【美しき】C55【ライトパシフィック】
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門鉄デフ:筑豊のサラブレッド
密閉キャブ:北辺のサラブレッド
閉塞侵入ヨーシ 出発進行! >>248
それ、俺も見て「あれっ?」と思った。
57は経歴上九州は出たことがないよね。C55関係の資料は欠落も相当ありそうだけど。 >>249
本州で門デフC55が運用された唯一の例。もっと注目されてもおかしくないが、不思議なことに書籍では殆ど触れられていない。
さらに、和田山や豊岡のカマではなく、わざわざ九州から引っ張ってきたのは何故なのか? 近い兄弟の56と58を捜す旅に出たのだが会えなかった 山陰のカマは早々にいなくなっちまいましたからね。勿体ない。
‥‥まあ、C51もほぼ屠殺済みだったから行き場はなかったんだろうけど。 戦前〜戦後、しばらく秋田に配属されていた事はあまり知られてないね。
早々に据付釜と化した55はもとより、写真も多く残る10・19も、通算では秋田に配属されていた期間は14年と結構長いのに。
あと、僅か1年間だけど磐越西線西部。47〜50の旭川転出組と15・18の九州転出組が運用されてた。
全然知らなかった。10と19が最後まで普通デフだったのは本州が長かったからなのね。 C559の写真はやはり少ない?
国鉄時代に後ろ姿が載ってたけどネットにはまったくHITしない。 1964年の廃車第1号だから写真自体少ないし、撮影した人もだいぶお亡くなりだろうから、遺族に処分された写真が多いと思ふ。
写真集で、敗戦間もない頃にクランク周りの故障でエンコした写真を見たが、煙室ドアのナンバープレートは原型ぽかった。
9号機に限らず、北近畿のC55は1966年春までに昇天したから写真少ないんですな。
北海道や九州、名古屋の仲間と比べてもノーブルで渋い風情だった。 >>256
4は戦前から九州入りしとったけど、最後まで普通デフですたよ。
14も、1950年代までは普通デフの写真が残ってます。
旧東北組と言えば、27-29も戦前・戦中は仙台所属。 惜しむらくはオリジナル音じゃないこと。
雰囲気は出てたけど。 北海道も嫌いじゃないけどお化けの出る駅があるそうだから((((;゚Д゚))))
自分は九州がいいなあ。S40年頃の九州に戻って27号や34号に会えたら死んでもいい。 ここにくる世代はぼちぼちブームも佳境に入ったがC55はすでに
北の旭川、南の若松・吉松に残ったメンバーに会えたあたりですかね。
それ以前の室蘭とか九州では大分〜宮崎の日豊南下組あたりに間に合った方も
おられるのかな。豊岡(和田山)はどうだろ。
豊岡・和田山C57への置き換えが早かったのはやはりあまり好かれてなかったのかな?
C55はC57に比べ空転がやや多かったらしい。 機関区(管理局)の好みもあるんだろーなー。
大分もS40年頃にたくさんいたC55を一気に手放した。 C57よりも数倍スタイルが良いと思う。水かきスポーク動輪効果で
ボイラーがC57より細く見える。
と、言ってる自分は姫路出身なのでC5711だけはヒーロー的存在なんだが。
今年61才の俺、出会った蒸機は↓
8620.C50.C55.C56.C57.C58.C59.C61.C62.9600.D50.D51.D52.D60.D61.C11.C12
一番好きなのは⇒C55 あの「蒸気機関車スタイルブック」の図面から見て、
本当に美しいのはC53とC55だと思った。
現役の実車で感動したのはC12。コストダウン設計なので
すべてが隙間だらけのスカスカ。たぶん、
稼働寿命を20年程度で割り切った設計だったのでは。 >>267
姫路保存機でしたらC575も忘れないで。ネット画像ではとてもよく手入れされている模様。
スレチごめん。
2次形流改が一つも残ってないのが残念だ。 余り知られてない運用区間としては、旭川区の留萌本線と名古屋区の中央西線かな?
