特急まつかぜといそかぜを語ろう
新大阪・大阪〜米子・博多間を走ってたまつかぜと米子〜博多間
(末期は益田〜小倉間)を走ってたいそかぜについて語りましょう やくもで大山おこわ定食のそばに
醤油と間違えてソースをかけた記憶がある。
ウェイトレスが笑っていたような・・・
今考えるとつゆってついてなかったのかな? >>219
内田百間の随筆にも、関門トンネルを挟んで食堂車の従業員が交代する際を題材にした
ものがありましたね。
交代直前で一品料理が出来ず、ビールを飲みたいのに定食を食べる事になり、テーブル
クロスの交換についても触れられいました。 映画「砂の器」に「まつかぜ」が映ってる。
しかし、車内はなぜかクロスシートだった。
木次線のシーンもある。 >>206
博多直通のまつかぜの末期は
1号大阪発が10両編成くらいで、後ろ3両を米子で切り離しだったよね。
その3両は4号に?いで大阪に戻ってきていたはず。 まつかぜ全区間G乗車で朝昼晩と日本海を見ながら食事、憧れでした。
結局できずじまいで廃止…
なんとか廃車まぎわの南紀でGに乗り、あの独特の上下調整式のヘッドレストに
感動していじってみて鬱憤をわずかながらも晴らしましたが。
やっぱりやってみたかったなぁ…
青森白鳥でもできずじまいでしたし…涙 書き忘れましたが、あの当時のDMH系のエンジン音、癒される音で、
ジョイント音と共に、いつまでも乗っていたい気持ちにしてもらえましたよね…」 >>223
末期の博多まつかぜは、基本6両・付属3両の9両編成が所定で、
多客時に付属編成に1両増車して10連での運転でした。 >>220
大山おこわ定食のそばは「割子そば」なんで
器のそばに、一緒に出された汁を「かけて」食べるのですわ。 キシ80は、まつかぜ4号、おおとり(下り、上り)、オホーツク2号で
乗っただけ。 >>229
昭和50年代のキシ80は、くろしお電車化後の本州ではまつかぜの孤軍奮闘だったからな。
他のキシ80は全て道内だった。
そんなキシ80が、昼行特急の食堂車で最後まで残るとは当時想像も付かなかった。 あ〜あ。
とうとうキサシ180だけは利用せずじまいだったんだよぉ… 97年のJR10周年記念きっぷで小倉→米子と廃止1ヶ月前に益田→小倉を乗った。
海側景色の素晴らしさのお陰で時間が凄く短く感じた。残念ながら乗車率は…。
どちらも廃止やむなしだった。 一両に一人だけってのも珍しくなかったよね。
小学生の頃、家族で一度利用したが、
あまりに客が少ないのを見て騒いでいたら
偶然通りかかった乗務員に睨まれたのを覚えてるわw。 山陰線特急が、智頭急開業以降「南北に結ぶ特急」になってしまったからね。
東西を結ぶ特急は、通勤時間とか帰省時期以外は少ないのも当然でしょうな。
スーパーまつかぜを見ると、近鉄の「京阪特急」を連想してしまう。
>>236
その昔、近鉄難波〜近鉄京都を結んだ特急があったんですよ。 あ、それのことか。そういえばありましたね。
それなら納得。あんなのに特急料金払ってまで誰が乗るのか?とか思って見ていたことを思い出しました。
頭が固いもんで丹波橋で相互乗り入れしてた京阪宇治〜近鉄京都・近鉄奈良〜京阪三条の事かと思いこんじゃいました。
あれはたしか準急クラスでしたよね。
まつかぜに限ったことじゃないけど
発車前に爆音を立ててホームに止まっていた頃が懐かしい
暑い時期だけだったかもしれない >>233
山陰本線西部はまつかぜの頃からガラガラだった。長門・萩などは小郡へバスに乗って
新幹線利用が主流になってるから、山口県下の山陰本線は事実上ローカル線に過ぎない。 昔はですよ、20系銀河が大阪駅に朝8時に滑り込むとまつかぜが同時に発車し、山陰線廻りで夜19時30分に博多に着いていたなんて、マジで信じられん 宝塚を出ると美しい渓谷の景色がひろがる。それを見ながら食堂車でメシを >>241
ただ当時としては下り銀河からまつかぜ1号に接続してほしかったな。
銀河到着と同時に発車とは何とも意地悪いと思った。
上りの新大阪行きなら銀河に間に合い、新幹線乗継ぎなら名古屋まではOKだったのに。 まつかぜで山陰の海沿いを走りながら、食堂車で飯を食べるのが乗客のトレンディ >>244
最後の頃は、銀河の到着がちょっとだけ早くなって、到着と同時にまつかぜ1号が発車
という事は無くなった様な・・・ >>246
'88年11月に24系25型化されたと同時に大阪駅07:43になった >>247
国鉄最後の86年の間違いだな!?その改正なら同時にまつかぜが消えた時だ。 85年3月改正で「いそかぜ」の編成内容知った時にはショックだったな。
えっ、こんなになっちゃうの?って。そりゃまあ、需要の実態はもちろん分かってたけどさ。
>>249
当時は博多まつかぜから食堂車とグリーン車を外せば同じような。
あの改正は急行壊滅、特急も電車特急食堂車全廃&貧弱編成続出だから、他と比較して
いそかぜの編成内容に驚く事でもなかった。 いそかぜが益田〜小倉になる時、エーデルの展望車2連に車両変更しても良かったと思う・・・ >>242
武田尾あたりの眺めが最高に良かったですね。
今はトンネルだらけになってしまいましたが まつかぜとやくも(新大阪⇔浜田)には、10回以上のりました。 まつかぜは1等が1輌なのに、やくもには2輌つないでいたことが、子供心に
気に入らなかった・・・。 >>255
あれ?12両時代は基本編成食堂車&グリーン付き六両+附属鳥取回転編成グリーンのみ六両
って思ってたんですが、自分の勘違い?
まつかぜ末期には鳥取回転三両でグリーン一両だったのは間違いないと思うんですが…
新大阪やくものあった時代はまだ基本編成のみだったんですか? >256
新幹線がまだ新大阪止まりだった時代の話ですわ。
新幹線が岡山まで開通して、やくもが伯備線に移ったときに、旧やくもが鳥取止まりの
まつかぜ2号になって、本家のまつかぜの付属編成にもグリーンが入って2輌になった
んだと思う。 4703改正以降の本家まつかぜの付属編成は、鳥取まつかぜやはまかぜとも共通運用
でしたからね。
47-3改正〜47-10改正までの向日町運転所の80系は、北は青森から南は西鹿児島まで
の広域を担当していたので、保守は大変だったと思います。
ありがとうございます。
気になったんで調べてみたら、基本食堂車付き7両(でした。すみません)は変わらず、
新幹線岡山開業までの間に附属編成(この頃は鳥取じゃなくて米子回転だったんですね)が
グリーンなしの六両→グリーン付き六両に代わったみたいですね。
で、末期に鳥取回転キハ82キハ80キハ80の三両に変わったと。
80系末期は附属編成の共通運用があさしお、はまかぜ、やくもから名称変更した鳥取まつかぜ
になったんですね。
しかし、向日町の80系は北海道のそれと負けず劣らず(それ以上?)に八面六臂の活躍をしていたんですね。
その頃を堪能したかったなぁ… >当時のまつかぜと急行出雲は山陰線の花形でしたね。 >>259
付属編成が3両になったのは、伯備線電化開業と同時に行われたS57-7改正で、
この時博多まつかぜを除く、全ての向日町担当の80系が181系に置き換えられて
います。
また付属編成は、この時鳥取回転から米子回転に変更されています。米子で解放
された付属編成の3両は、直ちに車内整備が行われた後、上りまつかぜに連結され
大阪に戻る運用になっていました。
私が最後に80系まつかぜに乗ったのは、年末で1両増結された付属編成の増結車
でしたが、もう27年も前の事になりました・・・ 3両編成の特急なんて昔では考えられんなぁ。昔は10両でも短いと感じていたのに・・・。 今は「特急残してやってるだけありがたく思え」状態だもんな
※ ただし自治体からのお布施がある場合を除く ちょうど20年前に東萩から下関までいそかぜに乗ったなあ。
山道だとバスに酔いやすい体質なので列車にして、
行きは急行ながとだったけど、キハ58が騒音・振動が酷かったので、
帰りのキハ181は時間は掛かるが快適でした。 いそかぜ っていつまで車内販売あったかねぇ。
少なくとも博多まで行ってた頃はあったような覚えがある。 小倉発の時に一度乗ったが車内販売の記憶はないなぁ。 まつかぜは、宝塚とかで後ろの車両がホームからはみだしていたなぁ。 >>268
豊岡と城崎も2両か3両はみ出していた
福知山ははみ出さずに止まれた >>269
地平時代の鳥取駅では、ホーム延長の一番長い、駅舎寄りの1番線に停車していました。 >>272
多分、日本交通のバスが中国縦貫道以前の地道の時には乗っていたと思う。 時代にもよるけど
大阪から鳥取への出張に
昭和40年代後半〜50年代前半の下り「まつかぜ1号」を使っていた親父の話だと
平日でも指定席満席で立ち席特急券で乗車してデッキで待機、城崎あたりでやっと空き席が
出来はじめて座れた事が多々あったとか
俺が親父に連れられて「まつかぜ1号」に乗った時も、立ち席特急券で乗っていた人が居たし
中国縦貫道開通前まで、うちの家族が鳥取に帰省する時に「まつかぜ」を利用していましたが、
指定席が取れない事が多く、「はまかぜ」を利用するか、夜行の「だいせん」、稀に姫新線経由の
急行(まつかぜと所要時間で大きな差がなかった)を利用していました。
鳥取までは殆ど満席でしたし、鳥取駅では折り返しの上り「まつかぜ1号」を待つ乗客も多く、
駅は人で溢れていた記憶があります。
>>273-275
レスthxです。
帰省ラッシュ時ならまだわかりますが、
平日でも立席特急券って・・・すごい乗車率ですね。
平日ってことはビジネス需要でしょうか。
国鉄時代って長大編成で空気輸送というイメージがあったのですが、
まつかぜに関しては13両なりの需要があったんですね。
山陰本線が水害で不通になったとき、急行さんべは「まつかぜ1・4」号の
間合い使用の80系気動車で小倉〜東萩間で運転された。
80系が「さんべ」運用に入ってるときは、食堂車を営業していたかどうかはわからないが >>277
それって、美祢線経由の車両はどうしてたんでしょうか?
>276
大阪から大田に行くときに、まつかぜの指定が取れなくて三瓶で行ったことがある。
米子以東に限るとは言え、博多「まつかぜ」の13両編成は圧巻だっただろう…。
今の山陰特急なんて2〜3両が基本だから、正に隔世の感と言う他はない。 当時、13両以上繋いでいたDC特急はほかには、かもめ、なは・日向、白鳥、おおぞらぐらい? 「まつかぜ」は運転開始当初から福知山線経由だったけど、向日町運転所〜大阪間は北方貨物線経由で
車両を回送し、大阪発京都経由で京都から山陰本線に入ってもよかったのではないか
>>283
兇徒で折り返す手間が面倒だし、そんな事をしてるくらいなら、
最初から京都始発で運転してるでしょう。 年末、GWのごったがえした8時過ぎの宝塚駅が懐かしゅうございます >>283,>>284
京都・大阪発着を福知山で増解結,は考えられたのかも知れないけど,
まあ,京都絡みの客は福知山以東は「あさしお」利用で,って意向だったのかな? >>283
運転開始時は京都−(大阪)−松江だよ
京都発のメリットがあまり無いからそのうち大阪発になった まつかぜ1号の博多着は20時55分だったが、山陰本線の線形の悪さや、
車両の性能面、単線区間の多さ、車両のドアの不具合による遅延などで、
博多には遅れて到着することも多かった 単線での待ち合わせとドアの不具合以外は理由にならんわ >>291
その時間食うことが、速度が何より大事な筈の新幹線でも見られるような時代になったから、ついそんなこと思った。 58系急行の頃だけど、連結器・ジャンパ線・貫通幌で10分近くかかった。
今はそのあたりが自動化されたり、貫通幌の接続がなくなったりで
3分ぐらいですむ。 久しぶりに餘部鉄橋を見た。昔の橋桁は餘部駅側にわずかに残るのみ。
あの鉄橋を渡る上りまつかぜを撮影したのは30年も前のことだ。
鉄橋も俺もお互いに年をとった。 キハ80系の「白鳥」や「まつかぜ」などが大阪から青森・博多・西鹿児島間などを、
無給油で走り通せたのは、キハ80系の燃料タンク容量が大型トラックや大型バスよりも
大きく、そのため片道でも無給油で1000キロくらい走れたからだろうか >288
まつかぜが13両の時代には、少なくともみどりはDCではなかったはず。
>>298
みどりが電車化される昭和42年だと、まつかぜは9連か10連じゃなかったかと。 >>287
京都―大阪がカットされたのは、その改正で京都発着のあさしおが設定されたからだろう。
まつかぜが京都発着だった時代は、京都―福知山で特急が皆無だった。 キハ80系のシートの背ずりは、直角に近い角度で設定されているため、
最初に腰かけた時は掛け心地が良いように思っても、長時間腰かけているうちに
だんだん疲れてくる。
「まつかぜ」の大阪〜博多間を乗りとおすには、かなりの忍耐も必要だった しかし考えてみると、「おおぞら」とか「おおとり」もそれ位の距離走ってた。
まあ、こんなこと言い出したら、電車化前の「はつかり」から「白鳥」から、際限なく
出てきちゃうけど…。 >>303
なればこそ、気晴らしがてらに立ち寄る食堂車が必要だった道理。
>>302
その点、キハ181系は人間工学を駆使して設計したシートになっていたのは偉い。
>>302
>>「まつかぜ」の大阪〜博多間を乗りとおすには、
>>かなりの忍耐も必要だった
良い子は真似しないから大丈夫 「白鳥」は実用で使う人もいたらしいが「まつかぜ」は趣味以外まずねえなw 作家の宮脇俊三氏(故人)も「まつかぜ」の大阪〜博多間全区間を乗り通しているかもしれない 「まつかぜ」の博多→新大阪を2回も乗り通した自分は、相当物好きで“悪い子”なんだな!
でも、まあなんだ、その当時なんて、この程度の距離や所要時間の列車なんか、
そんなに珍しいものでもなかったんだけどな!
今の時代、座席のみの列車で10時間以上走る列車なんかもうないんじゃないか? 山陰本線の特急列車が「まつかぜ」一往復のみだった頃、鳥取・島根など
山陰県下の子供はみな、線路脇などで「まつかぜ」が通過するのを見るたびに、
「まつかぜ」は全車指定席の食堂車までついた豪華列車で「まつかぜ」に乗れる人は金持ちだけ」と
思ったに違いない。
当時の山陰県下の子供から見た「まつかぜ」は現在の「トワイライトエクスプレス」や「カシオペア」以上の
豪華列車に見えたのだろう。
>>309
それなりのステータスはあっただろうね。
鳥取以西で編成が短くなってたから、豪華列車はオーバーだろう。
それなら大阪〜青森単独時代の気動車白鳥の方が、全区間グリーン車2両だったので華があった。 目立たなかったかも知れないが、「くろしお」にもグリーン車2両に食堂車まで連結していたんだな。
でも、「まつかぜ」ほど“風格”を感じなかったのは、白浜までの短区間の列車があったりしたからだろうね。
“風格”と感じるのは、編成も堂々としていて、孤高の存在を感じる列車だからかな。 >>311
当時の南紀は名古屋・関西方面からの新婚旅行先だったので
1等車比率が多いのはある意味当然。
昭和40年代の後半にも成ると、ハワイ等の海外への新婚旅行が
容易になってきたのでの、電化の際に普通の特急になってしまったが >>308
>>「まつかぜ」の博多→新大阪を2回も乗り通した自分は、
>>相当物好きで“悪い子”なんだな!
いや、ちょいわるぼうや >>311
名古屋―天王寺のくろしおは、それこそ風格があっただろう。
唯一のキハ81運用で、列車番号も1D・2Dのトップナンバーだったし。 >287
昔は、京都や神戸に配慮して、西行きは京都発、東行きは神戸発の列車が多かった。 まつかぜの全区間乗車の話はよく聞くが、くろしお(天王寺〜名古屋)の話は
あまり耳にしたことがないなぁ。 >>317
どちらも全区間乗車はアブノーマルだったけど、くろしおも決して無かったわけでない。
ただ普通に大阪〜名古屋は新幹線以外に、急行比叡・関西線経由のかすがや、近鉄特急など
と比べて著しく時間がかかり、値段が張ったのもあっただろう。
まつかぜはくろしおと比較したら大阪〜博多の列車選択肢が乏しく、価格差が新幹線より著しく高い
わけでなかったのもあるだろう。 やっぱり「物には限度がある」ってことなのかな。
「くろしお」で天王寺―名古屋間乗り通すんじゃ、多分東海道線の各停の乗継
よりずっと時間かかった筈だから…。
「まつかぜ」の大阪―博多間となると、特に新幹線の博多開業前なら、
そこまで荒唐無稽なことじゃなかったと思える。