特急まつかぜといそかぜを語ろう
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新大阪・大阪〜米子・博多間を走ってたまつかぜと米子〜博多間
(末期は益田〜小倉間)を走ってたいそかぜについて語りましょう >>348
ずいぶん出発が早いな。
乗る人も大変だね。 >>348
出発時間が早すぎますね
岡山県に入るまで外は暗いから車窓は楽しめないでしょう
山陽新幹線が出来る前の特急(485系)は大阪〜岡山を
最速2時間で走っていたそうだから
松江着を12時台とするなら、大阪発は7:50〜8:00でも間に合います なつかしのやくも号に使用される381系は、当然、福知山電車区の381系? >>351
>岡山県に入るまで外は暗いから車窓は楽しめないでしょう
10月でさすがにそれはない。
年末年始ならそうかも。
朝一に大阪を発車していた博多行きのまつかぜ号
グリーン車2両と食堂車を備えた13両編成の長大編成
しかし、当時の非電化単線で列車本数も極端に少なかった福知山線や山陰本線に比べると、なんか不釣合いな印象だな >>354
昔は少本数・大編成が当たり前だったからな >>354
1977年昭和52年に乗ったが結構込んでいたよ
当時は中国自動車道もなく鉄道優位の時代だったけど 中国道が昭和50年に途中区間まで開通してから、結構乗客が減りました。
鳥取までは、山陰特急バスの方が早くて安くなりましたからね。
福知山線や山陰本線にあれだけ長大編成の特急が走っていたのは、
当時はまだ高速道路が整備されていなくて、交通手段は鉄道が圧倒的に優位だったからなんだね。 >354、355
その当時は、鳥取で後部6両か7両を切り離して、その切り離された編成が、
上りまつかぜ、または上りはまかぜとなって大阪に戻る車両運用だったため、
長大編成になってたんじゃないか 福知山は13両止まれたが、
宝塚・豊岡・城崎はホームの長さが足りず
「○号車○号車はホームを外れて止まります」
の車内放送が懐かしい
>>360
下り1号で鳥取に来た8〜13号車は、上り1号で大阪に戻り、宮原で整備の上、下り
はまかぜ2号で鳥取へ行き、駐泊。
翌朝、上りはまかぜ1号で大阪に行き、再び宮原で整備の後、午後の下りまつかぜ
2号で鳥取に戻り、上りまつかぜ2号の大阪寄に連結されて、13連で大阪に戻りました。
こうやってみると、博多編成と鳥取編成は、常に同じ編成が連結して走行した事になり
ますね。 不思議なもので、同じ車両でも鳥取まつかぜはまかぜに運用されている時よりも13連の一部でいる時の方が輝いて見えたものでした。 まつかぜは日が長い初夏に乗るのが一番だったんだろうな
俺は下りに3月に乗ったが、無念にも宍道湖あたりでもう夕日が沈み、あとは無人の漆黒の闇の中を
ひたすら西下するだけで、白砂青松の山陰海岸を拝むことは叶わなかった。 まつかぜ、ずいぶん昔だな。
確か82系13連の末期の頃上りの福知山あたりから乗ったと
思うが、最終コースで車内にはゴミが散乱した感じで、
そこいらじゅうにゴキちゃんがウヨウヨしてた記憶しかないなw
空いてたから窓際座ったら窓の隙間からも
覗いてたなんてのは、アノ時だけだったな。 下りのまつかぜと、スレ違いだけど白鳥の末端区間の寂しさといったらなかったね。 スレ違いだけど白鳥はそうだったな。
特に1993年平成5年に普通列車が701系電車になった後
まつかぜは最後まで旧型客車鈍行とのコンビ良かった 昭和60年3月13日に博多に到着した「まつかぜ1号」のキハ80系は、
博多到着後、下関からEF62に牽引されて山陽本線経由で向日町運転所へ回送後、
函館運転所と名古屋第一機関区へ転属したんじゃなかったかな 子供の頃、特に理由はないが、『まつかぜ』が好き、『やくも』は嫌いだった。
だから『やくも』にグリーン車が2両連結なのが悔しかった・・・。 >>369
分かるなぁ、まつかぜは山陰路のエース特急ってイメージだったよ。
やくもは短距離連絡特急って感じだった。
まつかぜって超大編成だったのにグリーン車1両だったのか。
その代り食堂車はたしかあったよね。 まつかぜの食堂車営業は、日本食堂と都ホテル列車食堂が担当していたようだが、
都ホテルはいつごろ、まつかぜの食堂車営業から撤退したのだろうか >370
『やくも』が新大阪〜浜田の時代の話です。
当時は出雲大社のある山陰地方へ新婚旅行へ行くカップルも多く、時間帯が
良く、東京からも利用できる『やくも』にはグリーン車が2両連結されて
いたと聞きます。
後に『まつかぜ』の付属編成にもグリーン車が組み込まれます。 >>370
やくもが短距離連絡特急って
これだから
ゆとりは まあ、大阪発着時代の「やくも」を知っている人なんて、そんなには居ないでしょうし、
仕方ない。自分もかろうじて見た世代だし。 「まつかぜ」と「やくも」という愛称の組み合わせは、なかなか良いと思う。 >>374
自分の無知を棚上げするな。
やくもが伯備線経由になったのは、40年前だぞ。
当時10歳としても50歳。
まだ、いっぱい生きてる。 >376
既に40年か・・・。
感慨深いね。
特急おきは短命だったね。 >>376
このスレを見ている人で、実際にこの時代の「やくも」を見た人が少ないのではという意味
で書いたのですが・・・
私自身は大阪生まれで、親の故郷の鳥取に帰省する時に、「まつかぜ」や「やくも」、47-3
改正以降は「はまかぜ」も含めて、何度となく乗りました。47-3改正前後の鳥取駅は、まだ
高架化工事着手前で、構内には機関区もあって大きな駅でしたが、それに比べ駅前は狭く、
雑然としていた記憶があります。
最後に80系まつかぜに乗ったのは昭和59年12月。もう28年も前の事になってしまいました。 >379
私も昔の鳥取駅の記憶が微かにある。
鳥取の町が大火に遭う前の話だが・・・。 ID:IvI3Foiw
ウザい爺さんだな(´・ω・`) >>376
帰省で何度も特急なんかに乗るとは贅沢な 山陽新幹線岡山開通前に大阪から島根県に行くには、特急にでも乗らないと
時間が掛かり過ぎてやってられなかったよ。 夜行だいせんは、定期の他に臨時が出ていて、夏休みの時期は混んでいました。
臨時(下り52号)に1度乗りましたが、定期が10系の時代に12系が使用されていて、
「臨時の方が良い車両使ってるやん」と思いながら乗ったものです。 >>385
定期列車の客を分散させようとする目的もあったとか 「まつかぜ」が京都発着だったころは、京都〜大阪間はガラガラだったという
大半の客は大阪で乗降していたか、京都〜大阪間では内側線を走る新快速等を
利用していたからだろうか >>387
京都まつかぜと新快速が同じ時間帯に走ってたことあったの? 上りのまつかぜとかもめは何故か大阪駅は8番線到着だった・・・。 キハ80系とキハ181系は併結できないが、国鉄時代、向日町運転所で、
「まつかぜ」用のキシ80などがキハ180などと連結されて留置されているのをよく見かけた。
キハ180の方向幕が「特急あさしお 京都−倉吉」などといることもあった 京都からの山陰本線の優等列車で松江以西に行く列車がなかったような記憶が・・・。
(出雲を除く) 昭和61.11改正で特急「まつかぜ」廃止後に設定された米子発着の特急「はまかぜ3・4号」は、
元「まつかぜ3・2号」を播但線経由に改めただけの列車だった。 >>395
まつかぜ2、3号と同時間帯に運転されていた、大阪〜浜坂の急行但馬の廃止はそのとき? 396
61・11改正で急行「但馬」は姫路・大阪〜豊岡〜浜坂間の各2往復ずつの運転となり、
列車の廃止は平成元年 キハ181系化された「まつかぜ1・4号」は1〜4号車が
「おき5・2号」と共通運用となったが、「おき2号」が遅延したりした場合は
上り「まつかぜ4号」にも大幅な遅れが生じることになる。
その場合はどうしていたのだろうか。
遅延したまま運転していたか、米子運転所のキハ181系4連を
「まつかぜ4号」の付属編成に連結していたのだろうか まつかぜの絵入りヘッドマークの時代は短かったですね。 博多「まつかぜ」が全車指定席だったころ、下りのみ普通車は浜田から自由席に
なっていた。 10年くらい前に益田〜東萩でいそかぜ使ったけど、リクライニングしない座席だったな。
その数年前に急行さんべに乗ったけど、ボックスシートのままだった。
急行砂丘は座席交換してたのにやる気なさすぎだわ。 >>401
何しろ博多まつかぜ系統分割して、2往復が181系化された昭和60年3月から、
福知山線全線&山陰線福知山〜城崎電化した昭和61年10月末までの1年半だったからな。 中国自動車道や山陽新幹線の開通で大阪〜鳥取〜米子間は
日本交通高速バスやマイカー、新幹線と「やくも」利用の方が早くなり、
「まつかぜ」の客離れを招いたといえる。
昭和57年に「まつかぜ3・2号」がキハ181系化されて、それまで使用されていた
キハ80系よりも車両は良くなったとはいえ、こういった措置ももはや手遅れだった まぁ鳥取、米子へ向かうのに大阪から城崎まで単線グネグネで北上してるんじゃ、
中国道や新幹線+やくもへの勝ち目は… >>406-407
だから智頭急行を開通させて特急を走らせたとも言える。
新快速に追い立てながらも、東海道・山陽線でかなり高速に飛ばせるし。 >>404
21年前に下関〜東萩間を往復した時は、リクライニングシートに交換されていたけど。
その1年前の春・夏休みに乗車した急行ながとは、
ボックスシート座席が埋まり、立客が少しいる乗車率。 大阪から鳥取や米子へは、新宿から伊那や飯田などとセットで「素晴らしい高速バスと時代遅れな国鉄」の典型例みたいな形でよく紹介されていましたね。 「まつかぜ」の食堂車のメニューが「大山おこわ定食」など
特別なメニューは別として欠品が多かったのは、米子・出雲市以西では
それだけ「まつかぜ」を利用する人が少なかったからだろうか >>411
担当営業所が米子だったので、それもある。 出雲市以西の島根県西部から九州方面に向かう場合、「まつかぜ」を利用するよりも
特急「おき」で小郡へ出て、小郡から新幹線に乗り換えた方が早かったようだ。
そのため「まつかぜ」は区間利用者も多かったようだ。 >>413
浜田・江津ならバスで広島出て新幹線の方が「おき」より実用性があっただろう。
いずれにせよだから「いそかぜ」が廃止になるわけだw キハ181系化された当初の「まつかぜ3・2」号が宝塚駅などで、
黄色の103系電車やキハ47系と並ぶと、キハ181系が新型特急車両のように見え、
福知山線が大変貌したように思えた。 「あさしお」も運転開始当時は食堂車を営業していたが、営業は振るわず、
昭和50年に廃止された。
博多「まつかぜ」と違って走行距離が短かかったことや、宮津線の天橋立以西では、
回送列車同然のようにガラ空きだったこと、メニューもカレーライス程度の軽食主体で、
食器もアルミ製といったように、長距離客が利用する博多「まつかぜ」の食堂車とは、
かなり差があったからではないか。 電化以前の福知山には「まつかぜ」のヘッドマークを掲げた
電車特急を描いた看板があったなぁ。
子供だった自分は山陰線を縦貫する博多行の電車が走るんだと思い
心ときめかせていたが、蓋を開けてみたら…orz 初代の特急「いそかぜ」はかつて京都〜宮崎・佐世保間で運転されていたが、
この列車は43・10改正で宮崎「いそかぜ」が「日向」に、佐世保「いそかぜ」が
「かもめ」に改称されて廃止された。
二代目「いそかぜ」は運転区間が米子〜小倉、益田〜小倉と運転区間が順次短縮された後、
廃止されたが、初代がプラス成長だったのに対し、2代目はマイナス成長の列車だった。 >>210
(笑)という意味では駅舎
道路挟んで宮殿のように壮大な大阪急電鉄宝塚駅
粗末な掘っ立て小屋国鉄宝塚駅 東京都知事選挙の争点に女性専用車両の廃止
東京の問題は、女のわがままによって生まれた女性専用車両が存在し
車内で男性が被害を受け、不便さを押し付けられ、混雑した状況に不当に押し込まれていることです。
<女性専用車両にはこんな女が生息しています>
http://www.youtube.com/watch?v=7QyHmAe2c-0&list=PLzeFCSP7xRziIIipBhtKgGQ-aCrLXq8Hi
新しい東京都知事のテーマは、
男性を差別した悪質な女のわがままである女性専用車両を廃止させることです 東萩とか山陰線西端部に特急の設定がないのがいまだに信じられない
酉によくある2両編成のローカル特急としてでも設定されないままなのが残念
やっぱり陰陽の距離が近いからアクセスが新幹線経由がメインだから? それもそうだし、飛行機やバスもそうだろう
けど、そもそも人がもういないんですよ >>425
急行すら走ってないのにいきなり特急を要望するとは贅沢な いや、今は特急すら走っていないのにいきなり急行を設定することがない まつかぜで大阪→博多へ行ってみたかった。食堂車でライスカレーも食べてみたかった。 キハ181系の「まつかぜ1・4号」は中間車のドア位置が米子寄り、「まつかぜ3・2」号は
中間車のドア位置が大阪寄りとなっていたが、なぜ異なっていたのだろうか。
向日町運転所持ちのキハ181系「まつかぜ1・4号」はキハ80系時代の「まつかぜ1・4号」に合わせて、
車両とドアの向きも合わせていたからだろうか 博多まつかぜの廃止直前に、今は無き山陰ワイド周遊券を使って「まつかぜ1号」
の鳥取→益田間を乗りに行った。キハ80の自由席に乗車したが、車輪がフラット
でうるさかった。列車は結構スピードを出して走っていた。
米子をすぎて食堂車に行ったが、内装が薄汚れていた。ビールと大山おこわ定食
を注文したが、メニューには「大山定食」と書かれていた。ウエイトレスも
「大山定食」と呼んでいた。
もう30年も前の話。 博多「まつかぜ1・4号」のキハ80系は、晩年は車体の汚れや傷みが目立ち、
車内でもいたるところできしむ音がしていた しお焼のりニンニク乗客贅肉ポイ捨てゴムエアラインメジャーラス塩素関西京スラム規定野球へアスケロンとるこイランインドフレ英とんこつニューヨーク骨折森林交際爆竹調味料flashマックさいむらアリナミン鷹のつめバブル法香CDラーメン
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同様に、三ノ宮と神戸も振り分け停車だった。
特急に風格があった時代だった。 非力で鈍速で簡素なジィゼルカーに風格ねえ‥
食堂車の椅子はプラスチックで学食みたいだし、カーペットも敷いてない1等車だし 「安芸」がなくなる少し前に,
東京→新大阪→「安芸」→下関→「まつかぜ」→福知山→・・・山陰周遊。
なんてことやったけど,風格はすばらしいけど,おっとりした走り方で
かわいらしいイメージがあるな。もっとも山陰本線じゃもっとおっとりした
亀みたいな列車にその後たくさん乗ったが。 そうだっけ?
20系や181系なみにまともな椅子だったような記憶もあるが。 新幹線博多開業後つばめ等の本州方面の昼行特急が廃止された後に唯一昼行特急としてのこったまつかぜの博多〜大阪のサボを見て凛々しさを感じたものだった。 >>440
いっとき、「いそかぜ」宮崎行きというのがあったな。
確か、その頃は、
いそかぜ…宮崎行き、大分で半編成落ち
かもめ……西鹿児島・長崎行き
みどり……佐世保・大分行き
つばめ……熊本行き
だったと思う。
熊本電化から大分電化までの期間か。
てことは、
熊本……1.5編成
西鹿児島…0.5編成
大分……1.5編成
宮崎…0.5編成
長崎…0.5編成
佐世保…0.5編成
となり、都市規模に比して、日豊線優遇のような感じもするが(とくに大分)、
やっぱ新婚客ほかの別府需要が大きかったのかなあ。 九州方面に新婚客の需要があったのは70年代までかな
別府と宮崎が双璧だったらしい
ただ宮崎は“都市としての”宮崎ではないんだな >>443 宮崎市内のホテル街見れば、かつては「観光都市」だったことがわかる。
観光の拠点として繁栄したということ。そのために椰子の木を大量に植樹した。 >>430
亀レスですが
もし方向転換をする「あさしお」と同じ運用に入っていたとしたら
片方だけ逆になることもあるのかな、とも思ったんだけど
当時のダイヤを知らないので、勝手な推測ですが 昭和60年3月改正でのダイヤで見ると
特急「あさしお」3号城崎行(舞鶴・宮津線経由)は豊岡に到着時点で編成の向きが京都発車時とは
逆になっており、終点城崎到着後、折り返し上り「あさしお」6号で山陰本線経由で京都へ向かう。
この時点でドアが京都寄りになっており、京都着後折り返し米子行「あさしお」7号で米子へ向かう。
米子着後翌、「あさしお」4号京都行で米子出発、その次発の米子機関区担当の「まつかぜ」2号は
ドアの位置が京都寄りのため、午前中は倉吉、鳥取に停車する「あさしお」4号とドアの位置を合わせていたのではないか
ドアの位置が米子寄りで向日町運転所持ちの倉吉発着の「あさしお1・8」号と「まつかぜ1・4」号の鳥取、倉吉到着は午後だったが、
同じく午後の「まつかぜ3」号と「あさしお」7号は姫路から逆編成となる向日町担当の鳥取発着の「はまかぜ1・4」号とドア位置を合わせていたのではないか
そのため、鳥取・倉吉駅などでは午前、午後とでホームの特急ドア位置が異なっていたようだ いそかぜのヘッドマークは長門海岸の大岩がデザインされているが、昔これを見てヨットだと思った ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています