きんとやー(伸ばし棒)」だと思っていたw
>>168
丸ゴシックみたいな国鉄書体だから「ー」に見えるね。 金ツルー
なんか、酒屋か醤油メーカーみたいだった。 略字が三文字以上の区はみんななんか面白いね。
門ヒカラなども >>172
それ言い出したら「天リユソ」もはいっちまう。これはどっかで写真を見たことある 操重車に「大ミハソ」っての、見た。
亀山にいた車両だから、旧記載のまま転属してきたのかも。 >>15
>よく横浜機関区と併用されがちだが、横浜機関区は本牧に在り、高島機関区とは違う。
高島機関区ってのは過去には存在したんでしょうけど、それがその後横浜機関区にそのまま名称変更したはずです。
本牧jにある横浜機関区ってのは、臨海鉄道の機関区で別物。JNRの東京南鉄道管理局にある横浜機関区は高島にありました。
>>135
C59164は帳簿上、奈良から梅へ転属したことになっている。
ということでずっと車籍はあった。
梅小路に移るまで奈良区が預かっていたらしいんだが。
自治体貸与の話は初めて聞いたが本当か。
梅小路保存機はその前から決まってたはず。 亀だけど
>>136
新宮機関区紀伊長島支区も忘れずに。
狩勝越えの要所、新得
機関車配置が無くなってもしばらく残った標茶
扇形庫が立派だった遠軽
カマの数を稼ぐのに都合がよかった鷲別・追分
千葉局管内に勝浦なんてのもあった。気動車運転士が交代してた。
転車台もそういわれるとあった気がする。
都内でまだ転車台があるのは八王子?
蒸気末期の転属はへんてこなものが多かった。C11292は最終品川機関区で廃車
米子のC5776は最終配属は電化後の糸崎。いずれも保存がらみだが。
保存場所とゆかりがないカマが多すぎた気がする。カマならなんでもいいみたいな。 >>182
勝浦の沖合に「機関庫出し」という漁場がある。
その漁場から勝浦の機関庫が見えたからその名がついたらしい。
スレには関係ないね。すまん。
へぇ〜! 面白いな。何処の辺りなんだろう…と思うけど、勝浦の駅からって海は見えないよなぁ…?
でも駅がちょっと高い所にあるから昔は見えたのかな? それともSLの煙が上がっていたのが見えたので
そう付けられたのかもね。 >>144
高崎配置の気動車は[高タカ一]だよ。電車は電車区に一も二もないから論外。
気動車はSL・DL配置の機関区で基本DL機関士が扱うから第一機関区が
SL・DL担当の一般的なすみわけなら当然配置DCは[一]表示になる。
DC配置がある第一機関区ばかりじゃないから、実際あとは金ツル一・金トヤ一・大ヒメ一・ぐらいかな。
長岡はDCは第一のはず。第二がDCを扱っていたとは初耳。岩見沢は第二がDL・EL担当だったが
DC配置がなかった
機関区は機関士と機関助士、運転所や運転区は車両だの車掌だの保線だの一切合財ひっくるめて
その路線だか地区だかの全部のパッケージ。管理所は線区固有のパッケージ。しかし、自走できない
雪かき車が駅配置でというおがよくわからん。貨車も駅配置だったからそれと同じなんだろうが。
救援車が機関区に配置されてたのも懐かしいね。昔は通勤用に職員をのっけたりしていたらしいが。
末期はほとんど置物になっていたような。救援しにいくどこかに出かける事故も激減したし。
救援に行くのにトレーラーやクレーン車ですむからだろう。 そういえば…
昭和50年代の半ば。福知山機関区にはソ111とスエ71 17がずっとセットで留置されてた。
ある夏休み、祖父の家の二階から「そのコンビ」が機関車に引き出されていくのを見た。
何のことはない。入換えだった。
「そのコンビ」が「動いている」ところを見たのは後にも先にもその一回だけだったw 山北機関区
丹那トンネル開通前は東海道線最大のシェルパ基地だった。 多治見機関区
車両配置は早くに(S40頃?)無くなったが、その後乗務員配置区として長く残る。
>148 S50頃の記憶では
名一 気動車配置、DC・DL乗務員
名二 EL・EC乗務員のみ
稲一 DL配置 DL乗務員
稲二 EL配置 EL乗務員(貨物のみ)
57.6改正(?)でDC・DL列車が減少、名一乗務員もECを持つ。
記憶違いだったらスマソ。 今、SL時代の庫が残ってるのはどれくらいあるんでしょうかね。 ほう。
名古屋、宮原にはまだ扇形庫が残ってるんですか。 将来の転用を考慮して蒸気時代から扇形庫じゃなく矩形庫だったんだよ
だから、かつてのC59やC62の塒を今は名古屋でキハ85等、宮原ではEF65等が使ってる >>194
矩形ですか。
矩形庫というと大宮のは良かった記憶。
あと北海道の深川機関区のも渋かったような。 所で支区は全て区名札は所属のものだったのだろうか。 深川「深」機関区留萌支区「留」
追分「追」機関区苫小牧支区「苫」
盛岡「盛」機関区荒屋新町支区「盛」
平「平」機関区高荻支区「平」
横川「横」機関区軽井沢支区「軽」
国府津「国」機関区久里浜支区「久」
豊橋「豊」機関区中部天竜支区「?」電機は興味なかったんで当時のく記録なし
富山第一「富一」機関区高岡支区「高」
>>198 感謝。規模或いは特殊性に因ったのだろうか・・・ よく話題になる南九州(鹿児島・熊本・大分局 というより鹿児島工場管轄)の砲金製区名札の中で、なぜか支区の都城の「都」の札も存在したね。
砲金製区名札は南延岡「延」、宮崎「宮」、志布志「志」、鹿児島「鹿」、出水「出」、
吉松「吉」、人吉「人」、熊本「熊」などですが、すべて本区でした。
熊本の「熊」は最初の復活時に58654が付けていた筆記体の「熊」ではなくもっとゴシックに近い字体だったっけ。
>>194
名古屋の写真は今月のF誌に載ってるね。 そういや一ノ関も矩形庫だったな(かなり改築されてるが現存) 倉敷電化までの間、姫路駅でゴハチが長時間止まってたよ。 苗穂でC623を動態復旧した後、「苗」の札を入れて整備のために小樽築港に送り出したら
「築」の札を挿して帰って来たってさ。 宮原機関区。あれの車両・乗務員部門は宮原電車区になったな。 名門機関区なんて、もう今では存在していない気がする。
東京、米原、宮原・・・ 京浜東北北行 品川→田町
旧東機の建物、最近だと3階か4階だけ電気がついてたんだよな。
他のフロアは、もぬけのから、というのも見えてメチャ寂しげな感じがした。 この板が出来てから、良く訪問させて頂いているけど、東京機関区も廃止なんか今は?
この前、新型お召し電車の公開があったけど、それまてEF5861は何処に…? >>211
東京機関区(〜S60.3)→新鶴見機関区(〜S61.11)→田端運転所(品川常駐) >>212
ありがd
新鶴見、田端。貨物の名門ではあるな。 >>217
俺の親父の年代くらいなら大名門だったろうな>沼津 富山・敦賀も忘れてはならん。大体区が二つあった機関区は名門也。高崎・長岡然り ほとんどの機関区が蒸気の頃からあるんだから、全部名門になっちゃうな。 北海道の追分機関区。
ギーゼルのD51が集中配置されていた。
動力車労組が完全に支配する機関区だった。
その動労支部が革マル派と共産党支持派によって分裂。
激しい分裂抗争で、鉄道の町も二分された。
町長選挙でも両派から候補が立った。
SL全廃直後に機関区で火災が発生。
配置されていたD51とDD51の多くを失う。
それから、衰退し続け、消滅。
動労の機関士たちの多くは、首都圏の電車区に移動。
追分機関区のD51に乗務していた動労支部書記長は
常磐線松戸電車区の103系電車の運転士へ転進した。
彼の鉄道員人生はNHKのドキュメンタリーにもなった。
>>192
現在残っている扇形庫で最大なのは梅小路になるのかな?
確かあそこ、国の重要文化財に指定されたんだよね。 >>220
> ほとんどの機関区が蒸気の頃からあるんだから、全部名門になっちゃうな。
個人的な見解はあるだろうけど、蒸気がいたから名門、っていう纏め方はどうかなぁ?
各機関区の歴史を知っている訳では無いけど、例えば常磐線の直行仕業を持っていた田端と、
入れ換えメインの品川だったら、田端は貨物の名門だよなぁ。
ってやっぱり考えちゃうよね。 >>225
田端は微妙。田端は尾久と統合して大きくなった。
田端は常磐線も担当したが、水戸や平の方が常磐線を代表する
機関区という印象がある。
田端は国鉄時代よくテレビに出た機関区だったのは確かだね。
スト突入前の中継というと、田端機関区が東京の代表として
選ばれていた。動労のスト決起集会がよく田端で開かれ、
テレビ局も取材に来て、青年部活動家のアジ演説まで全国中継していた。
やっぱり貨物用機関車が集う名門というと、岩見沢第一、五稜郭、長町、
郡山、門司という感じかな。配置機関車から見ると、田端は一段落ちる印象。 >貨物用機関車が集う名門
稲沢・吹田を忘れないで下さい。
ただ、吹田は名前が残っていますが、稲沢は車両部門が愛知機関区になり
東海道本線から撤退してしまいましたが(中央・関西線と名古屋近郊小運転を除く) >>227
> 稲沢・吹田を忘れないで下さい。
稲沢(第二)吹田はEH10が配置されてたね。
EF15の2軸増しなれど、EF66あたりよりマンモス貨物機の風格があったなぁ〜
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
豊後森は保存されてるんだよね。
各地の古い車両をあそこに収容できないかな? >>234
門司に集めたからねえ。
津山の扇型庫では、同じように集めようとしてる。 大宮機関区がほとんど出てないのが不思議だ
やっぱ機関車配置が他より少ないからか? 東京機関区って大昔は東京駅のそばにあったのですね… ロクヨンの拠点、八王子機関区も忘れないで!! ターンテーブルあります。 房総を担当していたのは新小岩、千葉、佐倉、成田、木更津、勝浦くらい?
この中で名門と言えるのは佐倉かな? >>240
ターンテーブルあるね。
こないだ「あずさ」で通った時に目撃した。
何のために残してあるのだろう。 八王子機関区も昔は優しかったですよ。 中学生の頃、ロクヨン一般型の番号潰ししてたので 何度も行ってたら顔見知りになって そのうち、わざわざ寝てる機関車パン上げしてくれたり、倉から出して来てくれたり…。 有り難かったo(^-^)o >>243
鉄がおかしなコトしなかった時代は
何処でも優しかったよ。
入れ替え用のDEのキャブに乗せて貰って
半日付き合ったり
C11で折り返してくれたりと。 古き良き時代、だね!
新見でも EF64 1 を 倉から出してくれた。 東京機関区の横のマンションに住んでいるんですが、東京機関区の線路撤去作業が行われています。隣の客車区は跡形も無く、機関区解体も時間の問題となっています。半分の線路が既に撤去され、土がむき出しの状態です。二か月前までEF65、66がタムロしていたのが嘘のようです。 南延岡機関区
ターンテーブル跡地はパチンコ屋………orz >>243
91年ごろだったかな、八王子機関庫内にいたEF6478が撮りたかったので出区する列車
を聞いた所、わざわざ庫内をはじめ停泊しているそれぞれのカマまで案内してくれた
のには感謝だったね。
あと電車の中から見たのだが20名位の幼稚園児の団体が社員に引率されながら
カマを見学していたっけ。その時はホントにうらやましい〜〜って思った。 以前出た鷹取機関区東灘支所。
EFゴハチの95と100がなぜか疎開しにきてた。
なにぶん当時の灘の下町貧乏家の小学生の身、写真なんて撮っているわけがないw
コンパクトカメラはそれでもしょっちゅう撮るわけにはいかない・・
1975年前後のことだったと思う。 >>244
ネットの普及が自分で自分の首を絞めることになったな・・・
70年代SLブームでも80年代ブルトレブームでもまだかわいいものだったよな。 >>252
うんだうんだ、
機関士「お前鉄道好きか?卒業後どうする?」
俺「国鉄受けるつもりです」
機「ちょっと俺と付き合え」
構内をトボトボと建物にそして区長室へ
機「区長、この子国鉄受けるそうです」
区「お、名前は?」
当時願書に区長クラスの推薦者があれば
国鉄入れたのよね。 >>255
55年不採用組。
国鉄高等機関士養成科へ入校命ず
が
ごめんね〜国鉄赤字で今年の採用見送ることにしたの
悪いけど、他探してね。( ´・ω・`)ノ~バイバイ
の紙切れ1枚でしたよ。 >>256
新規採用停止、現場は人材活用センターへ振り分けられ、高齢組は早期退職推奨。
ひどい時期だったでしょう。 >>257
採用されたらあの荒波の中だったことですから
考えようですけどね。 豊後森の扇形庫はどうなっているんだろう?
きちんと整備して欲しいし
ついでに転車台や配線も復活とかだと最高だが 旧東京機関区の庫内の写真です。
東京機関区の周りの線路はすでに剥がされて建物だけが残っている感じです。
おそらく今年夏にも建物も取り壊されるでしょう。
さびしい限りです。
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org180942.jpg.html
伊那松島機関区
いまどうなってるんだろう?
旧国最後の頃、国鉄で来た証(信州ワイドとか)を見せれば快く入れてくれた。
ガリ版刷りの編成表もくれたなあ。
ネットなんかなかったあの頃、貴重な情報源だった。 国鉄時代は結構見せてくれたよね
亀山機関区は非常に親切でどこでも見せてくれたなあ >>263
今から10年以上前
伊那松島を訪問した時、庫の中にいる木造電車みたいなのを、わざわざ鍵開けて見せてくれた >>264
> 亀山機関区は非常に親切でどこでも見せてくれたなあ
助役の尻の穴も見せてもらった? 上諏訪機関区がまだ出てないね。D51が30両近く所属しいた気がするが。
両数的には結構な大機関区。周辺の入れ替えC12はここの所属だったから、
中央東線電化後もしばらくは存在していた。
松本にも機関区あったね。C56が数両いた。
長野機関区は電化で篠ノ井に発展的解消してしまった。 宮原機関区の特急担当の人の多くは87年の3月ぐらいに
一斉に宮原電車区に転勤(ったってほとんど同じ場所だがな)になったらしい 拝島駅構内にもEF15やED16がゴロゴロしていて、国鉄〜西武の長い踏切から撮影したもんだ。 甲府には64より前はEF15どころかEF13が客車普通列車に使われていたので
茶色い機関車が軒を並べていた。暖房車マヌの補給や給水もやってたかも。
電留線に面影が残ってるが跡地は甲府市消防本部と何と結婚式場だ。 昔、家から数駅の所に宮原機関区があったので、しょっちゅう新大阪で降りて
友人10数名で宮原でゴハチやPFを撮影していました。
機関士や検査係の方のお話も結構興味深いお話でした。 五条機関区(和歌山線)
いまはただの電留線…
和歌山機関区
…(遠い目) SLブーム以前に消えた機関区は、どれ程あったのだろうね。
山北機関区とか庭坂機関区。
>277
東京近辺だと
千葉機関区
尾久機関区
飯田町機関区
あたりかな。千葉は館山と勝浦にも機関区があって、昭和30年代前半まではSLの配置があったはず。尾久の扇形庫は田端区の管理で41年くらいまでは存在した(成田線用のC57の配置もあった)。
伊勢機関区ってまだ出てない?
山田機関区時代にはC51やC57も配置されてたそうだが。
現役かどうか分からんが、ターンテーブルが現存。 >>277
北海道では黒松内、渚滑機関区もあった。 >>279
伊勢市自体、今もDCの配置があるからね。
消えたイメージじゃない。
高島機関区(横浜区)は60年代に蒸機の配置はなくなったけど、70年の「高島線サヨナラ列車」の時にはD51791の
転向に使われたよね。まだDLなどの配置があったし扇形庫も健在だった。 津山が出ているのに新見機関区が出てないとは。
布原のD51三重連は、北海道のニセコC62重連と共に最も有名だったのに。
扇庫は、無煙化後DD51のねぐらになっていたが、昭和61年頃アボーン。
最後までダブルルーフの救援車もいた。 >>283
J誌のルポのタイトル、『煙の桃源境』を思い出すね。 なぜかあがらん坂町機関区。
何気に現存する復活蒸気の半分くらいは新潟に由来があるそうな。
C57-1、C57-180、D51-498、C11-325・・ 鳥取機関区 D51専門。 鳥取駅の高架化で消滅。
後に西側に移動し西鳥取運転区になった。
昭和の終り頃
高崎第二機関区と小倉機関区に撮影に行った。
前者は、機関区員同伴してくれた。
後者はフリー。
いずれもアポなし。
今思うと良い時代だった。 立川機関区跡はマンションになった。
>>272
甲府機関区の跡地は売っちゃったのかな?貸してるの?
駅から見て消防署の右隣の空き地にはNHKが出来るんだよね。 私も久里浜機関支区好きでした。あの木造機関庫、どこかに平面図とか残ってないんですかねえ? 立川機関区って、西国立の駅横にあるのに「不思議だなあ」とずっと思っていた。立川から東方向に戻るのだから
確かに「国立の西」になるのだけれど、中央線の駅ではなく南武線なので混乱してしまった。
駅の名前が「東立川」ならわかりやすかったのだけど。
ED16が轡を並べて待機していた姿は壮観だったね。 >>292
機関区跡の東側を走っている東海道線の下り線も
上り線側に移設するんだってね。 JRFの2009年実績は50%ダウンだって?
まだまだ栗鼠虎は続く。。 >>287
昭和50年ごろまではきちんと表玄関から車両基地いくと
係員同伴での写真撮影程度なら認めてくれたね。
いまじゃバスの営業所でも断られることがある。 仙台機関区は、東北本線盛岡電化の後も残ったが、利府支線の無煙化で廃止された。
珍しく、扇形庫が本線側に向いていた。
長町機関区は、長町駅西口の再開発で仙台総合鉄道部を開設して車両を移転させて廃止になったが、最後まで転車台や扇形庫が現役で使われていた。
たまに、ED75が扇形庫の中に入っていた。
扇形庫の中にELが入ることは、他の機関区もあった? >>299
豊後森にEF30がいたな。目的が違うが。 >>300
旧奈良機関区もEF52‐1がいた。
豊後森の扇形庫は、壮観な造りになってますね。 DLの燃料庫替わりにタキが使われていた機関区はまだ残っているのだろうか。
長町機関区がそうだったんだけど。
>299
SL館になる前の梅小路も、ターンテーブルの上に架線張られて
EF58が乗ってたりしたよ。 >>299
姫路二区?もそうだったよ
姫路は倉敷電化までのつなぎでゴハチと蒸気をカマ換えしてたからな
今や高架の上のショボイ駅に成り下がった・・・
PFがバリバリだった頃の機関士って冬でもノーネクタイで帽子をぺしゃんこにしている人が
結構多かったな 扇状庫まで架線が引いてあったところってあるのかな?
転車台に載るだけならEF55をはじめ必要に応じてあったんだろうけど 扇形庫に架線を引く機関区もあった。
米子は扇形庫が現役で、今でも気動車やDD51・DE10・DE15の仕業・交番検査をやってる 錦糸町に貨物駅と客車区があって、一日中眺めていた記憶がある。
今のアルカキットやらロッテプラザのあるあたり。 >>304
基本的に機関士の制服はノータイの作業服系のものだっただろう。「機関士」の職名が
無くなって、全部「運転士」になっても、機関車に乗る運転士は作業服が普通だったと思う。
上が平らな帽子とスーツ型の制服で機関車運転してる方が違和感ある。 広島機関区に付いて誰か詳細、または画像など持ってる?
廃止は1971年らしいけど、転車台と扇形機関庫は1990年近くまで残ってたらしいけど。
広島機関区は転車台を全円に近く位に扇形機関庫が並び、日本一と言われてたみたいだけど、
画像を見たこと無いので確認したいんだよね。
誰か広島の転車台と扇形機関庫の画像が在るサイトなど知ってる? 書き直し
>転車台を基点にグルリと全円に近く位に扇形機関庫が並び、 昭和59年に荷物列車を牽引するEF58が暫定的に下関に配属になった。
元宮原の小窓原型機EF58100が故障し、広島機関区に留置されているというので、
最後の姿を撮影したいと思い、広島機関区を訪れた。
私が厨房だったからだろうか、黄色いヘルメットを被った職員の方が本線に近くに留置されていた
EF58100まで案内してくれた。そのときに伺ったのだが、もう蒸気時代の建造物は残っていないと。
門司機関区の転車台と扇形機関庫は近年まで残っていた。広島ではなく門司ではないだろうか。
>>311
Good Old Railサイトには広島機関区にはC11 C12 C50 C59 D51 D52など50両以上配置、
広島機関区(1947)→広島第一機関区(1963)→広島機関区(1971)で、
ラウンドハウスの紹介には「がここで紹介する扇形機関車庫 (annular engine shed またはround-house) で、
ターンテーブルを中心に車庫建物が扇形の弧を描くタイプ。
そして円形機関車庫 (circular engine shed) と言うターンテーブルを中心に建物が全円を描く大型の物で、
機関車は建物外側から出入りするタイプもあったが、欧米の一部にあったのみで日本には存在しなかった。
ただ、全円ではないがほぼそれに近いところは日本にもあった。(広島など)
転車台と扇形機関庫が在った場所は現在、球場となっている。
他のサイトでは広島の転車台と扇形機関庫は1980年代終り頃まで残っていたと書いてあったが、
311さんが広島に行っている昭和59年までに解体されたってことだね。
昭和59年以前、誰か広島の転車台と扇形機関庫画像をアップしてるサイトは無いかな? SL甲組の肖像の4巻に小さいけどS30,S36,S45の広島の配線図載ってる。S45には転車台と線形庫ないね。
あとEF58100って故障してそのまま小郡に留置されてたけど、広島に持ってったの? 昭和58年頃に広島に住んでたけど、その時には既に転車台はなかったような・・・
確か用品庫になっていて、門から見える場所にダブルルーフのオル30が止めてあったのを記憶している。 >>312
スレチかもしれんが、航空写真から調べた。
昭和41年に転車台と扇形庫は存在している。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MCG665X&courseno=C11&photono=16
ちなみに昭和37年の空中写真には蒸機の煙らしいものまで写っている。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MCG628&courseno=C16A&photono=13
ところが、昭和49年には転車台と扇形庫は跡形もなくなくなっている。
http://w3land.mlit.go.jp/cgi-bin/WebGIS2/WC_AirPhoto.cgi?IT=p&DT=n&PFN=CCG-74-7&PCN=C11A&IDX=31&PNO=1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,32,33,34,35,36,37,38,39,40,41,42,43,44,45,46,47,48,49,50,51,52,53
よって、広島第一機関区の転車台と扇形庫が解体されたのは1980年代終わり頃ではなく、
1960年代終わり頃だと思われる。どうしても写真を見てみたければ、広島市図書館が
「広島鉄道管理局この10年史」という本を所蔵している。この本に掲載されているかも。 姫路第一機関区って民営化後も高架化で移転するまで残ってた。
確か、姫路第一機関区⇒姫路運転区⇒姫路鉄道部って順序だった。
姫新線・播但線用のDLが配置されてた。
その頃はまだ津山発姫路行きがまだあったような・・・。 今では>>287のような機関区の中に入って撮影できる場所なんてやっぱり無いのかな…?
田端は機関区の外から見れるけど 機関区ではないが、筑豊本線の若松の手前のヤードも素晴らしい風景だった。
線路が数十本?ならんでおり、その向こうが洞海湾で石炭を積み出していた。
私の鉄道百景のベスト3に入る。
しばらくぶりに東海道本線の東京−川崎間を乗車する機会があったのですが、品川到着前の景色の激変ぶりに呆然としてしまいました。
あの場所に東京機関区(呼び方はご勘弁を)が存在していた、何か少しの痕跡でも、と一生懸命探したのに何にも見つからなかった・・・
もう悲しくて、悲しくて・・・ 子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥のやうなきしみを立てる列車が、われわれが眠つて
ゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や峡谷や
海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふのでなければ
ならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに美しく
パセティックなものはない。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
豊岡機関区、和田山機関支区
10年ぐらい前には、レンガの矩形庫が残っていたように思うけど、今はどうなってるのでしょう? >>322
去年の夏の時点ではまだあったよ。
ただし、まともにメンテされてないみたいでボロボロ感たっぷりだったけど。 消えた、って、本当に言葉通りの東京機関区。
電車区の堺から、クッキリはっきり撤去。
ほんの10年前まで、九特ずらりだったのが夢のよう。 >>325
とは言ってもカマは田端と下関の奴ばっかりだったけど
時々イベントガマが来る程度 外出だが竜華
久宝寺駅はおおさか東線開業や快速停車駅になり様変わりした
百済貨物駅は整備され、阪和貨物線は廃止… 昔の規模が大きい駅のホームの無い側
にある黒いホースは何に使ってたんでしょうか? 国府津機関区は御殿場線電化後も、
扇形機関庫とD52が1両が残っていた。
何号機かは覚えてない。 ttp://c5557.kiteki.jp/html/D5272.htm 今日、NHKのBS-Hiで吹田機関区がどうのこうのっていうミニ番組が
夕方にあるらしいけど見れないお >>333
吹田機関区、なつかしい。
小学校の時、社会見学で訪問し、カーリターダーの説明など受けた。
学校の授業では質問などほとんどしない私が、
このときだけは当時問題になっていたDD54の推進軸の話など
熱心に質問していたのを思い出す。 > :
う〜ん、細かいことは忘れてしまいました。子供の質問なので適当にあしらわれたようです。
ただすでに改善が施されつつあり、廃車ということにはならない、との説明は覚えています。
334 です。
すんません上記337は335へのレスです。失礼しました。 >>337
質問者が大人でも、なかなか明瞭な返事は得にくかったかもしれませんな。 推進軸は改良できたけど逆転機とかが駄目なままじゃなかったっけ?
フチ区で検修やってたうちの爺さんが元気なうちに聞いておけば良かったなぁ。 佐倉機関区
ここの機関区は結構トロッピーな機関士さんが多かったなぁ。
機関士さんとDD51について、色々聞き、
調子の良い機関車・悪い機関車とか、特別整備機関車が
居るんだって話もしていただきました。 >>341
地元だー
・・・と思って2年前に>>33をカキコしていた事を思いだしたw 米原駅から東京方面に向かって新幹線のこだまに乗って北陸本線をオーバークロスする前の左手に新幹線の保線基地が見える。
そこに転車台があるけど、米原機関区にSLが配置されていた頃の転車台?
米原停車のひかりやこだまの上り列車でないと見れない。 連続カキコでスマソ。
転車台よりも転車台の残骸でストーンサークルみたいなものです。 そういえば瀬野機関区ももうなかった?概出ならスマソ 福知山機関区・長門機関区
跡地は何になってるんだろうな 蒸機がいた福知山機関区を訪ねたのは末期だったけど、当時配置されていたD51499に会えたのは嬉しかったな。 >>349
旧福知山機関区跡地はきれいさっぱり駅前広場になりました。駅前には旧福知山機関区のターンテーブルが
そのまんまモニュメントとして置かれてます。その上には篠山から持って来たC11が乗ってます。
ttp://ku-gyou.net/etc/hozon/fukuchiyama3.html 厨房の頃、品川機関区へ、アポなしで「中で写真撮らせてくれぇ」と行ったら
「高校生以上」と言われた。
そして、高校生になった時はアボーンされていた。 品川機関区狙いとか渋い厨房だな。DD13の一つ目が好きだったんだよな。わかるよ >>352
いや、札の辻でEF58やEF62狙った秋時間に、アタックしてみた次第。
東京機関区よりガード緩そうだったから。
末期だから、ひとつ目いなかったような・・・。 もう出たかな
石岡機関区(鹿島参宮というのが似合うよね)
看板出てたよね いま売られてる「国鉄時代」に仙山線の写真が結構載ってるのだが、
作並機関区の萌えっぷりは半端じゃねえ……
ED93(後のED77-901)が牽引してきた列車がED17に機関車交換とか、
悶絶卒倒ものの風景が日常的に繰り広げられてたんだな…… >>355
そういう「路線ごとあぼーん」したの入れるといろいろ有りそうだな。
同じ関鉄グループでは筑波線の真鍋機関区。 >>352
品川機関区は、1998年までありました。 >>357
そうそう、筑波は真鍋だっけか。
関鉄 水海道機関区ってまだ有るの?(機関区ではなくなった?)
ひょっとしてまだあるのは龍ヶ崎だけ?
関東鉄道の機関区って車庫という意味合いだったのかな。気動車の所属も
機関区だったわけか。
東武・業平橋の浅草機関区もあぼーん。 >>359
水海道は少し場所を移動して、機関区から車両基地に名称替えたみたいです。 廃止された機関区の跡地の多くは、電留線として使われる所が多いですね。 跡形も無くなった奈良機関区…
奈良電車区になって平城山駅附近に引っ越したとは言え
全然気づかなかったし知らなかった餓鬼の頃。
昭和50年代なら跡形ぐらいあったろうにorz >>351
余談だけど、幼い頃に既に全廃になったはずのDD54を
福知山駅のホームから見たことがあった。 >>367
最末期はターンテーブルの一番奥の線路に放置してありましたからねぇ。
機関区の裏手のあぜ道からも良く見えましたよ。 >>366
車両センターに改称されてしまったけど、尾久は客車ばかりの配置だね。 >>371
一応、E655系電車の配置はあったりする。
けど尾久はちょっと変わってるな。
客車区を名乗っていた頃は気動車が配置されてた……ていうか、
特急型気動車が最初に配置されたのは尾久客車区なんだよな。 >>365
高知とか徳島なんか名前は運転所になったが、配置車両は気動車が殆ど >>359-360
今日、公開があったので水海道に行って来た。
構内の掲示などから「車両基地」の中に「車両区」「検修区」「乗務区」がある
という組織のようだ。
組織としてどこの属するか判らなかったが管理棟の建屋内には運転司令所
らしき物も有った。 高崎第一機関区 高崎第二機関区 長岡第一機関区 長岡第二機関区
水上機関区 小山機関区 内郷機関区 平機関区 大宮機関区 宇都宮機関区
黒磯機関区(JR貨物はある) 田端機関区 以上関東地方で消えた機関区
新しいのは 東京機関区 品川機関区 >>375
乙カレー。情報ありがとう。
機関区でなくて車両区となった訳だね。 >>376
群馬 桐生、横川・軽井沢支
茨城 水戸・土浦支・真岡支、常陸大子
千葉 千葉・木更津支区、新小岩・蘇我支、佐倉・銚子支、成田、勝浦・大原支、館山
埼玉 武蔵野
東京 尾久、飯田町、八王子、立川、武蔵五日市
神奈川 高島、山北、国府津・久里浜支・横須賀支・伊東支、浜川崎、茅ヶ崎
名称が変わったのも含めばあとこれぐらい有るな
まだ有るかと思うが正直な話、蒸機の頃を入れるとキリが無いなこれ グーグルマップの航空写真と小学館の北海道〜九州○○○駅シリーズを片手に
全国各地の昔と今の機関区やヤード跡を比較するのが日課に・・・
今は住宅地でも区画でヤード跡がはっきり分かるし、転車台跡も鮮明に写ってて時間を忘れるw
場所によっては詳細な写真が無くてがっかりだが。 >>365
岡山気動車区がある。
岡山電車区気動車センターから改称したはず >>382
なるほど。あるねえ。ウェキペディアで確認した。
気動車区というのはなんとなく古い言い回しでなんかいい感じ。
客貨車区は流石にないよね。 日中線の熱塩駅に、転車台があったそうですが、SLブームより前に埋もれてしまっとる。
C11やC12の開発で、転車台が廃止された駅が多くでてなかった? 例えば小型タンクC11しか走っていない路線でも、
やはりターンテーブルは無くてはダメなのかな。
何か無くても事足りる様な気もするんだけど。 >>364
昭和50年代なら、跡形ではなく扇形庫も転車台もあったぞ。
EF521が何故か扇形庫の中にいたし。
SL大和路号の時にも残ってたから、C56160が奈良で方転してる。 ターンテーブルが無いと、
ラッセル車の向きが変えられないだろ。
>>385
足尾線は無かったはずだ。C12逆向き重連が走ってた。 >386
梅小路も、SL館になる以前の写真で、EF58が入ってるのを見た事がある。 >>385
若桜線(若桜鉄道)は今でも若桜にターンテーブルがあるけど
C11が現役だった当時、ターンテーブルは使われてなくて
若桜行きが前向き、鳥取行きがバックだったらしい。 >>385
五日市線とかは無かったです
無かったそうです そういえば横手機関区の跡地にはまだターンテーブルがあるね
最近使われてないけど DL機関士がDC運転士を兼務してた事が多かったようだが、
DC乗務が組まれてる行路の乗務員はは略帽着用は禁止されてたのかね。 >>394
機関士はナッパ服に丸帽だった時代、運用はDL乗務はDL用仕業、DC乗務は
DC用仕業だったように思うが。少なくとも中津川はそうだった。
廃区の佐々機関区⇒松浦鉄道の車両基地
廃区の早岐機関区⇒早岐運転区(車両無配置)⇒佐世保運輸セ(車両無配置)⇒
長崎運輸セの車両移転先⇒現在、構内設備解体中⇒最新車両基地として再出発
>>401
「西ハチ」で八高線・川越線のキハ35が所属してたところだよね? 第一では場所が足りないから第二を作って、広島は第一が操車場に近いから貨物用、第二が客車の
留置線に近いから旅客になって、高崎は第二が貨物用で上越を担当してたけど、真っ先に電化された
から電機配置になってそのまま電機用が第二になったらしい。
あと第二があるのってどこあったっけ?敦賀と富山くらい? 関東の58ファンとすれば
東>関(昔のね)>米>浜だね。
浜は今じゃ贅沢かもしれないが、殆ど、小窓Hゴムで
1、5なんかの初期ものや、かつてお召し予備だった60しか
興味なかったし(笑。
え?皆無くなっちゃたの? >>408
広島、一、二だけど基本はそうなんだろうが、広一はD型蒸気に混じってC59が相当数
配置されている、広二はC62と共にC59が相当数配置されている
C59も貨物牽いていたからかな、それとも呉線用かな これだけ各地の機関区が出てきてるのに鳥栖機関区と長崎機関区が出てこないとは。
鳥栖なんて全国でも珍しいターンテーブル+機関庫2セットの大規模区だぞ。 職員の態度が悪くて、懲罰的に消された東京機関区。関西は竜華機関区。
九州は門司港と早岐。
いつの間にか消えた感じが有ったのは横浜機関区。新鶴見と大井が有るからいいかな・・・
C11 292は新製配置から、休車になるまで、
姫路で過ごし続けてきた、姫路生え抜きの機関車なんだよなぁ。
出来れば何かの機会に区名札挿しに「姫」を入れていただきたいものだ。
もはやC11 292も里帰りしようにも、姫路駅高架化で
古巣の姫路第一機関区は再開発で住宅地になってる。
姫路から上京した人は新橋を通る際には姫路っ子の292の存在を
思い出していただきたい。 >>394
只見線のDC運転士が略帽着用だったのをみたことがある。
>>417
紀勢本線全通(S34.7)まではC11が10両以上配置。
全通後は亀山の次の機関区は約170km離れた新宮。
最初からDF50を通すので途中に機関区は必要なかったのだろうな。 この前、盛岡に行ったら
盛岡機関区の検修庫?の
残りが完全に撤去され
更地になっていて
面影も無くなっていた。 豊後森機関区、佐々機関区
鳥取機関区 昔は山陰本線の貨物専用区 後に米子機関区に統合。
鳥取機関区は、後に西鳥取運転区になった。
>>418
相模線でもなー。
名札は「機関士」。
キハ10を追加制動だけで停止位置ぴったり、
通票の交換のため待っている駅長に正確に横付け。 >>421
誤爆ですまん。
豊後森機関区...此処に鉄道博物館を造れば良かったんだよ。 姫路機関区について質問.
戦後に第一と第二に分離.山陽線電化で第二は車両配置がなくなる.
ってのはわかったんだが,民営化の時ってどうなったんだ?
第一は西持ちの姫路運転区になったのか?貨物にも姫路機関区が残ってたと本で見たような気がして,ちょっとはっきりしないのだが詳しい方よろしく.
姫路運転区については>>316に書いてあったなスマソ
JR貨物には姫路機関区ってなかったんかね・・・ 立川機関区
西立川には痕跡が無いといってよいくらい。 >>427
JR貨物の姫路機関区も、姫路駅高架化関連で廃止。
旅客の姫路鉄道部は、太市に移転。 横浜機関区は、横浜Fマリノスの練習場になっちゃった 横浜機関区はスカイビルの真南、築地橋のたもとに
入口があって入ればすぐ左手に機関庫、転車台。右手に事務室、
組合室、風呂場その他。
マリノスタウンや社屋はもっとずっと海よりだから操車場のど真ん中。 >>426
旅客は本線担当の動力車乗務員を網干電車区、播但線・姫新線のDL/DC・動力車乗務員を
姫路運転区に配置。その後姫路鉄道部に改組され、
高架化関連で貨物駅・鉄道部移転を行い、姫路鉄道部は余部〜太市に移転。
貨物の姫路機関区は乗務員配置区。
姫路総合鉄道部は別所移転の際にできたんじゃないか。 >>417>>419
全通後、新宮機関区紀伊長島支区になった。その後紀伊長島支区も廃止。
けど駅所属として、乗務員配置は今でも健在。
新小岩機関区
千葉機関区
佐倉機関区
千葉気動車区
津田沼電車区
房総の名門っていえばこの辺か。 八王子はそごうも潰れたしな、街自体が衰退していってる。 八王子機関区跡は立川機関区跡のようにはなれんだろう 一年くらい前にテレビで見たときは、
遺構として朽ち果てながらも残ってるって感じだった 国鉄では塗装は機関区じゃなくて工場の仕事ではないか?
高知も高架化で移転したんだっけ? 篠ノ井機関区は廃止後EF62墓場に成った・・・・・
横川機関区は廃止後、EF60墓場に成った・・・・・
機関区は広いから廃止後、廃車機関車置き場にもってこいだったのだろう。
新鶴見操車場跡はDD13100番台の墓場に成った。 釧路機関区を担当していた工場が雑な仕事してたってことか? 浜松機関区・米原機関区・竜華機関区
ゴハチが多数居た時代は何処 白山機関区って知ってます?
越後鉄道引継ぎの、越後線白山駅構内にあった機関区で、国有化後6250を経てC12,C56が新製配置されてます。
新潟市内でも新潟駅よりも新潟旧市街地に近い場所にありながら、情報の無さはちょっと驚異的。
廃線後の廃墟を写した米軍空撮写真でターンテーブルらしき穴がかろうじて判るのみ。現役時代の構内の写真一枚見つからない。
>>449
白山機関区の廃止は1951年(昭和26年)
現在の白山駅は機関区を撤去して建てられて、
現在の越後線は元は機関区に繋がる貨物支線を編入した。
白山機関区の規模はSクラス、扇形機関庫は無く、西吉田機関区と同じ位。
特筆すべきは、白山で昭和16年に廃車されたC56-23が陸軍に供出されタイ国内で輸送に従事、
終戦後もタイ国鉄719号として活躍、現在もタイ国のクゥエー川鉄橋の博物館に保存されている。 ありがとうございます。
そうすると機関区は白山駅構内ではないと?
構内を含めた越後鉄道の新潟市内の線路配置図が見たいですね。
信濃川対岸とハシケによる貨車の航送でも行っていたら面白いんですけどね。
やりそうな感じがあります。
白山機関区の位置は現在、白山市場商業協同組合から白山保育園、
ハウスコモンが在る辺りで、機関庫は白山保育園の辺りですよ。
旧白山駅が鏡淵小学校グランド辺りからプールに辺りで、
駅舎がプール辺りからプリムヴェール付近まで。白山機関区は旧白山駅の日本海側です。
具体的建物名で言うと、旧白山駅に到着すると機関車だけ新潟職員生活協同組合に向けて走って、
バック運転でハモールピアノ教室の前を通過、白山保育園の機関庫前付近ターンテーブルで転回、
同じ道をバックで通り、き回し線で白山市場商業協同組合側から旧白山駅ホームに入る。
機関区の規模は最小、元が越後鉄道、民間のタンク機関車が走る程度で、
後に鉄道院・省の払下げ機関車5130形でも全長13mちょいだから、
越後鉄道時代に拡張、たぶん50フィート(約15mちょっと)の転車台を設置、
その後、国有化されて、幹線じゃ無いから転車台の拡張もされなかったので、
最大C56が限界なんだろう。おそらく機関庫も木造複線程度だろうし。
旧白山駅廃止、新白山駅開業しても、旧白山駅舎を始め、
機関区に在った鉄道官舎なども数年は残ってたみたいですよ。 補足で、
関屋駅から旧白山駅に向って右、信濃川に向う支線、現ヤマダ電機やガスト店に向う支線、
現越後線、東京プリント社から農業共済会館や県立ガンセンター辺りに向う支線が在り、
後者の方が支線が並行に何本も在って、ここに小さな貨物駅が在ったらいしが。
当時、その辺は新潟硫酸を始め、石油関連などの工場が立ち並んでいて、現在は北陸ガス工場位しか残ってないが。 なんか瀬古龍雄さんのような新潟通の方がおられますね。 気のせいかヤフーの地図を見ながら説明されているような気がするw
それはさておき、記録されざる幻の駅なんですね。
買収から数えても移転、廃駅となるまで何年も時間があった筈です。
新潟にも鉄道ファンは居たと思うんですが。
思わず国土地理院の航空写真を見てしまった
米軍の古いやつでも機関区の面影ないですね 新潟市内では明治維新以後、大火と呼ばれる大規模な火災が数回起り、
戦時中は米軍機による機銃掃射と爆撃が1945年7月17日と8月10日の2回受けているので、
大火か戦争で機関庫なんかヤラレてんじゃねえ?
戦時中、鉄道は重要攻撃目標、とくに都市に在る機関区は狙われてたし。
日本爆撃の場合、鉄道施設は重要攻撃目標じゃないですよ。
すでに戦後を想定して占領計画を練っていたわけだから、その差し障りになるような破壊はしません。機銃掃射がある程度。
対独爆撃でも費用対効果の悪さが明らかになってましたし。
別の方面から探したほうがよいような気がします。新潟の百年とかローカル出版社や新聞社が出してるような本にチラと一枚載っていたりとか。
>>458
>戦後を想定して占領計画を練っていたわけだから
それは戦後の後付け。
鉄道を攻撃目標すると占領後に鉄道が使え無くなることは米軍は想定済みで、
米軍は元々、有り余るトラックで輸送計画してるから鉄道は関係無い。
欧州戦線では連合軍が鉄道を攻撃目標に定め、ドイツを始めフランスやベルギーなどで攻撃してる。
連合軍は橋頭堡から前線までトラックをフル活用してファイヤーボール輸送を行った。
日本国内で大阪空襲だと二回目は福島駅を目標に、三回目は鶴橋駅、天王寺駅を目標に、
四回目は阪神本線出屋敷駅、国鉄福知山線支線金楽寺駅、鶴橋駅、天王寺駅を目標に空襲してる。
列車攻撃の場合、機銃掃射だけでは無く、ロケット弾で攻撃されているし、
京急線の富丘では低空飛行するB29がトンネル内に逃げた京急車輌を狙い、トンネル両入口を爆撃してる。
ただ新潟は何処を目標にしたかなどは知らないが。 新潟とか秋田は油田があったから、その辺りを狙ったのかも? >>459
金楽寺駅なんか目標になるのか。
よほど低空飛行じゃなければ位置把握ができんぞ。
となりの尼崎駅(後の尼崎港)か神崎駅の方が爆撃も容易で効果もありそう。 >>459
は妄想だろうなw
戦後66年、当時を知る人はもう100歳以上だものwww ↑バカ丸出し
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 >>463
ウィキペディアを鵜呑みにしてるお前の方がバカ丸出しwww >>459
はるか上空から見て目立つ施設を方向転換などの目標にしてるわけだよ。
当時の鉄道施設でここが無くなれば地域への影響が大きいという施設ぐらい、少し考えればわかるだろ。
なぜ大阪狙いで福島に鶴橋に天王寺になるんだよw
ちなみに戦後、米軍は日本ではトラックを輸送の主軸にすえていない。日本の道路網が貧弱なことを知っていたから。
本州の鉄道を壊し過ぎたときのことを心配して大量の機関車を用意していたが、DD12以外はフィリピンや中東に送ってしまった。
沖縄は島だからやむをえないし、沖縄の騒ぎを本州で繰り返してなどいない。 そいや京都原爆投下計画では、梅小路が目標地点だったそうだな。 >>461
米軍は戦争前に日本各地の地図を入手してたんじゃなかった?
たしか米軍の記録フィルムで日本の主要都市地図を広げて、爆撃目標の検討シーンが在ったような。
都市の地図くらい、戦争前から入手は簡単だろうし。
大阪の爆撃地周辺を調べると、これらの駅近く、隣接に軍主要施設、大手工場などが在るから、
狙うなら身近なランドマークを目標に投下したんじゃないかと。 >>467
京都に原爆が落とされていたなら、梅小路が原爆記念館になったんだな。
後世にはガクブルだな。 と発達障害者(チビ、ブサイク、知的障害者)が申しております と発達障害者(チビ、ブサイク、知的障害者)が申しております >469
467だけど実家がその近所なので、実現してたら
オレはこの世にいないよ。 旧白山駅
絵葉書の鉄道本で立派な駅舎は確認できました。
機関区は・・・。
私鉄の機関区ということで木次機関区に似ていると思えばいいのかな。
白山機関区、校庭になっているのなら発掘すれば転車台のピットなど出てきそうな気がする。
全国で唯一、24m転車台を装備してた岡山機関区だろう。
昭和24年竣工して、昭和45年頃に終る。 >>479
新津機関区の転車代は残ってる。
14線のラウンドハウスは解体され、新しく3線のラウンドハウスが建てられた。 東能代機関区転車台が残っている
SL運転があれば使用される そう云えば、諏訪にも、かなり昔にはあったんだよなぁ そういえば、もともと「電鉄」だった飯田線の車両基地はなぜ揃いも揃って「機関区」だったんでしょうか? >>144
超絶亀レスだが高崎第一所属のキハ35は「高タカ一」だったぞ
あと、富山第一所属だった気動車だけでなく、72系電車も「金トヤ一」だった
写真など撮ってないのが残念だがこれは自信を持って言える >>488
機関車の配置があったからじゃないの?
国鉄内部の力関係は圧倒的に機関車(機関士)のほうが強かったみたいだよ。電車(運転手)の発言力は小さかった。 >>489
あなたが正しい。そもそも気動車が機関区所属の場合、
当時第一第二と分かれていた機関区はどこも第一が蒸機・DL、
第二がELなんだから、(免許資格と運用上、それが合理的)
高崎なら当然高一なわけで、電略タカとあわせ高タカ一となる。
高タカ二の気動車が存在するわけがない。
飯田線の電車が機関区所属なのは、ほとんどのEL機関士が兼任
(EC&EL)乗務していたのでわざわざ分ける必要がなかった。
(兼務資格のある人間が優先配置されていたし、それを該当地区の国労が
文句言わなかった。一方で、管理側ももちつもたれつで飯田線管理所
みたいな統合をしないで細かい機関区を存続させ
肩書き昇給時の受け皿を残した。) すみません
門司港機関区がなくなったのはいつのことですか?
いろいろググりましたがわかりません
お願いします >>492
1984年(昭和59年)4月1日 : 門司港、若松、行橋の各機関区を門司機関区に統合 ありがとうございます。
たしかにwikipediaではそうでしたが
こんなスレだから、詳しい人がいるのかなと思いまして・・ >>494
既に解決済みと思いますが、乗務員区としてではなく機関車在籍区としては昭和38年度が最後のようです
(翌年昭和39年、1964年4月1日付けの動力車配置表上記載なし)。
昭和38年4月1日現在の同区配置車は、
C5924△ 25△ (いずれも同年11月5日付け廃車)
C1110 29 36 49 95 125 131 365
(10は翌年4月1日現在 竜華区、残りは全て門司区に年度内に移動 時期不明)
乗務員は門司区のSL・DL・EL乗務を継続したものと思われます。
(高島貨物線の横浜区の乗務員が新鶴見区のD51や品川区のDD13に乗務したのと同様)
当時は合理化運動の草創期で、文句のでない機械を集約管理することが本格化した時期でした。
労組がうるさくない地域では××線管理所とか運転区といった組織集約化自体も始まった時代です。 >>495
あなたのレスで解決しました。ご回答ありがとうございました。 >>489
ガキの頃田舎に行くとき北陸線で「金トヤ一」と書いてある車輌をみて
「"とや〜"とは何だ?トヤは富山だろうが何故伸ばすんだ?」と思ったものだw 区名札に憧れたなあ。特に蒸機の所属区の
晩年はそれすら入ってないカマも多かったけど。
南九州の主要機関区のカマに入っていた砲金製のものなんか >>498
471系電車は北陸線投入時は金ツル二所属でしたね ED16のねぐらだった立川機関区
今やあとかたもないのを通り越して
そんなものがあった形跡すら見当たらない >>505
柘植の支区が完全に廃止になったのって、京都電車区に移行して結構経ってからだな。 国府津駅よく通るけど、痕跡皆無だね
(´;ω;`)ブワッ 柘植支区(転車台方面のレール)って今は完全に剥がされてるけど、剥がされたのっていつ?
昭和末期か平成初期くらいまでは、逆に完全に残ってた記憶があるんだけど(入信も全部点いてた)。 >>507
首都高速も走ってないし、そごうのような高層ビルもまったくない。
東口出ると昭和45年頃でも崎陽軒と郵便局とスカイビルしかなかった。
あと、15は高島区と横浜区は別みたいなこといってるが、
高島区は昭和22年に名称変更で横浜区になった。
また、末期は機関車配置はなかったが、昭和40年代前半までは
入換や小運転用に8620やC56が配置されていた。区名札は横
その後、入換が新鶴見区のDD13に変更されて乗務員区になった。
横浜駅東口のみなとみらい地区には
横浜機関区と高島駅(同操車場)と表高島貨物駅と東横浜貨物駅と
三菱造船のドックぐらいしかなかった。 長町機関区
長町駅旧駅舎時代は75大集結だったのに…。
今や高架化で完全に消えたよ…。 EC運転士は第二機関区に配置されてたけど、第一機関区にEC運転士が配置されてたとこってあったんだろうか? 第一・第二といっても、電蒸分離となかぎらんし。
名古屋、姫路、広島。 小淵沢にも甲府機関区(?)の支区があった。
しかし八王子が64の拠点とか、時代を感じるね。
東線の64の基地といえば甲府を置いて他になかったんだけど。
国府津・甲府・水上は電気の老舗機関区。 旅客鉄道各社からは機関区が消えたな。
JRからは機関士が消えたな。 >>521
そのようで。
てっきり支区かと思ってた。 >>524
あそこの駐泊所、いい雰囲気だったなあ。炭台もあって転車台もあって。
小さな詰所も・・・。
小海線の撮影を終えて上りの急行「アルプス」に乗りながら窓を開けると
一仕事終えてきたC56がのんびり休んでいるのをスナップできたっけ。
あるときは2両もいたな。ダイヤの関係だろうか しかし電気機関車やディーゼル機関車を運転士が運転しているのはわかるが、蒸気機関車を運転している人の職名が運転士というのは何か間違っている
機関助手の仕事は今では運転士がやっているが、職名が運転助手じゃシャレにならん 明治時代に日本鉄道の機関助士たちが、当時の「火夫」という職名を改める要求を掲げ
ストライキかなんかをしたという話を思い出した。 蒸機時代の機関区、あちこち行ったなあ。みなさん親切だった。
数十両配置の大機関区もよし、数両のこじんまりとした機関区もまたよし。
かつては幹線の大機関区で大型機がたくさん配置していたが、電化は DL化などで
支線用の数量だけになってしまっていたところはなんかわびしかったけど。 機関区だけでなく、駅員も保線区員も踏切手も操車掛もみんな親切でやさしかった
子供だったせいもあるんだろうが
ただ、東北のひとのなまりがえげつなくてほとんど会話にならなかった覚えがある >>529
私には「んだ」しかわからなかった津軽弁 >>529
手作りのガリ版刷りの配置表とか「機関車の動くまで」のイラスト入り手書きの紙とか、ヘルメットをかぶり裏に「運転士」とか描かれていたお古の腕章を付けると
いっぱし区員になったつもりになったよね。
「おい坊主、運転室に乗って石炭くべてみるか?」とか言われたり。 >>530
蒸機末期は新左翼が労組に入ってきて反合闘争とかで内ゲバやったり、
構内をシュプレヒコールしながらデモしたり、助役に暴行したり
カマにスプレーで書きなぐったり
していたからあまりいい覚えがない >>534
たしか、まったく無いはず。
転車台は本牧に移転、D51と一緒に展示されてるが。
あの機関区が総撤去されたのは、たしか1986年(昭和61年)以降じゃなかったかな?
1985年(昭和60年)には機関区の横(1号線)から扇形庫を覗き込んだことがあるが、
既に扇形庫の中は線路がところどころ剥がされていた記憶がある。
まだスカイビルの展望レストランも在ったな。 横浜機関区廃止後、機関区付近で解体準備中の大量のDD51を発見!
眺めていたら、解体業者さんから250万円で買わないか?と持ちかけられたのはいい思い出。
輸送料別だけど、といわれたので断念。 素人相手に随分と吹っ掛けたられたな。
国鉄末期だったら電車が20万円そこそこ、機関車でも20万円からだったな。
それでも買い手がさほど居なかったのは、輸送費が本体代を遥に超えてる為、
置いておく敷地が無いなどだった。 「場所と輸送料があれば蒸気機関車がもらえる。タンク機なら置けるかな?」と言ってたジイ様を思い出した。
結局、デフを切り取った鉄板に取っ手を付けてもらった「鉄板焼き用鉄板」だけが家に来た。
今でも納屋にあるはず。 >>538
昭和46年47年頃だったかな?国鉄が廃車になった蒸気機関車を無償(タダ)であげると新聞で広告打っていた覚えが。
ただし運搬費用は実費と記載されていた覚えが。
解体費用をかけるより、無償で引取って貰える方が良いみたいなことが書いてあったような。
どれだけ応募があったか判らないが、ここ30年位の保存歴を某HPで見ると、そんなに引取手が居なかったんだろう。 >>537
確か、コンテナは一時期タダだった気がする。
でも、やはり輸送費はかなりかかるので、躊躇する人間が多かったとか。
(一般で倉庫や物置小屋として使われたのを見たことがある。
確か、当時陸送20qで8万円とか何とかと、雑誌で見た。) >>543
コンテナを購入した学校があって、その中で生徒が熱射病で亡くなってしまうという痛ましい事故もありましたね スレチだし前にもどこかに書いたけど、33年前のある日、
西鹿児島の駅前に「引越は国鉄コンテナで」と書かれたコンテナの現物が置いてあった。
昼間に見に行くと、扉が開いていて、中で職員が引っ越しの受付をしていた。
年度末で入学・就職・人事異動のシーズンだったのだ。 >>545
あのコンテナは、九州各地を巡回して営業してたんだよ。 高島機関区の跡地から出てきた車輪が今もオブジェとしてみなとみらいの道路に置かれていますね。 >>549
あの車輪、関東大震災時の被災車輌一部。 >>543
空のコンテナ輸送運賃20`で8万はぼったくりだな
現在なら一般貨物で運賃8万貰おうと思ったら大型で最低500`は走らんとあかん 稲沢はなんで愛知機関区なんて名前になっちゃったんだろう きっと区名札を「愛」にしたかった奴が当時の担当幹部に居たんだよ
直江好きかは知らんけど あれだけの規模だった高島機関区だから、みなとみらいになった今もレールの1本くらい残ってないのかな?
同じ神奈川県の大船と藤沢の間にあった貨物の施設も跡形もない。 高島高島ってしつこい奴がいるが、
高島機関区は昭和22年の時点で改称して横浜機関区になってる
あと、横浜機関区自体の規模は決して大きくはない
操車場がでかいだけ
レールが残ってないのかとかくだらん質問を繰り返す馬鹿
みなとみらい地区に実際いってみろ、もしくはグーグルマップでも見ろ
東海道本線の貨物線が東高島方面から地下くぐって(このトンネル出入口
付近に昔の高島貨物駅の上屋ホームがあった)桜木町に抜けてる以外は
鉄道の痕跡は皆無
高島機関区は高島貨物駅とは隣接してるが別地区、高島操車場はまた別
っていうか再開発の時代すら知らない奴にいってもしかたないな まあ良いじゃねえか、本人は必死に探そうとしてるみたいだし。
横浜機関区の忘れ形見は本牧公園に移設された転車台位じゃないか?
後は無いだろ。 >>555
ただ、乗務員と車両を分けたとき 乗務員区に 稲沢を取られただけでは やっぱり末期の竜華に一票。
ED60、EF15、EF58、DD13。
3942446699139147170、呪文のように今でも言える。 あの辺で昔のレールが残っているとしたら新興地区くらいじゃないか? >>544
風の子学園のC20の事?
あれは事故ではなく事件
わざとコンテナの中に放り込んだからあんな事になった
Wikipediaによると現場のコンテナはまだそのまま置いてあるらしい >>518
名古屋第一・姫路第一はともかく、広島機関区にもECウテシ配置されてたの? 勝浦機関区の運転区化後、木原線はそのまま勝浦運転区が担当していたのかな? 竜華の近所の食堂に鉄チャンの大将がおって
いろんな機関車の写真とかを店内に貼り出してたなあ
機関区の職員の皆さんも食事に来てたのかな 鳥取機関区、後に、西鳥取運転区、今は鳥取鉄道部になった。
米トリ 西武の所沢にあったのは、機関区ではなく検車区だった。 大手私鉄最後の機関区は東武
杉戸(既出)、坂戸、館林
杉戸の建屋も区画整理のため遂に解体された
坂戸は相変わらず保線関係の機材置場?
館林は電車の更新改造作業場 竜華機関区の動画あるよ。ただしテロップの撮影地点が怪しい。
http://youtu.be/77B-qo-FN3E 竜華は入れ替えに控車を使ってたよな。機関車の前につなげてそこへ操車係が
乗って誘導していた。機関車のデッキにぶら下がるんじゃんなくて安全でよかったね。
ロヒ(ロは4分の1倍角)だけど制式なのかな? 「ヒ」控車に65km/h制限の 特殊標記符号「ロ」を冠したんだ。同時に側面に黄色い帯をペイントするルールもある。
制式だよ。 >>573
阪和貨物線から関西線への渡り線の位置を竜華(信)としてる。ちよっと混乱するね。
阪和から関西線下りをこえて上り発着線(城東貨物線側)へ、電機機関車が貨物列車を引き込んだ時期は短いはず。
ちよっと珍しく思いました。 横浜みなとみらいに空き地多いけど、どっかに線路残ってないのかな? 酒田機関区の【酒】標記の区名札が妙に格好良く感じてた
ひと頃はEF81の一大拠点だったよな 蒸気時代は扇形庫など格納庫に納めたってイメージなんだけれど(全部では無いだろうが)
電気は基本野ざらしで、あまり丁寧な扱いを受けていないイメージ
俺が無知なだけで、古典電気など蒸気全盛時代はちゃんと格納してたのかな?
扇形庫は格納目的というより、出庫時方転の必要性ゆえの効率化が主で、格納は二の次? 電機は扇形庫には入れないんじゃないかな。扇形庫は蒸気の方転が楽だからああなってるわけで
そもそも庫内や転車台に架線を張るのは難しいし、電機は側があるから雨ざらしでも困らない
蒸気は保火作業の必要があるから屋根がある方が都合がいいんじゃないかね SL末期の沼津機関区は、電機が転車台の上をスルーできるよう架線が張ってあった
さすがに扇形庫内までは張ってなかったと記憶、↑な転車台って珍しくなかったのかな >>583
こんな感じで?
ttp://omoidenoshasoukara.web.fc2.com/maibara/d50200.jpg
ttp://omoidenoshasoukara.web.fc2.com/maibara/d51501658383.jpg
ttp://omoidenoshasoukara.web.fc2.com/maibara/ef65.jpg
ttp://homepage1.nifty.com/naro/rail/dd50/dd50_02.jpg 今じゃ想像付かないが武蔵五日市に機関区あったんだっけ? >>585
最初と最後の写真は米原ですね。
2枚目はどこでしょう?
3枚目は吹田第一?
SL全廃後の奈良と竜華の扇形庫には
EF52が入ってましたね。 >>588
1-3枚目はURLにmaibaraとあるので4枚とも米原では? >>589
確かに(笑)
しかし2枚目の写真はD51ばかりで
D50やE10のイメージとは違うね。 伊那松島みたいに
電車が常駐していた機関区てどんくらいあったのかな 豊橋区・同中部天竜支区が伊那松島区と同じ性格で長期配置
変わったところ(暫定的含む)では、敦賀第二区・岡山区・長岡第二区・沼津区(冨士電車区からの移管)・
富山第一区城川原派出所(富山運輸区の改組)あたり
機関区は基本機関車の配置なので電車導入となると運転所(区)や電車区への配置がほとんど
DCだとローカル線では乗務員兼用のかねあいもあって機関区のままの場合が結構あるが、
客車は暖房車以外は配置実績はないようだ(運用からして当然か)
逆に電車区への蒸気配置だと大垣、気動車区だと四国各所その他があるが
さすがに客車区への蒸気配置はない
飯田線関連は何故飯田線管理所や運転区に改組しなかったのか不可解、私鉄買収路線なので放置されてたのかも 地元の図書館に『国鉄「東京機関区」に生きた』という写真集があったので借りてきた
内部的な写真が多くて興味深い内容だった
定年退職する乗務員が最後に東京に着いたブルートレイン牽引の機関車を品川操車区まで「お別れ乗務」したりしていたらしい >>593
労働運動的な側面に結構スポットがあたってたね
その本 >>592
DCはむしろ機関区配置の方がそれ以外より多いよね
S40〜50年代の頃にDCが配置されてた機関区って北海道だけでも稚内、名寄、遠軽、旭川、深川、池田、釧路、苗穂、苫小牧、室蘭、倶知安、長万部、函館とこんなにある(なんか漏らしてるかも)
全国書こうかと思ったけどあまりに数が多すぎてやめたw >>594
俺もそれ見た
今までなかなかそういう本はなかったから面白かった
メーデーの時の写真のEF65の形のプラカードがかっこ良かった トレマ付けた66と65ずらりと並んでいた東京機関区が跡形も無しか・・ 品川駅の暗くじめじめした長い地下道をわたって港南口にでる
と左手バス乗り場手前に常盤軒の立ち食いそば、
品川丼を食べてから
屠場からただよう枝肉や臓物のにおいから逃げるように
そこから線路沿いに歩くと下水処理場つきあたりが
品川機関区と品川客車区の入口、
DD13が停留してる脇をずんずん奥にいくと
新幹線の高架の先に田町電車区と東京機関区の入口
EF65・EF58、たまにEF10やEF15
どれもありふれていて、新鶴見が地元の俺にはあまり魅力なかった 25年前、古本屋に並んでた「鉄道ファン」誌で一番古い一冊(キハ181が表紙)をめくったら、追分機関区の記事が出ていて呆気にとられた。
赤字の中、新品が真っ先に廃車って…。 昔の大宮機関区蒸気機関車は、白地に赤で『大』だった。
また、厚狭機関区は、グニャリと曲がった『厚』 >>601
たしか「厚」の「子」の部分がぐにゃっと曲がった感じで…。
象形文字のような 厚狭に緑ナンバーのD51がいたなあ、あと門鉄デフ装備D1で唯一保存されているD51272号も(昭和47年頃) 昔、篠栗線・勝田線を走った、C11
香椎機関区、吉塚機関支区 『塚』 吉塚区は直方区西戸崎支区と統合して香椎区になった
香椎区吉塚支区というのは存在しない そうだったな?しかし、西戸崎が直方機関区の
支区とは初耳だったね。 青森区や盛岡区に第二機関区が無かったのは不思議だったな。
結構な規模なのに。
仙台地区は旅客の仙台区、貨物の長町区に分かれていたからなおさら。
青森第二機関区:区名札「青二」
などという声優ネタをやるつもりは無いが。 >>597
赤い76と75に銀の81と30が並ぶ
門司機関区も懐かしいですね。 消えた機関区は良いスレッドですね。
蒸気機関車の場合、形式によって、機関区・運転所・運転区と言われる所に配属されて良い形式、悪い形式がある。
例えばC11は運転所と言われる所に配属されても何とも思わないけど。
会津若松が良い例ですが
D51は、運転所と言われる所に配属されていると違和感がある。例えば、長野・下関が。
話がずれて悪かった。
山口では、奇妙な名前の機関区があった。
正明市機関区、後の長門機関区
機関支区かどうか判らぬが、宇部港駐泊所
厚狭機関区の支区?、宇部港・宇部線、小野田線の専門区?
山口線のD51で山口線管理所があった。奇妙ですね。 >>609
C11は電車区配置もあると前にどこかで聞いた気がするが気のせい? 昔、広島には、広島第一機関区と広島第二機関区があったという。
広島第一は、山陽本線の貨物専門区で、広島第二は、山陽本線の旅客専門区並びに、呉線・可部線・芸備線の担当であったという。
広島第二機関区は、機関支区に毛の生えた位の規模しかない。 C11が電車区配属は、見た事もなければ聞いた事もない。
それを言うならば、C12でしょう、 加古川気動車区。 蒸気機関車の場合
貨物専門区と旅客専門区の色分けが厳格な程明確だったらしい。
例えば、直方は貨物、若松は旅客
鹿児島は旅客、出水は貨物
下関は旅客、小郡は貨物
米子は旅客、鳥取は貨物
変わった例としては
豊岡は山陰専門、その支区の和田山は、播但線専門と言う様に。 福知山機関区のD51は
区名札入れの横に、仕業番号札を入れた。
『福』の横に、『37』とか。 福知山機関区のD51は
区名札入れの横に、仕業番号札を入れた。
『福』の横に、『37』とか。 小海線のC56、中込機関区
『込』の横に、行路列車番号が書かれた札があった。また、行路の箱ダイヤが書かれいた。 大分鉄道管理局は、機関区が四つしかない。
大分・柳ヶ浦・豊後森・南延岡 >>612
現在一番SLとは縁のなさそうな会社の区所にいたみたいですね
大垣電車区に6輛在籍していた模様
ttp://d51791.com/pg26oogaki.html
ttp://d51498.com/db/C11/C11155
ttp://d51498.com/db/C11/C11296 D51で石灰石を輸送する機関区は
新見・厚狭・門司がある。
厚狭機関区のD51は、白く汚れていた。
石灰石を頻繁に輸送する割りに、門司機関区のD51は、綺麗だったらしい。 >>612
618の言うように
樽見線のC11は大垣電車区だよ。
重連の運用もあり
青ナンバーで異彩を放っていた。 抽出ID:8l4jEBq2 (9回)
ウソがすぐわかる知ったかは大変だね。 会津若松は、運転区でしたか、失礼しました。
会津若松運転区には、磐越西線管理所があった。
C11は運転区、D51は管理所に棲み分けか。 いや、磐西線管理所と会津線管理所が発展的解消・統合で会津若松運転区に組織替えしたんだっての
それと、磐西線管理所にも日中線用のC11・C12配置されてたから 昔、木次線のC56で
備後十日市機関区があった、後の、三次機関区、そして、三次運転区か。
九州では、佐賀機関区があった。佐賀線の9600を担当していた。
39640とか。 ID:8l4jEBq2のレスはどれが正しくてどれが間違ってるのかよく分からないや
みんな訂正よろ
正明市機関区のどこが奇妙な名前なんだろ?
あと、>>612も分からない
何故電車区配置の話なのに気動車区配置の話にすり替えるのか 昔、鳥栖機関区には、D60が来ていた。
直方と大分のD60です。
同じD60でも番号から言って、直方の車か大分の車かがあった。
則ち、25〜28は、直方の
61〜65は、大分のと言う様に。 正明市は、長門市正明市と言う地名であった。
だから、長門市駅、長門機関区があった。失礼しました。 ネットや本に書いてることをただ適用に書き込んでるだけ >>628
>同じD60でも番号から言って、直方の車か大分の車かがあった
これは
同じD60でも番号で直方の車か大分の車か分かった
とでも書きたかったのか?
>>629
>正明市は、長門市正明市と言う地名であった
またいい加減なことを書く
長門市駅の住所は長門市東深川駅前
長門市正明市なんて地名もない
あるのは長門市東深川正明市 正明市駅→長門市駅(改称)
正明市区→長門区(何故、長門市区にしなかったかは奇妙といえば奇妙) D6064は直方にもいたことがある
D60自体配置区が限られていたから多少の連番があっても当然
特に九州は蒸気末期は域内だけでの移動も頻繁にあったから
機番で必ず配置区が決まるorわかるわけではない >>627
> みんな訂正よろ
自覚のないバカの相手はしないこと。 >>634
こういうのが後から参照されて嘘がばらまかれるんだよ
いい迷惑だ >>635
だから抽出ID:8l4jEBq2 (9回)や抽出ID:lftCSePt (4回)みたいな馬鹿は最初から
透明あぼーんして相手しなければいいんだよ。 >>627
>ID:8l4jEBq2のレスはどれが正しくてどれが間違ってるのかよく分からないや
>みんな訂正よろ
バカの相手はしないこと。2ちゃんねるで嘘も減ったくれもあるか。
D:+5lLHVIYも「九州電機大好き」なるバカと同類だな。 結局自分の主張だけして人の言うことには耳を貸さない人なのか 自覚がないとか言ってるが、本人は謝ったり訂正したりしてるところみると
単に勘違いか思いこみしてるだけで別にバカでもなきゃアラシでもないだろ
指摘することで当人も第三者も何が事実か知ることになる
相手しなくていいなら、そもそもそういう連中だらけの2chan見ないのが一番 >>640
>単に勘違いか思いこみしてるだけで別にバカでもなきゃアラシでもないだろ
勘違いや思いこみしてる時点で問題なんだよ。
「九州電機大好き」の名前掲げての書き込みが何時から続いて、どのような
内容なのかは懐かし板の連中はとっくに承知済みで誰も相手してないのよ。 あまり知られていませんが
吹一の風呂は釜で沸かしたお湯
吹二は夜間の余剰電力で沸かした電気風呂でした。
吹一のお湯はちょっと赤錆色でしたが湯冷めのしないいいお湯でした。 >>645
その釜はD51?9600?
詳しく教えて
各地の機関区で休車のSLが
ボイラー代用で使われていたよね。 八王子は切ないな…本線から離れた所に在る貨物の詰所が… 名古屋第一機関区・富山第一機関区所属の電車運転士が居たけど
第一機関区・第二機関区と分かれてる区所で第一機関区にも電車運転士が所属する例って珍しくないの? 富山は富山港線の城川原車庫が一区の派出所だったから 国府津の扇形庫は、たしか日本で二番目の鉄筋コンクリート製の建物だった。 歴史上最も大きな扇形庫(変換しねぇ)って、
どのくらいなの?
盛岡機関区とか40線くらいあったと聞いた気がするけど。 扇形庫がふたつ並んでいたというところもけっこうあったよね。
晩年はたいていは一個はつぶして電気機関車庫になったりしていたけど。
昭和47年頃の小郡機関区は一個は残っていたもう一個の方はラウンドハウスはなくなっていたけど扇形の留置線としてスペースは残っていたような気がする。
C621が扇形庫に保管されたていた頃 国鉄蒸気機関車156機関区全図鑑
勝手に機関区の歴史を変えてしまったクズ本 >>662
内容が薄いのはともかく嘘を書いてるのはダメだな
よく出版元が出版したと思うが、最近はあんなものなのか
まあ、いい死に方はしないだろう ☆一つさらに追加。
間違い多くてもはや自主回収レベル。
消えた機関区もうかばれない。 西尾克三郎氏の写真で宮原機関区で撮影されたのが多く何処にあるのかわからなかった。駅名にもないし邪馬台国みたいに思ってた。 俺は品川機関区がどこにあるのかわからなかった
向坂唯雄氏の著書に、東京機関区の機関士に品川機関区の場所を聞かれて頭に来た、とう描写があった。 何気なく地図を見てたら新大阪に宮原の地名が、東海道線の塚本〜尼崎間の引き込み線と合わせて一気に氷解した。今は操車場だけど 吹田の扇状庫はかなり大きかった。バームクーヘンを1/3ほど切った残り位かな、奈良の扇状庫と合わせると丁度一個分か?つまらんことを言ってしまった 品川の長いトンネル通路をくぐりしょぼい港南口の改札口をでて左手すぐの立ち食いそば常盤軒の横を過ぎバス折返し所の先で左に曲がって線路沿いにまっすぐ歩くとつきあたりに品川機関区の入口があってDD13が所在なさそうに佇んでいた 品川機関区は新幹線より海側だったかな? 白いEF81が一時期居たよ
コンテナホームやワム80000が出入りしていた倉庫?もあった。 九州の機関区の一部では入場できる日や時間が制限されてた。死亡事故があったからだが何とバッタを追いかけていて事故ったとのこと、迷惑千万! 死亡事故は昭和44〜45年頃だと思います、それまでは自由に入れたみたい。門司、若松、直方が対象、他にもあったかも 北見機関区、短期間ですが3両のDD51が配置されてました。 内郷機関区で思い出した
門司から81ー301.302が転属した時に30がローズピンクに塗り替えられたって鉄道雑誌で読んだ事がある >>674
直方区の撮影制限は'70/8/1〜毎週金曜の14〜15時限定
ふざけんなよ、と当時思った覚えがある
門司区は木曜の13〜14時限定
若松区は木曜の13〜16時限定
行橋区は木曜の09〜17時限定
これ老人か無職でなきゃ行けないだろと
後藤寺区は土曜の13〜17時限定 やはりカネとヒマがないと嗜むことが出来ない趣味なのね、鉄の道は。 同じ九州内でも門鉄以外の管理局では機関区の立ち入りに関してはまちまちだったよね。九州総局まとめてっていうわけでもなかったといいうより、門鉄管内の区の方が訪問者も多かったのだろうか。 >>679
注意不足の事故で死んだやつのせい
だいたい他でも人吉とか立入禁止になったとこはそれが原因 >>681
なにをもって大規模というかを定義しないとなんとも 名古屋・富山は第一・第二どちらにも電車運転士が所属してるけど
富山第一は本線の電車運転士も担当してたんだろうか?
それとも(城川原)富山港線限定?
名古屋・富山以外で第一機関区に電車運転士が所属してたところってあるんだろうか? 沼津機関区
今は沼津運輸区なんて名前になってるけど 今は亡き、広島機関区は転車台二基、扇形機関庫二棟だったな。
今のマツダ広島球場が在る場所が第一だった場所のはず。 東海道・山陽の機関区でEC運転士配置があったのって
国府津・沼津・名古屋第一/第二・姫路・糸崎・広島だけかな? 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
トランプジョーカー切り(創価大学消防庁コストカットアイドルマスターパイナップル株式会社)30代好評人気連載漫画「ヒカルの碁お前ら何やシャンプーあかねらんま」
NHKトランプ大統領ニュース(ヤフージャパン上院社員特別生活費支給旅行沖縄汚染水スキンケアテレビ東京ギャンブル依存症顧問職員稲田籠池豊田
40代社会人集団ストーカー対策ーhondasouichirouー 横浜ロアナプラスペイン上西フライングファイアーウォーターサーバーダイビングドライブシュート川中
中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース ちょっとスレ違いになるが、機関庫の中に入る両数と配置数の関係で、なんらかの目安が
あったのだろうか?滝川機関区、岩見沢第一機関区、宮崎機関区、浜田機関区などは、あまり
庫は大きくなかったように思うが >>687
むろんタワマン建ててボロ儲けを企むデペロッパーがじっと狙ってます 電化直前の呉線を訪ねた時に広島機関区にも行ったが扇状庫はもう無かった。昼に糸崎行きが一本あったが朝夕に運用が集中していて機関車は昼寝?していた。 配置両数と機関庫にまったく関連性がないことはないだろうが
庫内に収容するメインの目的は検修や補修なわけで、ひっきりなしに入出区する仕業がたてこんでれば別に機関庫内にいれるより側線待機のほうがはるかに手間がかからない
他区の駐機はほとんど庫外だったのもそれが理由
まあ輌数おおければ、点検もそれだけ増えるから屋根付き収容キャパは多いほうがいいのは確か
両数が多いから扇形庫というわけでもないし、そもそも岩見沢第一区の扇形庫が大きくないというならほとんどの機関区の扇形庫は大きくない
宮崎区はもともと配置両数は最盛期でも20数機であの矩形庫で十分、
浜田も昔からの煉瓦造りの糸魚川庫に似た三線庫だが、それなりに大きかった 向日町とか野洲って運転所や電車区を名乗ってるけど乗務員無配置だったんだっけ?
雑誌の記事で見たところ
静岡運転所は本区と旅客派出が分かれていて受け持ち列車が違っていたとか
国鉄の運転局・運転部の気風を調べるとより面白そうだな 運転所や電車区はトピずれ
運転所や電車区は機関区の敵 機関区によっては乗務車種で班を特に区切ってなかったなんて話があったなぁ
ただ機関車に乗れない人は転換養成やって改めて機関士兼任にしてたとか 東北山線利府駅も機関区ではないけども、
松島方面(利府丘陵)へ押していく機関車が
待機していたはずだが?
新幹線利府基地ができて、往年の蒸気機関車・
電気機関車が保存されている。 そうだね。一戸機関区あったんだね。はつかり号が電車化しても、あの御堂奥中山間にある十三本木峠越えはモーター車うなりあげて走ってたね。蒸気機関車の時代はすごく大変だったろうね。 和田山にはまだレンガ造りの機関庫が残っているようだけど、別の施設に転用するのかねぇ? 旅客会社に継承される機関区を運転区・運転所に改めた理由ってなんだっけ?
動労とは表面上は関係良好だったはず 東京機関区。
EF58やEF15が写った写真はさすがに古っと思うが。
トレインマークをつけた65、66の面々が並ぶ姿には違和感がない。
おっちゃんになった。 2000年頃、金網に囲われてない旧札の辻橋の上から中判で長時間露光のリバーサル撮った。
出入りする機関車の片尾灯の光跡や、京浜東北線にまだ残っていた103系の1本筋。
そして、夜景の色そのものが違っていた。 豊後森はそこそこの街並み
10年前に泊まったビジネスホテルの次回割引券がまだあったりして 池田機関区はDD51やDD16の大量疎開留置があったよな >>707
確かに謎ですネ
61-11で[高一][高二]が[高運][高機]になった時はナンジャコリャと思ったものです そういや無人駅で車掌に切符渡しそびれた客が機関士に直接切符や現金渡されたときはどうしてたんだろ
無線や連絡電話で車掌呼び出して車掌が適正額収受? 信越本線の機関区としては、横川と新津どちらが有名?
どちらにも歴史があって鉄道資料館がある どっちが有名かと言えば有名なのは横川じゃないかな
配置されていた車両も特殊だから 田端運転所が車両配置のない乗務員区になり
尾久車両センター配置の機関車となり「尾」表記が復活とな 姫路第二機関区庁舎が組織変更で姫路列車区庁舎か
ここでは国鉄時代からあるホーム乗継詰所の話題はスレチ? 茅ヶ崎機関区
蒸気時代からあった転車台や屋根が高かった研修庫
北茅ヶ崎駅や東洋陶器、プライブリコ、東洋カーボンなどの専用線からの貨物留置線
詰め所に挨拶すれば構内自由に撮影OKだった
あとは局報、電報もみ放題で余分にあった東海道、相模線、なぜか横浜線の
ダイヤグラムまでもらえた 管理局発行の機関車運用込みのダイヤとかタダで貰えたりしたとこがあったな
子供だから言い出しづらくて今思えばもっと貰えばよかった なんつっても、立川機関区だな
西国立駅の東側に隣接してあったんだ・・・
ED16が全機、ここに集まっていたなんてなぁ
もっと一生懸命に記録しておけばよかったと
何十年たっても悔やんでいる 機関区は一応連絡ノートみたいのに住所氏名書かなかったっけ
それ引き換えで腕章を借りてたような覚えがある 本人確認書類、、なんてヤボなことはなかったんだろうな 本人確認書類チェックはなかった。
手荷物確認も無かった。
検温だのマスク着用なんかも無かった。 逆
現代のほうが度を越して五月蝿い時代になってるだけ
コンプラガー マナーガーとか 俺のときは便宜なかったガーとか
今はそんなんばっかり \(* ̄□\) ̄□\) ̄□\))))オォ~ット!! 都会に立地していた機関区跡は再開発の格好の場所
不動産屋が暗躍してたんだろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています