【美しき】C55【ライトパシフィック】
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門鉄デフ:筑豊のサラブレッド
密閉キャブ:北辺のサラブレッド
閉塞侵入ヨーシ 出発進行! C55のボックス動輪?
本当にあったんですか。私は知りませんでした。No.がわかればご教示ください。
C51や86ならたくさんありましたが。
C57のスポーク動輪?
これは似合いそうですね。小さめの門デフつけて、模型にしてみたい。
ピノチオ模型でC55用動輪・ドーム・ナンバープレート
等々を出してたよ
30年以上まえの話だが C55で流線型が成功してたらC57やC59も流線型になってたんだろうか? >>79
昭和10年代の計画機関車(KC55・KC56形、共に2C2)に流線型が存在します。
残された図から判断する限りC55+独の01-1000みたいな形状ですな。
もっともC55の流線型は開閉部分が多いだけに整備上は最悪扱いだったそうで…
(煙室扉や炭水車の動力開閉は作動不良続出、足回り点検中に跳ね上げてた側面覆が落ちて頭を直撃とか)
整備しやすい流線型にするなら満鉄パシハみたく最低限の部分だけ覆う形状にしないと厳しいかと。 マラード号みたいなやつなら憧れたけどなぁ。
C55やEF55みたいなやつはちょっと格好悪いような。
それならむしろ普通のC55だとかEF53の方が格好いい。
一連の流線型で格好いいのはモハ52だけ、異論は認める。 >>81
>>普通のC55だとかEF53の方が格好いい。
全く同感。流線C55はともかくC53の流線型はキモイ。
確かに1930年代の流線型では電車の52系が一番かも。
私鉄の流線型、例えば名鉄の3400系なども悪くない。
>>81
EF55は妙に和む形状なのでその辺は良いかと
モハ52は2次車登場時の塗装が最もスマートかな。 C55流線型でイメージ検索したけど実物の画像ほとんどなし。
模型ばっかり。
唯一あったのは廃車寸前のもの。 華やかさは戦後に譲るとして、国鉄が一番夢
を追っていたのは、C55が作られた1935年頃
からWWUにかけてだと思う
たかだか100km/hの速度で流線形に入れ込ん
でみたり(現場の迷惑もかえり見ず)
他にも電気式流線形DCのキハ43000とか、EC・PC
のノーシルノーヘッダーや張り上げ屋根とか・・・
ありゃ鉄道模型趣味としか思えない……それも実物でw
個人的には、オール張り上げ屋根のオハ35系を
牽くC55が最高にカッコイイと思う
電車では合の子半流43系、電機では鋳綱台車
+丸ボディーのEF10ってとこかな >個人的には、オール張り上げ屋根のオハ35系を
>牽くC55が最高にカッコ イイと思う
↑
通常型ね いささかスレ違いだが、
流線型が有効なのは、新幹線電車になってようやくというところではないか。
85氏がいうように、たかだか100km/hでは高いコストかけて作る意味がないかと。
しかも検修する側は大変なのだし。
結局、一部設計側の自己満足だったか。 お〜い…>>89
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…おいらのC55のイメージは、門デフ+茶色い旧客だなぁ。
たまに短い貨物を牽く姿も良かった。
手宮の50号機でも動態復活しねえかなあ
で、宗谷本線でSL利尻号とか運転すんの >>1 揚げ足を取るつもりはないけれど
EL・DL・EC・DCの場合は『出発進行!』だが
蒸機の場合は『ハッシャー!』じやかった?
二人で連呼→機関士が逆転機を前進フルまで
ねじ込んでブレーキ緩解、加減弁開ける。
蒸機の発車は格好良かった。 コクテツではどの車種にも「発車」って用語はあったのでは。
出発進行ってのは、出発信号機が進行現示であることを認めて
喚呼する用語だろうから、起動を開始して出発時刻を採る「発車」
とは別ではないかと。
バイパス弁、閉じ!
リバー40!
閉めるっ!
(も、なんか違うような気がするが…) >>94
どこかの駅で、下り副本線から貨物列車の発車。
駅長「下り一番線、出発進行!○○○列車、発車!」
駅長(助役)が片手を上げる。
機関士「下り一番、出発進行、発車!」
復唱し、汽笛を鳴らして列車が起動。
駅長、最後部が出発信号機を超えるまで監視する。
車掌が窓から顔を出して駅長と敬礼。
駅長、列車が出て行った線路を指差確認してから引き上げる。
蒸気だか電機だか忘れたが、こんな感じだったよ。
なんだかカッコイイと思った。
本屋で「蒸気機関車のメカニズム」だったかな?
を立読みしたら、C55(多分C57ー1・2も)
だけは実効開口面積が広い、高品位なバイパス
バルブが使われていたそうだ。
実際の所、絶気時にどれ程の効果が有ったのか
は不明だが、何故か嬉しい。 なんつたってシゴゴだね♪
C55好きは審美的人種と思われます。
是非とも聴いてみて下さい。
フランスの蒸機大好きな鉄チャンで、現代音楽家
でもある[アンテュール・オネゲル]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:CHF20_8_front.jpg
がフランス国鉄の特急用蒸機231型を題材
として1923年に作曲した交響詩
「交響的断章(運動)第1番【パシフィック231】」
疾走する蒸気機関車を活き活きと描写した名
曲です。 みんな明けましておめでとう
汽笛・ブラスト・凝水の排出・シンダの匂い・ダイナ
モのヒョーという音・時折思い出した様にシコーンと
動く給水ポンプ・チュルチュル吹き出す泥溜めのドレ
ィン・加減リンク内をスルリと下がるラジアスロッド
・キャブ窓に肘を掛け加減弁を引く機関士・空転で咳
き込むブラスト・蒸気圧十分でステップに立ち腰を伸
ばす助士・・・・・、色んな風景が何時も記憶の中に
よみがえる。
蒸気機関車と同じ時代を過ごせて本当に良かったよ。 21番
C5551〜54のテンダーは、D51用に振り替えたが、
それは、戦後大分地区で実施したが
戦前にも静岡でC51、C53でも実施した因みに振り替え相手はD50であった。
C55では、
C5551→D519
C5552→D5112
C5553→D5123
C5554→D5193
であった。
北海道に比べ、九州の方がテンダーを出鱈目に改造している。
大分地区のC55・D51の他
鹿児島地区の8620・C50が入れ替え作業の利便上C56風になっている。
門鉄デフでも大分地区では、似合う蒸機と似合わない蒸機があった。
すなわち、C55とD51でした。
給水暖め器がデッキにあるカマは門デフが似合うね。
C55 C57 D50 D60 大昔、雪の塩狩峠でC55を待っていたとき、あんまり寒いんで
三脚の列を敷いた撮鉄(という言葉は当時なかったが)十数人で、
列車が来るまで雪合戦しようじゃないかということになった。
俺は小学生で最年少。
こっちチームは相手に押されて後退を続け、がけみたいなところに落とされてしまった。
やがて汽笛の音。雪の中を必死で這い上がったのだが、すでに列車は去った後。
何しにここまで来たんだと、敗者チームの大学生のお兄さんなんかは陽気に笑っていて、
こっちも半べそで笑うしかなかった。いい思い出です。 たかが雪合戦で崖に落とすなんて、随分と酷いことをするもんだ。
しかも小学生で峠まで繰り出して、写真のひとつも撮れないなんてあんまりだ(´;ω;`)ブワッ 煙室上に給水温め器が在ると、門鉄デフのスマートさ
が裏目に出て逆に暑苦しくなった。
門鉄デフが似合う蒸機としては9600も中々だった
…っと言うか、C55とは対局的だが9600も同じ
位好きだった。
膨張室を通さないダダダダダダという歯切れ良いブラ
ストと1250φの動輪をグルグル回しながらの激走ぶりは
急行用蒸機とは別物の泥臭い味わいがあった。
撮り鉄の話題が出たので40年前の思い出、高校生だっ
た俺は暇さえ有れば、親父
のキャノネットを借りて佐倉区・八高線・御殿場線を徘徊し
ていたのだが如何せん、レンズが≒50mm固定だったの
で蒸機の迫力ある写真がどうしても撮れなかった。
そこで晩春のある日、御殿場線の谷峨駅上りにある第
3?酒匂川鉄橋のランボード上に三脚を構えてD52
牽引下り普レを待つという暴挙に出た。
やがてレールに何かの響きが伝わり始め、ジョイント
音が聞き取れる様になり、彼方からトンネル進入の汽
笛が聴こえ、ブラストが聴き取れ出したと思ったら、
D52は既に鉄橋へのアプローチに姿を現した。
窓から身を乗り出してこちらを見る機関士、指差し呼
称をして右手を上げる俺、機関士が短声吹鳴、鉄橋は
それ自身があたかも打楽器の様に振動しつつ色んな音
を共鳴、左手と両膝を着き三点支持する俺、D52は
無数の蒸気の排出音とガラガラというメカノイズと共
に荒れ狂う圧倒的な質量と風圧を残して通り過ぎた。
置きピン・ノーファインダで撮った写真は見事にぶれていた。
その後バイトに精を出して、生まれて初めてのカメラ
…ニコマートFTNと80ー200f4.5ズームを買う事になり
今も愛用している。 『砂濾』って部品は知らないが、砂箱と砂
まき管の間にあるやつなら『砂まき器』で
砂箱から圧縮空気を使い霧吹きの原理で砂
を吹き出す装置だよ >>120
塩狩峠の補機はたしかDLに代わる前は9600だったとかの記事を読んだ記憶があります。D51ではなかったような。 >>121 ありがとう、自分が乗った利尻は一足遅れ
のDD51牽引でした。
ス・マ級主体の12連を
C55が牽く!!!。
9600が押す!!!。
方や二枚目スター、方や実力派の名脇役…両者とも
大好きなロコなのでたまりません。
峠越え後、キューロクの大忙しな下廻りが目に浮か
びます。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄つちのこ軌道 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○鵜飼健一郎は放置が一番キライ。常に誰かの反応を待っています。
|| ○ウザイと思ったらそのまま放置。
|| ○放置された鵜飼健一郎は煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は鵜飼健一郎の滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。
|| エサを 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
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筑前山家 こちら鳥栖機関区
日豊本線仕業上がりD60を原田で給水、救援に向かわせます
当該レチに通告願います 夏の多客期には利尻にはハが増結され、C55の重連で運転されました。早朝
に幌延でこれを見ています。幌延には2両同時に給水できる設備はなかったの
で(倶知安にはこれがありましたね)1両ずつ給水していました。
すると、塩狩越えはこれに9600の後部補機がついたのでしょうか。ま。真
夜中のことだったから写真はないでしょうが。 有火化に関して、C61は良い機関車だが、カッコワルイ
、φ1750のスポーク動輪をブン回して走る姿が見たい。
(できれば、C55-3次型でやって欲しい。…50or52(46)号機)
何とかしろ、JR北/九、金が無いなら東/西に頼め。 これは配置、時刻表からの推定だが
北海道での戦前の活躍で昭和16年に下富良野(現富良野)にC551,2,16が配置。
昭和18年10月には既にいなくなっている。昭和15年10月改正から18年10月改正まで
の間に函館ー釧路間急行7,8レ「まりもの前身」が設定されており、その時期と一致
するので急行7,8レを富良野ー釧路間で牽いていたと思う。
途中の狩勝峠だが新得にはD51の配属はまだされていないので塩狩と同様にC55+客
+9600で越えたのかな。
参考:キネマ旬報「蒸気機関車」、時刻表復刻版(戦前編)
あと昭和14年頃、函館ー札幌間急行3レを山線区間をC51が単機で牽いていた記事も
あるので当然C55も牽いていただろうな。
参考:蒸機の詩
あくまでも資料からの推定だがこういうのを思い巡らすのも結構面白い。 >>133後段
函館本線を走るC55流線の写真(30号機か?)は存在する D51170は、状態良好そうですが、10億円と言う募金目標は厳しそう・・・ 実現したらD51好きの俺にとっては超ビッグニュースじゃまいか。 >>139
あれはナンバープレート差し替えてるんだったっけ?何故なんだい?
本体は52号機だったはずだが、デフは小工式K-7タイプ?…要するに57号機タイプを希望するぜ >>142
ナンバーが振り替えられているのは大分の53号機(本体は46号機)では?
53を保存したかったが既に廃車されていたので、46の本体に
53のナンバーと製造銘板を付けたと何かの本で見た気が。 THNX.現在は鉄分(ステンレス分?)20%なもんで・・・
やはりC55には普通の小工式か原型(北海道の窓明き含む)デフが似合うと思う。
妄想ではC5550に小工式なんかもドイツロコ風で良いなぁ。。。
M原君はC55の美しさが分かる人らしいので、文化遺産としての動態化を是非ともマニフェストに(略
この前、京急川崎で大師線でウテシが嬉々溌剌と乗務交代する姿を見て、糸崎での
本線回り広島行き普レ牽引C62の機関士と助手の姿を思い出し、京急に関しては鉄分70%になりました。
スレチになってしまった様だが鉄道には脱線が(略 塩狩も越えたし、スハ45の窓開けて涼風を入れようぜ@317レ 何でこんなに保存機が少ないのか。
流改1両残すつもりが手違いで解体。
C5557も手違いで解体と聞いた。あれは最高に整ってたのに。
C5546をC5553として保存していたり
C55の保存については国鉄時代のドタバタ劇が見え隠れしているね
保存の経緯を知っているの、別にドタバタでもなんでもないよ。
C5557解体されてしまってたのですか、どこかに保存されているものと思っていました
自分的に一番きれいに形式写真が撮れたカマでした 57と52は末期まで残ってたからかなり写真撮られてるね。
確か、戦災も含めて事故廃車は0なんだよね、各々の持ち場で最期まで全車が走
り続けたC55は幸せな機関車だったと思うんだよね。
今の薄汚れた世の中で、イベント列車とか牽いてる姿はあまり見たくないなぁ。 昭和30年の時点で62両フルエントリーってのは評価されていい C57に比べて人気が今ひとつなのが残念なんだよね。
まあ知る人ぞ知る、の方がマニアにとっては良いのかもしれんが。 スポーク動輪のC55こそ欧州の機関車にも匹敵する美しさがあると思うんだよな。
どうやらC57のスレは見あたらない気がするから、
そういう意味でもコアな人気と言えるのかもね。 エアーだと比重の関係で5管のうち最短管の上Cしか鳴ってないね。
今、ピアノでやってみたら国鉄標準仕様の5ベル汽笛のコードは下からC・E・
G♭・G・CのC△+#11で、あの哀愁のハモりは#11の隠し味なのね。
何だかんだ言いましたが、吉松の皆様どうぞ52号機を可愛がってやって下さいませ。
次回はボイラーがんがんに焚いて、生蒸気でお願いします。
それからJR東よ、品川駅の発車のショボい汽笛…なんだよアレは?!
何とかしろよ、京急使っちゃうぞ!ホントに C55の動輪は某サイトによれば以下のものが保存されているようだ。スポークだから貴重だよね。
C5515 東京都目黒区 旧国鉄動力車会館
C5534 鹿児島県姶良郡 JR日豊本線帖佐駅前 第1動輪
C5547 北海道滝川市 郷土館
C5549 北海道稚内市 利礼ドーム (保存後解体されたもの)
C5553 大阪府 共栄興業
C5553?栃木県真岡市 真岡鐵道 真岡駅前
C5553 東京都江東区 JR東京資材センター
C5557 熊本県八代市 個人
番号不明 北海道上川郡 美瑛某民家
5年ほど前に稚内へ行ったときに、
防波堤ドームの49号機を見ようと楽しみにしていたのだが、
見つからずにウロウロしていたら、>>157の通り解体されてしまったとかで、
切なくなって泣いた 元々は門鉄型と言うより標準型の上半分の流用なんだけれど、あれはあれでカッコよかった。
バイパス弁の点検用なのだろうけれど、どうせなら横一文字にカットして欲しかった。 >>161
1993年頃のRail Magazineに保存SL網羅した特集があって、
そんなに酷くはなかった様な書かれ方だった記憶があったので、
期待していたんですが、10数年の時の流れというのは早いですねぇ(´;ω;`)ブワッ C5550も安泰とはいえないですね。
九州の52は実際に見たことはないんだけど塗膜が少しゴワゴワになってるのが気になる。
それはともかく地元の人たちには大切にされているようですね。 みなさんC55現役時に間に合った方ですか?
ラスト 宗谷&鹿児島
南九州(52・57時代)
筑豊全盛時代
南九州(27・33・34など時代)
それ以前 室蘭など
さらに昔 播但とか羽越とか日豊とか
わたしは南九州の後期でした、でもそれ以前に若松でボイラー代用になっていた?19号は初見だった
ような気がします。 52、57が現役だったのは知ってたけど(吉都線だったかな?)当時小学生だったので遠出できず悔しかった。 全廃後の追分火事の数日後に産まれましたー(´・ω・`)
自分でも何に影響されてC55が好きになったのか、分からない。 >>164
北のC55は73年〜74年のかけてC5547,50に間に合いました。
塩狩、智東、問寒別、抜海での雪中の宗谷本線でを行く姿が未だに忘れられない。
88年に結婚したばかりの妻と小樽の鉄道記念館を訪れ、
14年ぶりにC5550を見た時は現役当時を思い出しながら感慨深げに見入ってしまったな。
妻もある程度C5550を理解してくれたのも嬉しかったな。
現役時代を見ているせいか復活蒸機は撮影していないがC5550が動けば北の果てだろうと
行くつもりでいる。
南のC55だけどスタイルのいい門デフのC5557など見たかったが年齢的に北に行って南に
にまでは行けないので叶わなかったのが残念。
門デフの形式入りのC5534など興味あるカマが多いだけにもう10年早く生まれていれば
なんてよく思ったものだった。 流線改造のC5534は安全弁一体型のままだったよね27かな
見たかったなあ
C5530は丸屋根くらいしか面影がなかった 10年早く生まれたらねえ
北近畿、山陰のC55を拝めたのに そうだね
C51末期も拝めたしC55はまだまだ全盛
播但線や日豊本線も主力だったでしょう
しかしその頃だと山陽のC59C62を追いかけてあまり撮らなかっただろうなあ >>170
C51まで見たんですか。羨ましい。
C54は見られましたか? >>171
これは(10年早く生まれていたなら)が文の頭につくんじゃないかな? >>172
成程。気付かなかった。ありがとう。
鉄道写真で有名な西尾克三郎氏も同じことを言ってましてね。
「あと10年早く生まれていたら、もっと色んなものを写せたのに」 あと、30年ほど早く生まれていたら…
いろんな機関車を見れたかも知れないけれど、写真は撮れなかっただろうなぁ。
安くて大ヒットしたPENTAX SPでも大卒初任給くらいだったらしいし。
プラスフィルム+現像代だし、若造には無理だよな。
なので、あと80年ほど早く生まれていたら…
とか考えてみたりもした訳だが、東南アジアのどこかで(略 C54は昭和37年廃車だから遅くとも昭和30〜31年生まれでないと苦しい。
俺はアウトだった。
C55も既に姿なくC57に置き換えられていた。 >>175
現実的なところでは昭和20年代前半生まれじゃないと無理な気が…
山陰筋で昭和30年代初頭に生まれたら実機が見れたんだな…
小寺さんとかがうらやましい >>174
「国鉄時代」で今からすれば貴重なカットを多く残している村樫さんも昭和30年代
は借り物のカメラを使用するなどの記事があったが、当時は被写体は豊富すぎても
カメラは容易に入手出来なかった時代だったようだ。
俺も30年早く生まれていたらと思ったところ
撮り始められる時期が戦時中で非国民となじられて、没収されるのが関の山かも。
さらに戦争末期に学徒動員されていたかも知れん。
山陰、播但のC55は雑誌等で見る限りでは
流改機で形式入りのC5523はイイ。3次型(41,44,56,58,62)もデフの点検窓もなく、
ヒサシも長くランボード上にも追加された造りモノも目立たないし原型に近かった
ようだ。
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