消えた機関区
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稚内から鹿児島まで主要な駅には機関区があったよね。 池田機関区
ちほくのあったころはそれらしい痕跡はあったような気がするが >>99
昭和49年だったが遠軽機関区も記帳して構内許可の腕章すれば自由に構内が
1人で思う存分撮影出来た。いい時代だったな。
当時はD51が6両、9600が13両ほどいたが今では跡形のみかな。
>>91
ありがとうございます。
スレチだけど銚子から帰ってくる時、113系の前の方に乗っていたが
踏切の2つに1つには警備員が立ってて、列車に敬礼してた。
沿線の、のどかな風景に対してそこだけ物々しかった。 >>105
当時撮影をしていたら職質は免れなかった。駅などで警備をしていた方は鉄道関係の方が多かった様だけど駅間で警備をされていた方は警察関係の方が多く質問内容が厳しかった事が記憶に…
警察関係でも過去ヨッパライに乗って警備していた方もいるそうです。 宮-吹一・吹二-梅-米-稲一・稲二-名-浜-静-沼-国-新-東 新小岩機関区
蘇我機関支区
茅ヶ崎機関区
亀山機関区
和歌山機関区
紀伊田辺機関区
新宮機関区
新宮機関区紀伊長島支区
機関区なんて消えてくばかりだな。
これから新しく作られる機関区なんてあるんだろうか・・・ >>111
機関区がたくさんあったのは蒸気時代の名残。
機関車の付け替え(石炭と水を補給)や勾配区間での補助とかで拠点には必ず機関区があったもんだ。
蒸気が無くなっても、そこで働く人たちをクビにするわけにもいかず、国鉄時代はそのまま残っていた場合が多い。 >>83
存在しました。
「日本の蒸気機関車」による形式別配置一覧ではS22頃に開設したようだ。
C11が無煙化されたS46頃まで配属されている。
元々松浦線は私鉄買収で762mmから1067mmに改軌したのでそれに合わせた開設なのかな?
何故この場所なのかだが石炭輸送の関係で今はとっくに廃線となっている臼の浦線、世知原線
が分岐していたからだと思う。
松浦鉄道となった89年に通ったがガランとした広い構内が記憶に残っている。
>>83
>>113
無煙化された後も運用区として存在してましたが59-2改正で廃止。
軽便時代は上佐世保と世知原に機関庫がありましたが場所的に考えてこの場所だったんでしょうね。
機関区スペースはレールを剥がした状態で草むらと化してましたが現在は町立保育所・グランドになってます 南武線西国立駅に隣接してた立川機関区。ED16やオヤ61が泊まってた。懐かしい〜!しばらく行ってないけど跡地はマンションになったとか? >>113 >>114
83デツ
いろいろお調べいただきありがとうございます。
あやふやな記憶ですが松浦線にお召しが入線した時の記憶の絡みで覚えていたんです 糸崎機関区があった故に、平成になっても深夜の糸崎駅には多数の寝台特急が営業停車していた。
糸崎駅構内の電留線にくたびれた感じの電車が止まっているだけの駅だけど、運転上かなり重要な場所でもある。
岡山鉄道管理局と広島鉄道管理局の境目で、山陽本線の瀬野八越えの基地であり、軍都呉へ向かう呉線の列車もここ担当。
現業職場の所在地が同じでも、
伝統ある名前を変えてしまうのはなぜでしょうね。
機関区ではないけど、OFとかOYとか… >>117
>糸崎機関区があった故に、平成になっても深夜の糸崎駅には多数の寝台特急が営業停車していた。
その話、詳しく聞きたいなw
当時三原市に住んでいた俺には、糸崎には下関あさかぜが片道だけ止まっていたとばっかり思っていたがw 自分が少年時代の頃、SLブームが始まり、自分もあちこち出かけるようになった。
今みたいに詳しい情報が即座に分かる時代ではなかったので、まずは撮影に行く近辺のダイヤとか、
そういう情報を集めるのによく機関区に問い合わせをしたもんだ。ついでに撮影許可のお願いも入れて。
その当時は多くの機関区で事前に伝えておけば快く許可してくれた。
特に九州の各管理局、機関区は親切だったね。頼みもしないのに本物のダイヤグラムを返信に同封してくれたり、
訪れた際は手の空く範囲で協力やサービスもしてくれた。都会では見ることのできなかったC55やC57なんかを
実際に触ることができた感動は忘れないね。
まあ、中には返信用に入れた封筒の中身にたった一枚、「残念ですが業務多忙のためお受けできません」という
紙切れ一枚よこしただけの○野鉄道管理局とかもありましたけどね(笑)。
一般的には諸般の事情で撮影が許可できなくても、資料になりそうなものとか、丁寧なメッセージが添えられて
いたもんですが、ここだけは…。 >>120
そうそう、九州総局管内の管理局はどこも、親切でしたね。カコなんかは2分目のダイヤを送ってきてくれて、
「来られる日時がわかれば、事前にご連絡ください。」とかの一筆が添えられていて、駅から遠い機関区は
ヤミだけど、出区のカマに乗せてくれて、駅まで送り出しをしてくれたりした。
当時はどこ機関区にも、庫内手上がりみたいな「整備名人(?)」みたいな人が必ずいて、何かとあのカマは
どこどこにクセがあってとか話してくれた。食堂も、使わせてくれたし、まるでお客様扱いをしてくれましたね。
後日、記念写真を送ってあげると、積空銘板とか蒸気の教本なんかをお礼に送り返してきてくれた。年に数回
行っていたけど、「ふれあい」というのがありましたね。今ではとても、望めない様な出来事が堪能できました。
当時、親切にしてくれた方とは長年、年賀状の交換をしていましたが、数年前からほとんどの方が鬼籍に入られて
しまいました。業務でたまたま、お一人の家の近くに行く機会があり、お線香を上げにご自宅を訪問したら、奥様が
「鉄道を辞めてからも主人はいつも、あなたの事を話していましたよ。まだ、汽車を撮ってるよ。」って。
この時はなぜか泣いちまったな。この趣味やってて、良かったです・・・・。 四国が出ていないようなので。
高松、多度津、松山、高知、徳島。
小松島(支)、宇和島(支)。
連投、スマソ。 津和野駅構内の転車台は、小郡機関区津和野支区の転車台でよろしいでしょうか?
あと、SLブーム以前に廃止された機関区がありますね。
知っているのは、黒磯機関区や山北機関区。
山北機関区があったのを語る碑が山北駅の鉄道公園にあります。
戦時中に廃止されたそうです。
津和野はたしか山口線管理所と呼ばれていましたね。
機関区と何が違うんだろうと思っていました。
C57復活の時、渋い庫を見るのを楽しみにしていたら、
すっかり更地になって、奇妙な煙浄化装置があったのにガッカリしました。 >>123
山北機関区にはS6,3/1現在でD50が20両も配置されていますね。
当時でD50と言えば東海道、山陽、東北、北海道など主要な機関区のみだったので
流石に天下の東海道。
もうひとつ興味を惹いたのは函館本線の黒松内機関区。
S6,3/1現在でD50が11両!S3,9に室蘭本線が全通により長万部機関区が出来たので
S10には配置表では既に無くなっています。
余談だが当時北海道には黒松内以外でD50が函館に14両、岩見沢に6両、築港に16両
と多く配属されており、函館本線では旅客も牽いていたようだし、石炭輸送含む
貨物輸送も重要視されていたと思う。
>>123
大正期の路線改良で白河区に統合された…
もっともJR貨物の機関区として名前だけ復活したがw >黒磯区
>>124
地方路線には「○○線管理所」が結構存在したかと。
(場所により多少異なるが車両以外の施設管理も兼ねていたはず) >>113-116
45年に早岐区に全機転属。ですね
C11の里とか書いてあったな。
なぜか8620は配置されず、お召し機も「早」だった。
おっと、早岐機関区があった。
C11が特急「さくら」、8620が急行「平戸」の補機となったり(C11の代走?)
わずか数ヶ月ながらC60が配置されてた。
今でもレンガ造りの給水塔と転車台が残ってる。
駅自体も風情があっていいよ 東新潟機関区。
近くに行けば、たむろしているものと思って
親に頼んで東新潟駅へ。
地図を見ることなんて考えもしなかった小学校2〜3年生のころ。
DD13やDE15による操車場の入れ替えを眺めたことと、
帰りの電車からEF15を見たことだけが収穫。
でもいい思い出。
あ! ゴメン、消えてない機関区の話書いちゃった・・・。 国府津機関区の扇形庫に最後までかすれながらも残っていた
1:29:300
は今も忘れられない。
後年大学の講義でその意味が解った。
ハインリッヒの法則だね。高校の時、聞いたけど、あまり良く理解が
出来なかったな。 >>130 >>131
旧東京南局の現場に結構ありましたね<ハインリッヒの法則。
橋本駅や茅ヶ崎(相模線ホーム)でも見た記憶あり。
そう言えば、民営化後も残った 南チサ も
相模線電化で車両配置区としてはアボン。
このスレの仲間入りしてしまいましたね…。 >>68
C59164が梅小路に来る直前なぜか奈良機関区に配置されてたよね。 >>134
糸崎(だったかな)から奈良へ運んで、どっかの自治体に貸与の予定だったのが、消えたとか聞きました。
軸重があう線区ではないので、当然無火です。
数年間、奈良区扇形庫の左端っこに、逆向きに留置されてました。車籍あったのかな?
ナンバーは別途保管のようでチョーク書きでした。
梅小路が第一目的ではなかったようです。 天鉄関連では、新宮機関区はかなり地味なんじゃないか?
天シクと天タヘが無いと蒸気時代の紀勢線はやっていけんかったと思うが…竜華と亀山の陰に隠れている。 SLがそろそろ姿を消す頃、機関区の片隅に役目を終えたSLが何両も列ねて放置されていたり、
草むしてレールが見えなくなったような引込線の奥にポツンと1両だけ取り残されていたSL…。
そんな光景があちこちで見られた。
どれも既に車体は赤錆び、雑草がロッドにまとわりついていたり、窓も白く濁って割れていたりするSL…。
そしてSLの象徴でもあったナンバープレートが外され、そこにチョークで機番がなぐり書きされているのを見ると
本当に心が痛んだ。最早ただの“鉄くず”と化したようなそんなSLたち。
それから何十年…。その“鉄くず”が並んでいた機関区も大半が姿を消した。ある場所は茫々と草が生い繁り、
またある場所は小奇麗なマンションが建った。そこにかつてはもうもうと蒸気を吹き上げ、
これから列車の先頭に立って驀進するSLたちがあちこちでスタンバイしていたなど、
どうしても合点がいかないくらいに変わってしまった。
半世紀近くの月日が経つというのはそういうもんなんだろうな。 作並機関区。今は保線用車両が置かれている。
初めての交流電機の配置区。ED14,ED17などの輸入機がいたことも。 鳳は電車区のまま機関車配置だっけ?
それとも別に鳳機関区があったのか? 一と二って、一の方が機関車で二の方が気動車ってことで良かった? 「第一機関区」は非電化のSL、DL、「第二機関区」は電化のELっていう分け方じゃなかったか?
高崎、富山などはそうだったし。
その富山第一機関区には気動車も配置されていて、車体に表記される略号が[金トヤ−]というように
「−」が入るのが特徴だった。このような例が富山以外に1つか2つあったはず。 >>143
それはなかったと思うよ。高崎配置の気動車は[高タカ]だけだった。電車は新前橋[高シマ]だったしね。
略号で[一]が入ったものがあと1箇所くらいあったと思ったんだが思い出せない。
[金ツル一](敦賀)ってあったような気がするんだが…。
第一と第二があった機関区は、岩見沢、高崎、富山、敦賀くらいだったかな…? >>144
すまん、長岡第二(新ナカ二)だった。<新潟ローカル旧国 姫一、名一<車両の管理、姫二、名二<乗務員の管理 大ヒメ一、名ナコ一表記のDCがいた
吹一、稲一はSL,DL配置 吹二、稲二はEL配置
岩見沢一はSL配置、岩見沢二はDL,EL配置 >>148
「名なこいち」ではなく、「名なこー(音引き)」だと思ってた小学生時代。
>>144-148
この辺の大機関区は残っているの? 「機関区」自体がそもそもアレだからな。
第一第二が付いたのはもう無いだろ。
後継区はいくらでもあるだろうけど。 広島も第二機関区がありましたね。
第一はD52,D51,C11,C50など、つまり貨物と入れ替え。第二にはC62,C59など
客車列車の担当、そういう住み分けだったようだ。姫路も同様だったと思う。
>>152
姫路第二は相当な昔(終戦直後くらい)にDD13とキハだけの配置→その後乗務員だけの配置で動力車の配置がゼロに。
民営化直前に、第一を機関区(貨物)、第二を運転区(旅客)に改称して、それぞれ動力車を配置。。 >>144
S35頃まで福島にも第1,2が存在していたね。
第1が東北本線用のD51,D50,C59など。
第2が奥羽本線のEF16、福島電化により統合されたようです。
>>142
高崎はS22頃に旅客用SLが第1,貨物用SLが第2に。
S27の電化により第1がSL、第2がELに分かれています。
>>151
機関区ってのはJRでは貨物だけで、それも統合や改称しつつあるんですね。
機関士っていう職名も、あっても民鉄とか船舶とかですかね。 やはり山北機関庫でしょう。
つい最近まで(といっても20年前くらい・・?)転車台跡の大きな丸い穴が残って
いて、ゴミが放り込まれていたっけ・・・。 >>158
大正末期には山北に鉄道関係者が500人も住んでたとか聞いた。
家族も含めての数字なのかは知らぬ。 >>159
Wikiによれば駅員・職員で650名とか・・・。
それが今は早朝・夜間は無人駅!!
栄枯盛衰・・・。 >>160 どうも。
さて関係ないけど、戦後すぐの写真で、国鉄の電車か客車に
××檢車區
と書いてあるのを見たような気がするのだけど
そういう職場名あった時期があったんですかね?
工機部→工場なら知ってるけど。 >>161
「検車区」はのちの「客貨車区」「客車区」と実質的に同じものです。
>>162
サンクスです。やはり検車区は存在したのですね。
関係ないけど、明治時代の「機関庫」と、のちの「機関区」のあいだの
名称が、何かなかったですっけ? >>163
基本的には機関庫→機関区だったと思う。
戦前に機関区に変更した際、規模の小さいものは組織上、給水所になったものもある。 >>164
機関区の規模の小さいものとしては、機関支区とか駐泊所というものがあった。
>>164
ありがとうございます。勘違いだったようです。
>>165
どうも。「シーナリィガイド」で知りました。 保線の詰所を改造して作られた「カプセルイン恵比寿」。
空港への前泊なんかに重宝していたが、ひっそりと無くなってしまった。 亀レスだが>>149
漏れの場合は田舎に行くときに富山で見た気動車の「金トヤ一(いち)」の所属表記を
「きんとやー(伸ばし棒)」だと思っていたw
>>168
丸ゴシックみたいな国鉄書体だから「ー」に見えるね。 金ツルー
なんか、酒屋か醤油メーカーみたいだった。 略字が三文字以上の区はみんななんか面白いね。
門ヒカラなども >>172
それ言い出したら「天リユソ」もはいっちまう。これはどっかで写真を見たことある 操重車に「大ミハソ」っての、見た。
亀山にいた車両だから、旧記載のまま転属してきたのかも。 >>15
>よく横浜機関区と併用されがちだが、横浜機関区は本牧に在り、高島機関区とは違う。
高島機関区ってのは過去には存在したんでしょうけど、それがその後横浜機関区にそのまま名称変更したはずです。
本牧jにある横浜機関区ってのは、臨海鉄道の機関区で別物。JNRの東京南鉄道管理局にある横浜機関区は高島にありました。
>>135
C59164は帳簿上、奈良から梅へ転属したことになっている。
ということでずっと車籍はあった。
梅小路に移るまで奈良区が預かっていたらしいんだが。
自治体貸与の話は初めて聞いたが本当か。
梅小路保存機はその前から決まってたはず。 亀だけど
>>136
新宮機関区紀伊長島支区も忘れずに。
狩勝越えの要所、新得
機関車配置が無くなってもしばらく残った標茶
扇形庫が立派だった遠軽
カマの数を稼ぐのに都合がよかった鷲別・追分
千葉局管内に勝浦なんてのもあった。気動車運転士が交代してた。
転車台もそういわれるとあった気がする。
都内でまだ転車台があるのは八王子?
蒸気末期の転属はへんてこなものが多かった。C11292は最終品川機関区で廃車
米子のC5776は最終配属は電化後の糸崎。いずれも保存がらみだが。
保存場所とゆかりがないカマが多すぎた気がする。カマならなんでもいいみたいな。 >>182
勝浦の沖合に「機関庫出し」という漁場がある。
その漁場から勝浦の機関庫が見えたからその名がついたらしい。
スレには関係ないね。すまん。
へぇ〜! 面白いな。何処の辺りなんだろう…と思うけど、勝浦の駅からって海は見えないよなぁ…?
でも駅がちょっと高い所にあるから昔は見えたのかな? それともSLの煙が上がっていたのが見えたので
そう付けられたのかもね。 >>144
高崎配置の気動車は[高タカ一]だよ。電車は電車区に一も二もないから論外。
気動車はSL・DL配置の機関区で基本DL機関士が扱うから第一機関区が
SL・DL担当の一般的なすみわけなら当然配置DCは[一]表示になる。
DC配置がある第一機関区ばかりじゃないから、実際あとは金ツル一・金トヤ一・大ヒメ一・ぐらいかな。
長岡はDCは第一のはず。第二がDCを扱っていたとは初耳。岩見沢は第二がDL・EL担当だったが
DC配置がなかった
機関区は機関士と機関助士、運転所や運転区は車両だの車掌だの保線だの一切合財ひっくるめて
その路線だか地区だかの全部のパッケージ。管理所は線区固有のパッケージ。しかし、自走できない
雪かき車が駅配置でというおがよくわからん。貨車も駅配置だったからそれと同じなんだろうが。
救援車が機関区に配置されてたのも懐かしいね。昔は通勤用に職員をのっけたりしていたらしいが。
末期はほとんど置物になっていたような。救援しにいくどこかに出かける事故も激減したし。
救援に行くのにトレーラーやクレーン車ですむからだろう。 そういえば…
昭和50年代の半ば。福知山機関区にはソ111とスエ71 17がずっとセットで留置されてた。
ある夏休み、祖父の家の二階から「そのコンビ」が機関車に引き出されていくのを見た。
何のことはない。入換えだった。
「そのコンビ」が「動いている」ところを見たのは後にも先にもその一回だけだったw 山北機関区
丹那トンネル開通前は東海道線最大のシェルパ基地だった。 多治見機関区
車両配置は早くに(S40頃?)無くなったが、その後乗務員配置区として長く残る。
>148 S50頃の記憶では
名一 気動車配置、DC・DL乗務員
名二 EL・EC乗務員のみ
稲一 DL配置 DL乗務員
稲二 EL配置 EL乗務員(貨物のみ)
57.6改正(?)でDC・DL列車が減少、名一乗務員もECを持つ。
記憶違いだったらスマソ。 今、SL時代の庫が残ってるのはどれくらいあるんでしょうかね。 ほう。
名古屋、宮原にはまだ扇形庫が残ってるんですか。 将来の転用を考慮して蒸気時代から扇形庫じゃなく矩形庫だったんだよ
だから、かつてのC59やC62の塒を今は名古屋でキハ85等、宮原ではEF65等が使ってる >>194
矩形ですか。
矩形庫というと大宮のは良かった記憶。
あと北海道の深川機関区のも渋かったような。 所で支区は全て区名札は所属のものだったのだろうか。 深川「深」機関区留萌支区「留」
追分「追」機関区苫小牧支区「苫」
盛岡「盛」機関区荒屋新町支区「盛」
平「平」機関区高荻支区「平」
横川「横」機関区軽井沢支区「軽」
国府津「国」機関区久里浜支区「久」
豊橋「豊」機関区中部天竜支区「?」電機は興味なかったんで当時のく記録なし
富山第一「富一」機関区高岡支区「高」
>>198 感謝。規模或いは特殊性に因ったのだろうか・・・ よく話題になる南九州(鹿児島・熊本・大分局 というより鹿児島工場管轄)の砲金製区名札の中で、なぜか支区の都城の「都」の札も存在したね。
砲金製区名札は南延岡「延」、宮崎「宮」、志布志「志」、鹿児島「鹿」、出水「出」、
吉松「吉」、人吉「人」、熊本「熊」などですが、すべて本区でした。
熊本の「熊」は最初の復活時に58654が付けていた筆記体の「熊」ではなくもっとゴシックに近い字体だったっけ。
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