尾久所属機なら成田線や高崎線、東海道線品川。
秋田所属機は奥羽線米沢や羽越線酒田以南、白新線にも臨客で乗り入れいたのかも。 >>271
留萌本線ではS44.8月頃だが羽幌方面への海水浴臨時。
「蒸機の詩」(北海道撮影社)より
秋田のC55はC57との共通運用だが羽越本線ではS31,12頃までは上り「日本海」の運用を持っていた。
3日に一度が見られたとか。
村上を発車するC5510がRJのS47.3月にある。
カマ番はC553,10,19,55で尾久?、大垣、秋田、九州へと一緒に動いている。
日本の蒸気機関車が最終状態に近くなった頃、
C55に会いたければ地方まで行かなければならなかった記憶が。
自分の記憶ではC55に会うには九州か北海道しかなかったな・・。 流線形の配置状況はどうだったんだろう。
大阪−大社(島根県)の急行運用があったらしいけど記憶違いかも。 保守を兼ねて豆知識
形式入りナンバープレートの機
23,25,34,60 >>275
古いのなら伊藤東作氏が撮影された新製後北へ配属される途中の庫での
1号機のがあるね。たしかJ誌に載ってた。 形式入りプレートの珍重さは認めるが、C55/D51以降(一瘤駱駝機)には形式のみプレートの方が似合うと思う。 >>274
S11に福知山にはC5522,23が配属されている。
S10,3改正で大阪ー大社間に急行が設定されたので牽いた可能性は高いと思う。
戦後S23,7改正で「出雲」の前身となる大阪ー大社間準急が復活しているが
こちらはC57牽引。
参考:RF(NO438) 277だけれど、形式のみプレート=普通のプレート、って意味ね >>278
S11年って俺のオヤジが生まれた年だw
今の80代以上しか姿を拝んでない流線形って伝説だね。 76年産まれの俺がガキの頃に買って貰った
鉄道関係の子ども向け本とかには、
流線型C55やC53の写真がよく載っていた。
時代とか年表とかよく分からん年頃だったから、
蒸気末期まで走っていたのだと無意識に勘違いしてたっけ。
ある程度ネットなんかをやる様になってから、流線型の写真を見ることが殆ど無くて、
あぁS40年代頃には殆ど絶滅してたんだぁって思ったな。
もっともC5345だけは復活だったらしいが。 足回りだけカバー外された奴って言われるほど無残だと思わない。結構イケてるではないかと思う。 流線型ブームとはなんだったのだろうか?時代の雰囲気はどうだったのだろうか?
二二六事件や日独防共協定調印の1936年に製造された流線型C55には暗黒時代への
牽引機としての不気味さを感じる。 >>281
流線型だったC53はC53 43のみだよ
後から流線型に改造だけど
>>284
43だったか、失礼 m(´・ω・`)m (流線型ではない)C5345は90年事業で現役復帰をしたんだったよね。
ゴッチャになっておりました、スレ違いの上に重ね重ね失礼をばm(´・ω・`)m C51、C53、D50、スポーク時代後期のカマはキレイなのが多いよな。
ただし、あの時代のカマの運転席の視界は良くない。
D50の末期に運転席に座るチャンスがあったけど、
前方の窓は遠くて小さい、し斜め前は大きな死角があった。
>>283
昭和16年になるまでは準戦時体制ながらも旅客営業は戦前の黄金時代で観光旅行も盛んだったとか。
当時の鉄道省もレール内に限らず総合的運輸事業に見据えた意欲が高かった。
営業実績は旅客量、車両数、停車場数は昭和に入ってからはずっと右肩上がり。
俺は当時から生きていた訳ではないがかたや横柄な態度の憲兵が車内巡回もしていてのんびり旅を
楽しめる時代でもなかったとも言う。
軍隊の移動や軍需産業関係で鉄道の輸送が支えられていたように見えるけどね。
大正蒸機はキャブが広めで格好いい。
実際D50は広いし振動もD51より少なめだったそうな。
流線形→普通形改造工事はS26年頃だっけ。 283です。>>288
どーもです。wikで調べたら1936年は、モロゾフが本邦最初のバレンタインチョ
コを売り出すは、幻の東京オリンピック開催決定するは・・・等々、浮わついた
カオスな年だったようです。
鉄道車両については、一例としてスハ32系の造りの良さを見れば往時の黄金期ぶり
が伺え知れますね。
>>289
そんな貴方には、折尾〜中間の4線区間! 9600、D50、D60、C55がバンバン見放題
(ただしボックス動輪は見れない)でした。
D50は特に、下バネ式の前期型が乗り心地抜群で乗務員に人気だったそうです。
自分としては国産最高傑作機は9600だと思ってます。縁の下の力持ちで、汚れ放
題のアレを磨き上げたらC55とは対極的な美しさになると思ってます。
[陸蒸気からひかりまで]で描かれているC55・C51重連の32系列車は山陰本線・福
知山線あたりでは現実に見られたんだろーなぁ、、、見たかったです。
流線型C55の改装は1950年に鷹取・浜松・小倉工場でされたそうです。
長文書きなぐり御容赦、おやすみなさい。。。 >>290
ばんばん見放題って・・タイムマシンがないと。
太陽の特異点をどうたらこうたらしたら過去へ行けるとか聞いた。 >>290
8620も忘れないでください。
この区間を通る
朝の一往復半は撮影者にとってとってもお得な時間でした。 >>290
末期はD51やC57も走ってましたけどね。C57は貨物も牽いていたし。 >>292
ん? ハチロク?
居たの?どこの区?どんな運用? 朝、香月始発で線内を一往復したのち香月→中間→折尾→中間→香月→中間→折尾→若松
という運用だったかな。折尾ー中間を走るのはこの上り2本と下り1本で、
下りは逆行、上りは正向。
(正確には早朝基地の若松を回送で出てくるスジもあったかと思う) ありがと、家が佐倉機関区の近くだったのでハチロクは見飽きていて
ノーマークでした。
あの架線もなんもない、だだっ広い4線区間をトボトボ行くハチロク
は風情があったろうね、特に逆行姿が見たかった。 筑豊本線のC55はぎりぎり間に合わなかったなあ。でも吉松にいった
52と57に会えたからよしとしようか。
57は吉松の庫の中で(あの北九州地区の機関区立ち入り限定処置は南九州は
されてなかったよね)、52は吉都線とあのファンが狙った日豊本線のスジを
田野の築堤で。うん、なかなか良かった。 上のほうで9600の話が出てたけど、火が入ってる9600は本当に魅力があったよね。
小さな動輪をせわしく動かしているのにスピードが遅いと言う可愛さも。
近くから見上げるとC62やD52に匹敵する威圧感も。(笑
愛嬌があって、頼りになる田舎の爺さんみたいな魅力があった。
9600ほど火が入ってる時と消えてる時の生命感の違いを感じる機関車は少ない。 >>298
俺は相対するが宗谷本線のC55にギリギリ間に合った。
塩狩峠や抜海〜南稚内のお立ち台、321レから眺める夕方のサロベツなど
いい想い出。
スタイルのいいC5557も見たかったがさすがに経済的な理由もあって
北と南の両方とまではいかず叶わなかったのは残念。
門鉄デフのC55-3次型は確かにみんな格好良かったが、他機と57号の違いは
速度計ロッドの取りだしが第三動輪だった点くらいなのでは?
北のC55もあれはあれで味があった。ランボード脇からキャブ下端の白線を
くっきり入れてアクセントをつければ断然良くなる。 ブーム以前〜ブーム渦中〜晩年の状況
昭和40(1965)4月
旭川・岩見沢・苗穂・室蘭 17
豊岡5 和田山5
若松7 宮崎16 吉松11 計61両 98%
昭和45(1970)6月
旭川 1・30・47・49・50
若松 19・★46・51・52・53・57
吉松 10・26・27・33・34 計16両 25・8%
その後
旭川の★1が梅小路へ ★49・47の順に廃車
若松の46・51・53が廃車、52・57が吉松へ
吉松の5両が全て廃車
昭和49(1974)4月時点〜昭和50年3月
梅小路の1を除くと、旭川の30・50、吉松の52・57が稼働、若松の19は
二休車。最後は30・★50・★52と廃車 最終が57
★は廃車後保存(49は保存後解体、大分保存の53は実機は46)
なお15・34・47・49(解体後)、53(3軸とも?)、57の
動輪が保存(保管)されている。 >>302
3号は? S45年はもう休車だった?
C55はつくづくS46年頃までが勝負だったんだなと思う。
52、57をとことん引っ張るあたりに九州局の親心を感じるが
それならば57は保存して欲しかった。 >>303
C553は45−6現在では若松の配置には載っていませんでした。あと鳥栖に13の配置がありますが
運用はなくボイラー代用的なものだったのかもしれません。
ところで多数のバリエーションの門デフを装備したC55を見られたのも45年より少し前までということに
なりますね。ただK−9(関分類)を装備したC55はなかったのでこれは見たかった。
長工デフ装備のものはいなかったけど、宮崎で最後になったC574はその装備機で、おまけに
煙室端面角形改造だったのでもしC55が長工デフを装備していたらこんな感じになったのかな、と
想像するのも楽しいものです。 追記
K−9デフは元機のデフ端が斜めになっているものから改造したので
全機そのデフでなく標準のものだったC55では実現は難しかったかもしれません。
C57196がそういえばK−9デフでした。 梅小路のC53は大阪で動態保存状態に復元してから、
ずっと、博物館に静態保存されてたと聞くけど、もう火をいれられないのかな?
青梅鉄道公園にあったC51は係の人が「屋外展示だけど徹底的に保守してるから
少し手を入れるだけで動くはず!」と言っていたが。 >>305
C57196は模型板で「ランボードがグニャグニャに歪んでる」と画像が晒されたことがあったな。
同じ四次形でも198(関西本線)はキレイで真っ直ぐだったのに。 K-9デフって確かにC55にはまったく見られない。
C58には多い気がする。 門鉄デフって、運転席からの前方視界は良さそうだが、
本来の排煙性能は、かなり落ちるのでは・・・。 C63がウィッテ式デフ(≒K-7)で計画されていたから効果はあったのだろうが、給水温め器を煙室
上に置いた機はどうだったのだろうか?煙突回りにかなりの乱気流が起きていたはずなのだが。
北海道の密閉キャブC55にK-7デフはドイツ機みたいで似合いそう。 C53は問題がフレームの亀裂だけなら今の技術を使えば復活できそうなんだが。
今では厚板切断ができる大型精密レーザー切断機があるし、
油切れや焼損で悪名高い中央シリンダー連接リンクだって、
現在のオイルレスを削り出せば完全にクリアーできるんだが。
あるいは、ボイラーまでボロボロなのか・・?
復活すればC62の何倍も人気が出るのは確実なのに。 C53はタイヤが磨り減っているよね。
部品取り出来る同形式がないのも痛い。鷹取がもうないのも。
C551が気になる。不調というのはどの箇所が悪いのだろうか。
動態復活できるのは他にないだけに(52はひょっとするとだが) タイヤとリムは焼嵌、よってタイヤ新作で無問題。
九州の8620はリム以外の機能部品は殆んど新作だったの
で、C55も水掻き動輪ワンセットがあれば復活可能。
ただしアキンドJRは蒸機を客寄せパンダ位にしか考えて
ないし、認知度の低いC55は難しいだろね、あと鉄道
輸送への貢献度からも9600は忘れないで欲しい。
個人的には文科省が文化遺産として保存すべきだと思う。
カネが無いなら取り敢えず今すぐモスボール化すべき。 9600大好きの人の意見は良くわかる。
火の入っている9600の「生き物感」は半端じゃないからねぇ。
あの存在感はD50に少しだけ残っていたけど、
D50系は実動機すら存在しない。
是非とも9600の動態化は願いたい。
D51やC62と全く違う本物の機械の迫力がある。
旅客機ならC55やC51。、貨物機ならD60とD50は動態保存すべきだった。
9600の本来のイメージは貨物列車を黙々と牽くスタイルだけど、さすがにそれで動態と
いうわけにはいかないだろうしなあ。営業上、イベント旅客列車を運転するにしてもちょっと似合わないと思う。
末期の9600旅客牽引というと定期では米坂線、川越線、唐津線、豊肥本線ぐらいだったけど
米坂以外は朝夕の一往復程度なので「9600が旅客を牽く」というとやはり米坂線だったよね。
あと季節や臨時では宮津線の「チューリップ号」(西舞鶴区)や深名線の冬季混合列車(ストーブ列車)もあった。
でも動態保存はしてほしい。大正期の機関車の技術伝承の意味もあるし。
9600スレではないのでこのへんで。
各地に復活機構想はあるけどどこも資金がない。
今後は梅の火の落ちてる機に期待するしかないだろうね。
D50140は開館当初は構内運転してたから大丈夫だと思う。
9633も走ってたと思うが調子はどうだったかよく分からない。
いつかはC571に寿命が来るだろうが後釜にC551が指名されたらもういつ死んでもいい。 >>317
現役蒸機の思い出深いがゆえに復活蒸機は撮影していない。
でもC55が動態復活すれば北だろうと南だろうとすっ飛んで行くよ。 >>309
門デフの排煙効果は普通のデフと変わらないでしょう。
というか、ボイラーの中心線より上だけでも効果があり
バイパス弁の点検時にも邪魔にならないから、あのスタイルに
なったはず。長工デフや後藤デフも理由は同じ。 へえ・・!そうなんだ。勉強になったよ。
オレなんかは、通常の除煙板のほうがランボード前部の傾斜との相乗効果で
間違いなく強力だろうと思っていたが。 C63の設計図を見れば最初から門デフ。
つまりはそういうことだね。 門デフはドイツのにインスパイアされて生まれたのかなぁ。
ボックス動輪といい、ギースルエゼクターといい、
日本の機関車は外国から技術を進取してたんだね。 C5765のドイツ風にカーブした門デフ
カッコ良かったなあ つーか日本の蒸機機関車自体、外国技術の塊ですから。
C55以降の本線機で導入された排気膨張室(排気のサージタンク)は日本の独自技術だよ
まー、蒸気の加熱を除けば、根幹を成す技術はロケット号の時点で全て実用化されちゃったのよ 今の世の中は疲れる、C55が旧客を牽いていた頃が一番よかった。
ドアは自分で開けるものだ。俺はブロイラーにはなりたくない。 確かにねえ。
風は窓を開け、自らの肌と鼻で感じるものだ。
みちのくにはみちのくの、古都には古都でしか嗅げない匂いがあったからな。
特急はおろか、普通列車まで固定窓になるご時世だからなあ。 トンネル進入時の汽笛吹鳴は『おい客ども、窓を閉めろ』の合図でもあったし。
登り勾配で喘ぎだすと何気に『乗務員ガンバレ』という空気が車中に流れた。貧
乏だが一体感はあったな。
筑豊・宗谷と、両本線の雰囲気は正反対だったが、鉄とコークスの匂いに対して
大地の風の匂いと、両者ともSLの舞台としては最高だった。
北の原野でドア全開のデッキ立ちとか・・・昔の時間は豊かだった。 排気膨張室って役に立ってたのかな?
福島でC59の機関助士やってた伯父は、役立たずだと言ってたが。 もともとC59だけは炎管長が標準より500o長い6000mmだったので通気抵抗が高く
て蒸気の上がりが悪く助手さんは随分苦労されたらしいから、そっちのファクター
もあるんじゃないの?
炎管長が等しいC51/54⇔C55/57、D50⇔D51での比較が必要なのではないかなぁ。
伯父さんの話もっと聞かせてよ。 あまり話聞けない内に倒れて鬼籍入りしちゃったのが残念ですた。
戦前型は煙管メンテが心配の種。
戦後型は折角の燃焼室も排気膨張室が肥大化したので大差なかったと言ってた。
C59 91→C60 29のテンダが、昭和18年式の10-25Aじゃなくて昭和16・17年式の10-25になっていた訳を聞きたかったんだけどねえ。
九州で果てたC59 22と振り替えたってことはないよなあ。
(本題からそれるのでこの辺りで御免) たしかにC59は一見カッコ良いが第3動輪後方の巨大なオーバーハング部とそれを
支える従輪の頼りなさに機械としての不安定さが感じられ、そして実際にその箇所
に色んな不備を抱えていたという亊なんですね。自分的にはC60の方がバランスが
良く好きです。戦時設計の船底テンダーはよくクラックが入ったらしいです。
伯父さんには長生きして現場の亊をもっと色々話して欲しかったですね。
排気膨張室に関しては久大線のD60牽引普レでのブラストの切れの良さと盛大な
シンダが良かったです。 1973〜74年の冬の宗谷本線ではC55 30・50とC57 87が使われてたけど、C57 87は相当寒かっただろうね。
C57 87を岩一に入れて、C57 44・57・135のいずれかをC55 47の後釜にしても良かったと思うのは素人考えかな?
‥‥C59の場合、 本来ならば出来栄えがいいはずの戦前型でも、大半は戦時中の完成だから、細かい部品の材質低下が響いてたのかも知れませんな。
特に81〜90が完成したのは1943年11月から12月。
仙台で生涯を閉じたC59 90なんか12月30日完成になっていたけど、ホントだったんでしょうかね? 男性を侮辱した女のわがまま【女性専用車両】を廃止させよう
読売テレビが女のわがまま女性専用車を斬る
http://www.youtube.com/watch?v=98pWaXYihXk&list=PLCDC875F7D14589A7 >>336
なぜか晩年に渡道すると会うのは47か50だったなあ。30にはとうとう会えずじまい。
あと冬に苦労してたどりついた稚内で上り鈍行に乗ろうと勇んでホームにいったら
あれええ? C57だった。 87は形態は崩れていたけど頑張ったね。 30はあまりに調子悪くて、一時は早期廃車が囁かれてた。(74年春頃の鉄ピクより)
でも50の方が先に車検切れ。30は74年9月下旬時点ではまだ稼働しとった。
実情はだましだましだったんだろうね。
たった4両で、本来なら補機なしの321レの塩狩越えも、30の時はしばしばDDやDEが後押ししてた。 暇な時でいいからその他のレ番と発時おしえてください。317/318レが利尻だったっけ? 亀レスれす。
>>121
『SL』誌No.10の表紙は下り塩狩越えのC55 17だが、後補機はD51。
C55は一つ目、荷物車が戦災復旧車、D51は原型デフ。
>>132
C55 50は元々みちのく→磐越西線のカマだから、束で復活‥‥。
キャブとテンダ上回りは新製で可。 C55で動態保存可能は52だろうな。
50の北海道は絶対に他社に渡さないだろうよ。 九州も北海道も御当地スタイルが好きだな。
52はデフをバイパス弁点検で滅茶苦茶にしちゃとたからK-7に喚装すれば
よかとよ。
50はあれはあれでなまらカッコいいし、あのままで良いんでないかい。
あと、オリジナルは1で完璧ラインアップだね。 >>344
あと流線型は元交博でいま鉄博にあるC5520の大型模型でなんとかしよう。
それにしても30号が残っていれば・・・。 うん、30号機の原形化はかなりの大仕事で無理としても、流改機のごついメカメカ感は捨てがったかったからな
C55は1/2/3次/2改/御当地仕様機、と色々楽しい機関車でもあるな 30もだが、27・33・34が保存されていても不思議じゃなかった。
あとは10・19。ノーマルに近いC55が1両も現存していないとは‥‥。 しかしあの筑豊の52・57の転属は意外だったね。会計検査院の例のお達しがらみだっけか。
それがなければ吉松のC55は27、33、34で終わりだったのだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています