特急まつかぜといそかぜを語ろう
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新大阪・大阪〜米子・博多間を走ってたまつかぜと米子〜博多間
(末期は益田〜小倉間)を走ってたいそかぜについて語りましょう 上りのまつかぜとかもめは何故か大阪駅は8番線到着だった・・・。 キハ80系とキハ181系は併結できないが、国鉄時代、向日町運転所で、
「まつかぜ」用のキシ80などがキハ180などと連結されて留置されているのをよく見かけた。
キハ180の方向幕が「特急あさしお 京都−倉吉」などといることもあった 京都からの山陰本線の優等列車で松江以西に行く列車がなかったような記憶が・・・。
(出雲を除く) 昭和61.11改正で特急「まつかぜ」廃止後に設定された米子発着の特急「はまかぜ3・4号」は、
元「まつかぜ3・2号」を播但線経由に改めただけの列車だった。 >>395
まつかぜ2、3号と同時間帯に運転されていた、大阪〜浜坂の急行但馬の廃止はそのとき? 396
61・11改正で急行「但馬」は姫路・大阪〜豊岡〜浜坂間の各2往復ずつの運転となり、
列車の廃止は平成元年 キハ181系化された「まつかぜ1・4号」は1〜4号車が
「おき5・2号」と共通運用となったが、「おき2号」が遅延したりした場合は
上り「まつかぜ4号」にも大幅な遅れが生じることになる。
その場合はどうしていたのだろうか。
遅延したまま運転していたか、米子運転所のキハ181系4連を
「まつかぜ4号」の付属編成に連結していたのだろうか まつかぜの絵入りヘッドマークの時代は短かったですね。 博多「まつかぜ」が全車指定席だったころ、下りのみ普通車は浜田から自由席に
なっていた。 10年くらい前に益田〜東萩でいそかぜ使ったけど、リクライニングしない座席だったな。
その数年前に急行さんべに乗ったけど、ボックスシートのままだった。
急行砂丘は座席交換してたのにやる気なさすぎだわ。 >>401
何しろ博多まつかぜ系統分割して、2往復が181系化された昭和60年3月から、
福知山線全線&山陰線福知山〜城崎電化した昭和61年10月末までの1年半だったからな。 中国自動車道や山陽新幹線の開通で大阪〜鳥取〜米子間は
日本交通高速バスやマイカー、新幹線と「やくも」利用の方が早くなり、
「まつかぜ」の客離れを招いたといえる。
昭和57年に「まつかぜ3・2号」がキハ181系化されて、それまで使用されていた
キハ80系よりも車両は良くなったとはいえ、こういった措置ももはや手遅れだった まぁ鳥取、米子へ向かうのに大阪から城崎まで単線グネグネで北上してるんじゃ、
中国道や新幹線+やくもへの勝ち目は… >>406-407
だから智頭急行を開通させて特急を走らせたとも言える。
新快速に追い立てながらも、東海道・山陽線でかなり高速に飛ばせるし。 >>404
21年前に下関〜東萩間を往復した時は、リクライニングシートに交換されていたけど。
その1年前の春・夏休みに乗車した急行ながとは、
ボックスシート座席が埋まり、立客が少しいる乗車率。 大阪から鳥取や米子へは、新宿から伊那や飯田などとセットで「素晴らしい高速バスと時代遅れな国鉄」の典型例みたいな形でよく紹介されていましたね。 「まつかぜ」の食堂車のメニューが「大山おこわ定食」など
特別なメニューは別として欠品が多かったのは、米子・出雲市以西では
それだけ「まつかぜ」を利用する人が少なかったからだろうか >>411
担当営業所が米子だったので、それもある。 出雲市以西の島根県西部から九州方面に向かう場合、「まつかぜ」を利用するよりも
特急「おき」で小郡へ出て、小郡から新幹線に乗り換えた方が早かったようだ。
そのため「まつかぜ」は区間利用者も多かったようだ。 >>413
浜田・江津ならバスで広島出て新幹線の方が「おき」より実用性があっただろう。
いずれにせよだから「いそかぜ」が廃止になるわけだw キハ181系化された当初の「まつかぜ3・2」号が宝塚駅などで、
黄色の103系電車やキハ47系と並ぶと、キハ181系が新型特急車両のように見え、
福知山線が大変貌したように思えた。 「あさしお」も運転開始当時は食堂車を営業していたが、営業は振るわず、
昭和50年に廃止された。
博多「まつかぜ」と違って走行距離が短かかったことや、宮津線の天橋立以西では、
回送列車同然のようにガラ空きだったこと、メニューもカレーライス程度の軽食主体で、
食器もアルミ製といったように、長距離客が利用する博多「まつかぜ」の食堂車とは、
かなり差があったからではないか。 電化以前の福知山には「まつかぜ」のヘッドマークを掲げた
電車特急を描いた看板があったなぁ。
子供だった自分は山陰線を縦貫する博多行の電車が走るんだと思い
心ときめかせていたが、蓋を開けてみたら…orz 初代の特急「いそかぜ」はかつて京都〜宮崎・佐世保間で運転されていたが、
この列車は43・10改正で宮崎「いそかぜ」が「日向」に、佐世保「いそかぜ」が
「かもめ」に改称されて廃止された。
二代目「いそかぜ」は運転区間が米子〜小倉、益田〜小倉と運転区間が順次短縮された後、
廃止されたが、初代がプラス成長だったのに対し、2代目はマイナス成長の列車だった。 >>210
(笑)という意味では駅舎
道路挟んで宮殿のように壮大な大阪急電鉄宝塚駅
粗末な掘っ立て小屋国鉄宝塚駅 東京都知事選挙の争点に女性専用車両の廃止
東京の問題は、女のわがままによって生まれた女性専用車両が存在し
車内で男性が被害を受け、不便さを押し付けられ、混雑した状況に不当に押し込まれていることです。
<女性専用車両にはこんな女が生息しています>
http://www.youtube.com/watch?v=7QyHmAe2c-0&list=PLzeFCSP7xRziIIipBhtKgGQ-aCrLXq8Hi
新しい東京都知事のテーマは、
男性を差別した悪質な女のわがままである女性専用車両を廃止させることです 東萩とか山陰線西端部に特急の設定がないのがいまだに信じられない
酉によくある2両編成のローカル特急としてでも設定されないままなのが残念
やっぱり陰陽の距離が近いからアクセスが新幹線経由がメインだから? それもそうだし、飛行機やバスもそうだろう
けど、そもそも人がもういないんですよ >>425
急行すら走ってないのにいきなり特急を要望するとは贅沢な いや、今は特急すら走っていないのにいきなり急行を設定することがない まつかぜで大阪→博多へ行ってみたかった。食堂車でライスカレーも食べてみたかった。 キハ181系の「まつかぜ1・4号」は中間車のドア位置が米子寄り、「まつかぜ3・2」号は
中間車のドア位置が大阪寄りとなっていたが、なぜ異なっていたのだろうか。
向日町運転所持ちのキハ181系「まつかぜ1・4号」はキハ80系時代の「まつかぜ1・4号」に合わせて、
車両とドアの向きも合わせていたからだろうか 博多まつかぜの廃止直前に、今は無き山陰ワイド周遊券を使って「まつかぜ1号」
の鳥取→益田間を乗りに行った。キハ80の自由席に乗車したが、車輪がフラット
でうるさかった。列車は結構スピードを出して走っていた。
米子をすぎて食堂車に行ったが、内装が薄汚れていた。ビールと大山おこわ定食
を注文したが、メニューには「大山定食」と書かれていた。ウエイトレスも
「大山定食」と呼んでいた。
もう30年も前の話。 博多「まつかぜ1・4号」のキハ80系は、晩年は車体の汚れや傷みが目立ち、
車内でもいたるところできしむ音がしていた しお焼のりニンニク乗客贅肉ポイ捨てゴムエアラインメジャーラス塩素関西京スラム規定野球へアスケロンとるこイランインドフレ英とんこつニューヨーク骨折森林交際爆竹調味料flashマックさいむらアリナミン鷹のつめバブル法香CDラーメン
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保険依存王宿題auロボットヤーフォーレポート日本評価カウントダウンサロン「わー!オぉあ」↓☆↓☆鈍足エアライン郵政省mannernhk証券ディレクターDJ大学幹事長デズネーespana牧師TeNQdio店長少年 昭和40年代前半は、特急は宝塚さえ通過、豊岡と城崎も振り分け停車(いずれか一方は通過)だった。
同様に、三ノ宮と神戸も振り分け停車だった。
特急に風格があった時代だった。 非力で鈍速で簡素なジィゼルカーに風格ねえ‥
食堂車の椅子はプラスチックで学食みたいだし、カーペットも敷いてない1等車だし 「安芸」がなくなる少し前に,
東京→新大阪→「安芸」→下関→「まつかぜ」→福知山→・・・山陰周遊。
なんてことやったけど,風格はすばらしいけど,おっとりした走り方で
かわいらしいイメージがあるな。もっとも山陰本線じゃもっとおっとりした
亀みたいな列車にその後たくさん乗ったが。 そうだっけ?
20系や181系なみにまともな椅子だったような記憶もあるが。 新幹線博多開業後つばめ等の本州方面の昼行特急が廃止された後に唯一昼行特急としてのこったまつかぜの博多〜大阪のサボを見て凛々しさを感じたものだった。 >>440
いっとき、「いそかぜ」宮崎行きというのがあったな。
確か、その頃は、
いそかぜ…宮崎行き、大分で半編成落ち
かもめ……西鹿児島・長崎行き
みどり……佐世保・大分行き
つばめ……熊本行き
だったと思う。
熊本電化から大分電化までの期間か。
てことは、
熊本……1.5編成
西鹿児島…0.5編成
大分……1.5編成
宮崎…0.5編成
長崎…0.5編成
佐世保…0.5編成
となり、都市規模に比して、日豊線優遇のような感じもするが(とくに大分)、
やっぱ新婚客ほかの別府需要が大きかったのかなあ。 九州方面に新婚客の需要があったのは70年代までかな
別府と宮崎が双璧だったらしい
ただ宮崎は“都市としての”宮崎ではないんだな >>443 宮崎市内のホテル街見れば、かつては「観光都市」だったことがわかる。
観光の拠点として繁栄したということ。そのために椰子の木を大量に植樹した。 >>430
亀レスですが
もし方向転換をする「あさしお」と同じ運用に入っていたとしたら
片方だけ逆になることもあるのかな、とも思ったんだけど
当時のダイヤを知らないので、勝手な推測ですが 昭和60年3月改正でのダイヤで見ると
特急「あさしお」3号城崎行(舞鶴・宮津線経由)は豊岡に到着時点で編成の向きが京都発車時とは
逆になっており、終点城崎到着後、折り返し上り「あさしお」6号で山陰本線経由で京都へ向かう。
この時点でドアが京都寄りになっており、京都着後折り返し米子行「あさしお」7号で米子へ向かう。
米子着後翌、「あさしお」4号京都行で米子出発、その次発の米子機関区担当の「まつかぜ」2号は
ドアの位置が京都寄りのため、午前中は倉吉、鳥取に停車する「あさしお」4号とドアの位置を合わせていたのではないか
ドアの位置が米子寄りで向日町運転所持ちの倉吉発着の「あさしお1・8」号と「まつかぜ1・4」号の鳥取、倉吉到着は午後だったが、
同じく午後の「まつかぜ3」号と「あさしお」7号は姫路から逆編成となる向日町担当の鳥取発着の「はまかぜ1・4」号とドア位置を合わせていたのではないか
そのため、鳥取・倉吉駅などでは午前、午後とでホームの特急ドア位置が異なっていたようだ いそかぜのヘッドマークは長門海岸の大岩がデザインされているが、昔これを見てヨットだと思った 東萩駅や長門市駅に
優等列車(優等車両)の発着が皆無という状態が
いまだに信じられん。 >>396
まつかぜの城崎一新大阪を北近畿にして
但馬の城崎一大阪をまつかぜの米子一城崎につなげた
他のまつかぜやだいせんの城崎以遠が廃止になったのと違い生き残った >>444
南紀や日南の没落は 本物の ハワイに行ける様になった事が大きい 鉄道を利用しての新婚旅行がもうないよね。
時代の流れだ。仕方ない。 鉄道による旅行は移動時間が勿体ない罠
旅行先での滞在時間を極力長くするには移動時間の短い交通手段を選ぶのは自然な選択。 特急まつかぜ1号の指定席車に乗車して大阪から米子以西を乗り通す場合、指定席特急券が米子回転車に
割り当てられた場合、乗客はどうしていたのだろうか
大阪→米子間の指定席特急券と米子→博多間などの自由席特急券を勧められて購入して、
米子から博多発着編成の自由席車に移動していたのだろうか 東京から「富士」で出発して下関で「まつかぜ」に乗り換え。
山陰海岸の車窓を堪能するのは最高の汽車旅だった。
「富士」の食堂車でしこたま飲み翌朝は二日酔い、「まつがぜ」の
食堂車で迎え酒をしたのも今では遠い思い出の彼方。 お酒が飲める人が羨ましいな
俺は全然ダメだからこの手の長時間移動はすることがなくて暇を持て余してしまう 今年3月、巡視艇「いそかぜ」も引退。
ttps://twitter.com/JCG_koho/status/709322642092785664
ちなみに、「いそかぜ」がいた千葉港には、消防艇「まつかぜ」がいる。
ttps://www.city.chiba.jp/shobo/somu/somu/28siminkengaku6.html >>376
俺その「やくも」浜坂から乗った事あるぞ父母の実家が居組だし
初めて乗った特急が正に其の「やくも」だわ
それまで急行「但馬」や「だいせん」ばかりだったので凄く嬉しかったのを覚えてるわ
因みに俺52才(年齢の話が出てたので) 昔は鉄道の旅は車窓からの眺めで十分楽しめたが
いまは田舎でも線路際に無粋な広告や無秩序な開発が横行して
眺めを楽しむことが出来なくなりつつあるのがさびしいね >>2
80年10月迄は鹿カコの「にちりん」 「おおよど」
と併せて3編成並んでたな ことぶき周遊券てまだあるのか?
九州一周したときに交通公社で作ってもらった >>466
とっくの昔に無いので、フルムーンをご利用下さい >>468
鉄を除く若いカップルで国内を汽車で旅行するってかなり少ないだろ?
>>466のことぶき周遊券で九州一周した世代は団塊世代より上だよ 適当ビジネスニュース報道プロ級世代新社屋TRUMPTOWER左遷「仏」40代監視カメラ使用コンプライアンス速報駐車場 (入社拒否
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中国建築歌富裕層息子カジノ通い連日連夜オールTRUMPパーティー(反日飛行機雲農薬散布マスク女問題)駅内マスクオンNACNN向け原文ママニュース 懐かしい。小学4年の頃、花園駅から二条駅まで10円、京都駅まで30円だった。
駄菓子屋行くと嘘ついて親父のカメラこっそり持ち出して行ったりしたな〜。
自分の記憶違いだろうけど、二条駅から黒煙を吐き出しながらゆっくりと発車する、まつかぜの「博多」の、文字と食堂車を連結した超大編成に心躍った記憶が蘇る。
でもおそらくまつかぜを見たのは京都駅で、黒煙まき散らし食堂車を連結していたのはあさしおだったのかな。
それとも臨時列車で京都発山陰本線走破するまつかぜがあったのかな?あと、なんとか夜中に家抜け出して近所の山陰線を走る出雲を見れないかと無謀な計画を立てたりしてたな。
あー懐かしい。 >476
でも全然専門的な知識はなかった。
ネットもない時代、小学3,4年の僕の情報源といえば本屋で立ち読みする
鉄道ファンや鉄道ジャーナルなどの雑誌だけだった。
それも本屋のおばさんに阻止されゆっくり見れたことがない。笑
でも、そんな環境が逆に夢をみさせてくれたのかも。米子、松江、太田、江津、浜田、益田・・
なぜか山陰が好きだった私は毎日時刻表を眺めてどんな駅なのか夢想して思いを馳せていた。
そんな危うさ?を親が察知したのか、春休みに家族旅行連れて行ってやるからプラン考えてみろ、
と言われた時は毎日毎日時刻表がボロボロになるほど捲り夢心地でプランを練った。
しかし今考えると非現実的で非経済的で、それこそ筋金入りオタしかこんな乗り方するかよ、という計画書だった。
当然のように却下され黙って勝手にプラン練られて勝手に進められた時は結構ショックだったが、そこは鉄道大好きのお子様。
すぐにケロッとして旅の道中は、「もう30分待てば急行ながとが来るから見たい」とか
鳥取ー浜村の近距離移動にわざわざ時間待ちして「白兎に乗りたい」とか言って困らせる坊やだったのでした。 小学校3〜4年は秘密基地ごっことザリガニとりだ。
好きな女の子ができて照れ隠しにわざと意地悪したり 昔京都駅の改築前には西口がありましたね。
三哲発の市バスだと、確実に座れたので西口から出ることもありました。
80年代の京都駅は長距離のターミナルで、今の賑やかさの微塵も
無かった気がします。 昭和54年3月に特急まつかぜ大阪−博多間全区間に乗車。
大阪8:00発、鳥取で13両から7両編成に減車、博多到着20:51着。
前後に乗車の列車は、
上野から急行佐渡にて新潟へ
新潟から特急北越にて新大阪、ひかりにて広島県福山へ親戚の家に宿泊後、
普通列車にて宇野へ、岡山にて14系急行阿蘇・くにさきを見物。
宇野から急行鷲羽にて早朝大阪到着、博多到着後新幹線こだまで小倉に、
小倉から急行かいもん20系B寝台で西鹿児島へ、
西鹿児島9:41発寝台特急富士個室にて東京到着10:10
懐かしき国鉄全盛期。
もう一度乗りたい。
特急おおとり、北海、いしかり、はつかり、ひばり、みちのく、加越、
14系特急つばさ51号。上野−黒磯間ノンストップ
12系特急ゆうづる51号、確か特急料金100円引き
急行狩勝、ぬさまい、池北、天都(興部発のキハ12単行編成に乗車、バス窓+二重窓、室内扇風機すら無し)、
礼文、利尻、天北、紋別、るもい、ニセコ、らいでん、いぶり(札幌−伊達紋別−倶知安−札幌全区間乗車お盆時期で2両編成)
えりも、せたな、松前、えさし、ちとせ、はぼろ、臨時天売観光(キハ22,2両編成)、十和田、八甲田、津軽、よねしろ、くりこま、仙山、千秋、
こまくさ、天の川、鳥海、月山、いわて、もりおか、まつしま、あづま、いわき、いいで、出羽、ざおう、あがの、ばんだい、くずりゅう、
立山、能登路、能登、こまがね、きそ、かすが、さんべ、山陽、安芸、ぎんなん、のりくら、赤倉、臨時奥伊豆51号、伊那、妙高,信州、とがくし、
あぶくま(全区間東北本線なのに常磐線ときわの基本7両と同一編成、もりおかの間合い使用か)
むろね(車掌が急行券検札のあと同一人物がワゴンにて車内販売、それも大船渡線内で今では考えられない。)
普通からまつ、山陰
現在も愛称使用列車を除く。 以前の京都駅は、今みたいなもみくちゃな状況ではなく
もっと落ち着いた雰囲気だった気がする。
その分阪急や京阪の駅周辺は昔のほうがにぎわっていた気がする。
特に大宮。 山口県宇部市 寂しすぎる商店街「宇部中央銀天街」 2014/10/05
https://www.youtube.com/watch?v=fDkXEKWJMUI
山口県宇部市 宇部新天町名店街を自転車で走ってみた。 2014/08/03
https://www.youtube.com/watch?v=qI3lKG6xWaQ
00222 宇部市 宇部新天町名店街 ハミングロード新天町 20161202 164824
https://www.youtube.com/watch?v=9b_jTPivWXA
宇部新天町名店街 ハミングロード新天町 20161202_165455 山口県宇部市 商店街
https://www.youtube.com/watch?v=NdPKF1i4AvQ
宇部市新天町アーケード空撮2017/7
https://www.youtube.com/watch?v=NEfj2xfeun8
あまりの変わりっぷりに驚きました。
平成初期までは自転車を置いて歩かなければならないほど人が多かったですよね!
一本裏通りは飲み屋街で、毎晩人であふれてた…らしいw
車が無いと不便な町だけに、郊外に大型店舗が数店できただけで17万人の町はこの変貌とorz キハ82-キロ80-キシ80-キハ80-キハ80-キハ82-キハ80-キハ80-キハ82-キハ80-キハ80-キハ82 優等列車どころか、東萩ー益田間は日中の移動すらままならなくなった。
石見地方、特に江津の寂れ方は凄い。
駅前の商店街は最早街の体を為しておらず、人通りというものが消えていた。 出雲市15万、松江市20万、隣県の米子市17万、計52万。
これでようやく、山陽側の倉敷、福山あたりの1都市と見合う程度。 20年位前に小郡(現新山口)発下関行きの快速列車があった。一日一本の朝七時くらい発。
いそかぜの車両だった記憶がする。
上りは小倉発益田行きでも下りは益田発小郡行きだったのかな?
特急料金なしで特急車両に乗れるのがうれしかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています