四国急行黄金時代を語らないか
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
予讃本線:うわじま・いよ
土讃本線:あしずり・土佐
高徳本線・牟岐線:むろと・阿波
徳島本線:よしの川
急行料金や指定料金が易く、停車駅は多め
指定席がグリーン車席になったりよかったよねー 追記
高松21〜38
高松← <キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
高松41〜53
高松← <キハ65|
高松61〜64
高松← <キハ58|
高松71〜75
高松← <キハ28|キハ58>
なお、運用番号数≠使用本数(出区から帰区までが一つの運用番号)
(徳島13は出区してから4日目になってやっと徳島に戻る) 近いうちに岡山→宿毛→(バス)→宇和島→岡山を計画している。
残念ながら中村→宿毛は鈍行になりそう 確か高松駅での誤乗防止の為に急行にヘッドマークが取り付けられたと、何かの雑誌か資料で読ん
だ記憶があるが、そのヘッドマーク付き四国の急行は格好良く誇らしげだったし、また他地区の
ヘッドマーク無しの急行と比べ同じ急行でも四国の方が何か格上な気がした餓鬼の頃。 末期の四国急行の指定席は旧グリーン車で乗り得でした。 昭和五十一年、高校二年生の夏休みにワイド周遊券を使い四国一周の旅。すでに特急も
走っていたが、まだまだ急行が主役。主な駅では、必ずと言っていいほど普通列車と連絡
していたのでスケジュール作りも楽。普通列車の行き違い待ちの長時間停車もあって、
たくさんの駅に途中下車できました。 >>198
激しく同意。
>他地区のヘッドマーク無しの急行
四国育ちの者から見れば、むしろこちらのほうに違和感があったぐらいで… >>162
>土讃線はトンネルが多い路線だと改めて思ったものだ。
いかんせん、土佐山田〜讃岐財田間だけでもトンネルが96本もあったんだから(昭和50年時点で)。
ちなみに阿波池田(もしくは箸蔵)から讃岐財田の間となれば意外にトンネルの数は少なく、たったの9本。
香川県側だけならば県境の猪鼻トンネルを合わせても、わずか2本。 >>173
電車通りの街路樹のほとんどを切り倒してしまったら余計に田舎くさい市街地に成り下がった… 北海道より四国の方が気動車急行先に無くなるとは思わなかった 種別が特急なだけで実態は…
キハ185なんて諸にキハ58系の後継車だったし。 やはり時代が変わったと痛感したのが、昭和61年11月のダイヤ改正。
予讃線では大半の急行が格上げされたり、運転区間短縮されたりして、
L特急「しおかぜ」13往復体制になった。
瀬戸大橋線開業の1年半前の出来事。 子供の時(70年代)、親の田舎伊予長浜。
記憶にあるのは伊予長浜駅のホームがなくて
列車ドアからみんな飛び降りた記憶ありますが。
その時の列車は急行だっとと思います。 >>209
乗る時はどうしたの?
駅員がタラップを持ってきたとか? 長浜駅は6両分しかホームがないので
おそらく8両か9両のうわじま号じゃないかな。 夜行が予讃は急行なのに土讃は快速で差を見せつけられた思い出。 >>215
この店が昔ラーメン屋だった頃は国鉄急行色だったような希ガス。 >>217
それって予土線内は普通列車じゃなっかたかね?
昔の時刻表をお持ちの方、情報提供よろしく。 >>217-218
昭和52年頃
4701D〜1841D 高松5:03〜宇和島11:35
1846D〜4706D 宇和島9:34〜高松16:14
編成
宇和島・中村← <キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28> →高松
宇和島編成は高松寄り2両
高松−中村編成は高松所属、宇和島編成は徳島所属
宇和島到着後、ローカルで松山往復、翌日宇和島江川崎往復後、あしずりで高松に戻る >>219
ありがとう
当時の時刻表持ってんだ
編成が長い急行だったと思うが
宇和島発が2両なら8両編成だったのかな? 亡くなられた原田さんの痴漢冤罪事件の悲劇を知ろう
事件の真相を知り、みんなで支援しましょう。
フジテレビが報じた事件の特集番組
http://www.youtube.com/watch?v=_No0gcB7g2g&list=PLCEEAA254456EC5A3
次回、第十一回口頭弁論は
5月20日(月)11時より、東京地方裁判所第803号法廷にて開廷されます。 昭和56年ごろ四国の急行で生録したが、なかなかチャイムが聞けなかった >>218-219-220
『Wikipedia』に以下の記述が。
一時高松 - 窪川 - 宇和島間運転の急行「あしずり」が設定されていた
ことがあり、予土線内は快速となっていた。直通がなくなってからも
しばらくは窪川 - 宇和島間運転の快速が1往復残っていた時期があり、
初期の宇和島駅からの「清流しまんと号」が連結されていた。
(予土線 - Wikipedia)
なお、予土線直通快速の運転期間は昭和49年3月〜昭和60年3月まで。 四国内の最長編成は何両なのかな
俺が知る限りはマリンライナーの11両編成か
快速川之江・高知行きのDFと郵便車込みの11両編成
急行だと8両編成の宇和島かあしずりかな 運用的な黄金時代は昭和40年代。
利用者目線での黄金時代はグリーン格下げの普通車指定席登場のあと。 マリンは、12両編成があった。瀬戸が14両編成だったね。2000系は10両編成。回送が付いた、土佐の9両編成は見た。 >>226
でも、「瀬戸」は高松駅と坂出駅のホームからはみ出ていた。
「後ろの車両のドアは開きません」という
車内放送をやってたような記憶がある。 JR化後は無視して、
「よしの川」「土佐」併結で10両編成は撮影した。 52年3月改正の時点での最長編成は、所定では「よしの川」併結の「あしずり」「土佐」の8両で、高知−阿波池田
4206D <キハ58|キハ28>|キハ58><キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65> →高松・小松島、所属は全て高松
後3両 よしの川 前5両 土佐
4709D 高知・中村←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28>|キハ58> 所属は全て高松
前5両 あしずり 後3両 よしの川(高知まで連結)
他に712Dの「あしずり」(高松着が0時過ぎになる列車)の阿波池田−高松が8両
712D <キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65>|キハ58><キハ58|キハ28> →高松・小松島、所属は前2両が徳島、後6両が高松
前3両は阿波池田から連結(前3両というのがミソ) 続き
「うわじま」の最長は7両、
602D・611D 宇和島←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58><キハ58|キハ28>|キハ58> 所属は全て高松 602D高松寄3両は松山から
604D・615D 宇和島←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28> 所属は全て高松 高松寄2両は松山−高松 うわじまは繁忙期に増結して8両編成になってなかったか? >>231
当時頂いた使用順序表から運用図表を起こしたものが元になっているので、
所定の運用がわかるのみ、増結までは不明、すまん。
蛇足、DE10は夏運用と冬運用があった。 うわじまは繁忙期に増結した時指定席が2両に増えたりもしてた
編成替えは大変だっただろうな 四国の気動車急行の運用を見ていると(S52.3改正)、1〜2両単位での増解結が多いにもかかわらず、
高松運転所ではあまり組み替えていないのに驚いた。
キハ58や65を1両外したり足したりとか、松山や高知で主に組み替えている。 急行に限って言えば土佐やあしずりも混んでた
比較的空いていたのがよしのがわとむろと
四国内に限れば民営化時は赤字ではなかったのでは? 更に後年の話になるけど、南風なんて2000になった直後も8両が当たり前だったもんな。高速がつながる前までの土讃線の需要は根強かった。 都市間輸送に撤すれば四国内は黒字化出来たかも知れない
坪尻や黒川なんて要らないだろう >>237
急行は3両か5両でなかったですか?
2000は6両でなかったですか? 高知から新居浜まで、よく予土に乗った。阿波池田の引き上げ線で併結される列車を
待ったものだ。 突然すみません、四国の郵便・荷物車にハマってしまった者です。
キユ25とキユニ17が併結した列車ってありましたでしょうか?
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教示お願い申し上げます。
よろしくお願いいたします。 50.3改正時の211D 土佐6号(多分6号)高知行
<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>|キユニ17>|キユ25> →高知
所定ではこの編成、ただ高松発が20時過ぎだったから、記録は少ないと思う。
なお、|キユニ17>|キユ25>は翌日238Dで高松に戻り、基本編成は高松寄りに<キハ65|を付け202Dで高松に戻り、
すぐ折り返して中村(窪川−中村間臨時列車)まで往復する。 >>242
詳しく教えてくださり、まことに有難うございます!
急行で存在していたのですね…あっても普通運用だと思っていたので、意外です。
どうも有難うございました。 四国のキユニ17は結構早く廃車になりましたね。
キユニ17の急行実績は53・10迄ですね。 度々の書き込み、申し訳ありません。
教えていただいたキユ25とキユニ17の連結列車ですが、
238Dはキユ25とキニ17ではないでしょうか?
ネットで検索してみたところ偶然238Dの写真を見つけたのですが、
キユニ17ではなくキニ17に見えてしまいまして…。
間違っていたらすみません。
よろしくお願い申し上げます。 >>245
その撮影日はいつになっていましたか?
>>242氏の発言が正しいとしても、
次位にキユニが100パーセントつながれるかどうかは分かりません。
キニになる時もあったでしょう。 >>246
確かにそうですね、失礼しました。
ちなみにその写真の撮影日は、S55年3月とありました。 >>243-247
皆の衆すまん、資料(某所で頂いた四国全島の気動車使用順序図表)からの写し間違いだった。
キユニ17ではなく、キニ15(キニなら何でも可、他に17・19)。一寸気になって調べたら、間違いが発覚。
資料から全島急行運用図表を作って35年目で間違いが解った、お詫び申し上げると共に感謝。
なお、このキニ、運用番号は高松95で、キユ(運用番号高松113)とともに211Dで高知まで行き、
238Dで高松へ戻る運用で循環使用される。
この件、 あくまで所定運用しか解らん、実際にどのように運用されていたかは不明。 修正しておきます、皆の衆すまん。
50.3改正時の211D 土佐6号(多分6号)高知行
<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>|キニ15>|キユ25> →高知
当時の四国内の急行で、他に荷物車併結列車は、予讃本線の601D (夜行うわじま)と108D
601D
<キニ56|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58> →宇和島
高松81+41+21
108D
高松← <キニ56|<キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
高松81+63+53+33 >>248-249
調べ直してくださり、有難うございます。
キユニではなくキニだったのですね。
残念ですが、あくまで所定とのことなので、
ひょんな巡り合わせでキユ25とキユニ17が手を繋いだ日もあったんじゃないかと思いを馳せることにします 笑
当時の四国全島の気動車使用順序図表…すごいものをお持ちですね、
おそらく大変貴重な代物なのではないでしょうか。
私は四国の気動車全盛期を知らない20代の若造ですが、
四国総局の郵便・荷物車は珍車揃いで本当に奥が深いですね。 >>248
一番お目にかかった202Dをお忘れですぞ。
キニ19のHM付は最高ですね。
その他、国鉄晩年でキニ56先頭201Dや、
キユ25の「いよ」もあった。 よしの川、土佐、阿波、いよ、うわじまですな。
キハ格下げのキロや、キハ58にリクライニングつけた四国色もあった。
400番台だっけ 四国のキハ58とかって島原みたいなヒゲ付けているのなかった?
・・・用途や装備に違いがあったの?
・・・中央(本社)から特急と紛らわしいから標準塗装にしろ!とか圧力無かったの? ミュージックホーンを装備してる車両
2008年のラストランのちょっと前からキハ58-293にヒゲの塗装がされてたけど
国鉄時代はこの車には搭載してなかった筈 >>254
四国色に統一をかなり早く進めたからね
ほかにもキハ20やキハ30も四国色になったし ま、2ちゃんが見られるのなら検索すればすぐに判ること。 >>254
JR化すぐは結構急行も多かったんだよな >>256
引退前にヒゲ付きになったキハ58 293
キハ65 34共々来春開業の四国鉄道文化館南館で保存されるとか
あのミュージックアラームをもう一度聞いてみたい
音階はピクの58特集号に載ってたっけ 特急形の四国色化は、瀬戸大橋開業前に完了していたが、急行形・一般形はその後に始まったので
時期は微妙。 >>263
試験塗装もあったね
確か2両だったかと JR化後すぐの頃の急行の本数は、
予讃線 うわじま 高松−宇和島 下り1本
新居浜−宇和島 下り1本
今治−宇和島 上り1本
松山−宇和島 下り2本 上り3本
いよ 高松−松山 1往復
土讃線 あしずり 高松−中村 3往復
土佐山田−中村 下り1本
土佐 高松−須崎 1往復
高松−高知 下り1本 上り2本
高徳線・牟岐線
むろと 高松−牟岐 2往復
阿波 高松−阿南 上り1本
高松−徳島 10往復
徳島線 よしの川 徳島−阿波池田 2往復 瀬戸大橋線開業後の急行の本数は、
予讃線 うわじま 新居浜−宇和島 下り1本
松山−宇和島 下り3本 上り4本
いよ 高松−松山 2往復
土讃線 あしずり 高松−中村 下り1本 上り3本
土佐山田−中村 下り1本
高知−中村 下り2本
土佐 高松−窪川 下り1本
高松−須崎 下り1本
高松−高知 2往復
高徳線・牟岐線
阿波 高松−海部 上り1本
高松−牟岐 下り2本 上り1本
徳島線 よしの川 徳島−阿波池田 2往復 >>266
61-11改正と瀬戸大橋開業で気動車急行は一気に衰退したね
急行全盛期、秋になると定期急行に修学旅行の貸切車が連結された
ウチの中学の修学旅行では定期4連+貸切3両だった >>266
61-11改正と瀬戸大橋開業で気動車急行は一気に衰退したね
急行全盛期、秋になると定期急行に修学旅行の貸切車が連結された
ウチの中学の修学旅行では定期4連+貸切3両だった 黄金時代とちゃうし。
まぁ、ヒゲは取ってくれてよかった。 ヒゲ復刻、なんで293だったんだろ?
85年に山形から転属してきた
いわば異端児
四国固有装備といえば
58 194や301など平窓スカート付もあった
(後に九州にも出たけど) 単に個人がヒゲ付けてイベント列車を走らせたいという安直やからね。
ヒゲの知らん世代やのに。
あとあと、JRに不満タラタラ。
ようやくヒゲはがしてくれてよかった。 ヒゲ付は消防の頃に見た記憶ある
実家近くに事故多発踏切があったのでよくMH鳴らしてた
当時は冷改=MH(ヒゲ)撤去だった筈なので
冷房付の58にヒゲってのは矛盾してますわなぁ 国鉄色復活が293だったからしゃーないよね。
痰壺列車終わった時に、
企画者本人がすぐに剥がせば良かったのに。 |┃三
|┃ ガラッ
|┃ ≡_∧_∧
|ミ\ ( ・ω・) おじゃましま〜す
|┃=二ニ \
|┃ ≡ | /\\
|┃
|┃
|┃ ∧_∧
|ミ\ ( ゚д゚ ) ハッ
|┃ヽ二ニ \
|┃ | /\\
(⌒⌒)
ii!i!i ドカーソ
/~~~\
⊂⊃ / ^ω^ \ ⊂⊃
.................,,,,傘傘傘:::::::::傘傘傘...............
【過疎山】
∧_∧
( ) マジ…
/ \
//| |\ \ ヌルい鉄だった俺は、よしの川が185系に変わってから
58系急行の乗り撮り納めが出来なかった事に愕然としてたな。 58系は当時あまり希少価値を感じずに結構スルーしてたのだが
今から思えばなんと勿体ない事をしたのかと後悔すること頻りだ。 国鉄末期以降、四国・中国・関西と色々な線区で58系に乗る機会があったが
どこを走ってるのも手入れがあまりできていなくて汚い車だったなあという印象しか残ってない
小学生のころ、58系よしの川号に乗った時に親のカメラで何枚か撮影したが、どれも正面幕板の汚れがひどくて
現像後ガッカリしたのをすごく覚えている。 最近JTBの昔の時刻表が復刊したんだけど85年3月と86年11月の間が売ってない
内山線開業時のうわじまのダイヤが知りたいんだが残念だ
86年3月四国版のミニ時刻表持ってたのにどうして捨てた俺
レインボー車に乗ってみたかった子供時代。急行運用だったか記憶が定かじゃないけど 79年の時刻表を見てるんだが特急急行の本数のバランスはこれぐらいが一番いいな。
特急がいかにも特急らしい その特急が出来る前の急行ダイヤもかなり圧巻だけどな
すれ違いの駅に上下線とも間に合うように飛ばしまくり 行き違い停車が長いと苦情言う客が多かったね
単線だから致し方ないのに
急行料金取ってるのだから客扱い以外の停車は許されんというわけかな
せわしないわ 43.10(1968年)改正の際、運転停車を出来るだけ減らそうと、予讃本線高松−松山間のみだが、
出来るだけ停車駅で行き違い出来るようにした。
当時の急行は原則1時間20分ヘッド、40分ごとにすれ違う。
高松・松山3時間のほぼ中間、1時間半のところが新居浜、その前後40分のところが観音寺と今治で、
これを利用して、運転停車をかなり減らす事が出来た。
これを実現するため、多度津通過の列車も出来た。
RP93年4月増刊・四国の鉄道特集より そのくせ、今では信じられん小駅にも急行が停車してたな。 急行の停車駅は割とフリーダムだった記憶
それこそ途中から普通列車になったり
特急化してからは運転停車のついでに乗降扱いとか種別変更とかなくなったな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています