【美しき】C55【ライトパシフィック】
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門鉄デフ:筑豊のサラブレッド
密閉キャブ:北辺のサラブレッド
閉塞侵入ヨーシ 出発進行! ついでにゲッパもお願いします。
因みに、わたくしは出っ歯です。そしてグッパが大好きです。
また以前にヨーロッパで葉っ●をやった事なんてありません。
正面にクッキリスッキリとハンサムなマン丸顔を出している
C55は性格が素直なイイヤツそうですね。 総社員8名の会社であれだけの仕事ができるとはオドロキです。 まもなく2番線より筑豊本線回り普通列車原田行き発車いたします
なおこの列車は折尾には停車いたしませんので折尾へお越しのお客様は次の門司
で反対ホームにまいります南福岡行き普通列車にお乗り換えください
ヂリヂリヂリヂリヂリヂリ……………
普通列車原田行き発車いたします
ビーー
ブヮオオオォォォ━━━
列車動き出してからの飛び乗りは大変危険ですのでおやめください
おやめください おやめくださあぁぁぁ〜い あけおめ
港湾、工業地帯、炭田、農地、峠、一粒で五度おいしい筑豊〜本線ん〜♪
スポークの大動輪が回らないってのは日本の鉄道史から言って問題あるよね
商売人のJRには期待できんし、今のところ頼みは吉松のボランティアさん
達のみってところか
37年前の今頃、旭川のホームでの南稚内から乗った上り一番列車の50号機が
見納めだった。 1号は梅入りする前に米子の後藤工場へ寄ったらしいけど
それでも元の調子に戻らなかったのかな。
30と57を潰したのがなおさら惜しまれる。 最後まで門鉄に居れば57号の運命は変わっていたかもな、あそこの職員は鉄分が高かった。 なさぁけ〜ぇ 知ら〜ずと〜 わ〜らわば〜わらえ〜 ひ〜と〜にゃ〜見せ〜な〜い〜 お〜とこ〜の〜 な〜みだ〜〜〜〜
ど〜せ〜 おい〜らは〜 玄海〜灘〜の〜 波ぃに〜浮き寝〜の〜 かも〜め〜ど〜り〜〜〜〜〜〜〜
Song by C55 国鉄時代のDVDはなかなか必見ですぞ。
若松時代の52、57の活躍が収録。 あの頃のパシフィックの状況
C51 およそ半分くらいが残存。室蘭、米沢、新津、亀山、みんなC51がいた。
C54 残り6両、浜田に集中。
C55 62両全機健在。北海道、九州のほか関西線や播但線でも見られた。
C57 戦災で廃車になったものを除けばほとんど全機が健在。北は築港から南は
鹿児島まで。上野にも両国にもバンバンきていた。
C59 C60への改造などがはじまり、若干両数が減ってきた。
およそ60年代初頭、私が就職してはじめてのボーナスで自前のカメラを手に
した頃。 当時、中央線には中野・荻窪・吉祥寺・武蔵境・国分寺にも貨物駅があった。
入れ換えは八王子区のED17が巡回していたが時々運用の都合か8620が来ていた。
60年代前半の、俺が小学生の頃だった。
数年後C55という蒸機を初めて知った。『陸蒸気からこだままで』のペン画だった。
その年の冬、俺は均一周遊券で北海道をまわっていた。 >>211
C54は分散配置されてれば1両くらい残ったかも分からんですね。
C55・57の前身機を肉眼で見たかったです。 C51は8620のイメージ上に想像できるが、仕事中を見たかったね。C54はC50を間延びさせ
た感じだったのだろうがあまりその気にならないなぁ、キャブ前面の傾斜は急客機だの証
しだと思うよ。糸崎で初めてC59を見た時は、それと全長の長さが相まって、さながら陸上
の船の様だったよ。
C57の優美さは認めるので貴婦人の呼称は良いと思うんだけれど…
※ここで提案↓
スポーク大動輪が細長いボイラーを担いで精悍な姿のC55を
『槍騎兵(ソウキヘイ)=ランサー(Lancer)』と呼んでみたいんですが。。。どーでしょう? S50.12.14はC5530だったらよかったのに(50でも可) 福知山や和田山にはs40年初頭までいたよ。
流改もいたし、ほとんどが原形を留めていた。 C55王国の九州に再びC55を!
絶対叶うことはないけど妄想を抱いてしまう。
現実的なトコでは人吉市長が乗り気のD51だろうが。 >>218
全面的に賛成!
D51なんてどこにでもいる。矢岳越えの重装備D51ならばわからなくもないが、
C55は無論、門デフ付き。 動態復元出来そうなC55が居ないのが残念。ただ、凄く見てみたいですね。 C61が動いちゃうんだから、C55だってどうにかなりそうな気もするが。 敢えて言うなら梅小路の1号機じゃね?
ボイラー新製でおk 58654なんて元のパーツなんてまったく残ってなく実質新製だもんね。 新製に近くても、書類上はタネ車の履歴を引き継がなければ
ならない制約でもあるのかも知れない。 なんというかC57は飽きた。
やはり、あの細身の体にはスポークがよく似合うと思うのだ どなたか「蒸気機関車最後の10年スレ part6」の次スレたてて
いただけないでしょうか?
蒸機の現役時代を語るスレが「懐かしスレ」にほとんどないもので。
私はスレたて出来ませんでした。 >>226
では、C551とC571のニコイチはいかがでしょう >>229
>>227です。スレ立てありがとうございました。 鉄道模型でも各種ゲージで57号機が再現されている。
いかに愛されていたかを物語っている。
・・なんで潰したんだよ。 台湾ではDT668(D51)が動態復活したそうな。
CT250も2両静態で現存するから少し期待しちゃうね。
唯一本線を走る「C55」を見る手段になるかも。 個人的には57より55を推すなぁ。
スポーク動輪が美しい。
C57が人気があるってのは、単にC571とか見る機会が多いから
マスコミの大衆操作につられてるだけでしょう。
もっともC55の現役走行を宗谷本線や南九州で
C59の末期をかろうじて呉線で堪能した身にしても、
C51やC54は知らない。
結局美しさも経験した中での比較しかない。
あとスポーク動輪も九州のはさすが磨きぬかれて印象度は高かったが
旭川のやつはお世辞にも美しいとはいえなかった。 動輪だけじゃないでしょ?! C55はC57に較べて上回りも(煙室前端・ランボード前部
・スチームドームのキセ…)すべてが鋭角的でメカニカルなデザインで、各パーツが
独立して存在しているイメージ。
両者は似て非なる蒸気機関車。当然、カッコイイのは C55>>>C57 鉄道ジャーナルの「列車追跡シリーズ」鈍行日本縦断(いろいろあるが
増刊に所蔵のもの)でスタートが宗谷のC55鈍行(1号牽引)で
ラストが吉松のC55牽引列車だったね。
最後は「どうせなら」とわざわざ吉都線で吉松へ出て肥薩線経由の鹿児島行(西鹿児島?)行きに乗り換えのコースをとったんだっけ。
まだ最初と最後がC55牽引客レを選択できたいい時代だった。 流線型時代のC55に萌えました
流麗というよりは奇怪
これが当時の美意識 ベストセラーズ刊の「蒸気機関車パーフェクトBOOK」には、大畑ループと出ていたが、C55はここを登れないのでは? どちらかというとC55は文句を言わずに
黙々と働いてくれそうなイメージがあるんだがなw
C57辺りが高飛車なイメージw
まぁ勝手な妄想だけどなww 曲線的なC57に貨物列車は全然似合わないが、C55は何でもいけた。
折尾で下り運炭列車を牽いるのを見たことがあるが、格好良かったぜ。 >>245
まさしく。播但や山陰でもC55/C57が貨物牽いてたけどC55の方が似合っているね。 台座の上に安全弁がのっかってる27号機の写真見た
あれ面白いね。 国鉄時代の付録DVD。1962年1月に撮影したという関西本線のところで赤ナンバーの『C55 57(名)』が出ていた。
何度か見直したが、間違いなく九州にいるはずの57号機が門デフ+赤ナンバーで出ていたし、他のカマは皆名古屋のカマだった。
C51淘汰やC57配転の都合で名古屋にレンタルされていたのだろうか?
でも、ワンポイントならわざわざ赤ナンバーになどしないだろうにねえ‥‥。 >>248
それ、俺も見て「あれっ?」と思った。
57は経歴上九州は出たことがないよね。C55関係の資料は欠落も相当ありそうだけど。 >>249
本州で門デフC55が運用された唯一の例。もっと注目されてもおかしくないが、不思議なことに書籍では殆ど触れられていない。
さらに、和田山や豊岡のカマではなく、わざわざ九州から引っ張ってきたのは何故なのか? 近い兄弟の56と58を捜す旅に出たのだが会えなかった 山陰のカマは早々にいなくなっちまいましたからね。勿体ない。
‥‥まあ、C51もほぼ屠殺済みだったから行き場はなかったんだろうけど。 戦前〜戦後、しばらく秋田に配属されていた事はあまり知られてないね。
早々に据付釜と化した55はもとより、写真も多く残る10・19も、通算では秋田に配属されていた期間は14年と結構長いのに。
あと、僅か1年間だけど磐越西線西部。47〜50の旭川転出組と15・18の九州転出組が運用されてた。
全然知らなかった。10と19が最後まで普通デフだったのは本州が長かったからなのね。 C559の写真はやはり少ない?
国鉄時代に後ろ姿が載ってたけどネットにはまったくHITしない。 1964年の廃車第1号だから写真自体少ないし、撮影した人もだいぶお亡くなりだろうから、遺族に処分された写真が多いと思ふ。
写真集で、敗戦間もない頃にクランク周りの故障でエンコした写真を見たが、煙室ドアのナンバープレートは原型ぽかった。
9号機に限らず、北近畿のC55は1966年春までに昇天したから写真少ないんですな。
北海道や九州、名古屋の仲間と比べてもノーブルで渋い風情だった。 >>256
4は戦前から九州入りしとったけど、最後まで普通デフですたよ。
14も、1950年代までは普通デフの写真が残ってます。
旧東北組と言えば、27-29も戦前・戦中は仙台所属。 惜しむらくはオリジナル音じゃないこと。
雰囲気は出てたけど。 北海道も嫌いじゃないけどお化けの出る駅があるそうだから((((;゚Д゚))))
自分は九州がいいなあ。S40年頃の九州に戻って27号や34号に会えたら死んでもいい。 ここにくる世代はぼちぼちブームも佳境に入ったがC55はすでに
北の旭川、南の若松・吉松に残ったメンバーに会えたあたりですかね。
それ以前の室蘭とか九州では大分〜宮崎の日豊南下組あたりに間に合った方も
おられるのかな。豊岡(和田山)はどうだろ。
豊岡・和田山C57への置き換えが早かったのはやはりあまり好かれてなかったのかな?
C55はC57に比べ空転がやや多かったらしい。 機関区(管理局)の好みもあるんだろーなー。
大分もS40年頃にたくさんいたC55を一気に手放した。 C57よりも数倍スタイルが良いと思う。水かきスポーク動輪効果で
ボイラーがC57より細く見える。
と、言ってる自分は姫路出身なのでC5711だけはヒーロー的存在なんだが。
今年61才の俺、出会った蒸機は↓
8620.C50.C55.C56.C57.C58.C59.C61.C62.9600.D50.D51.D52.D60.D61.C11.C12
一番好きなのは⇒C55 あの「蒸気機関車スタイルブック」の図面から見て、
本当に美しいのはC53とC55だと思った。
現役の実車で感動したのはC12。コストダウン設計なので
すべてが隙間だらけのスカスカ。たぶん、
稼働寿命を20年程度で割り切った設計だったのでは。 >>267
姫路保存機でしたらC575も忘れないで。ネット画像ではとてもよく手入れされている模様。
スレチごめん。
2次形流改が一つも残ってないのが残念だ。 余り知られてない運用区間としては、旭川区の留萌本線と名古屋区の中央西線かな?
尾久所属機なら成田線や高崎線、東海道線品川。
秋田所属機は奥羽線米沢や羽越線酒田以南、白新線にも臨客で乗り入れいたのかも。 >>271
留萌本線ではS44.8月頃だが羽幌方面への海水浴臨時。
「蒸機の詩」(北海道撮影社)より
秋田のC55はC57との共通運用だが羽越本線ではS31,12頃までは上り「日本海」の運用を持っていた。
3日に一度が見られたとか。
村上を発車するC5510がRJのS47.3月にある。
カマ番はC553,10,19,55で尾久?、大垣、秋田、九州へと一緒に動いている。
日本の蒸気機関車が最終状態に近くなった頃、
C55に会いたければ地方まで行かなければならなかった記憶が。
自分の記憶ではC55に会うには九州か北海道しかなかったな・・。 流線形の配置状況はどうだったんだろう。
大阪−大社(島根県)の急行運用があったらしいけど記憶違いかも。 保守を兼ねて豆知識
形式入りナンバープレートの機
23,25,34,60 >>275
古いのなら伊藤東作氏が撮影された新製後北へ配属される途中の庫での
1号機のがあるね。たしかJ誌に載ってた。 形式入りプレートの珍重さは認めるが、C55/D51以降(一瘤駱駝機)には形式のみプレートの方が似合うと思う。 >>274
S11に福知山にはC5522,23が配属されている。
S10,3改正で大阪ー大社間に急行が設定されたので牽いた可能性は高いと思う。
戦後S23,7改正で「出雲」の前身となる大阪ー大社間準急が復活しているが
こちらはC57牽引。
参考:RF(NO438) 277だけれど、形式のみプレート=普通のプレート、って意味ね >>278
S11年って俺のオヤジが生まれた年だw
今の80代以上しか姿を拝んでない流線形って伝説だね。 76年産まれの俺がガキの頃に買って貰った
鉄道関係の子ども向け本とかには、
流線型C55やC53の写真がよく載っていた。
時代とか年表とかよく分からん年頃だったから、
蒸気末期まで走っていたのだと無意識に勘違いしてたっけ。
ある程度ネットなんかをやる様になってから、流線型の写真を見ることが殆ど無くて、
あぁS40年代頃には殆ど絶滅してたんだぁって思ったな。
もっともC5345だけは復活だったらしいが。 足回りだけカバー外された奴って言われるほど無残だと思わない。結構イケてるではないかと思う。 流線型ブームとはなんだったのだろうか?時代の雰囲気はどうだったのだろうか?
二二六事件や日独防共協定調印の1936年に製造された流線型C55には暗黒時代への
牽引機としての不気味さを感じる。 >>281
流線型だったC53はC53 43のみだよ
後から流線型に改造だけど
>>284
43だったか、失礼 m(´・ω・`)m (流線型ではない)C5345は90年事業で現役復帰をしたんだったよね。
ゴッチャになっておりました、スレ違いの上に重ね重ね失礼をばm(´・ω・`)m C51、C53、D50、スポーク時代後期のカマはキレイなのが多いよな。
ただし、あの時代のカマの運転席の視界は良くない。
D50の末期に運転席に座るチャンスがあったけど、
前方の窓は遠くて小さい、し斜め前は大きな死角があった。
>>283
昭和16年になるまでは準戦時体制ながらも旅客営業は戦前の黄金時代で観光旅行も盛んだったとか。
当時の鉄道省もレール内に限らず総合的運輸事業に見据えた意欲が高かった。
営業実績は旅客量、車両数、停車場数は昭和に入ってからはずっと右肩上がり。
俺は当時から生きていた訳ではないがかたや横柄な態度の憲兵が車内巡回もしていてのんびり旅を
楽しめる時代でもなかったとも言う。
軍隊の移動や軍需産業関係で鉄道の輸送が支えられていたように見えるけどね。
大正蒸機はキャブが広めで格好いい。
実際D50は広いし振動もD51より少なめだったそうな。
流線形→普通形改造工事はS26年頃だっけ。 283です。>>288
どーもです。wikで調べたら1936年は、モロゾフが本邦最初のバレンタインチョ
コを売り出すは、幻の東京オリンピック開催決定するは・・・等々、浮わついた
カオスな年だったようです。
鉄道車両については、一例としてスハ32系の造りの良さを見れば往時の黄金期ぶり
が伺え知れますね。
>>289
そんな貴方には、折尾〜中間の4線区間! 9600、D50、D60、C55がバンバン見放題
(ただしボックス動輪は見れない)でした。
D50は特に、下バネ式の前期型が乗り心地抜群で乗務員に人気だったそうです。
自分としては国産最高傑作機は9600だと思ってます。縁の下の力持ちで、汚れ放
題のアレを磨き上げたらC55とは対極的な美しさになると思ってます。
[陸蒸気からひかりまで]で描かれているC55・C51重連の32系列車は山陰本線・福
知山線あたりでは現実に見られたんだろーなぁ、、、見たかったです。
流線型C55の改装は1950年に鷹取・浜松・小倉工場でされたそうです。
長文書きなぐり御容赦、おやすみなさい。。。 >>290
ばんばん見放題って・・タイムマシンがないと。
太陽の特異点をどうたらこうたらしたら過去へ行けるとか聞いた。 >>290
8620も忘れないでください。
この区間を通る
朝の一往復半は撮影者にとってとってもお得な時間でした。 >>290
末期はD51やC57も走ってましたけどね。C57は貨物も牽いていたし。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています