消えた機関区
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稚内から鹿児島まで主要な駅には機関区があったよね。 >>459
は妄想だろうなw
戦後66年、当時を知る人はもう100歳以上だものwww ↑バカ丸出し
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2 >>463
ウィキペディアを鵜呑みにしてるお前の方がバカ丸出しwww >>459
はるか上空から見て目立つ施設を方向転換などの目標にしてるわけだよ。
当時の鉄道施設でここが無くなれば地域への影響が大きいという施設ぐらい、少し考えればわかるだろ。
なぜ大阪狙いで福島に鶴橋に天王寺になるんだよw
ちなみに戦後、米軍は日本ではトラックを輸送の主軸にすえていない。日本の道路網が貧弱なことを知っていたから。
本州の鉄道を壊し過ぎたときのことを心配して大量の機関車を用意していたが、DD12以外はフィリピンや中東に送ってしまった。
沖縄は島だからやむをえないし、沖縄の騒ぎを本州で繰り返してなどいない。 そいや京都原爆投下計画では、梅小路が目標地点だったそうだな。 >>461
米軍は戦争前に日本各地の地図を入手してたんじゃなかった?
たしか米軍の記録フィルムで日本の主要都市地図を広げて、爆撃目標の検討シーンが在ったような。
都市の地図くらい、戦争前から入手は簡単だろうし。
大阪の爆撃地周辺を調べると、これらの駅近く、隣接に軍主要施設、大手工場などが在るから、
狙うなら身近なランドマークを目標に投下したんじゃないかと。 >>467
京都に原爆が落とされていたなら、梅小路が原爆記念館になったんだな。
後世にはガクブルだな。 と発達障害者(チビ、ブサイク、知的障害者)が申しております と発達障害者(チビ、ブサイク、知的障害者)が申しております >469
467だけど実家がその近所なので、実現してたら
オレはこの世にいないよ。 旧白山駅
絵葉書の鉄道本で立派な駅舎は確認できました。
機関区は・・・。
私鉄の機関区ということで木次機関区に似ていると思えばいいのかな。
白山機関区、校庭になっているのなら発掘すれば転車台のピットなど出てきそうな気がする。
全国で唯一、24m転車台を装備してた岡山機関区だろう。
昭和24年竣工して、昭和45年頃に終る。 >>479
新津機関区の転車代は残ってる。
14線のラウンドハウスは解体され、新しく3線のラウンドハウスが建てられた。 東能代機関区転車台が残っている
SL運転があれば使用される そう云えば、諏訪にも、かなり昔にはあったんだよなぁ そういえば、もともと「電鉄」だった飯田線の車両基地はなぜ揃いも揃って「機関区」だったんでしょうか? >>144
超絶亀レスだが高崎第一所属のキハ35は「高タカ一」だったぞ
あと、富山第一所属だった気動車だけでなく、72系電車も「金トヤ一」だった
写真など撮ってないのが残念だがこれは自信を持って言える >>488
機関車の配置があったからじゃないの?
国鉄内部の力関係は圧倒的に機関車(機関士)のほうが強かったみたいだよ。電車(運転手)の発言力は小さかった。 >>489
あなたが正しい。そもそも気動車が機関区所属の場合、
当時第一第二と分かれていた機関区はどこも第一が蒸機・DL、
第二がELなんだから、(免許資格と運用上、それが合理的)
高崎なら当然高一なわけで、電略タカとあわせ高タカ一となる。
高タカ二の気動車が存在するわけがない。
飯田線の電車が機関区所属なのは、ほとんどのEL機関士が兼任
(EC&EL)乗務していたのでわざわざ分ける必要がなかった。
(兼務資格のある人間が優先配置されていたし、それを該当地区の国労が
文句言わなかった。一方で、管理側ももちつもたれつで飯田線管理所
みたいな統合をしないで細かい機関区を存続させ
肩書き昇給時の受け皿を残した。) すみません
門司港機関区がなくなったのはいつのことですか?
いろいろググりましたがわかりません
お願いします >>492
1984年(昭和59年)4月1日 : 門司港、若松、行橋の各機関区を門司機関区に統合 ありがとうございます。
たしかにwikipediaではそうでしたが
こんなスレだから、詳しい人がいるのかなと思いまして・・ >>494
既に解決済みと思いますが、乗務員区としてではなく機関車在籍区としては昭和38年度が最後のようです
(翌年昭和39年、1964年4月1日付けの動力車配置表上記載なし)。
昭和38年4月1日現在の同区配置車は、
C5924△ 25△ (いずれも同年11月5日付け廃車)
C1110 29 36 49 95 125 131 365
(10は翌年4月1日現在 竜華区、残りは全て門司区に年度内に移動 時期不明)
乗務員は門司区のSL・DL・EL乗務を継続したものと思われます。
(高島貨物線の横浜区の乗務員が新鶴見区のD51や品川区のDD13に乗務したのと同様)
当時は合理化運動の草創期で、文句のでない機械を集約管理することが本格化した時期でした。
労組がうるさくない地域では××線管理所とか運転区といった組織集約化自体も始まった時代です。 >>495
あなたのレスで解決しました。ご回答ありがとうございました。 >>489
ガキの頃田舎に行くとき北陸線で「金トヤ一」と書いてある車輌をみて
「"とや〜"とは何だ?トヤは富山だろうが何故伸ばすんだ?」と思ったものだw 区名札に憧れたなあ。特に蒸機の所属区の
晩年はそれすら入ってないカマも多かったけど。
南九州の主要機関区のカマに入っていた砲金製のものなんか >>498
471系電車は北陸線投入時は金ツル二所属でしたね ED16のねぐらだった立川機関区
今やあとかたもないのを通り越して
そんなものがあった形跡すら見当たらない >>505
柘植の支区が完全に廃止になったのって、京都電車区に移行して結構経ってからだな。 国府津駅よく通るけど、痕跡皆無だね
(´;ω;`)ブワッ 柘植支区(転車台方面のレール)って今は完全に剥がされてるけど、剥がされたのっていつ?
昭和末期か平成初期くらいまでは、逆に完全に残ってた記憶があるんだけど(入信も全部点いてた)。 >>507
首都高速も走ってないし、そごうのような高層ビルもまったくない。
東口出ると昭和45年頃でも崎陽軒と郵便局とスカイビルしかなかった。
あと、15は高島区と横浜区は別みたいなこといってるが、
高島区は昭和22年に名称変更で横浜区になった。
また、末期は機関車配置はなかったが、昭和40年代前半までは
入換や小運転用に8620やC56が配置されていた。区名札は横
その後、入換が新鶴見区のDD13に変更されて乗務員区になった。
横浜駅東口のみなとみらい地区には
横浜機関区と高島駅(同操車場)と表高島貨物駅と東横浜貨物駅と
三菱造船のドックぐらいしかなかった。 長町機関区
長町駅旧駅舎時代は75大集結だったのに…。
今や高架化で完全に消えたよ…。 EC運転士は第二機関区に配置されてたけど、第一機関区にEC運転士が配置されてたとこってあったんだろうか? 第一・第二といっても、電蒸分離となかぎらんし。
名古屋、姫路、広島。 小淵沢にも甲府機関区(?)の支区があった。
しかし八王子が64の拠点とか、時代を感じるね。
東線の64の基地といえば甲府を置いて他になかったんだけど。
国府津・甲府・水上は電気の老舗機関区。 旅客鉄道各社からは機関区が消えたな。
JRからは機関士が消えたな。 >>521
そのようで。
てっきり支区かと思ってた。 >>524
あそこの駐泊所、いい雰囲気だったなあ。炭台もあって転車台もあって。
小さな詰所も・・・。
小海線の撮影を終えて上りの急行「アルプス」に乗りながら窓を開けると
一仕事終えてきたC56がのんびり休んでいるのをスナップできたっけ。
あるときは2両もいたな。ダイヤの関係だろうか しかし電気機関車やディーゼル機関車を運転士が運転しているのはわかるが、蒸気機関車を運転している人の職名が運転士というのは何か間違っている
機関助手の仕事は今では運転士がやっているが、職名が運転助手じゃシャレにならん 明治時代に日本鉄道の機関助士たちが、当時の「火夫」という職名を改める要求を掲げ
ストライキかなんかをしたという話を思い出した。 蒸機時代の機関区、あちこち行ったなあ。みなさん親切だった。
数十両配置の大機関区もよし、数両のこじんまりとした機関区もまたよし。
かつては幹線の大機関区で大型機がたくさん配置していたが、電化は DL化などで
支線用の数量だけになってしまっていたところはなんかわびしかったけど。 機関区だけでなく、駅員も保線区員も踏切手も操車掛もみんな親切でやさしかった
子供だったせいもあるんだろうが
ただ、東北のひとのなまりがえげつなくてほとんど会話にならなかった覚えがある >>529
私には「んだ」しかわからなかった津軽弁 >>529
手作りのガリ版刷りの配置表とか「機関車の動くまで」のイラスト入り手書きの紙とか、ヘルメットをかぶり裏に「運転士」とか描かれていたお古の腕章を付けると
いっぱし区員になったつもりになったよね。
「おい坊主、運転室に乗って石炭くべてみるか?」とか言われたり。 >>530
蒸機末期は新左翼が労組に入ってきて反合闘争とかで内ゲバやったり、
構内をシュプレヒコールしながらデモしたり、助役に暴行したり
カマにスプレーで書きなぐったり
していたからあまりいい覚えがない >>534
たしか、まったく無いはず。
転車台は本牧に移転、D51と一緒に展示されてるが。
あの機関区が総撤去されたのは、たしか1986年(昭和61年)以降じゃなかったかな?
1985年(昭和60年)には機関区の横(1号線)から扇形庫を覗き込んだことがあるが、
既に扇形庫の中は線路がところどころ剥がされていた記憶がある。
まだスカイビルの展望レストランも在ったな。 横浜機関区廃止後、機関区付近で解体準備中の大量のDD51を発見!
眺めていたら、解体業者さんから250万円で買わないか?と持ちかけられたのはいい思い出。
輸送料別だけど、といわれたので断念。 素人相手に随分と吹っ掛けたられたな。
国鉄末期だったら電車が20万円そこそこ、機関車でも20万円からだったな。
それでも買い手がさほど居なかったのは、輸送費が本体代を遥に超えてる為、
置いておく敷地が無いなどだった。 「場所と輸送料があれば蒸気機関車がもらえる。タンク機なら置けるかな?」と言ってたジイ様を思い出した。
結局、デフを切り取った鉄板に取っ手を付けてもらった「鉄板焼き用鉄板」だけが家に来た。
今でも納屋にあるはず。 >>538
昭和46年47年頃だったかな?国鉄が廃車になった蒸気機関車を無償(タダ)であげると新聞で広告打っていた覚えが。
ただし運搬費用は実費と記載されていた覚えが。
解体費用をかけるより、無償で引取って貰える方が良いみたいなことが書いてあったような。
どれだけ応募があったか判らないが、ここ30年位の保存歴を某HPで見ると、そんなに引取手が居なかったんだろう。 >>537
確か、コンテナは一時期タダだった気がする。
でも、やはり輸送費はかなりかかるので、躊躇する人間が多かったとか。
(一般で倉庫や物置小屋として使われたのを見たことがある。
確か、当時陸送20qで8万円とか何とかと、雑誌で見た。) >>543
コンテナを購入した学校があって、その中で生徒が熱射病で亡くなってしまうという痛ましい事故もありましたね スレチだし前にもどこかに書いたけど、33年前のある日、
西鹿児島の駅前に「引越は国鉄コンテナで」と書かれたコンテナの現物が置いてあった。
昼間に見に行くと、扉が開いていて、中で職員が引っ越しの受付をしていた。
年度末で入学・就職・人事異動のシーズンだったのだ。 >>545
あのコンテナは、九州各地を巡回して営業してたんだよ。 高島機関区の跡地から出てきた車輪が今もオブジェとしてみなとみらいの道路に置かれていますね。 >>549
あの車輪、関東大震災時の被災車輌一部。 >>543
空のコンテナ輸送運賃20`で8万はぼったくりだな
現在なら一般貨物で運賃8万貰おうと思ったら大型で最低500`は走らんとあかん 稲沢はなんで愛知機関区なんて名前になっちゃったんだろう きっと区名札を「愛」にしたかった奴が当時の担当幹部に居たんだよ
直江好きかは知らんけど あれだけの規模だった高島機関区だから、みなとみらいになった今もレールの1本くらい残ってないのかな?
同じ神奈川県の大船と藤沢の間にあった貨物の施設も跡形もない。 高島高島ってしつこい奴がいるが、
高島機関区は昭和22年の時点で改称して横浜機関区になってる
あと、横浜機関区自体の規模は決して大きくはない
操車場がでかいだけ
レールが残ってないのかとかくだらん質問を繰り返す馬鹿
みなとみらい地区に実際いってみろ、もしくはグーグルマップでも見ろ
東海道本線の貨物線が東高島方面から地下くぐって(このトンネル出入口
付近に昔の高島貨物駅の上屋ホームがあった)桜木町に抜けてる以外は
鉄道の痕跡は皆無
高島機関区は高島貨物駅とは隣接してるが別地区、高島操車場はまた別
っていうか再開発の時代すら知らない奴にいってもしかたないな まあ良いじゃねえか、本人は必死に探そうとしてるみたいだし。
横浜機関区の忘れ形見は本牧公園に移設された転車台位じゃないか?
後は無いだろ。 >>555
ただ、乗務員と車両を分けたとき 乗務員区に 稲沢を取られただけでは やっぱり末期の竜華に一票。
ED60、EF15、EF58、DD13。
3942446699139147170、呪文のように今でも言える。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています