九十九里鉄道
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>>53
あれは谷津遊園でおとぎ列車にするつもりだったらしいが、
昭和50年頃まで放置されていたかな。 此所の車掌(多分女性ばかり)って 自社路線バスと兼務だったのかな?
だとしたら
単端の転向作業があるから「キドー乗務」はバスより嫌がられたのかな?
東京スカイツリーの立地は最強だ!
★東武伊勢崎線 押上駅 直結
★都営浅草線 押上駅 直結
★東京メトロ半蔵門線 押上駅 直結
★京成押上線 押上駅 直結
★東武伊勢崎線 業平橋駅 直結
上記「5路線が集結する」スーパークロスジャンクションの真上にそびえ建つ。
この立地の素晴らしさは、新宿駅や池袋駅に直結する百貨店に匹敵する。
今の東京タワーよりもはるかに立地は良い。
古くからの江戸市街地にもごく至近だ。
国際観光都市、浅草からもわすか1km!徒歩15分以内で散歩がてらで行ける。
★東武伊勢崎線 浅草駅 徒歩
★東京メトロ銀座線 浅草駅 徒歩
★都営地下鉄浅草線 浅草駅 徒歩
こんなスーパー凄い立地に建てられるのに、なぜか辺鄙なところだと思われているのが不思議だ。
★JR総武快速線錦糸町駅 徒歩
★JR総武緩行線錦糸町駅 徒歩
★東京メトロ半蔵門線錦糸町駅 徒歩
半蔵門線で錦糸町からも一駅。歩いても1.4km徒歩20分だ。
三越前や大手町・渋谷からも乗り換えなし!
都営浅草線なら日本橋や東京駅(宝町)や銀座や新橋や浜松町(大門)からも
一本で行ける。
想像を絶する観光名所になるのは間違いない。
昨日の「田舎に泊まろう」でゲストが九十九里浜へ連れて行かれたときに
ゲストが歩いていたときに九十九里鉄道の廃線跡の遊歩道(赤い舗装)がチラッと出ていた。 此処の車の再就職先になる筈の 谷津遊園〜船橋ヘルスセンター の
遊覧鉄道って何故、取り止めになつたの? カラーブックスの九十九里鉄道のカラー写真が妙に荒いのは覚えている。 >>70
これはコダックじゃなくて国産カラーフィルム使ったでしょ、って感じか
撮影した時雨模様のようだったから、光量不足で粗くなっちゃったのかも知れない >>67
いくつかの理由がある。
1)谷津遊園、船橋ヘルスセンターとも入場者減で、走らせても採算がとれないと判明。
2)線路が船橋競馬場敷地内を通過する事が、許可されずに出来なかった。
3)県道との立体交差を建設する費用が莫大なものになる事が判明。
4)車両そのものが老朽化していて、再利用は不可能と判明。
以上の理由が重なってこの「遊覧鉄道計画」は頓挫し、車両は雨ざらしにな
った。そして区画整理の際に土に埋められたという。 よし、今度の突発オフはスコップと金属探知器持って集合?ってどこへ?
ネタでスマソ >>54
片貝の某幼稚園のことだね。
以前「鉄道ピクトリアル」に誰が投書したか知らんが、このケハ107の話題が出た。
その翌日から幼稚園には、平日休日問わずカメラ持った奴が詰め掛けたそうだよ。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
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〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
>>41
>奥多摩電鉄→奥多摩鉱業
奥多摩工業だよ、以前は青梅線〜南武線〜鶴見線で石灰石を積んだ
私有ホキが走っていた。
不人気総理の家業、産業セメント鉄道→麻生産業→麻生セメント→(株)麻生も。
ちなみに、連合国捕虜の使役を巡って賠償を求められてる。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2596101/4068494 『きど』ってコレっすよね、
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/19/dd10b8623a2191d4b9ebba376e6ef6ea.jpg
売ってるとは‥
ちなみに漏れは知らないけど母ちゃんの祖母さん(ヒーヒー祖母さん)はこれに乗っていたらしい。
途中で停車してる時、畑に忍び込んでトウモロコシを懐いっぱい盗んで母ちゃんにご馳走してたとか。
車内は狭く向かい側の人の膝が付くくらいと聞いた。
また東金からの接続の際、母ちゃんはタダ乗りしてたとか。夏は蚊や虫が凄くて改札がまともに定期が見れず適当にごまかして見せてたとか。
もっと母ちゃんから聞けるんだけど音信不通で‥ >>69
とある掲示板でそれらしき画像を見たが、サビサビの放置状態だった。
その人は他にも何両か軽便の車両を持っていて、博物館を作るのが夢だったとか。
別の掲示板では、既に解体済だとか。本当かどうかは、場所がわからないだけにウラの取りようがないが・・。 東金の車両たちみたいに朽ち果てそうなので上げておきます。
新レス期待した人 すいません!! がきの頃見たTF誌の「軌道の覇者」という写真を見て衝撃を受けた。
東金駅裏に放置してあった単端などの車両群の写真だった。
実際行ってみた。車両はもうなかったが、廃線跡らしき処をたどって
片貝まで歩いていった。若かったなあ。さすがに帰りはバスにしたが。
東金の商店街も時代掛かっていた。トロッコのある古い商店が三つ
もある街と知ったのは、すこし後のこと。何回か通った。
トロッコ麹屋の伊勢孫もなくなったと聞く。見てきたものがどんどん
無くなっている。 丸山車両製のクマ101〜104、雨宮製作所製のクア201・・・
味のある単端ガソリンカーが走ったキドーは、今も皆の心に生き続けているよ。
ここで、宿題です。昭和6年に鉄道になるまえの九十九里軌道には何両かの
貨車が在籍していたようですが、詳細は謎のままです。片貝や東金の車庫脇に
有蓋車の車体を利用した物置があったのは、写真集でご存知の方が多いでしょう。
でも、もし無蓋貨車の生い立ちが解明できたら、その人はヒーローです。
どなたかアタックしてみてはいかが?
>>86 この鉄道開業当時から開戦物資不足までは、客車は(クマ101〜104・ハ二フ105,106・ 101焼失代替クア201まで新造だから)
貨車も新造じゃないのですか? >>87
昭和7年度に増備されたケワ50・52・53(廃線まで活躍したボギー式有蓋車)は、
昭和5年に拡軌された鉄道省久留里線で使用されていた、元千葉県営鉄道の払下げ
車両である可能性が大です。ここでご紹介したのは、それ以前、大正15年の開業時に
用意された2軸無蓋貨車や、廃線時にあった無番号無蓋車のことで、開業時のものは
新造かも知れませんが両数が不明だそうです。
TDLは、ウエスタンリバー鉄道も好いけど、京成グループなんだから
九十九里鉄道の車両たちを復元して走らせて欲しい。 動画が残っているとは知らなかった。もう一度復活して欲しい。 しかし構内に廃車体を放置って、
いくら60年代といえども
お役所やケーサツは黙ってたのか?
今じゃ考えられん長閑さだなあ。 当時の東金は田舎町でしょ。
会社所有地なんだか何の問題があるの?
南海だって天王寺構内を放置してるでしょ。
再開発したいなら役所が働きかけるだけ。
俺は保育社カラーブックスでこの鉄道の存在を知った。 なぞなぞ:100本の花が咲いている畑から、1本を摘んだよ。さて、その花は
何色でしょうか?
答え:白
九十九里鉄道の車両に書かれていた社紋も、これと同じ発想。百から一を
引いた(=取り除いた)「白」を「り」で包み、「九十九里」を表した。
その外側に追加された4本の羽は、交通機関一般の象徴だそうです。
ハニフ105・・・あっ、真似しちゃった。
(並等小荷物合造車だったが)手小荷物は少なく、新聞輸送と東金・片貝郵便局間の
郵袋運搬が主な仕事であった。 (RM LIBRARY37号から)
ハニフ106・・・ハニフ105と106は雨宮製に変わり形態はキハ101〜104の形態を踏襲してるが、
キハ101の焼失廃車代替のキハ201は、雨宮スタイルだ。
緊急で調達いたので出来合いを購入したのだろうか?
それとも丸山形態で製作するよい雨宮規格品から選択したほうが安価とかメーカーに諭されたのだろうか? >>106
キハ201の製造は昭和5年8月で、その前年に登場したのが日本硫黄沼尻鉄道のガソ101。
この互いによく似た2両のガソリンカーは、雨宮製作所が半鋼製車を手掛けたなかでも
ごく初期の作品といえ、それ以前は木造車の製造がほとんどだったと考えられる。
(ちなみに、軽便鉄道ではないが、雨宮製の木造電車・京成45形は昭和2年の登場)
つまり、元来「丸山車両風」だった雨宮の製品が、半鋼製車体を新登場させるにあたり
モデルチェンジを図った結果、「雨宮スタイル」が誕生したのに過ぎないのでは・・。 往年の名曲「高原列車は行く」 (作詞 : 丘 灯至夫、作曲:古関裕而) は、沼尻軽便鉄道
をイメージして詩が書かれたらしい。 九十九里のキハ101〜104は、V8積む前からトレーラーを2両位引いていたのかな?
戦時中の客車増備を考えるとそんなような・・・
それとも天然ガスはパワーあるのか?SL牽引用? >>109
RM LIBRARY の37号をお持ちなら、8ページをご覧ください。キハ201が
2両のハニフを従えた終戦直後の姿が、はっきりと記録されています。
大出力110馬力のフォードV8は、1952年か1953年式と推定されるそうです
から(レイル「私鉄紀行20 からっ風にタイホーンが聴える(下))、それ以前
のニューフォードAA(32馬力エンジン)で2両牽くこともあった証拠写真と
いうわけです。
ttp://www.chunichieigasha.co.jp/html/gallery.html
この中の(ローカル線・1959年)にありし日の九十九里鉄道が
ちょこっと出てきます。 フォードでも公称20馬力のT型はともかく、
26馬力で低速型のフォードソントラクターとか
最大40馬力のA型系列は
平坦線の牽引運用でも単端車のパワーユニットとしては使い物になったんだろうね。
同じフォードA搭載で梅鉢製の西大寺キハ1はボギー客車牽引前提設計だし、
全線これ平坦という点では九十九里と西大寺は共通する。 もし東金の放置で保管方法が良かったり船橋の遊覧鉄道で活用されもう少し活躍できたら
アメリカの自動車社会はアフターマーケット補修部品供給が完璧なので流通や情報速度の改善でエンジンの復元改装や維持補修は、苦労しなくなっただろうな。 ローカル社にしちゃあ意外にも目立つカラーリングだったな。 >>115 退色の所為かもしれなけど、微妙に力の抜けたようなブルーと白のカラーリングは、沼尻みたいにおもちゃっぽくないし趣味が好いな。
木造丸屋雨樋の丸山単端主体の当線には、金太郎の煩い湘南や、連想しがちがちな、国鉄気動車色では、ないトコロが好い。
晩年の井笠で動車がまとった色は俺は煩くて嫌いだ(旧色客車とのコントラストを褒め好むヒトも多いが・・・) >>112
フォードソンなんて文字通りトラクターなんだから
付随車牽引くらい余裕でしょ
ただし速度は出ないけどw
キドーは平坦だから引き出せさえすればあとは何とかなる
鉄道ってそういうもの 学校前って駅があったけど
昭和30年代に鉄道で通学してる小学生なんか
居たんでしょうか >>119 地方で学校も遠いだろうからな・・・
お下げ髪の女性車掌はバスと兼務だったみたいだから会社も沿線住民のバス並の扱いじゃない? >>113
しかしいかにフラットヘッド系末期型で100馬力のパワーも耐久性も申し分ないフォードのアーリーV8でも、
ガソリンエンジンだからねー
あのままでも潮時を見ていすゞか日野の小型トラックディーゼルに交換されていた可能性大。
(大型トラック用だと、果たして丸山単端のフレームで耐えられたか心許ない) >>119
いましたよ。
他のローカル私鉄でも同じような駅があった。
大手の西鉄では今も残ってる。 全国各地で トロッコ列車や馬車鉄道、人力鉄道の復刻モノが散見するけど、
町興しで、九十九里鉄道も復刻できたらな〜
規模も小さいから忠実に車輌バラエティーもフルに復刻しやすいような・・・
まあ ソレをやるには、東金や九十九里は都心から近過ぎるか・・・・ 「柔道賛歌」っていうアニメの主人公が、九十九里の出身・・・という設定だったっけ? 九十九里浜は本州最東端なんてことはないが、太平洋をはさんではるか彼方(おとなり)
にアメリカ合衆国!が位置する。 かつて、「米隣荘」という名の別荘が九十九里浜に
あったそうだ。 木体鉄皮車の鉄の厚さはどれ位だったのだろう・・・。
アバウトな地方軽便とはいえ車輌限界の兼ね合いと云うより自重増加を懸念してホンの数ミリだと思うのだが・・・
で日に晒されなくなった木部を潮風の運ぶ潮と湿気が、どんどん車体の骨組みを蝕んで逝ったのだろうか・・・。 >>129
木造車に対する簡易鋼体化は、昭和20年代末期に行われたという。102〜104号の
古い竣工図では2.67tだった自重が、いつの間にか3tに増えているが、
鉄皮だけで300kgにもなったのだろうか? (単なる端数整理の結果なのかも)
>>129
1950年代は、自動車の外板で最も薄い規格が0.8mm、
ロクサン系電車の外板が1.6mm、国鉄標準車の外板が2.3mmという時代だ
元のシャーシの華奢さを考えると九十九里の偽スチール措置がロクサンを越えるほどの鋼板使用とは思えない。 今でも入手が容易な鋼板はt1.6だから、
自社で作業する際の重さを考えても
t1.6を使ったと考えるのが妥当かも? 戦後、九十九里浜にアメリカ軍の高射砲演習場が設けられたが、爆音のため
魚が逃げ漁ができなくなり、賑わっていた海水浴も衰退していった。反対運動
の結果、昭和30年にはアメリカ軍から県に返還されているが、九十九里鉄道の
輸送量は昭和29年をピークに減少に転じ、回復することはなかった。
ガソリン入手困難の時期 地域柄天然ガスが使われたらしいが、万一爆発したら丸山の木造単端はまさしく木端微塵だな。 きっと、遠浅の九十九里浜に木片が散乱する、恐ろしい光景になったのだろう。
ただし、波に洗われて、ほどなく木片は自然に姿を消したに違いない。漁船の
網を破る海底の障害物には、よもや、ならなかったろう。
写真を見ると確かに微妙なカラーリングだな。
実物を見てないから何とも言えないけど。 昭和36年廃止だからもう相当時間が過ぎた。
当時の関係者で身体面で問題なく回顧出きるヒトは、お下げ髪の車掌さん達にすら居ないような気がする。 最近めっちゃ興味湧いて
いろいろ調べてるんだけど
めっちゃオシャレなカラーリングだねw
北欧を思わせるような
シャレたインディゴブルー。
DVD買おうかなぁ、、
このスレで買った人いる?
なるほど、北欧か。
日本離れしてるとは思ってたが。
誰が考案したんだろうな。この色合い。 >>141
ナロー通販の?
興味あるならとりあえず一見の価値はあると思うよ。
時代が時代だけに、動くのが見られるだけでもありがたい。 >>142
うん
ヨーロッパかぶれの人の仕業を感じるよ
この独特の青みは
どことなくスウェーデンの香りする
>>143
そうそう
とりあえず買ってみます 母親の実家が東金で、廃車体で遊んだ記憶がある。でっかいバスのハンドルが付いてたのを覚えてる。
でも、大人になって「鉄道車両にハンドルが付いてるはずないよなあ」と、何かの記憶との混同かと思ってた。
最近になって、ネコ本を入手して、あれが手ブレーキだったことを知った。 >>121
国産旧車の部品は壊滅的だが
外車はいまだに新品部品で一台組める
>>144
京成色ってだけじゃね? >>151 いや〜堪らん映像だあっ。
有難う!!
キハ04,07の協調運転、スポーク車輪、開けっ放し旅客ドア、ATSとか・・・面倒クセーモノの無い
単純で善い最後の時代だな。 >>113
もし、今車両が残っていたらパワーに耐えるかどうかわからないけど、同じフォード製V8ということでコブラかデ・ト・マソパンテーラ搭載の
を積んだら面白かったかも。九十九里浜にレールを敷いてドラッグレースをやって集客とか。 ゴリラだかモンキーに750のエンジンつけたら…走った…!! という話を昔聞いたな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています