四国急行黄金時代を語らないか
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予讃本線:うわじま・いよ
土讃本線:あしずり・土佐
高徳本線・牟岐線:むろと・阿波
徳島本線:よしの川
急行料金や指定料金が易く、停車駅は多め
指定席がグリーン車席になったりよかったよねー >>100
ヒゲの急行のMHにビクーリ。
懐かしくないけど匹の8000系の車内チャイムが
ヲタ急の20000と同じというのも奇縁っす。 30年前は松山ー八幡浜を特急でも2・3時間かかったのに、今では内子線経由で50分で行けるのだが、瀬戸内海見ながら弁当食べる事ができた昔の方が良かったなあ…
一日一本でいいから長浜経由に急行をとおして欲しい 最後のだけ見れた。うわぁ〜なつかしす。
小学生の時、一度だけ急行いよを乗ったことがある。この時便所のランプがずっと点いていてションベンが出来なかったなぁ。多分キセルしてたんだろう 銘柄入り急行券がなかった急行列車は「よしの川」のみ。
「むろと」「阿波」もなぜか数本ハザがあった。 ガキの時は徳島だったので予讃線・土讃線の各急行と比べると、
「阿波」「むろと」「よしの川」どうしても格下に思えた。
最大でも3両だし、グリーン車も半室で全列車付いてなかったしね。
高松の「阿波」が出る0番線と、「いよ」とかが出るホームも違いすぎ(笑)
向こうはホームに手押し車?ワゴン?の売店とかも出てたからね〜
ただ「よしの川」は南海四国ラインの一部だったからか、編成以外は意外に?華やかだった。
徳島以遠、高知とか行く乗客も多くて活気と言うか、ビジネスライクな「阿波」とは雰囲気違ってた。
小松島港〜徳島間は快速運転。県内の駅の運賃表に「なんば」も普通にあったし。
大阪から徳島に行くときは小松島経由が主流だったろうが、大阪〜高知だと高松経由とどっちが主流だったんだろう? 下手に遅い鉄道や一般道使うくらいなら、
車利用するしないに関係なく一晩寝てるだけで着くフェリーの方が安いし楽。
本当に急ぐ奴だけ航空利用。 >>116
新幹線岡山開業までは小松島経由のほうが分があった。 大阪高知特急フェリーの船酔いには泣かされた。YSの席は全日空から埋まり、東亜によく回されたなぁ >>120
今だったら修行僧で満杯だっただろうなw >>122
懐かしいなぁ、東亜のYS
自分が三・四歳頃に乗った事あるけど着陸時に凄い衝撃と急減速でシートベルトのところが痛かったのが印象に残ってる。
スレチスマソ 高松に着いた夜行急行は6時発のホーバー急行便に連絡、宇野から快速電車、岡山でひかりに乗り継ぐと、新大阪に8時30分に着き
御堂筋線に乗り換えれば梅田や本町9時の用事に間に合うのでビジネスマンや単身赴任族にも人気があった。
飛行機だと朝一の便でも伊丹空港からの道路が少し混んでいれば、大阪都心に9時に着くことができなかった。
瀬戸内夜行フェリーは今より船足が遅く、大阪弁天埠頭入港は9時、10時の便が多かった。
ただし神戸青木には良い時間についたので、ここから阪神電車という手もあった(フェリー発着時間帯は阪神急行が青木に停まった) >>112
ハザはキロハ25のハだろう。
一度夏に高松−徳島間に乗車したが満員だった。 「吉野川」(キハ55)から小松島港で神戸-大阪行阿摂航路乗り換えが呑気で
良かった時代が懐かしい。「ちくわ」を買って齧りながら昼飯は定番親子丼
か船に依っては和定食、のんびり昼寝出来た。
徳島−小松島港のチョン行キハ11が改造で内壁デコラ張り(マーブル調)で
扇風機取り付けだった。 >>126
ゆとり世代には絶対に無理そうですね、その乗継からの直での仕事は。 昔は寝台じゃない夜行列車で乗り込んでそのまま仕事は普通
長距離列車の始発終着駅のホームには洗面所が(便所とは別に)設置されていた時代 ホームの洗面所は殆ど見られなくなったが、あの丸い形が独特だったし、アルマイト
の嗽コップがよく盗まれて鎖だけのが多かった。
時刻表に丸の中に洗のマークがあった。徳島など後年探しても無いので不思議だった
けれど、公安官詰所だかの横にチョコンと一つあったのを見つた。 どこかで読んだことがあるのだが...
予讃(本)線の下り急行(「いよ」か?)に連結されたキユニ(15?)だかが、
上りは単独(当然片運)で帰っていくということがあったそうだが、どうなっていたんだろう。
最後方に反対向きにぶら下がっていたんだろうか。そうしなければ、転写台で方向転換
必要だし。
>上りは単独(当然片運)で帰っていく
そんなモンねぇよ。 多度津〜高松の検査明け試運転じゃないか?
キハ181単行でもやってたし、
今でもJR車両は1両でしょっちゅう走っているぜ。 >>136
俺も見たことがある。どこに書いてあったのだろう。
古いピクの巻末の「四国だより」かなあ?
尻切れトンボとか表現してあった様な気がする。 >>138
漏れもなんか鉄道雑誌で見た記憶有るなぁ。 RM Library No.20 「国鉄郵便・荷物気動車の歩み(上)」キニ15の項(P39)に
「時に方運車でありながら単行運転も行われた」とある。
残念ながら写真はないが。どこかで見た覚えがあるんだけれど。どこだったろう。 高徳線の下り始発と上り終車は、「阿波」の送り込みを兼ねてキロハ28 1込みの編成だった。
高松で「うわじま」や中村夜行と接続していたからよく利用したもんだ。
このキロハ28 1の普通席は、一般的なクロスシートだったが、
窓割に合わせたので、やたらシートピッチが広く、向かいの席に足を伸ばすのがしんどかったな。
たった1両の珍車にそれでも乗りたくて、あえてこの車両に乗っていたのを思い出した。 >>141
大阪発「鷲羽」の深夜連絡で5時前まで待たされた徳島行き始発だわ。
何度か世話になったけど、ロハの分離壁側ボックスが特に広くてね。
足が届かん。 >>135
ガキは黙ってろ。知らねえくせに口出すな。 鉄ピク93年4月号臨時増刊「四国の鉄道」P107に
端岡駅を通過する尻切れトンボのキニ152の写真がある 今月のRMに、尻切れトンボで試運転をするキハ47 2の写真がある >>145
ヨンサントオの編成表にも下りで継走するユニがあって、上りは見当たらなかったんです。
やっぱ単独帰還でしたね。
去年、祖母が亡くなってJRで高知駅まで乗った。新しい高知駅を見て怒りより大笑いしてしまった ディーゼル王国
それは四国でもありそして・・・千葉でもあったりした。 昭和45年8月時刻表
23:25着 急行「うわじま52号」宇和島発
23:43発 急行「うわじま52号」宇和島行
23:48着 急行「あしずり51号」須崎行
23:56着 急行「うわじま8号」宇和島発
24:00着 急行「あしずり7号」窪川発(窪川〜高知間普通列車)
00:22発 快速 土佐佐賀行
00:49着 急行「あしずり51号」土佐佐賀発
00:50発 急行「うわじま1号」宇和島行(一部車両、先発の土佐佐賀行に多度津から併結高知行)
02:22発 急行「いよ51号」宇和島行(松山〜宇和島間定期普通列車)
02:32発 急行「土佐51号」土佐佐賀行(高知〜土佐佐賀間臨時普通列車)
03:20着 急行「うわじま53号」八幡浜発
03:25着 急行「うわじま9号」八幡浜発
03:41発 快速 土佐佐賀発
03:46発 急行「いよ52号」宇和島行(松山〜宇和島間定期普通列車)
03:50発 急行「土佐52号」高知行
04:39発 急行「うわじま51号」宇和島行
04:55発 急行「あしずり1号」土佐佐賀行
05:00発 急行「うわじま1号」宇和島行
05:05発 急行「土佐53号」窪川行(高知〜窪川間定期普通列車)
昭和45年なら讃岐財田発の快速客レが興味深い。
讃岐財田着は無いのに。 四国の急行はおおむね「ゴトンゴトン」という音を立てながら走行するというのに、
本州側の、それも電化の複々線区間を走行する”汽車急行(おおむねキハ58系)”なんかはディーゼル音こそするものの
「ヒューンガラガラガラガラ…」という連続音ですれ違って走り去っていったのが、
本州旅行中の四国在住の者にとってはむしろ新鮮なイメージがあったりする。
連絡船で高松まで戻ったら、行き先表示版がカラフルに思えたりして、
二重にカルチャーショックを受けたりするw
色別で区分けされていた行き先表示版(国鉄四国総局時代・高松駅)
青 … 松山・宇和島方面
赤 … 高知・中村方面
緑 … 徳島・牟岐方面
矢山康夫さんって、ちょっとしたアイデアマンだったんだね? どの線も同じような姿かたちの車両が走ってたわけで、
誤乗を防ぐためにはそうするよりなかったのでしょうね。 >154
青…いよ・うわじま・よしの川
赤…土佐・あしずり
緑…阿波・むろと
さすがに徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
よしの川は阿波池田〜徳島・小松島だったっけ?徳島〜小松島間は快速だったかな? >>157
>よしの川は阿波池田〜徳島・小松島だったっけ?
※高知始発の「よしの川」が、昭和55年10月改正のときまで2往復存在していました。
(阿波池田始発は4往復で、55年10月からは6往復の体制)
>徳島〜小松島間は快速だったかな?
そうですね。 正式には小松島港(臨)まで。
>さすがに徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
黄色地に黒の文字盤表示にする案があったとやら無かったとやら…
もしくは黒地に白のくり抜き表示の案。 …坂出-高松間、もしくは三本松-高松間の、割に長距離ノンストップの時間を利用して
終点の高松に到着するまでの間に、検札がてら急行券(もしくは特急券)を回収しにくる”オレンジ作戦”も、
おおむね四国総局特有のやり方ではなかったか?
まあ、さすがに宇高連絡船の場合は青函連絡船の場合とは違って乗船名簿を乗客に配って回ることはしなかったが。
上りの急行(特急も含む)で高松駅のプラットホームに降り立って
マラソン大会よろしく駆け足で連絡船に乗船する光景は否応なしに旅情を掻き立たせたもんだったw
しかも高松駅は全プラットホームが行き止まり方式の「櫛形ホーム」でもあったのだから。
この独特な旅情は上野駅でも東京駅でも、もしくは門司港駅でも味わうことはなかった。
(函館駅が唯一の例外?) >徳島本線唯一の急行・よしの川には専用色は用意されなかったみたいだね
青やんけ。 四国で急行に乗車するときに、ホームでも車内でも「この列車は急行ですので、乗車券のほかに急行券が必要です」というアナウンスを耳にすることがあまり無かったのは、
それだけ四国では急行列車が地域に溶け込んでいて密着していたせいだろうか?
…昔、165系急行時代の「東海」に品川から終点の静岡まで乗車したときなんか
停車駅ごとに「この列車は急行ですので急行券が必要です。 急行券をお持ちでない方はご乗車出来ませんのでご注意してください」だなんて
相当のダミ声で車内アナウンスが行なわれていたがために鬱陶しさがあったもんなのに…
ただ急行「東海」の場合、清水を発車して終点が近づいてからも急行券を回収しに来なかったのには
四国で急行列車に乗り慣れている者にとっては、やはり違和感があった。
高知から坂出の父の実家に帰省するとき、いつもは車で国道32号線を通って帰っていたものだったが、父が仕事の都合で一緒に帰れなくなったので、オイラと母と妹が一足お先に急行あしずりに乗って帰省した。昭和61年8月、オイラが小学三年生の頃だった。
いつもは車で帰省していたので、列車に乗れるのが嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。
土讃線はトンネルが多い路線だと改めて思ったものだ。
翌年からは坂出の父の実家で暮らすこととなり、帰省の体験すらなくなった。
オイラにとっては国鉄急行最初で最後の乗車だった。 方面別色分けに、登場当初のキハ32の帯色は一致されてた? していない。
松山はオレンジ色
高知は濃い赤
徳島は藍色 キハ32が新製で四国に来た時は全て同じ色だったと記憶するがこれはどうかな? キハ32の帯は
松山はオレンジ色
高知は濃い赤
徳島は藍色
クリーム色は同じ色だったけど太い帯の色が違うから、
同じ色ってどうなのかな? >>168
どうアカンの?
とはいえもう15年行ってないや…高架化以後は知らん。 高架化されて他都市の駅と大して変わらんようになってしまた 駅の裏に住んでいる人にとっては、便利になりましたか? 貝吹村バス炎上事故60年 33人の冥福祈るttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111103/news20111103733.html
ttp://www.ehime-np.co.jp/news/local/20111103/photo/pic18731496.jpg
1951年に東宇和郡貝吹村(現在の西予市野村町)で起きた国鉄バス炎上事故から3日で60年。事故現場近くの
慰霊塔には同日、地元住民や関係者らが訪れ、犠牲になった33人の冥福を祈り、安全への誓いを新たにした。
バス炎上事故は、51年11月3日午前8時15分ごろ、野村町発大洲町行きのボンネットバスが大西停留所を出た
直後、運転席後部の補助バッテリーの上に積んでいたセルロイドの映画フィルム18巻に引火した。貝吹村の栗木
などで秋祭りがあり、バスは乗客乗員61人の超満員で、うち33人が死亡。13人が重軽傷を負った。事故後、危険物
の持ち込み禁止やバス後方への非常口設置が義務づけられた。 久しぶりに高知に行ったが寂れた街になったな。活気が全くなかった >>167
わざわざ新製時に製造会社が線区に合わせて塗装するのかって事。
四国に到着して持ち区で検修後、多工で塗り変えたんじゃないか? 新製時に色を変えるのが工場で塗り直すのよりも「わざわざ」だという発想が根本的におかしい 当時の鉄道雑誌でも何でも漁れ
なんで自分から言い出して教えてもらう立場でそんなに偉そうにできんの?
どんな教育受けてきたのか、親の顔が見たいわ
2chで一般的な「いいから情報とソースもってこいボケ」って態度は、
対立して論争中の相手に立証責任のある場面で使うものだ
他人にものを聞くときの物言いじゃないねえよ、ガキ 自分が四国に来たとき、せと とか 道後 なんて名前の急行があった記憶。
すでに高松〜松山は三時間かからんかったな。
まだキハ65もなかったのに… >>177
んで、実際、塗装の件はどうなのよ?
おやじさん。 >わざわざ新製時に製造会社が線区に合わせて塗装するのかって事。
そのとおり。富士重の新製で鉄道ファンに新車ガイドで写真が
出ていた時に、赤い帯が入っていた。 以外に知らないんだよな。
線区別の色分けが先行しすぎて・・・。 >>178
急勾配がなくて、停車駅が少なければ、5828編成でもかなり速く走れるもんだ。
宇和島直通や土讃線となると流石に65のパワーが欲しくもなるが。 夏休みに毎年親戚のウチに遊びに行ってたが、往きは松山から第1せとって決まってた。
松山08:10→11:08高松。
宇高連絡船→宇野からうずしお→新大阪からは新幹線。
帰りは新幹線→うずしお→宇高連絡船→第3せと。
だいたい東京〜松山が11時間でした。
のちに うわじま に改称したけど。 もう30年以上、須崎駅に行ってないが今は寂れた駅になってしまったのかな? 急行ってんじゃないが 最終期のキハ65や58は、各停だったがダイヤが寝てるせいかかつての力行は観られんかった(T_T)
救われたんは中山近辺か。
直線は80前後出してた。
四半世紀前は 高松〜松山にまだ七両の急行があった。 急行がバンバン走ってた頃が懐かしいな。そのころは特急は高嶺の花で乗れず、いつも急行だったわ。新大阪→中村を全てグリーンに座るのが夢だった… 宇和島、中村向いて通常は3両めがグリーン車。
先頭58 次が65 G28 58 65 58 (+58) が予讃本線の定番編成だったなぁ。 >>190
52年4月改正より
高松← <キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
107D 102D 101D 高松63+53+33
603D 610D 高松62+32+52
606D 高松64+43+24(宇和島で組成、高松所入庫後分解)
高松← <キニ56|<キハ58|<キハ65|<キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
108D 高松81+63+53+33
高松← <キハ28|キハ58><キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
702D 103D 高松72+36
203D 210D 高松75+26
105D 高松74+25(高松への戻りはローカル)
608D 高松73+24
高松← <キハ58|<キハ28|キハ58><キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
611D 高松64+73+24(下記編成が高松所でそのまま折返し)
602D 高松64+72+23 追記
高松21〜38
高松← <キハ58|キロ28|キハ65|キハ58>
高松41〜53
高松← <キハ65|
高松61〜64
高松← <キハ58|
高松71〜75
高松← <キハ28|キハ58>
なお、運用番号数≠使用本数(出区から帰区までが一つの運用番号)
(徳島13は出区してから4日目になってやっと徳島に戻る) 近いうちに岡山→宿毛→(バス)→宇和島→岡山を計画している。
残念ながら中村→宿毛は鈍行になりそう 確か高松駅での誤乗防止の為に急行にヘッドマークが取り付けられたと、何かの雑誌か資料で読ん
だ記憶があるが、そのヘッドマーク付き四国の急行は格好良く誇らしげだったし、また他地区の
ヘッドマーク無しの急行と比べ同じ急行でも四国の方が何か格上な気がした餓鬼の頃。 末期の四国急行の指定席は旧グリーン車で乗り得でした。 昭和五十一年、高校二年生の夏休みにワイド周遊券を使い四国一周の旅。すでに特急も
走っていたが、まだまだ急行が主役。主な駅では、必ずと言っていいほど普通列車と連絡
していたのでスケジュール作りも楽。普通列車の行き違い待ちの長時間停車もあって、
たくさんの駅に途中下車できました。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています