特急まつかぜといそかぜを語ろう
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新大阪・大阪〜米子・博多間を走ってたまつかぜと米子〜博多間
(末期は益田〜小倉間)を走ってたいそかぜについて語りましょう >>241
ただ当時としては下り銀河からまつかぜ1号に接続してほしかったな。
銀河到着と同時に発車とは何とも意地悪いと思った。
上りの新大阪行きなら銀河に間に合い、新幹線乗継ぎなら名古屋まではOKだったのに。 まつかぜで山陰の海沿いを走りながら、食堂車で飯を食べるのが乗客のトレンディ >>244
最後の頃は、銀河の到着がちょっとだけ早くなって、到着と同時にまつかぜ1号が発車
という事は無くなった様な・・・ >>246
'88年11月に24系25型化されたと同時に大阪駅07:43になった >>247
国鉄最後の86年の間違いだな!?その改正なら同時にまつかぜが消えた時だ。 85年3月改正で「いそかぜ」の編成内容知った時にはショックだったな。
えっ、こんなになっちゃうの?って。そりゃまあ、需要の実態はもちろん分かってたけどさ。
>>249
当時は博多まつかぜから食堂車とグリーン車を外せば同じような。
あの改正は急行壊滅、特急も電車特急食堂車全廃&貧弱編成続出だから、他と比較して
いそかぜの編成内容に驚く事でもなかった。 いそかぜが益田〜小倉になる時、エーデルの展望車2連に車両変更しても良かったと思う・・・ >>242
武田尾あたりの眺めが最高に良かったですね。
今はトンネルだらけになってしまいましたが まつかぜとやくも(新大阪⇔浜田)には、10回以上のりました。 まつかぜは1等が1輌なのに、やくもには2輌つないでいたことが、子供心に
気に入らなかった・・・。 >>255
あれ?12両時代は基本編成食堂車&グリーン付き六両+附属鳥取回転編成グリーンのみ六両
って思ってたんですが、自分の勘違い?
まつかぜ末期には鳥取回転三両でグリーン一両だったのは間違いないと思うんですが…
新大阪やくものあった時代はまだ基本編成のみだったんですか? >256
新幹線がまだ新大阪止まりだった時代の話ですわ。
新幹線が岡山まで開通して、やくもが伯備線に移ったときに、旧やくもが鳥取止まりの
まつかぜ2号になって、本家のまつかぜの付属編成にもグリーンが入って2輌になった
んだと思う。 4703改正以降の本家まつかぜの付属編成は、鳥取まつかぜやはまかぜとも共通運用
でしたからね。
47-3改正〜47-10改正までの向日町運転所の80系は、北は青森から南は西鹿児島まで
の広域を担当していたので、保守は大変だったと思います。
ありがとうございます。
気になったんで調べてみたら、基本食堂車付き7両(でした。すみません)は変わらず、
新幹線岡山開業までの間に附属編成(この頃は鳥取じゃなくて米子回転だったんですね)が
グリーンなしの六両→グリーン付き六両に代わったみたいですね。
で、末期に鳥取回転キハ82キハ80キハ80の三両に変わったと。
80系末期は附属編成の共通運用があさしお、はまかぜ、やくもから名称変更した鳥取まつかぜ
になったんですね。
しかし、向日町の80系は北海道のそれと負けず劣らず(それ以上?)に八面六臂の活躍をしていたんですね。
その頃を堪能したかったなぁ… >当時のまつかぜと急行出雲は山陰線の花形でしたね。 >>259
付属編成が3両になったのは、伯備線電化開業と同時に行われたS57-7改正で、
この時博多まつかぜを除く、全ての向日町担当の80系が181系に置き換えられて
います。
また付属編成は、この時鳥取回転から米子回転に変更されています。米子で解放
された付属編成の3両は、直ちに車内整備が行われた後、上りまつかぜに連結され
大阪に戻る運用になっていました。
私が最後に80系まつかぜに乗ったのは、年末で1両増結された付属編成の増結車
でしたが、もう27年も前の事になりました・・・ 3両編成の特急なんて昔では考えられんなぁ。昔は10両でも短いと感じていたのに・・・。 今は「特急残してやってるだけありがたく思え」状態だもんな
※ ただし自治体からのお布施がある場合を除く ちょうど20年前に東萩から下関までいそかぜに乗ったなあ。
山道だとバスに酔いやすい体質なので列車にして、
行きは急行ながとだったけど、キハ58が騒音・振動が酷かったので、
帰りのキハ181は時間は掛かるが快適でした。 いそかぜ っていつまで車内販売あったかねぇ。
少なくとも博多まで行ってた頃はあったような覚えがある。 小倉発の時に一度乗ったが車内販売の記憶はないなぁ。 まつかぜは、宝塚とかで後ろの車両がホームからはみだしていたなぁ。 >>268
豊岡と城崎も2両か3両はみ出していた
福知山ははみ出さずに止まれた >>269
地平時代の鳥取駅では、ホーム延長の一番長い、駅舎寄りの1番線に停車していました。 >>272
多分、日本交通のバスが中国縦貫道以前の地道の時には乗っていたと思う。 時代にもよるけど
大阪から鳥取への出張に
昭和40年代後半〜50年代前半の下り「まつかぜ1号」を使っていた親父の話だと
平日でも指定席満席で立ち席特急券で乗車してデッキで待機、城崎あたりでやっと空き席が
出来はじめて座れた事が多々あったとか
俺が親父に連れられて「まつかぜ1号」に乗った時も、立ち席特急券で乗っていた人が居たし
中国縦貫道開通前まで、うちの家族が鳥取に帰省する時に「まつかぜ」を利用していましたが、
指定席が取れない事が多く、「はまかぜ」を利用するか、夜行の「だいせん」、稀に姫新線経由の
急行(まつかぜと所要時間で大きな差がなかった)を利用していました。
鳥取までは殆ど満席でしたし、鳥取駅では折り返しの上り「まつかぜ1号」を待つ乗客も多く、
駅は人で溢れていた記憶があります。
>>273-275
レスthxです。
帰省ラッシュ時ならまだわかりますが、
平日でも立席特急券って・・・すごい乗車率ですね。
平日ってことはビジネス需要でしょうか。
国鉄時代って長大編成で空気輸送というイメージがあったのですが、
まつかぜに関しては13両なりの需要があったんですね。
山陰本線が水害で不通になったとき、急行さんべは「まつかぜ1・4」号の
間合い使用の80系気動車で小倉〜東萩間で運転された。
80系が「さんべ」運用に入ってるときは、食堂車を営業していたかどうかはわからないが >>277
それって、美祢線経由の車両はどうしてたんでしょうか?
>276
大阪から大田に行くときに、まつかぜの指定が取れなくて三瓶で行ったことがある。
米子以東に限るとは言え、博多「まつかぜ」の13両編成は圧巻だっただろう…。
今の山陰特急なんて2〜3両が基本だから、正に隔世の感と言う他はない。 当時、13両以上繋いでいたDC特急はほかには、かもめ、なは・日向、白鳥、おおぞらぐらい? 「まつかぜ」は運転開始当初から福知山線経由だったけど、向日町運転所〜大阪間は北方貨物線経由で
車両を回送し、大阪発京都経由で京都から山陰本線に入ってもよかったのではないか
>>283
兇徒で折り返す手間が面倒だし、そんな事をしてるくらいなら、
最初から京都始発で運転してるでしょう。 年末、GWのごったがえした8時過ぎの宝塚駅が懐かしゅうございます >>283,>>284
京都・大阪発着を福知山で増解結,は考えられたのかも知れないけど,
まあ,京都絡みの客は福知山以東は「あさしお」利用で,って意向だったのかな? >>283
運転開始時は京都−(大阪)−松江だよ
京都発のメリットがあまり無いからそのうち大阪発になった まつかぜ1号の博多着は20時55分だったが、山陰本線の線形の悪さや、
車両の性能面、単線区間の多さ、車両のドアの不具合による遅延などで、
博多には遅れて到着することも多かった 単線での待ち合わせとドアの不具合以外は理由にならんわ >>291
その時間食うことが、速度が何より大事な筈の新幹線でも見られるような時代になったから、ついそんなこと思った。 58系急行の頃だけど、連結器・ジャンパ線・貫通幌で10分近くかかった。
今はそのあたりが自動化されたり、貫通幌の接続がなくなったりで
3分ぐらいですむ。 久しぶりに餘部鉄橋を見た。昔の橋桁は餘部駅側にわずかに残るのみ。
あの鉄橋を渡る上りまつかぜを撮影したのは30年も前のことだ。
鉄橋も俺もお互いに年をとった。 キハ80系の「白鳥」や「まつかぜ」などが大阪から青森・博多・西鹿児島間などを、
無給油で走り通せたのは、キハ80系の燃料タンク容量が大型トラックや大型バスよりも
大きく、そのため片道でも無給油で1000キロくらい走れたからだろうか >288
まつかぜが13両の時代には、少なくともみどりはDCではなかったはず。
>>298
みどりが電車化される昭和42年だと、まつかぜは9連か10連じゃなかったかと。 >>287
京都―大阪がカットされたのは、その改正で京都発着のあさしおが設定されたからだろう。
まつかぜが京都発着だった時代は、京都―福知山で特急が皆無だった。 キハ80系のシートの背ずりは、直角に近い角度で設定されているため、
最初に腰かけた時は掛け心地が良いように思っても、長時間腰かけているうちに
だんだん疲れてくる。
「まつかぜ」の大阪〜博多間を乗りとおすには、かなりの忍耐も必要だった しかし考えてみると、「おおぞら」とか「おおとり」もそれ位の距離走ってた。
まあ、こんなこと言い出したら、電車化前の「はつかり」から「白鳥」から、際限なく
出てきちゃうけど…。 >>303
なればこそ、気晴らしがてらに立ち寄る食堂車が必要だった道理。
>>302
その点、キハ181系は人間工学を駆使して設計したシートになっていたのは偉い。
>>302
>>「まつかぜ」の大阪〜博多間を乗りとおすには、
>>かなりの忍耐も必要だった
良い子は真似しないから大丈夫 「白鳥」は実用で使う人もいたらしいが「まつかぜ」は趣味以外まずねえなw 作家の宮脇俊三氏(故人)も「まつかぜ」の大阪〜博多間全区間を乗り通しているかもしれない 「まつかぜ」の博多→新大阪を2回も乗り通した自分は、相当物好きで“悪い子”なんだな!
でも、まあなんだ、その当時なんて、この程度の距離や所要時間の列車なんか、
そんなに珍しいものでもなかったんだけどな!
今の時代、座席のみの列車で10時間以上走る列車なんかもうないんじゃないか? 山陰本線の特急列車が「まつかぜ」一往復のみだった頃、鳥取・島根など
山陰県下の子供はみな、線路脇などで「まつかぜ」が通過するのを見るたびに、
「まつかぜ」は全車指定席の食堂車までついた豪華列車で「まつかぜ」に乗れる人は金持ちだけ」と
思ったに違いない。
当時の山陰県下の子供から見た「まつかぜ」は現在の「トワイライトエクスプレス」や「カシオペア」以上の
豪華列車に見えたのだろう。
>>309
それなりのステータスはあっただろうね。
鳥取以西で編成が短くなってたから、豪華列車はオーバーだろう。
それなら大阪〜青森単独時代の気動車白鳥の方が、全区間グリーン車2両だったので華があった。 目立たなかったかも知れないが、「くろしお」にもグリーン車2両に食堂車まで連結していたんだな。
でも、「まつかぜ」ほど“風格”を感じなかったのは、白浜までの短区間の列車があったりしたからだろうね。
“風格”と感じるのは、編成も堂々としていて、孤高の存在を感じる列車だからかな。 >>311
当時の南紀は名古屋・関西方面からの新婚旅行先だったので
1等車比率が多いのはある意味当然。
昭和40年代の後半にも成ると、ハワイ等の海外への新婚旅行が
容易になってきたのでの、電化の際に普通の特急になってしまったが >>308
>>「まつかぜ」の博多→新大阪を2回も乗り通した自分は、
>>相当物好きで“悪い子”なんだな!
いや、ちょいわるぼうや >>311
名古屋―天王寺のくろしおは、それこそ風格があっただろう。
唯一のキハ81運用で、列車番号も1D・2Dのトップナンバーだったし。 >287
昔は、京都や神戸に配慮して、西行きは京都発、東行きは神戸発の列車が多かった。 まつかぜの全区間乗車の話はよく聞くが、くろしお(天王寺〜名古屋)の話は
あまり耳にしたことがないなぁ。 >>317
どちらも全区間乗車はアブノーマルだったけど、くろしおも決して無かったわけでない。
ただ普通に大阪〜名古屋は新幹線以外に、急行比叡・関西線経由のかすがや、近鉄特急など
と比べて著しく時間がかかり、値段が張ったのもあっただろう。
まつかぜはくろしおと比較したら大阪〜博多の列車選択肢が乏しく、価格差が新幹線より著しく高い
わけでなかったのもあるだろう。 やっぱり「物には限度がある」ってことなのかな。
「くろしお」で天王寺―名古屋間乗り通すんじゃ、多分東海道線の各停の乗継
よりずっと時間かかった筈だから…。
「まつかぜ」の大阪―博多間となると、特に新幹線の博多開業前なら、
そこまで荒唐無稽なことじゃなかったと思える。 1964年3月改正時
まつかぜ 京都730−大阪801/805ー博多2055
筑紫 京都734ー大阪808/815ー博多1950
かもめ 京都800ー大阪831/835ー博多1730
さつま 京都1031ー大阪1105/1110ー博多2248
みどり 大阪1340−博多2235
まつかぜで大阪ー博多乗り通すのは、それ自体を
目的にした人のみだろう。
少なくとも一般客は選択しない。
列車選択が少ないとか、荒唐無稽じゃないとか言ってるやつは
寝てから言え。 >>320
口のきき方ってもの弁えろ。
大体誰が「まつかぜ」の全区間乗車を自然のことだなんて言ってる。
他人の発言の意図も読み取れん分際で減らず口叩くな。
「まつかぜ」に二度も全区間乗車した“ちょい悪坊や”ですが、
「くろしお」の名古屋→天王寺にも全区間乗ってますよ!
