特急まつかぜといそかぜを語ろう
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新大阪・大阪〜米子・博多間を走ってたまつかぜと米子〜博多間
(末期は益田〜小倉間)を走ってたいそかぜについて語りましょう >>150
せめてG車が残ってるうちにやってもらいたいですねぇ。もちろん原色に戻して。
前回のリバイバルは6連でうち4両が先頭車って、なんか情けない編成だったから。 一番記憶に残っているシーン。
掃除のおばちゃんが、溜まった灰皿の中身を捨てて回っていたこと。
二番目、大阪博多乗りとおしで、朝昼食堂車でめし食い、昼下がりに「これで
食堂車の営業を終了しま〜す」というアナウンスにがっくり。
実は夕方、別のチームが営業し、前出の大山おこわ定食にありつくことに、
味の記憶はないが、活気溢れる食堂車であった。
六両だったか七両だったか、米子からの短編成でも食堂車があった。
今では信じられない光景だ。 >>151
廃車予定の「はまかぜ」キハ181系列を使えば、
グリーン車も再現出来ますね!!
西が、国鉄色に戻すかどうか・・?? まつかぜの食堂は、いつ行っても、数名の客が居て、ビールでも飲みながらゆっくりくつろいでいた様な印象が
あります。
当時は、まだビールを飲める年齢ではありませんでしたので、そのうちゆっくりと思っていたら、食堂車が無く
なってしまいました・・・・ こないだ東萩に行ってきたけど、
恐ろしく田舎な駅で驚いた....
駅周辺は寂れちゃってるねえ
このあたりの山陰本線は本数もほとんどないし、
くるのは単行各駅停車ばっかりで
単なるローカル線だった... 山陰でも萩あたりになると、瀬戸内側までの距離もさほどじゃないからねえ……
下関も山口市も山越え道路で比較的短時間…… 京都行、米子行、益田行と徐々に短縮されていって、
ついには廃止されちゃった列車系統だったね
しかも晩年は小倉発着…
寂しくも懐かしい 門司を悠々と通過していく様がたまらんかった。
今はないもんな。 島根県の大田に親戚がいたので子供の頃、大阪からよく乗りました。朝8時にでて石見大田に着くのは午後3時前。時間帯の便利さから行きはまつかぜ、帰りはやくもというパターンが多かった。
当時、親が話ではまつかぜの指定が取りにくくて、一度三瓶で行ったこともあります。上下のまつかぜが交換するのが出雲市で、下りのまつかぜと上りの急行出雲がすれ違うのが、確か石見大田だったと記憶しています。
まつかぜが誕生当時は下りが城崎、上りが豊岡停車だったのが、やくもが出来たときに、まつかぜが豊岡で、やくもが城崎に変わったんだと思う。白鳥も同様に上下で動橋と大聖寺を分けていて、雷鳥としらさぎ誕生時に動橋のみ停車になったはず・・・。 あのころの山陰線の特急
あさしお・はまかぜ・まつかぜ・やくも・おき
「やくも」は新幹線連絡エル特急として後には電車にもなってその地位を不動のものにした。
いつ廃止されてもおかしくないようでしたたかに残っているのは「はまかぜ」だな。
京都・大阪・福知山・城崎・鳥取・上井・米子・松江・出雲市・石見大田・浜田・益田・東萩・長門市・下関・小倉・博多 博多「まつかぜ1・4」号はキハ181系の車両数の関係などから、キハ80系のまま
残ったが、60.3改正で米子発着に改められたときにキハ181化された。
どうやって「まつかぜ1・4号」用のキハ181系を確保したのだろう。
米子運転所担当の特急「おき」の編成を減車したりグリーン車を廃止、そこで捻出された米子運転所の
キハ181系の一部を向日町運転所に転属させて「まつかぜ1・4号」の1〜4号車を「おき5・2号」と
共通運用させることで「まつかぜ」2往復のキハ181系化が完了したのだろうか。 >>164
60-3改正まで、「おき」は小郡配置の181系で運用されていたのを、この改正で米子または
向日町に転属させ、一部列車の短縮やそれに伴う運用数の整理、編成短縮を行い、80系の
置き換えを実施した筈。
小郡では、確かキハ180に余剰廃車も出たと思います。
「まつかぜ」の食堂車の営業は、日本食堂米子営業所か大阪営業所が
担当してたようだったけど、都ホテル列車食堂も「まつかぜ」の食堂車営業を
行ってなかったかな。
>165
昔は石見江津は通過でした。
やくもは、最初から停車していたと記憶しています。 福知山線の踏み切りで、だいせんやまつかぜに昔よくしょんべんかけられたな。 >>161
私のとこも大田・川本に親戚がおりますので、子供の頃何回か行きました。でもうちは貧乏だったので「さんべ」か「だいせん」でした。(笑&涙)
一度京都の金持ちの親戚と一緒に行くことになり、見栄をはって「まつかぜ」に乗りました。でも汽車賃浮かすため、当時小学校一年だった私を幼稚園児にしたてただ乗りしました(笑&涙)そのとき食堂車利用しましたのを昨日のように覚えております。
また金沢にも親戚おりましたので、何度か行きましたが、貧乏でしたので「白鳥」ではなく「ゆのくに」でした。(号泣)
現在発売中の習慣朝日(4・16号)で自民党の石破茂氏が「はまかぜ」「まつかぜ」を熱く語っている。軍事オタクで有名だが列車オタクとしても知られ、なかなか造詣が深いらしい。
鳥取出身で、子供の頃乗った80系「まつかぜ」や、消え行く181系に思いを馳せ、古きよき時代をなつかしんでいる。 民主党の前原氏と自民党の石破氏、プライベートでは何か鉄道趣味の話でもする事は
あるのだろうか?
ともに、山陰本線に関係ある場所の選挙区ですね。 前原は撮り鉄、石破は乗り鉄って感じがする
個人的には石破の鉄話の方が好き >170
子供の頃、一人でまつかぜに乗ったとき、隣の席にたまたま座った人に、食堂車でビーフシチューのセットをご馳走になりました。 >>172
以前鳥取のFM局?がやった番組で石破氏と前原氏の対談が実現、
話の内容がひたすら鉄話に終始したそうだw まつかぜや出雲などの話をし始めると、食事も忘れて延々と続きそうなお2人ですね。 島根のおじさんは、まつかぜを大阪便、出雲(急行)を東京便と呼んでいました。 福知山の会社に勤めていた親類の話じゃ、来客用の切符手配は、
東京方面→出雲、大阪方面→まつかぜ、京都方面→白兎が定番だったそうな。
時間帯的に?な面も有るけど、列車の格みたいなものも考えんといけなかったんだろうか? >>179
昭和50年代頃までは該当列車が一番使い勝手の良いダイヤだったはず。
京都〜鳥取だと「あさしお」もあったけど、下り午前と上り午後は使いにくかった希ガス まつかぜは使いやすいダイヤでしたね。鳥取到着も丁度良い時間帯で、出迎えに来た人と一緒に
昼食を取ってから、目的地に移動するのがいつものパターンでした。
一方、夜の大阪→鳥取間の移動は、もっぱらはまかぜ2号(のち3号)を利用してました。大阪駅を
18:00丁度に発車するので、仕事を終えてそのまま乗車する事もありました。 ガキの頃の遠い記憶。
萩−東萩間が豪雨の影響だったか何かで不通となった。
下関方面から上ってきた「まつかぜ」は萩駅で足止め。
その日婆ちゃんに連れられたオイラは、所要で萩駅から長門市駅まで向かうところだった。
乗車予定の下り鈍行は同じく東萩で足止め。
暫く萩駅で待っていると、足止めされた「まつかぜ」は折り返し鈍行に成り下がって運行することになった。
オイラはまんまと特急車両で優雅な各駅の旅となった。
ちなみに「まつかぜ」乗客は、チャーターバスで東萩に移動し、
本来オイラが乗車予定の鈍行が益田方面へ折り返すとのことで、それに乗ったらしい。
そんな想い出が蘇った。 >>98
遠投
オレが覚えてるのは「つるぎ」との並び。
確か「つるぎ」が7:20頃大阪着やったはずやから、えらい早うから大阪駅に来てるもんやねんなぁ、と驚いた覚えが。 俺も「まつかぜ」京都(大阪)−博多 乗ってみたかったなあ。海を見なが
ら食堂車で食事したかった。今考えると贅沢だよね。
数年前に、その半分くらいかもしれんが、倉吉ー新山口 の「Sおき」で
多少の鬱憤晴らしをした。海側の席取ってね(山陰は海側が日も当たらなく
て良いよね) >>186
その全区間乗りました。上り4号だったので山陰海岸がきれいな区間で食堂車で食事をしたけどガラガラ。
道中長かったので松江あたりからかったるくなり、倉吉あたりから外は真っ暗に。
鳥取から巡回してた車販のおねえさんがかわいかったw >>186
俺も4号の13連の後から2両目グリーン車に全区間乗った
鳥取出てからの〜←こんな感じのカーブでは7号車辺りが見えて1号車が見えなかった
さすが13連(俺の乗った車両から見ると12連)と感動した >>187
>>188
186です。レスありがとう。
188氏のようにグリーンで乗りとおすのは憧れだったけれど、当時は
そういう身分でもなかったしね。
13連か。素晴らしい。俺の乗った「Sおき」は増結してても4連だったもの。
景色のよいところを走る長距離特急はいいよね。白鳥も魅力だったけ
れど、山陰のクイーンには及ばなかった。
>>190
昔は乗客もたくさんいましたしね。
スレ違いなんですが、貨物・普通・急行を押しのけて走ってました
米子発のあさしおは当時9か10両でしたが、鳥取をでるとカーブが
ありまして、その長さを感じましたね。
>>190-191
昔のまつかぜ1・4号は鳥取折り返しの8〜13号車も含めて全車指定席だったけど
下りの1号は大阪発はいつも満席
たまに「まつかぜ1号」の指定が取れなくて立席特急券で鳥取に出張に行っていた
親父の受け売りだが
一度だけ親父が鳥取出張に俺を連れて行ってくれたのが良い思い出
確か11号車だったと思うが、食堂車の3号車まで行くのが子供心に長かった覚えが
あるよ 昭和47年の8月に鳥取から京都まで特急あさしおに乗った。
がらがらだったな。 >>191
特急で基本2連、昔では考えられなかったですね。
>>192
確かに1号は良い時間です。それにしてもいつも混んでいるとは。
そのニーズが他の手段に移ったのでしょう。
良い思い出ですね。確かに11号車から3号車は長いわ。
長い先にはお楽しみ(食堂車)があったのですね。 鳥取が田舎のうちの親父の場合、昭和50年ごろまではもっぱら「まつかぜ」などの特急利用で、
それ以降は、圧倒的に山陰特急バスの利用でした。何せ、安くて早かったですから・・・
ただ、昭和51年夏だったか、まつかぜ1号の指定席が取れず、急行「みささ」で鳥取まで行った事
がありました。「みささ」も混んでいましたが、今では夢の様な話です・・・ >>195
まあその頃までは国鉄運賃も安かったからね。その後無謀な運賃・料金50%値上げから
毎年のように値上げした上に、高速道路の延伸で競争力が落ちて利用者減少していった。
だから博多直通のまつかぜも昭和55年あたりからはそれほど混雑しなくなったのでは?
件の昭和51年頃は東京〜浜田の元祖出雲も、寝台券が連日満席でなかなか入手できなかったと聞く。
80年代初頭の子ども向け特急列車図鑑みたいな本だと、
博多まつかぜを通しで乗る人は滅多にいない という様な記述をよく見た。
富士の西鹿児島行きとかも同様に。 >>197
関西〜博多を往来する人は通常新幹線か山陽本線利用だから、それは当たり前。
博多まつかぜも2つの列車をくっつけたようなものだったから、60年3月にいそかぜと
米子で分割されたのが事実上の列車性格を物語っていた。
当然全区間乗り通すのは酔狂なマニアだけになる。
博多まつかぜや、西鹿児島直通の富士以外にも昭和50年代までの国鉄はそのような列車は多数存在した。
気動車時代のくろしおも名古屋〜天王寺を直通してた事や、気動車にちりんの日豊線経由
博多〜西鹿児島など。
>>196
てか出雲は羽田⇔出雲便が拡充されるまで連日満席が普通だった 但馬に乗れなければはまかぜ、だめならあさしお、伯耆、まつかぜ、
いなば、白兎、伯耆、だいせん、はまかぜ、あさしお、それでも無理なら
まつかぜ、826レ、だいせん。
鳥取から大阪へ行く手段が豊富だった。 >>202
急行『伯耆』は、運転開始当初はのちの「みささ」のルートを走ってたのです。
伯耆 とか 白兎 はガキの頃、読み方が分からんかった 伯耆は間合い運用で境線に入り、G車を利用しました。 大阪8時発の下りまつかぜ1号は鳥取駅1番線に到着、
後部6両を開放後出発していき、残った6両はそのまま
上りまつかぜ1号として大阪へ折り返していた。
下上2号も同じだった気がする。 下りまつかぜ1号は、地平時代の鳥取駅でも1番線到着でしたね。
下り「まつかぜ2号」は鳥取駅到着後、一旦西側の留置線に引き上げて
博多発の上り「まつかぜ2号」が鳥取駅に到着する少し前に、増結編成
として1番線に入線して待機した覚えが有る。
鳥取に来ると木製の古びた跨線橋を渡って2・3番ホーム西端に行き
鳥取機関区にたむろする車両を眺めていた。
宝塚駅のホームの長さに在りし日のまつかぜ号に思いを馳せる。
特急列車に風格があった時代。
北近畿(笑) >>210
特急「まつかぜ1・2号」が13両編成
夜行客車急行「だいせん3・4号」は荷物車・郵便車込みで13両&DD54
同じ「だいせん」で日中走るDC急行はキハ58系12両編成
普通列車でも10両編成が有った時代 >>210-211
その代わりその当時は大阪近郊輸送なんて話にならなかった時代。
82系時代の「まつかぜ」の食堂車、つまりキシ80の車内は独特な雰囲気だったね。
博多営業所の人が大阪まで乗務していたせいもあって、
山陰からの帰りだというのに、博多へ行っていたような錯覚を覚えてしまったほど。 >>213
米子営業所が受け持っていて、米子で食堂車従業員全部交代してただろう。 「まつかぜ」は、少なくとも最初の京都−松江間の特急時代は
同じ向日町のキハ82系を使う「白鳥」と共用運用で、大阪営業所
が食堂車を仕切っていた筈なんだが
「まつかぜ」食堂車の管轄の履歴は以下の様な感じか?
S36.10〜S47.3:大阪営業所
車両と食堂車営業は「白鳥」と共用運用
S47.3〜S57.7:米子営業所
「白鳥」が電車化(盛アオ所属)&「やくも」新設により、食堂車の営業を
「やくも」と共用の米子営業所へ移設
S57.7〜S60.3:博多営業所
「やくも」電車化により食堂車営業中止、山陰本線の食堂車営業の昼行特急が
「まつかぜ」のみとなったため博多営業所に移転
>>215-216
大山おこわ定食は米子営業所特有のメニューだったろう。
昭和58年に乗った博多まつかぜも大山おこわ定食が存在してたから、216の時系列には合わない。
それと伯備線やくも新設と、白鳥電車化は半年ずれている。 >>217
食材を途中停車の米子で仕入れる事で、営業所が変わっても提供は出来る 特急『まつかぜ』号には一度だけ(?)乗りました。
三江線を乗りに行った際、江津から米子までの区間乗車でしたが・・・。
まだ80系DCの頃で、乗車して席に荷物を置いてすぐに食堂車に行ってみましたが、
食堂車のクルーが、米子?で交代するために飲み物しかオーダーできませんでした。
何処の営業所が食堂車の担当とかは知りませんが、出雲市駅だったか松江駅に近づくと
なんと食堂車のテーブルに掛けてあるテーブルクロスもクルーと一緒に列車から降りるようで、
この作業のために食堂車から追い出された記憶があります。
スレ違いですが、米子からは181DCの特急『やくも』号で岡山へ向かい、こちらの列車でも
食堂車を利用しました。 今ではとても考えられないのですが、特急DCを二本乗り継いで
違う形式の食堂車を利用することができました。
やくもで大山おこわ定食のそばに
醤油と間違えてソースをかけた記憶がある。
ウェイトレスが笑っていたような・・・
今考えるとつゆってついてなかったのかな? >>219
内田百間の随筆にも、関門トンネルを挟んで食堂車の従業員が交代する際を題材にした
ものがありましたね。
交代直前で一品料理が出来ず、ビールを飲みたいのに定食を食べる事になり、テーブル
クロスの交換についても触れられいました。 映画「砂の器」に「まつかぜ」が映ってる。
しかし、車内はなぜかクロスシートだった。
木次線のシーンもある。 >>206
博多直通のまつかぜの末期は
1号大阪発が10両編成くらいで、後ろ3両を米子で切り離しだったよね。
その3両は4号に?いで大阪に戻ってきていたはず。 まつかぜ全区間G乗車で朝昼晩と日本海を見ながら食事、憧れでした。
結局できずじまいで廃止…
なんとか廃車まぎわの南紀でGに乗り、あの独特の上下調整式のヘッドレストに
感動していじってみて鬱憤をわずかながらも晴らしましたが。
やっぱりやってみたかったなぁ…
青森白鳥でもできずじまいでしたし…涙 書き忘れましたが、あの当時のDMH系のエンジン音、癒される音で、
ジョイント音と共に、いつまでも乗っていたい気持ちにしてもらえましたよね…」 >>223
末期の博多まつかぜは、基本6両・付属3両の9両編成が所定で、
多客時に付属編成に1両増車して10連での運転でした。 >>220
大山おこわ定食のそばは「割子そば」なんで
器のそばに、一緒に出された汁を「かけて」食べるのですわ。 キシ80は、まつかぜ4号、おおとり(下り、上り)、オホーツク2号で
乗っただけ。 >>229
昭和50年代のキシ80は、くろしお電車化後の本州ではまつかぜの孤軍奮闘だったからな。
他のキシ80は全て道内だった。
そんなキシ80が、昼行特急の食堂車で最後まで残るとは当時想像も付かなかった。 あ〜あ。
とうとうキサシ180だけは利用せずじまいだったんだよぉ… 97年のJR10周年記念きっぷで小倉→米子と廃止1ヶ月前に益田→小倉を乗った。
海側景色の素晴らしさのお陰で時間が凄く短く感じた。残念ながら乗車率は…。
どちらも廃止やむなしだった。 一両に一人だけってのも珍しくなかったよね。
小学生の頃、家族で一度利用したが、
あまりに客が少ないのを見て騒いでいたら
偶然通りかかった乗務員に睨まれたのを覚えてるわw。 山陰線特急が、智頭急開業以降「南北に結ぶ特急」になってしまったからね。
東西を結ぶ特急は、通勤時間とか帰省時期以外は少ないのも当然でしょうな。
スーパーまつかぜを見ると、近鉄の「京阪特急」を連想してしまう。
>>236
その昔、近鉄難波〜近鉄京都を結んだ特急があったんですよ。 あ、それのことか。そういえばありましたね。
それなら納得。あんなのに特急料金払ってまで誰が乗るのか?とか思って見ていたことを思い出しました。
頭が固いもんで丹波橋で相互乗り入れしてた京阪宇治〜近鉄京都・近鉄奈良〜京阪三条の事かと思いこんじゃいました。
あれはたしか準急クラスでしたよね。
まつかぜに限ったことじゃないけど
発車前に爆音を立ててホームに止まっていた頃が懐かしい
暑い時期だけだったかもしれない >>233
山陰本線西部はまつかぜの頃からガラガラだった。長門・萩などは小郡へバスに乗って
新幹線利用が主流になってるから、山口県下の山陰本線は事実上ローカル線に過ぎない。 昔はですよ、20系銀河が大阪駅に朝8時に滑り込むとまつかぜが同時に発車し、山陰線廻りで夜19時30分に博多に着いていたなんて、マジで信じられん 宝塚を出ると美しい渓谷の景色がひろがる。それを見ながら食堂車でメシを >>241
ただ当時としては下り銀河からまつかぜ1号に接続してほしかったな。
銀河到着と同時に発車とは何とも意地悪いと思った。
上りの新大阪行きなら銀河に間に合い、新幹線乗継ぎなら名古屋まではOKだったのに。 まつかぜで山陰の海沿いを走りながら、食堂車で飯を食べるのが乗客のトレンディ >>244
最後の頃は、銀河の到着がちょっとだけ早くなって、到着と同時にまつかぜ1号が発車
という事は無くなった様な・・・ >>246
'88年11月に24系25型化されたと同時に大阪駅07:43になった >>247
国鉄最後の86年の間違いだな!?その改正なら同時にまつかぜが消えた時だ。 85年3月改正で「いそかぜ」の編成内容知った時にはショックだったな。
えっ、こんなになっちゃうの?って。そりゃまあ、需要の実態はもちろん分かってたけどさ。
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