四国急行黄金時代を語らないか
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予讃本線:うわじま・いよ
土讃本線:あしずり・土佐
高徳本線・牟岐線:むろと・阿波
徳島本線:よしの川
急行料金や指定料金が易く、停車駅は多め
指定席がグリーン車席になったりよかったよねー >154
青…いよ・うわじま・よしの川
赤…土佐・あしずり
緑…阿波・むろと
さすがに徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
よしの川は阿波池田〜徳島・小松島だったっけ?徳島〜小松島間は快速だったかな? >>157
>よしの川は阿波池田〜徳島・小松島だったっけ?
※高知始発の「よしの川」が、昭和55年10月改正のときまで2往復存在していました。
(阿波池田始発は4往復で、55年10月からは6往復の体制)
>徳島〜小松島間は快速だったかな?
そうですね。 正式には小松島港(臨)まで。
>さすがに徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
黄色地に黒の文字盤表示にする案があったとやら無かったとやら…
もしくは黒地に白のくり抜き表示の案。 …坂出-高松間、もしくは三本松-高松間の、割に長距離ノンストップの時間を利用して
終点の高松に到着するまでの間に、検札がてら急行券(もしくは特急券)を回収しにくる”オレンジ作戦”も、
おおむね四国総局特有のやり方ではなかったか?
まあ、さすがに宇高連絡船の場合は青函連絡船の場合とは違って乗船名簿を乗客に配って回ることはしなかったが。
上りの急行(特急も含む)で高松駅のプラットホームに降り立って
マラソン大会よろしく駆け足で連絡船に乗船する光景は否応なしに旅情を掻き立たせたもんだったw
しかも高松駅は全プラットホームが行き止まり方式の「櫛形ホーム」でもあったのだから。
この独特な旅情は上野駅でも東京駅でも、もしくは門司港駅でも味わうことはなかった。
(函館駅が唯一の例外?) >徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
青やんけ。 四国で急行に乗車するときに、ホームでも車内でも「この列車は急行ですので、乗車券のほかに急行券が必要です」というアナウンスを耳にすることがあまり無かったのは、
それだけ四国では急行列車が地域に溶け込んでいて密着していたせいだろうか?
…昔、165系急行時代の「東海」に品川から終点の静岡まで乗車したときなんか
停車駅ごとに「この列車は急行ですので急行券が必要です。 急行券をお持ちでない方はご乗車出来ませんのでご注意してください」だなんて
相当のダミ声で車内アナウンスが行なわれていたがために鬱陶しさがあったもんなのに…
ただ急行「東海」の場合、清水を発車して終点が近づいてからも急行券を回収しに来なかったのには
四国で急行列車に乗り慣れている者にとっては、やはり違和感があった。
高知から坂出の父の実家に帰省するとき、いつもは車で国道32号線を通って帰っていたものだったが、父が仕事の都合で一緒に帰れなくなったので、オイラと母と妹が一足お先に急行あしずりに乗って帰省した。昭和61年8月、オイラが小学三年生の頃だった。
いつもは車で帰省していたので、列車に乗れるのが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
土讃線はトンネルが多い路線だと改めて思ったものだ。
翌年からは坂出の父の実家で暮らすこととなり、帰省の体験すらなくなった。
オイラにとっては国鉄急行最初で最後の乗車だった。 方面別色分けに、登場当初のキハ32の帯色は一致されてた? していない。
松山はオレンジ色
高知は濃い赤
徳島は藍色 キハ32が新製で四国に来た時は全て同じ色だったと記憶するがこれはどうかな? キハ32の帯は
松山はオレンジ色
高知は濃い赤
徳島は藍色
クリーム色は同じ色だったけど太い帯の色が違うから、
同じ色ってどうなのかな? >>168
どうアカンの?
とはいえもう15年行ってないや…高架化以後は知らん。 高架化されて他都市の駅と大して変わらんようになってしまた 駅の裏に住んでいる人にとっては、便利になりましたか? 貝吹村バス炎上事故60年 33人の冥福祈るttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111103/news20111103733.html
ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111103/photo/pic18731496.jpg
1951年に東宇和郡貝吹村(現在の西予市野村町)で起きた国鉄バス炎上事故から3日で60年。事故現場近くの
慰霊塔には同日、地元住民や関係者らが訪れ、犠牲になった33人の冥福を祈り、安全への誓いを新たにした。
バス炎上事故は、51年11月3日午前8時15分ごろ、野村町発大洲町行きのボンネットバスが大西停留所を出た
直後、運転席後部の補助バッテリーの上に積んでいたセルロイドの映画フィルム18巻に引火した。貝吹村の栗木
などで秋祭りがあり、バスは乗客乗員61人の超満員で、うち33人が死亡。13人が重軽傷を負った。事故後、危険物
の持ち込み禁止やバス後方への非常口設置が義務づけられた。 久しぶりに高知に行ったが寂れた街になったな。活気が全くなかった >>167
わざわざ新製時に製造会社が線区に合わせて塗装するのかって事。
四国に到着して持ち区で検修後、多工で塗り変えたんじゃないか? 新製時に色を変えるのが工場で塗り直すのよりも「わざわざ」だという発想が根本的におかしい 当時の鉄道雑誌でも何でも漁れ
なんで自分から言い出して教えてもらう立場でそんなに偉そうにできんの?
どんな教育受けてきたのか、親の顔が見たいわ
2chで一般的な「いいから情報とソースもってこいボケ」って態度は、
対立して論争中の相手に立証責任のある場面で使うものだ
他人にものを聞くときの物言いじゃないねえよ、ガキ 自分が四国に来たとき、せと とか 道後 なんて名前の急行があった記憶。
すでに高松〜松山は三時間かからんかったな。
まだキハ65もなかったのに… >>177
んで、実際、塗装の件はどうなのよ?
おやじさん。 >わざわざ新製時に製造会社が線区に合わせて塗装するのかって事。
そのとおり。富士重の新製で鉄道ファンに新車ガイドで写真が
出ていた時に、赤い帯が入っていた。 以外に知らないんだよな。
線区別の色分けが先行しすぎて・・・。 >>178
急勾配がなくて、停車駅が少なければ、5828編成でもかなり速く走れるもんだ。
宇和島直通や土讃線となると流石に65のパワーが欲しくもなるが。 夏休みに毎年親戚のウチに遊びに行ってたが、往きは松山から第1せとって決まってた。
松山08:10→11:08高松。
宇高連絡船→宇野からうずしお→新大阪からは新幹線。
帰りは新幹線→うずしお→宇高連絡船→第3せと。
だいたい東京〜松山が11時間でした。
のちに うわじま に改称したけど。 もう30年以上、須崎駅に行ってないが今は寂れた駅になってしまったのかな? 急行ってんじゃないが 最終期のキハ65や58は、各停だったがダイヤが寝てるせいかかつての力行は観られんかった(T_T)
救われたんは中山近辺か。
直線は80前後出してた。
四半世紀前は 高松〜松山にまだ七両の急行があった。 急行がバンバン走ってた頃が懐かしいな。そのころは特急は高嶺の花で乗れず、いつも急行だったわ。新大阪→中村を全てグリーンに座るのが夢だった… 宇和島、中村向いて通常は3両めがグリーン車。
先頭58 次が65 G28 58 65 58 (+58) が予讃本線の定番編成だったなぁ。 >>190
52年4月改正より
高松← <キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
107D 102D 101D 高松63+53+33
603D 610D 高松62+32+52
606D 高松64+43+24(宇和島で組成、高松所入庫後分解)
高松← <キニ56|<キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
108D 高松81+63+53+33
高松← <キハ28|キハ58><キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
702D 103D 高松72+36
203D 210D 高松75+26
105D 高松74+25(高松への戻りはローカル)
608D 高松73+24
高松← <キハ58|<キハ28|キハ58><キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
611D 高松64+73+24(下記編成が高松所でそのまま折返し)
602D 高松64+72+23 追記
高松21〜38
高松← <キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
高松41〜53
高松← <キハ65|
高松61〜64
高松← <キハ58|
高松71〜75
高松← <キハ28|キハ58>
なお、運用番号数≠使用本数(出区から帰区までが一つの運用番号)
(徳島13は出区してから4日目になってやっと徳島に戻る) 近いうちに岡山→宿毛→(バス)→宇和島→岡山を計画している。
残念ながら中村→宿毛は鈍行になりそう 確か高松駅での誤乗防止の為に急行にヘッドマークが取り付けられたと、何かの雑誌か資料で読ん
だ記憶があるが、そのヘッドマーク付き四国の急行は格好良く誇らしげだったし、また他地区の
ヘッドマーク無しの急行と比べ同じ急行でも四国の方が何か格上な気がした餓鬼の頃。 末期の四国急行の指定席は旧グリーン車で乗り得でした。 昭和五十一年、高校二年生の夏休みにワイド周遊券を使い四国一周の旅。すでに特急も
走っていたが、まだまだ急行が主役。主な駅では、必ずと言っていいほど普通列車と連絡
していたのでスケジュール作りも楽。普通列車の行き違い待ちの長時間停車もあって、
たくさんの駅に途中下車できました。 >>198
激しく同意。
>他地区のヘッドマーク無しの急行
四国育ちの者から見れば、むしろこちらのほうに違和感があったぐらいで… >>162
>土讃線はトンネルが多い路線だと改めて思ったものだ。
いかんせん、土佐山田〜讃岐財田間だけでもトンネルが96本もあったんだから(昭和50年時点で)。
ちなみに阿波池田(もしくは箸蔵)から讃岐財田の間となれば意外にトンネルの数は少なく、たったの9本。
香川県側だけならば県境の猪鼻トンネルを合わせても、わずか2本。 >>173
電車通りの街路樹のほとんどを切り倒してしまったら余計に田舎くさい市街地に成り下がった… 北海道より四国の方が気動車急行先に無くなるとは思わなかった 種別が特急なだけで実態は…
キハ185なんて諸にキハ58系の後継車だったし。 やはり時代が変わったと痛感したのが、昭和61年11月のダイヤ改正。
予讃線では大半の急行が格上げされたり、運転区間短縮されたりして、
L特急「しおかぜ」13往復体制になった。
瀬戸大橋線開業の1年半前の出来事。 子供の時(70年代)、親の田舎伊予長浜。
記憶にあるのは伊予長浜駅のホームがなくて
列車ドアからみんな飛び降りた記憶ありますが。
その時の列車は急行だっとと思います。 >>209
乗る時はどうしたの?
駅員がタラップを持ってきたとか? 長浜駅は6両分しかホームがないので
おそらく8両か9両のうわじま号じゃないかな。 夜行が予讃は急行なのに土讃は快速で差を見せつけられた思い出。 >>215
この店が昔ラーメン屋だった頃は国鉄急行色だったような希ガス。 >>217
それって予土線内は普通列車じゃなっかたかね?
昔の時刻表をお持ちの方、情報提供よろしく。 >>217-218
昭和52年頃
4701D〜1841D 高松5:03〜宇和島11:35
1846D〜4706D 宇和島9:34〜高松16:14
編成
宇和島・中村← <キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28> →高松
宇和島編成は高松寄り2両
高松−中村編成は高松所属、宇和島編成は徳島所属
宇和島到着後、ローカルで松山往復、翌日宇和島江川崎往復後、あしずりで高松に戻る >>219
ありがとう
当時の時刻表持ってんだ
編成が長い急行だったと思うが
宇和島発が2両なら8両編成だったのかな? 亡くなられた原田さんの痴漢冤罪事件の悲劇を知ろう
事件の真相を知り、みんなで支援しましょう。
フジテレビが報じた事件の特集番組
http://www.youtube.com/watch?v=_No0gcB7g2g&list=PLCEEAA254456EC5A3
次回、第十一回口頭弁論は
5月20日(月)11時より、東京地方裁判所第803号法廷にて開廷されます。 昭和56年ごろ四国の急行で生録したが、なかなかチャイムが聞けなかった >>218-219-220
『Wikipedia』に以下の記述が。
一時高松 - 窪川 - 宇和島間運転の急行「あしずり」が設定されていた
ことがあり、予土線内は快速となっていた。直通がなくなってからも
しばらくは窪川 - 宇和島間運転の快速が1往復残っていた時期があり、
初期の宇和島駅からの「清流しまんと号」が連結されていた。
(予土線 - Wikipedia)
なお、予土線直通快速の運転期間は昭和49年3月〜昭和60年3月まで。 四国内の最長編成は何両なのかな
俺が知る限りはマリンライナーの11両編成か
快速川之江・高知行きのDFと郵便車込みの11両編成
急行だと8両編成の宇和島かあしずりかな 運用的な黄金時代は昭和40年代。
利用者目線での黄金時代はグリーン格下げの普通車指定席登場のあと。 マリンは、12両編成があった。瀬戸が14両編成だったね。2000系は10両編成。回送が付いた、土佐の9両編成は見た。 >>226
でも、「瀬戸」は高松駅と坂出駅のホームからはみ出ていた。
「後ろの車両のドアは開きません」という
車内放送をやってたような記憶がある。 JR化後は無視して、
「よしの川」「土佐」併結で10両編成は撮影した。 52年3月改正の時点での最長編成は、所定では「よしの川」併結の「あしずり」「土佐」の8両で、高知−阿波池田
4206D <キハ58|キハ28>|キハ58><キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65> →高松・小松島、所属は全て高松
後3両 よしの川 前5両 土佐
4709D 高知・中村←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28>|キハ58> 所属は全て高松
前5両 あしずり 後3両 よしの川(高知まで連結)
他に712Dの「あしずり」(高松着が0時過ぎになる列車)の阿波池田−高松が8両
712D <キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65>|キハ58><キハ58|キハ28> →高松・小松島、所属は前2両が徳島、後6両が高松
前3両は阿波池田から連結(前3両というのがミソ) 続き
「うわじま」の最長は7両、
602D・611D 宇和島←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58><キハ58|キハ28>|キハ58> 所属は全て高松 602D高松寄3両は松山から
604D・615D 宇和島←<キハ58|キハ65|キロ28|キハ58>|キハ65><キハ58|キハ28> 所属は全て高松 高松寄2両は松山−高松 うわじまは繁忙期に増結して8両編成になってなかったか? >>231
当時頂いた使用順序表から運用図表を起こしたものが元になっているので、
所定の運用がわかるのみ、増結までは不明、すまん。
蛇足、DE10は夏運用と冬運用があった。 うわじまは繁忙期に増結した時指定席が2両に増えたりもしてた
編成替えは大変だっただろうな 四国の気動車急行の運用を見ていると(S52.3改正)、1〜2両単位での増解結が多いにもかかわらず、
高松運転所ではあまり組み替えていないのに驚いた。
キハ58や65を1両外したり足したりとか、松山や高知で主に組み替えている。 急行に限って言えば土佐やあしずりも混んでた
比較的空いていたのがよしのがわとむろと
四国内に限れば民営化時は赤字ではなかったのでは? 更に後年の話になるけど、南風なんて2000になった直後も8両が当たり前だったもんな。高速がつながる前までの土讃線の需要は根強かった。 都市間輸送に撤すれば四国内は黒字化出来たかも知れない
坪尻や黒川なんて要らないだろう >>237
急行は3両か5両でなかったですか?
2000は6両でなかったですか? 高知から新居浜まで、よく予土に乗った。阿波池田の引き上げ線で併結される列車を
待ったものだ。 突然すみません、四国の郵便・荷物車にハマってしまった者です。
キユ25とキユニ17が併結した列車ってありましたでしょうか?
ご存知の方いらっしゃいましたら、ご教示お願い申し上げます。
よろしくお願いいたします。 50.3改正時の211D 土佐6号(多分6号)高知行
<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>|キユニ17>|キユ25> →高知
所定ではこの編成、ただ高松発が20時過ぎだったから、記録は少ないと思う。
なお、|キユニ17>|キユ25>は翌日238Dで高松に戻り、基本編成は高松寄りに<キハ65|を付け202Dで高松に戻り、
すぐ折り返して中村(窪川−中村間臨時列車)まで往復する。 >>242
詳しく教えてくださり、まことに有難うございます!
急行で存在していたのですね…あっても普通運用だと思っていたので、意外です。
どうも有難うございました。 四国のキユニ17は結構早く廃車になりましたね。
キユニ17の急行実績は53・10迄ですね。 度々の書き込み、申し訳ありません。
教えていただいたキユ25とキユニ17の連結列車ですが、
238Dはキユ25とキニ17ではないでしょうか?
ネットで検索してみたところ偶然238Dの写真を見つけたのですが、
キユニ17ではなくキニ17に見えてしまいまして…。
間違っていたらすみません。
よろしくお願い申し上げます。 >>245
その撮影日はいつになっていましたか?
>>242氏の発言が正しいとしても、
次位にキユニが100パーセントつながれるかどうかは分かりません。
キニになる時もあったでしょう。 >>246
確かにそうですね、失礼しました。
ちなみにその写真の撮影日は、S55年3月とありました。 >>243-247
皆の衆すまん、資料(某所で頂いた四国全島の気動車使用順序図表)からの写し間違いだった。
キユニ17ではなく、キニ15(キニなら何でも可、他に17・19)。一寸気になって調べたら、間違いが発覚。
資料から全島急行運用図表を作って35年目で間違いが解った、お詫び申し上げると共に感謝。
なお、このキニ、運用番号は高松95で、キユ(運用番号高松113)とともに211Dで高知まで行き、
238Dで高松へ戻る運用で循環使用される。
この件、 あくまで所定運用しか解らん、実際にどのように運用されていたかは不明。 修正しておきます、皆の衆すまん。
50.3改正時の211D 土佐6号(多分6号)高知行
<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>|キニ15>|キユ25> →高知
当時の四国内の急行で、他に荷物車併結列車は、予讃本線の601D (夜行うわじま)と108D
601D
<キニ56|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58> →宇和島
高松81+41+21
108D
高松← <キニ56|<キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
高松81+63+53+33 >>248-249
調べ直してくださり、有難うございます。
キユニではなくキニだったのですね。
残念ですが、あくまで所定とのことなので、
ひょんな巡り合わせでキユ25とキユニ17が手を繋いだ日もあったんじゃないかと思いを馳せることにします 笑
当時の四国全島の気動車使用順序図表…すごいものをお持ちですね、
おそらく大変貴重な代物なのではないでしょうか。
私は四国の気動車全盛期を知らない20代の若造ですが、
四国総局の郵便・荷物車は珍車揃いで本当に奥が深いですね。 >>248
一番お目にかかった202Dをお忘れですぞ。
キニ19のHM付は最高ですね。
その他、国鉄晩年でキニ56先頭201Dや、
キユ25の「いよ」もあった。 よしの川、土佐、阿波、いよ、うわじまですな。
キハ格下げのキロや、キハ58にリクライニングつけた四国色もあった。
400番台だっけ 四国のキハ58とかって島原みたいなヒゲ付けているのなかった?
・・・用途や装備に違いがあったの?
・・・中央(本社)から特急と紛らわしいから標準塗装にしろ!とか圧力無かったの? ミュージックホーンを装備してる車両
2008年のラストランのちょっと前からキハ58-293にヒゲの塗装がされてたけど
国鉄時代はこの車には搭載してなかった筈 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています