消えた機関区
稚内から鹿児島まで主要な駅には機関区があったよね。 >>494
既に解決済みと思いますが、乗務員区としてではなく機関車在籍区としては昭和38年度が最後のようです
(翌年昭和39年、1964年4月1日付けの動力車配置表上記載なし)。
昭和38年4月1日現在の同区配置車は、
C5924△ 25△ (いずれも同年11月5日付け廃車)
C1110 29 36 49 95 125 131 365
(10は翌年4月1日現在 竜華区、残りは全て門司区に年度内に移動 時期不明)
乗務員は門司区のSL・DL・EL乗務を継続したものと思われます。
(高島貨物線の横浜区の乗務員が新鶴見区のD51や品川区のDD13に乗務したのと同様)
当時は合理化運動の草創期で、文句のでない機械を集約管理することが本格化した時期でした。
労組がうるさくない地域では××線管理所とか運転区といった組織集約化自体も始まった時代です。 >>495
あなたのレスで解決しました。ご回答ありがとうございました。 >>489
ガキの頃田舎に行くとき北陸線で「金トヤ一」と書いてある車輌をみて
「"とや〜"とは何だ?トヤは富山だろうが何故伸ばすんだ?」と思ったものだw 区名札に憧れたなあ。特に蒸機の所属区の
晩年はそれすら入ってないカマも多かったけど。
南九州の主要機関区のカマに入っていた砲金製のものなんか >>498
471系電車は北陸線投入時は金ツル二所属でしたね ED16のねぐらだった立川機関区
今やあとかたもないのを通り越して
そんなものがあった形跡すら見当たらない >>505
柘植の支区が完全に廃止になったのって、京都電車区に移行して結構経ってからだな。 国府津駅よく通るけど、痕跡皆無だね
(´;ω;`)ブワッ 柘植支区(転車台方面のレール)って今は完全に剥がされてるけど、剥がされたのっていつ?
昭和末期か平成初期くらいまでは、逆に完全に残ってた記憶があるんだけど(入信も全部点いてた)。 >>507
首都高速も走ってないし、そごうのような高層ビルもまったくない。
東口出ると昭和45年頃でも崎陽軒と郵便局とスカイビルしかなかった。
あと、15は高島区と横浜区は別みたいなこといってるが、
高島区は昭和22年に名称変更で横浜区になった。
また、末期は機関車配置はなかったが、昭和40年代前半までは
入換や小運転用に8620やC56が配置されていた。区名札は横
その後、入換が新鶴見区のDD13に変更されて乗務員区になった。
横浜駅東口のみなとみらい地区には
横浜機関区と高島駅(同操車場)と表高島貨物駅と東横浜貨物駅と
三菱造船のドックぐらいしかなかった。 長町機関区
長町駅旧駅舎時代は75大集結だったのに…。
今や高架化で完全に消えたよ…。 EC運転士は第二機関区に配置されてたけど、第一機関区にEC運転士が配置されてたとこってあったんだろうか? 第一・第二といっても、電蒸分離となかぎらんし。
名古屋、姫路、広島。 小淵沢にも甲府機関区(?)の支区があった。
しかし八王子が64の拠点とか、時代を感じるね。
東線の64の基地といえば甲府を置いて他になかったんだけど。
国府津・甲府・水上は電気の老舗機関区。 旅客鉄道各社からは機関区が消えたな。
JRからは機関士が消えたな。 >>521
そのようで。
てっきり支区かと思ってた。 >>524
あそこの駐泊所、いい雰囲気だったなあ。炭台もあって転車台もあって。
小さな詰所も・・・。
小海線の撮影を終えて上りの急行「アルプス」に乗りながら窓を開けると
一仕事終えてきたC56がのんびり休んでいるのをスナップできたっけ。
あるときは2両もいたな。ダイヤの関係だろうか しかし電気機関車やディーゼル機関車を運転士が運転しているのはわかるが、蒸気機関車を運転している人の職名が運転士というのは何か間違っている
機関助手の仕事は今では運転士がやっているが、職名が運転助手じゃシャレにならん 明治時代に日本鉄道の機関助士たちが、当時の「火夫」という職名を改める要求を掲げ
ストライキかなんかをしたという話を思い出した。 蒸機時代の機関区、あちこち行ったなあ。みなさん親切だった。
数十両配置の大機関区もよし、数両のこじんまりとした機関区もまたよし。
かつては幹線の大機関区で大型機がたくさん配置していたが、電化は DL化などで
支線用の数量だけになってしまっていたところはなんかわびしかったけど。 機関区だけでなく、駅員も保線区員も踏切手も操車掛もみんな親切でやさしかった
子供だったせいもあるんだろうが
ただ、東北のひとのなまりがえげつなくてほとんど会話にならなかった覚えがある >>529
私には「んだ」しかわからなかった津軽弁 >>529
手作りのガリ版刷りの配置表とか「機関車の動くまで」のイラスト入り手書きの紙とか、ヘルメットをかぶり裏に「運転士」とか描かれていたお古の腕章を付けると
いっぱし区員になったつもりになったよね。
「おい坊主、運転室に乗って石炭くべてみるか?」とか言われたり。 >>530
蒸機末期は新左翼が労組に入ってきて反合闘争とかで内ゲバやったり、
構内をシュプレヒコールしながらデモしたり、助役に暴行したり
カマにスプレーで書きなぐったり
していたからあまりいい覚えがない >>534
たしか、まったく無いはず。
転車台は本牧に移転、D51と一緒に展示されてるが。
あの機関区が総撤去されたのは、たしか1986年(昭和61年)以降じゃなかったかな?
1985年(昭和60年)には機関区の横(1号線)から扇形庫を覗き込んだことがあるが、
既に扇形庫の中は線路がところどころ剥がされていた記憶がある。
まだスカイビルの展望レストランも在ったな。 横浜機関区廃止後、機関区付近で解体準備中の大量のDD51を発見!
眺めていたら、解体業者さんから250万円で買わないか?と持ちかけられたのはいい思い出。
輸送料別だけど、といわれたので断念。 素人相手に随分と吹っ掛けたられたな。
国鉄末期だったら電車が20万円そこそこ、機関車でも20万円からだったな。
それでも買い手がさほど居なかったのは、輸送費が本体代を遥に超えてる為、
置いておく敷地が無いなどだった。 「場所と輸送料があれば蒸気機関車がもらえる。タンク機なら置けるかな?」と言ってたジイ様を思い出した。
結局、デフを切り取った鉄板に取っ手を付けてもらった「鉄板焼き用鉄板」だけが家に来た。
今でも納屋にあるはず。 >>538
昭和46年47年頃だったかな?国鉄が廃車になった蒸気機関車を無償(タダ)であげると新聞で広告打っていた覚えが。
ただし運搬費用は実費と記載されていた覚えが。
解体費用をかけるより、無償で引取って貰える方が良いみたいなことが書いてあったような。
どれだけ応募があったか判らないが、ここ30年位の保存歴を某HPで見ると、そんなに引取手が居なかったんだろう。 >>537
確か、コンテナは一時期タダだった気がする。
でも、やはり輸送費はかなりかかるので、躊躇する人間が多かったとか。
(一般で倉庫や物置小屋として使われたのを見たことがある。
確か、当時陸送20qで8万円とか何とかと、雑誌で見た。) >>543
コンテナを購入した学校があって、その中で生徒が熱射病で亡くなってしまうという痛ましい事故もありましたね スレチだし前にもどこかに書いたけど、33年前のある日、
西鹿児島の駅前に「引越は国鉄コンテナで」と書かれたコンテナの現物が置いてあった。
昼間に見に行くと、扉が開いていて、中で職員が引っ越しの受付をしていた。
年度末で入学・就職・人事異動のシーズンだったのだ。 >>545
あのコンテナは、九州各地を巡回して営業してたんだよ。 高島機関区の跡地から出てきた車輪が今もオブジェとしてみなとみらいの道路に置かれていますね。 >>549
あの車輪、関東大震災時の被災車輌一部。 >>543
空のコンテナ輸送運賃20`で8万はぼったくりだな
現在なら一般貨物で運賃8万貰おうと思ったら大型で最低500`は走らんとあかん 稲沢はなんで愛知機関区なんて名前になっちゃったんだろう きっと区名札を「愛」にしたかった奴が当時の担当幹部に居たんだよ
直江好きかは知らんけど あれだけの規模だった高島機関区だから、みなとみらいになった今もレールの1本くらい残ってないのかな?
同じ神奈川県の大船と藤沢の間にあった貨物の施設も跡形もない。 高島高島ってしつこい奴がいるが、
高島機関区は昭和22年の時点で改称して横浜機関区になってる
あと、横浜機関区自体の規模は決して大きくはない
操車場がでかいだけ
レールが残ってないのかとかくだらん質問を繰り返す馬鹿
みなとみらい地区に実際いってみろ、もしくはグーグルマップでも見ろ
東海道本線の貨物線が東高島方面から地下くぐって(このトンネル出入口
付近に昔の高島貨物駅の上屋ホームがあった)桜木町に抜けてる以外は
鉄道の痕跡は皆無
高島機関区は高島貨物駅とは隣接してるが別地区、高島操車場はまた別
っていうか再開発の時代すら知らない奴にいってもしかたないな まあ良いじゃねえか、本人は必死に探そうとしてるみたいだし。
横浜機関区の忘れ形見は本牧公園に移設された転車台位じゃないか?
後は無いだろ。 >>555
ただ、乗務員と車両を分けたとき 乗務員区に 稲沢を取られただけでは やっぱり末期の竜華に一票。
ED60、EF15、EF58、DD13。
3942446699139147170、呪文のように今でも言える。 あの辺で昔のレールが残っているとしたら新興地区くらいじゃないか? >>544
風の子学園のC20の事?
あれは事故ではなく事件
わざとコンテナの中に放り込んだからあんな事になった
Wikipediaによると現場のコンテナはまだそのまま置いてあるらしい >>518
名古屋第一・姫路第一はともかく、広島機関区にもECウテシ配置されてたの? 勝浦機関区の運転区化後、木原線はそのまま勝浦運転区が担当していたのかな? 竜華の近所の食堂に鉄チャンの大将がおって
いろんな機関車の写真とかを店内に貼り出してたなあ
機関区の職員の皆さんも食事に来てたのかな 鳥取機関区、後に、西鳥取運転区、今は鳥取鉄道部になった。
米トリ 西武の所沢にあったのは、機関区ではなく検車区だった。 大手私鉄最後の機関区は東武
杉戸(既出)、坂戸、館林
杉戸の建屋も区画整理のため遂に解体された
坂戸は相変わらず保線関係の機材置場?
館林は電車の更新改造作業場 竜華機関区の動画あるよ。ただしテロップの撮影地点が怪しい。
http://youtu.be/77B-qo-FN3E 竜華は入れ替えに控車を使ってたよな。機関車の前につなげてそこへ操車係が
乗って誘導していた。機関車のデッキにぶら下がるんじゃんなくて安全でよかったね。
ロヒ(ロは4分の1倍角)だけど制式なのかな? 「ヒ」控車に65km/h制限の 特殊標記符号「ロ」を冠したんだ。同時に側面に黄色い帯をペイントするルールもある。
制式だよ。 >>573
阪和貨物線から関西線への渡り線の位置を竜華(信)としてる。ちよっと混乱するね。
阪和から関西線下りをこえて上り発着線(城東貨物線側)へ、電機機関車が貨物列車を引き込んだ時期は短いはず。
ちよっと珍しく思いました。 横浜みなとみらいに空き地多いけど、どっかに線路残ってないのかな? 酒田機関区の【酒】標記の区名札が妙に格好良く感じてた
ひと頃はEF81の一大拠点だったよな 蒸気時代は扇形庫など格納庫に納めたってイメージなんだけれど(全部では無いだろうが)
電気は基本野ざらしで、あまり丁寧な扱いを受けていないイメージ
俺が無知なだけで、古典電気など蒸気全盛時代はちゃんと格納してたのかな?
扇形庫は格納目的というより、出庫時方転の必要性ゆえの効率化が主で、格納は二の次? 電機は扇形庫には入れないんじゃないかな。扇形庫は蒸気の方転が楽だからああなってるわけで
そもそも庫内や転車台に架線を張るのは難しいし、電機は側があるから雨ざらしでも困らない
蒸気は保火作業の必要があるから屋根がある方が都合がいいんじゃないかね SL末期の沼津機関区は、電機が転車台の上をスルーできるよう架線が張ってあった
さすがに扇形庫内までは張ってなかったと記憶、↑な転車台って珍しくなかったのかな >>583
こんな感じで?
ttp://omoidenoshasoukara.web.fc2.com/maibara/d50200.jpg
ttp://omoidenoshasoukara.web.fc2.com/maibara/d51501658383.jpg
ttp://omoidenoshasoukara.web.fc2.com/maibara/ef65.jpg
ttp://homepage1.nifty.com/naro/rail/dd50/dd50_02.jpg 今じゃ想像付かないが武蔵五日市に機関区あったんだっけ? >>585
最初と最後の写真は米原ですね。
2枚目はどこでしょう?
3枚目は吹田第一?
SL全廃後の奈良と竜華の扇形庫には
EF52が入ってましたね。 >>588
1-3枚目はURLにmaibaraとあるので4枚とも米原では? >>589
確かに(笑)
しかし2枚目の写真はD51ばかりで
D50やE10のイメージとは違うね。 伊那松島みたいに
電車が常駐していた機関区てどんくらいあったのかな 豊橋区・同中部天竜支区が伊那松島区と同じ性格で長期配置
変わったところ(暫定的含む)では、敦賀第二区・岡山区・長岡第二区・沼津区(冨士電車区からの移管)・
富山第一区城川原派出所(富山運輸区の改組)あたり
機関区は基本機関車の配置なので電車導入となると運転所(区)や電車区への配置がほとんど
DCだとローカル線では乗務員兼用のかねあいもあって機関区のままの場合が結構あるが、
客車は暖房車以外は配置実績はないようだ(運用からして当然か)
逆に電車区への蒸気配置だと大垣、気動車区だと四国各所その他があるが
さすがに客車区への蒸気配置はない
飯田線関連は何故飯田線管理所や運転区に改組しなかったのか不可解、私鉄買収路線なので放置されてたのかも 地元の図書館に『国鉄「東京機関区」に生きた』という写真集があったので借りてきた
内部的な写真が多くて興味深い内容だった
定年退職する乗務員が最後に東京に着いたブルートレイン牽引の機関車を品川操車区まで「お別れ乗務」したりしていたらしい >>593
労働運動的な側面に結構スポットがあたってたね
その本