特急まつかぜといそかぜを語ろう
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新大阪・大阪〜米子・博多間を走ってたまつかぜと米子〜博多間
(末期は益田〜小倉間)を走ってたいそかぜについて語りましょう 現在上府駅建設中のあたりを爆走していくのを通学中に毎朝見てた。 >>70
山陰線西部はいろいろな愛称のローカル急行が設定されてたから各々印象が薄いのだろう。
古くはしんじ・美保・石見etc。九州直通のあきよしもユニークな運転形態だったし。 「まつかぜ」は博多→新大阪を通しで2回乗車。1回目は自由席。
でも、指定券を集め出してから今度は指定席で乗車。しかし、運悪く山側だったので結構ガッカリした。
景色の良い区間は食堂車に足を運んだものの、コーヒーだけで長時間居座る度胸はなく、
結局自席に戻って大人しくしていた。席を移ろうにも車内は満席の盛況だった。
でも、よく見ていると、九州方面から乗車した乗客の多くは東萩で降りて、
入れ替わるように乗ってくる乗客も多かった。
鳥取で増結があり、それもほぼ満席になる程当時は人気の列車だったんだ。
その後、「おき」がデビューし、僅か4両(後に3両)の基本編成で運転される状態に驚きを隠せなかった。 「さんべ」と違い、末期の「ながと」は山口県北部から下関・北九州へのビジネス向け時間帯(下りが朝、上りが夜)運行で、
半日以上かけて山陰線の西半分を走り通す「さんべ」に比べると、よそ者は使いにくかったしな。 「安芸」の廃止が決定したころ
東京→(新幹線)→新大阪→(安芸)→下関→(まつかぜ)→新大阪→(新幹線)→名古屋→
(344M)→東京なんてやったな。
土曜夕方出発で月曜朝帰着。
切符を都内某駅で全部買ったら「乗りにいくだけ?どうもありがとうございます」
といわれた。
いそかぜ
博⇔⇔佐世保
多⇔小倉⇔⇔新大阪
↓
宮崎 新大阪・大阪〜米子・博多間
懐かし板の「まつかぜ」なら「新大阪・大阪〜鳥取・博多間」だろうが!
とつまらない突っ込みを入れといて…w
s40〜43頃にも、いそかぜ(大阪-宮崎)があったんだね。 >>77
80系末期の付属編成が米子回転だったのと、181系化で分断された博多まつかぜ
と、鳥取まつかぜ前身のやくもが新大阪・大阪〜米子の運転だったので、米子は間違いではない。
むしろ鳥取が抜けてるだけ。 まつかぜ、あさしお、はまかぜがキハ181系化されて、運用から外された
キハ80系が向日町運転所、加古川、篠山口などの駅構内に留置されているのを
みかけた。また、境線大篠津駅構内に、廃車になったキサシ180などとともに、
キハ80が一両留置されているのをみた。 キハ82の列車名板は、たしか四角形(台形の天地逆)だよね?
留めネジの位置のせいか、五角形と表現されてるのをたまに見かけるけど。(w
>>81
キハ82の愛称板は逆五角形じゃなかった? 角度は緩いけど。
四角形になったのは181系だったと思うよ。 82系「まつかぜ」には東萩から松江まで、トマトジュース一杯で
ずっと食堂車から美しい景色を眺めていた。他に客はあまりいなく、
ウエイトレスさんも「にぎやかしでいいですよ」と快諾してくれた。
その時の車両は、キシ80−901だった。
松江からは「やくも」のキサシ180にコーヒー一杯で新見までいた。
さすがに伯備線はカーブも多く、山が近いので気分悪くなって新見からは
席に戻った。キサシ180は寒色の内装だったので、何故か幼稚園の便所を
連想させられたのも一因だったと思う。 昭和57年ころ下宿していた京都から小倉に帰省するとき、思いっきり早起きして大阪から小倉まで「まつかぜ」に乗車
しました。さすがにみどりの窓口で怪訝な顔されましたが…
真昼間から日本海をながめながら食堂車でエビフライをつまみに酒飲めてサイコーでした。
小倉で下車後、駅裏のトルコ風呂もえがったですよ。 一度だけ下り「まつかぜ」に小倉から博多まで乗りましたね
次の日の朝から博多で急遽会議が開かれるというので一杯だけひっかけて
小倉駅で切符を買って最初に来た列車に乗りましたがそれが「まつかぜ」でした
すいていましたが改札のとき車掌に特急券を買わされました 下関から萩まで鈍行で3時間。いそかぜの復活を期待します。 >>86
その区間、下関―新山口を電車、新山口―萩のバス利用が多いだろう。
だからいそかぜが無くなっちゃうんだw 急行さんべなんですが
下りのうち1本は3分割して山陰線と美祢線と山口線を経由した後に
全部が併合して博多へ向かうという
いわば完全分割併合3階建て列車だったことがあったと思うのですが
検索しても山口線経由は小郡止まりという情報しか出てきません
わたしの記憶違いでしょうか >>88
昔は末端区間まで行く急行・準急があったよね。
キハ82系がキハ58系の様に分割・併合が容易な
車両だったら、津山や三次あたりにも特急が
設定されたのだろうか・・・ 「さんべ」、なつかしいです。
3階建てというのも記憶にあります
分割後・もう一度併合というのも記憶にあります
でも3つが全部併合だったかの記憶がないです。ごめんね。 「さんべ」下り2号、上り1号の事ですね。新幹線博多開業以前までは
3層経てでした。基本編成はグリーン車1両を含む4両で普通車1両が指定席でした。
この4両は鳥取〜熊本間を美祢線経由で結んでいました。第一付属編成はモノクラス3両で
全車自由席。こちらは米子〜熊本間を素直に山陰線経由で進み、長門市で別れて
再び下関で一緒になる、あの有名な列車です。第二付属編成はモノクラス2両で
い両が指定席。この編成は鳥取〜小郡(現新山口)間で、山口線経由。この編成のみは
小郡止めで、再び合流する事はありませんでした。
この山口線「さんべ」は新幹線博多開業時になくなったため、あまり知られていません。
同じ時期に走った「あきよし」が益田〜厚狭間を美祢線経由と山口線経由で離合運転をしていたので、
そちらと混同される事が多いようです。 >>88
記憶に自信があるわけではないけれど、1970年ごろは完全分割併合3階建て列車だった様な気がする。
これができるのは3線経由の時間がほぼ同じだからという説明を当時の鉄道雑誌で見た様な気もする。 昭和42年ごろ
「あきよし」は
浜田始発で石見益田で分割
山口線経由東唐津行,美祢線経由天ヶ瀬行
厚狭で再併結。
「やえがき」は
米子始発で長門市で分割,下関で再併結,共に熊本行
30年前大阪駅で
800着の【銀河】と800発の【まつかぜ】が、横に並んでいました、今、考えると、凄いですね。 >>95
同時発着だから接続してなかったんだよね。
出雲3号だと丹波地方へは早過ぎるから接続してくれればいいのにと思ってた。
>>97
末期は銀河の方が少し早く大阪に到着しててた様に思います。
まつかぜ1号は、大阪駅に7:30(末期は7:40)に入線して来たので、車内に荷物を置いた後に、水了軒の駅弁や途中で食べる
食べ物などを買いに行っても全然時間の余裕がありました。
今から思えば、もっと食堂車に行けば良かった・・・ こんな書き込みしたら怒られるかも…
大阪発着【まつかぜ】が現役の頃
カメラを持って大阪駅構内を走り回ってましたが
【11番線381系しなの】が撮影の終わりでした。
今、思うと【はまかぜ】は播但線経由だから?人気は無かったような気がする。
当初は『まつかぜ』は京都〜博多、『やくも』は新大阪〜浜田。グリーン車が2両だったのは、『やくも』の方が先。 >>101
はまかぜは運転区間も編成内容もぱっとしない存在でしたからね。 昔の「はまかぜ」は何のための播但線経由か???だったな。
姫路〜和田山全通過だったからなぁ。 >>104
初期は姫路で新幹線に接続も、していなかったみたいね。
もそもそ先生が苦言を呈してた記事を読んだことがある。 はまかぜは豊岡などから県都神戸へ行く需要のためだろう。 ええっ(οдО;)
やくもってグリーン2両だったの? 当時はまだ新婚旅行のメッカは国内で、縁結びの神様である出雲大社へ行く新婚さんが多かったからだと聞いています。宮崎行きのオールA寝台車の「ことぶき」なんてのもありましたね。 まつかぜが13連で運行していたとき後ろから2両目のグリーン車に乗った
S字にカーブしているところでは先頭車両が見えなかったのを覚えている
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
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82年夏、電化幹線撮影に食傷気味になり、C57C58重連撮影後、益田に抜け、美保三隅を目指した。快晴の夏晴れながら
日本海はどこまでも澄んで美しく、海バックの定番ポイントを走りぬける80系
まつかぜは6連ながらまさに山陰のクイーンだった…。
ああ・・・あのころに戻ってシャッターを押してみたい・・・。 大阪駅1番線の博多行きの文字。
非電化単線つまり旧線時代の武田尾駅をゆっくりと通過して行った姿。
でも結局乗らないまま消えた。 キハ181系化された「まつかぜ3・2」号と、キハ80系で残った「まつかぜ1・4」号
最初のうちはキハ181に「まつかぜ」のヘッドマークは、なんとなくそぐわないようにも思えた。
まつかぜは大阪→宝塚→福知山の停車駅でこそ!特急!と思っていたが、
末期は三田や篠山口、柏原に停車して残念に思えた。
また、臨時のまつかぜがあったような気がするのと、波動用として三田駅
の上りホーム裏の側線に181か82か忘れたけど、車両が留置されていたよう
に思う 特急あさしお、はまかぜ、まつかぜ3・2号がキハ181系化された時、
運用離脱したキハ80系が、向日町運転所、加古川、篠山口などの駅構内の
側線などに分散留置されていた。 まつかぜ4号の食堂車で
今は亡きばあちゃんと食べたカツカレーの味が
今でも忘れられません 夏休みの朝、『博多行き』を中山寺駅までチャリで見に行ったのを思い出したぜ。もう32年も前だな。 82系(キシ80)の食堂車の雰囲気は、電車特急のそれにはない風格があった… 確か昭和53年10月以降、北海道以外でキシ80を連結してたのはまつかぜだけだったな。 >>119
篠山口には停まってもよいと思っていたが >>126
その前もキシ80が営業してたのは「くろしお」と「にちりん」だけか? >>128
くろしおはキハ81とキロ80を2両つないで営業してたな。
にちりん80系は昭和48年頃にキシ80はなくなっていた。
昭和50年3月まではかもめ・あさしお・はまかぜにキシ80があったけどな。 79年の時刻表をみているがまつかぜで大阪⇔博多が指定席で9100円だな。この金額で今乗れるなら喜んで乗る >>130
当時なら山口・秋芳洞ミニ周遊券利用が有用だな。自由周遊区間までの経路に福知山・山陰線が使えた
から下関―博多を別途に買えば全区間乗車ができる。
片道は山陽夜行か、山陰夜行のさんべか鈍行山陰号を利用すればトータルコストで良かった。
俺は83年にそのミニ周遊券を使い、まつかぜ4号を全区間乗り通した。
ただ79年頃から首都圏発着はそのミニ周遊券が消え、代わりに特急おきに乗れるフリーきっぷに替わった。 「まつかぜ1・4号」の食堂車の人気メニューだった「大山おこわ定食」
これは、米子から材料が積み込まれて販売されていたようで、大阪を出発した
ばかりの「まつかぜ1号」の食堂車では、まだ販売されていなかったようだ。
大山おこわ定食w
鉄道ジャーナルの列車追跡か何かで載ってたような。
今夜が、炊き込み御飯だったのは偶然かな。 >>132-133
出雲・やくもにもあった。列車追跡は出雲からでなかったか? まつかぜのフル編成が餘部鉄橋をわたる写真を
みたことがある。
かっこよかったなあ 1県1停車駅の原則があり、上下で豊岡と城崎に分散停車させてた(上下ともいずれかは通過)って本当?
昭和50年代の時刻表を見ても、豊岡も城崎も上下とも停車になってるんだけど。 昭和40年代には、すでに両駅停車になってましたが、運転開始時にはどちらか一方が通過だった筈。 >>137
レスサンクス。
ということは、おそらく昭和36年の運行開始時の話ですね。 まつかぜ1号を抜かさすために川西池田で20分くらい停車していた鈍行によく乗った。通勤時間帯になんちゅーおおらかな時代だったのか >>139
その時代は大都市近郊でも非電化で通勤機能をなさない路線がたくさんあったな。
京都口の山陰本線・奈良線・名古屋口の関西本線もそう。
その当時の鈍行のおおらかさからは、4年前の福知山線事故なんて想像もつかなかっただろう。 >>140
昔は通勤通学は私鉄が当たり前だったね。今は宝塚〜大阪はJRが勝ってるんちゃう? >>141
さすがに宝塚〜梅田は阪急志向でないか?伊丹ならJR志向と思うが、どちらも
東西線直通を生かした利用客がどの程度いるかだな。 JRで伊丹〜大阪は約15分。阪急では塚口乗り換えで約20分。伊丹市バスはJR伊丹まで乗り入れてるからJRの勝ちやね 清荒神や中山寺行く時に阪急宝塚線乗ったけど、急行と言いながら豊中からずっと各駅停車で、川西能勢口からはもうガラガラ。
宝塚は今津線から西宮北口乗り換え客が目立ってた。
限られたパイを分け合ってる印象だ。
福知山線と言えば、まつかぜや旧客の残影があるのだが、今は阪急のあずき色や木目の内装、窓の鎧戸ブラインドの方が、並行するJRよりクラシックな感じがする。 >>136-137
福知山線〜山陰本線特急が「まつかぜ」「やくも」だった頃は・・・
「まつかぜ」は豊岡停車、「やくも」は城崎停車でした。
詳しくは分からんのですが、新幹線岡山開業直前は両列車とも豊岡・城崎ともに停車していました。 宝塚・豊岡・城崎ってホームからはみ出さずに13連止まれた?
福知山は止まれた記憶があるが かつて、福岡に住んでいた時、博多から小倉まで新幹線、小倉から浜田まで
いそかぜ、というふうに乗っていた。すみません、こんな乗り方が、いそかぜの
引退を早めたんですね。 >>148
いや、あると思います、そんな乗り方。
引退はあなたのせいで早まったりしたことはないですよ、たぶん。 >>150
せめてG車が残ってるうちにやってもらいたいですねぇ。もちろん原色に戻して。
前回のリバイバルは6連でうち4両が先頭車って、なんか情けない編成だったから。 一番記憶に残っているシーン。
掃除のおばちゃんが、溜まった灰皿の中身を捨てて回っていたこと。
二番目、大阪博多乗りとおしで、朝昼食堂車でめし食い、昼下がりに「これで
食堂車の営業を終了しま〜す」というアナウンスにがっくり。
実は夕方、別のチームが営業し、前出の大山おこわ定食にありつくことに、
味の記憶はないが、活気溢れる食堂車であった。
六両だったか七両だったか、米子からの短編成でも食堂車があった。
今では信じられない光景だ。 >>151
廃車予定の「はまかぜ」キハ181系列を使えば、
グリーン車も再現出来ますね!!
西が、国鉄色に戻すかどうか・・?? まつかぜの食堂は、いつ行っても、数名の客が居て、ビールでも飲みながらゆっくりくつろいでいた様な印象が
あります。
当時は、まだビールを飲める年齢ではありませんでしたので、そのうちゆっくりと思っていたら、食堂車が無く
なってしまいました・・・・ こないだ東萩に行ってきたけど、
恐ろしく田舎な駅で驚いた....
駅周辺は寂れちゃってるねえ
このあたりの山陰本線は本数もほとんどないし、
くるのは単行各駅停車ばっかりで
単なるローカル線だった... 山陰でも萩あたりになると、瀬戸内側までの距離もさほどじゃないからねえ……
下関も山口市も山越え道路で比較的短時間…… 京都行、米子行、益田行と徐々に短縮されていって、
ついには廃止されちゃった列車系統だったね
しかも晩年は小倉発着…
寂しくも懐かしい 門司を悠々と通過していく様がたまらんかった。
今はないもんな。 島根県の大田に親戚がいたので子供の頃、大阪からよく乗りました。朝8時にでて石見大田に着くのは午後3時前。時間帯の便利さから行きはまつかぜ、帰りはやくもというパターンが多かった。
当時、親が話ではまつかぜの指定が取りにくくて、一度三瓶で行ったこともあります。上下のまつかぜが交換するのが出雲市で、下りのまつかぜと上りの急行出雲がすれ違うのが、確か石見大田だったと記憶しています。
まつかぜが誕生当時は下りが城崎、上りが豊岡停車だったのが、やくもが出来たときに、まつかぜが豊岡で、やくもが城崎に変わったんだと思う。白鳥も同様に上下で動橋と大聖寺を分けていて、雷鳥としらさぎ誕生時に動橋のみ停車になったはず・・・。 あのころの山陰線の特急
あさしお・はまかぜ・まつかぜ・やくも・おき
「やくも」は新幹線連絡エル特急として後には電車にもなってその地位を不動のものにした。
いつ廃止されてもおかしくないようでしたたかに残っているのは「はまかぜ」だな。
京都・大阪・福知山・城崎・鳥取・上井・米子・松江・出雲市・石見大田・浜田・益田・東萩・長門市・下関・小倉・博多 博多「まつかぜ1・4」号はキハ181系の車両数の関係などから、キハ80系のまま
残ったが、60.3改正で米子発着に改められたときにキハ181化された。
どうやって「まつかぜ1・4号」用のキハ181系を確保したのだろう。
米子運転所担当の特急「おき」の編成を減車したりグリーン車を廃止、そこで捻出された米子運転所の
キハ181系の一部を向日町運転所に転属させて「まつかぜ1・4号」の1〜4号車を「おき5・2号」と
共通運用させることで「まつかぜ」2往復のキハ181系化が完了したのだろうか。 >>164
60-3改正まで、「おき」は小郡配置の181系で運用されていたのを、この改正で米子または
向日町に転属させ、一部列車の短縮やそれに伴う運用数の整理、編成短縮を行い、80系の
置き換えを実施した筈。
小郡では、確かキハ180に余剰廃車も出たと思います。
「まつかぜ」の食堂車の営業は、日本食堂米子営業所か大阪営業所が
担当してたようだったけど、都ホテル列車食堂も「まつかぜ」の食堂車営業を
行ってなかったかな。
>165
昔は石見江津は通過でした。
やくもは、最初から停車していたと記憶しています。 福知山線の踏み切りで、だいせんやまつかぜに昔よくしょんべんかけられたな。 >>161
私のとこも大田・川本に親戚がおりますので、子供の頃何回か行きました。でもうちは貧乏だったので「さんべ」か「だいせん」でした。(笑&涙)
一度京都の金持ちの親戚と一緒に行くことになり、見栄をはって「まつかぜ」に乗りました。でも汽車賃浮かすため、当時小学校一年だった私を幼稚園児にしたてただ乗りしました(笑&涙)そのとき食堂車利用しましたのを昨日のように覚えております。
また金沢にも親戚おりましたので、何度か行きましたが、貧乏でしたので「白鳥」ではなく「ゆのくに」でした。(号泣)
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