他にも通常使わないような区間でも、東京→西鹿児島の「高千穂」や「富士」にも全区間乗ってますし、
山陰で言うなら、824列車とか鳥取→熊本の「さんべ」、名古屋→大社の「大社」、
それに小郡・福山→三井野原の「三井野原スキー」、京都→敦賀の「小浜ビーチ」などなど…
早い話、この当時のマルスで印字できた列車の臨時を含めた国鉄全線の、ネームドトレインの99%は全区間乗ってます。
長距離鈍行もロンゲスト10には全区間乗りました。
はっきり言って、“物好き”ですよ! >>321
寝言を言ってたじじい起きたのか?
>>大体誰が「まつかぜ」の全区間乗車を自然のことだなんて言ってる。
そんなこと誰も言ってないだろ。
お前が勝手に俺がそう主張してると思ってるだけ。
痴呆妄想老人乙、れすと いん ぴーす
くろしおの全区間乗車は鉄道雑誌でもあまり記憶がないです。 まつかぜは、山陽本線普通列車乗り継ぎと、所要時間がほぼ同じだったような。 >>327
博多〜大阪は普通列車乗継ぎでも、まつかぜと同じく13時間近くはかからなかっただろう。
でも当時の山陽本線は今より普通列車の本数が多くなく、小郡や三原などの待ち時間が長かった
ので、今より時間がかかっていただろうな。
そうすると景色が退屈しない山陰本線の方が、景色や車両のバリエーションがない山陽本線より
良かった意味はある。 昭和43年10月時刻表
特急まつかぜ
大阪0801→2051博多
急行「つくし1号」
大阪0915→1857博多
山陽本線
大阪0757→1017播州赤穂1022→1151岡山1153→1321三原
三原1405→1604広島1645→1950小郡2025→2334博多
昭和50年2月時刻表
特急まつかぜ
大阪0800→2050博多
急行「つくし1号」
大阪0844→1823博多
山陽本線
大阪0725→0901姫路0917→1053岡山1056→1237三原
三原1257→1953下関2022→2146博多
コレより新しいのは知らん。各々調べてくれ。 >>329
新幹線博多開業前では山陽本線の特急・急行が頻繁に走っていたから、普通列車は
優等列車の退避が多く、時間はかかっていただろう。
それに様々な特急・急行列車を眺められていたから、その頃の山陽路は退屈しなかった。
山陽本線普通列車乗り継ぎと比較するなら、新幹線博多開業後でないと・・ >>323
白鳥 上野ー大阪間の御乗車経験はございますか? >>331
それを経験してるなら、70歳前後の年齢のようなw さすがにそこまでは経験ありませんな…。
初めて「山陰均一周遊券」を使って山陰に出かけた時には、
東京→新幹線→新大阪→「しおじ71号」(583系)→広島→国鉄バス広浜線夜行バス→浜田…
というマニアックなルートで入り、当時ピカピカの181系DCを使った伯備線経由の夜行「おき52号」で松江→大阪と帰りました。
まだ山陰本線の米子以西にはSLが多数健在で、SLブームの火付け役となった伯備線布原信号場にも撮影に行きました。
山陰の特急といえば、「まつかぜ」しかなかった時代です。
まあ、そういう時代を見てきた年代ですが、旅費は新聞配達して稼いだ金で行きましたよ。 >333
181系が運用を開始していた時代なら、
82系だけど『やくも』(新大阪〜浜田)は既にあったのでは? 新大阪−浜田の特急「やくも」はS40.10よりキハ82系で登場
S47.3の山陽新幹線岡山開業時ダイヤ改正時に「まつかぜ」に統合
(「まつかぜ1・2号」の付属編成を使用した大阪−鳥取の「まつかぜ2・1号」に)
新大阪−出雲市(伯備線経由)の特急「おき」はS46.4下旬よりキハ181系で登場
S47.3の山陽新幹線岡山開業時ダイヤ改正時に「やくも」(岡山−出雲市)に改名
>>334氏の言う通りですね
かもめ、いそかぜ、みどり、なは、日向・・・、ややこしかった。 >>115
別の意味でオモロいわ(笑)
by 野村克也(京丹後市出身) おおぞら、おおとり、北斗、北海、エルム、オホーツク、白鳥、ひばり、
やまばと、つばさ、はくたか、ひだ、南紀、くろしお、かすが、まつかぜ、
やくも、はまかぜ、あさしお、ゆあみ、銀嶺、かもめ、なは、日向、いそかぜ、
みどり、有明、にちりん、おおよど・・・。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています