【阪急阪神近鉄南海京阪】関西私鉄黄金時代を語る
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1960年から1990年頃までの関西私鉄の輝かしい時代を語ろうではないか >>20
とある業界では、ウンコのことを「黄金」と呼ぶので無問題。 >>33
誰がうまい(某
そういへば漏れの友達はかりんとうを犬のうんこって呼んでたなw まあ既存鉄道板からいずれ各社ごとのなつかしスレが引っ越してくるわな。
現役のスレは南海と京阪、近鉄か…。タイトルがバラバラだから社名で検索しないと出てこんが。 京阪特急が淀屋橋に到着して乗客を降ろしたあといったん扉を閉めて
ちょっとだけ動かして扉を乗車位置に合わせるって小ワザ、
今でもやっている? >>22
>しかも関西私鉄で銀色の電車を100両以上
>揃えたのは南海だけ。
山陽電車に謝れ
アルミ車で100両以上あるんだぞ
アルミ車っていえばおけいはんや阪急にもそこそこ居たような気が。 >>39
訂正します。
>しかも関西私鉄で銀色の電車を100両以上
>揃えたのは南海だけ。
しかも関西大手、準大手私鉄で
銀色の電車を100両以上揃えたのは南海と山陽。
>>40
おけいはんは5000以降の系列でダブルデッカーと万系以外はアルミだったと思うが? >>41
もはや日本語として破綻している。見苦しい。 阪急は6000系の1編成目と7000系以降の大半がアルミ車だから
正確な数は数えてないが、400両以上は存在してるはず >>46
8000系の8069だったと思う
今は中間車に組み込まれてしまった
3000系といい、なんか中途半端な感は否めない wikipediaによると近鉄の通勤車は
1233F系・1430系・6413F以降(5200系以外)は
アルミボデー(懐かし板なのでワザとボディと書かない)らしい。
まぁ塗装もされてるし、アルミだのステンだの話はこれくらいでいいか。 >>49
1220系・1250(今の1422)系・6400系・3200系からな>アルミ
つまり1986年以降の一般車は全部アルミ
5200系と7000系は違うけど >>48
連結器の高さが合わないとか何とかで中間に回された挙げ句、廃車された記憶…
結構好きだったんだけど…8810系っぽくて。
>>50
京阪は5000系以降に設計されたボデーはDD車と800形以外は塗装アルミだね。 関西ちゃうけど
近鉄名古屋線で準急蟹江行きなんてあったよ
ノンストップ準急w 阪急・阪神の大型20m車の中、山陽の中型の旧型車両が釣り掛け音響かせながら走っていた
往年の相互乗り入り区間が懐かしいや >>55
いや、JRに221系が出てからおかしくなった。
特に阪急なんか悲惨なもんだよ。
そもそも221系を売り込んだ近畿車輌(近鉄)が諸悪の根源だ。 あの山陽旧型車ってラッシュ時は地獄だったな
遅延の原因でもあったし 阪急・阪神から接続すると最悪だったな
夏場はエアコンついていないし特に地獄だった >>58
それは責任転嫁だろう>近畿車輛(近鉄)が諸悪の根源
要は阪急が小林某のでっち上げた鉄道運営システムを金科玉条のごとく守ってたから、そのすきを突いた新生JR
に足元をすくわれただけじゃねぇかよ。
ま、阪急は自業自得だな。 >>54
相対的な比較では昔にと比べて元気とは言えないだろう。
関西そのものが地位低下してるのもあるしな。
最近のJRの利用客へのサービス低下を考えると、私鉄の方が良いと思うのだが。。 >>66
国鉄当時のサービスの悪さを知らないのか。
伊達に関西が私鉄王国と言われてた訳じゃないよ。 今振り返ると、私鉄王国と言われていたのは国鉄のダイヤなどの施策が悪すぎて、相対的に私鉄が良く見えただけで、やっている事は阪急京阪のロマンスシートは例外としても、極々当たり前のサービスなんだよな。
いや、国鉄はホンマ酷かった。国鉄の接客サービスは関西に限ればそんなに悪くなかったんだがな。
例えば当時の国鉄の看板列車、153系の新快速ですら
全面の行き先表示をデタラメにして走ってたりね。
車内放送も「次、高槻」ブチッ。と切るような車掌が結構いたし。 あー大鉄局の車内放送はそうやったね。天鉄局はもう少しマシやったけど。でも当時の阪急なんか客の身なりで接客態度露骨に違ったけどな。
エラそうな態度の阪急が嫌いというオジサンやオバサン多かったし。 >>63
阪急はマスコミを手なづけるテクニックは今でもあると思う。尼崎事故前から酉は何かにつけて叩かれていたし。
>>68
大鉄局と国鉄本社が無茶苦茶対立していたのは私鉄にやられたい放題なのに何の改善策もやらせなかったことに腹を立てていたことも原因だろう。だから大鉄局関係者は国鉄民営化に賛成していたらしい。
今のアーバンネットワークのやり方は国鉄時代大鉄局がやりたかった施策そのものかと。
競争があまりない環状線に新車が最優先投入されて本線がどうでもいい扱いされていたし。国鉄本社の認識は環状線を大阪版山手線と考えてたらしい。 >>58
一番その221系にやられたのは近鉄自身だと思う。
真っ先に「大和路快速」用に仕立て上げられたからな。 でもまあ、117系を入れてもどうにもならんかったって言うから、
やっぱり凄いことは凄かったんでしょ。
「車両真似ても接客ダメ」みたいなイメージもあったんかもしれんが。 関西圏では1980年頃まではまだ、国鉄は日頃の足という認識はあまり無かったでしょう。
環状線や一部の近郊区間を除いては長距離移動手段として汽車のイメージ。
百貨店や娯楽(野球や遊園地)等で日常生活にガッチリ食い込んでた
トータルサービス業の関西私鉄に太刀打ち出来るはずはないよね。
やっぱターニングポイントは新快速の外線走行だよな。
さらに私鉄が通勤定期を値上げし続けたのに対して、JRは通勤定期の額を据え置いてきたので価格競争力がついてきた。
あ、ここはそれ以前のことについて語るスレだったな。 >>42
万系もアルミ
5000以降でゎ2630がスチール 117系導入と共に新快速の終日運転化と昼特の導入をしていたら結構善戦出来たと思うが。
阪急京阪の特急と比べるから見劣りするだけで117系そのものは良い車両だったしね。 近鉄…ラビットカー
京阪…スーパーカー
南海…ズームカー
阪急…オートカー
阪神…ジェットカー
まさに黄金時代。 各社意欲的な名前は付けたが、長年本来の性能を発揮したのは南海阪神位かな。 71
そうか、大鉄、天鉄も関西地区用として予算なのに首都圏に入れ玉突きでお古が入ったもんなぁ。
ATC化の関係もあったろうが。
古くは阪和線の社型置き換えや、東海道、山陽緩行線の51型の地方転出の補充にしても首都圏の40、72型だもん。
103系や113系も新車は少ないし。
まぁクモハ31やクハ58改造のクハ79が横浜線や総武線に入ったがすぐ関西に戻ったな。クハ55が青梅線に残ったが。
純粋に関西生まれは首都圏に入るのは少なかったな。 阪神の7601とかの力行専用チョッパ車に狙って乗った。
低周波起動のあと、ビー!という大きなノイズが。
登場は営団6000より少し早かったはず。 緑の濃淡の京阪電車やオレンジと赤の京阪特急を懐かしく思う時代が来るのかな。
緑色の南海電車が懐かしいね。あと阪急はマルーン色を変えないで欲しい。 もし阪急がマルーンを廃止するなら、
次の新型車から無塗装かつラインカラー
やラッピングは一切無しで、先頭部は
銀と黒以外の色は施さないといった
筋のあることをして欲しい。
新型車で蛍光灯カバー廃止する際に、
間接照明を施したみたいに。
阪急といえば業務用の電車ワク広告が懐かしい
向きも多いのでは。 >>89
電車は業務用で使ってた感があるけど、百貨店の新聞広告でも使ってたもんな。
パンタ部にはタスキがけの表現まであるという芸の細かい枠だった。 ついに1900系が引退!!
http://www.keihan.co.jp/news/data_h20/2008-09-25-01.pdf
大伴英嗣氏か?俺も好きだったから復活して欲しいな。
http://officeban.jp/ootomo.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E8%8B%B1%E5%97%A3
平成に入ったころは、京都方の夕方ピーク時下りは20本あった。
車両数で言うと120両強の輸送量。それが新ダイヤでは90両ほどの輸送量か。
時代は変わったね。京都での通勤・通学先が京阪線から離れ、そういった
通勤・通学する人の住む場所も京阪線から離れたからか。
ちなみにS47年頃の停車駅
特急 北浜、天満橋、京橋、七条、四条
急行 北浜、天満橋、京橋、★寝屋川市、香里園、★枚方公園、枚方市、樟葉、
八幡町、中書島、丹波橋、伏見稲荷、七条、四条
準急 北浜、天満橋、京橋、寝屋川市〜三条間各駅
区急 北浜、天満橋、京橋、守口市〜樟葉間各駅
★は朝夕ラッシュ通過
京阪の駅名では、「市」のつく駅名と、「枚方公園」・「伏見稲荷」・「鳥羽街道」・
「出町柳」・「河内森」などは名字にならないが、その他の大概の駅名は名字になるね。
急行が大幅に削減されるのが気になるな。
ただ、京阪は他の関西私鉄に比べて工夫が足りないと思いますね。
しょっちゅう時刻改正があったり、欠陥だらけの車両があったり。
昔(学生・院生時代)は私も京都市民でした。
京都を離れて年月がたつので、京橋駅・淀屋橋駅・枚方市駅で感じた感想をそのまま書いたわけです。
終電のダイヤ眺めてるんだけど、京都方特急停車駅→寝屋川の終電が大幅繰り下げになった、よな?
祇園四条だと、今まで寝屋川行は23:50・樟葉行は0:06・最終of最終が淀行0:25。
改正で寝屋川行が23:50・枚方行(樟葉で寝屋川行接続により寝屋川最終)0:02・樟葉行が0:05・淀行0:25。
あと京橋発の淀以東最終の23:46発が特急に変わったけど、アウシュビッツ的混雑が若干解消されるのかな。
確かに、終電近くの改善はすごい。
うちは伏見桃山、現状では淀屋橋22:40発と23:00発のK特急、中書島での普通接続がなく、
丹波橋で折り返すか歩いていたが、今回の改正で中書島で準急接続するようになった。
現状の淀行き(淀ヤ22:53)・枚方市行きの準急(23:13)を出町まで伸ばしてくれたみたい。
また、23:40が特急になることで、大阪方面から最終の到着が5分ほど早くなった。
あと、出町柳から大阪方面最終急行が「枚方公園・守口市停車」なので、
守口市から大阪方面終電も遅くなってる。
守口市は、朝ラッシュ上りの守口市停車、昼間時間帯京都方面に直接
行ける優等の登場もあって、ダイヤ改正が大幅にプラスになりそう。 >>89
で、上の真ん中へんに阪急の社章があって、左側に「電車は阪急」右側に「○○も阪急(○○の中は出してる所や内容によって違う)」って書いてたな。よくテレビ欄の下に広告出てた。いつからか消えてしまったなぁ。 >>91
3000もとい8030はまだまだいけるようで何より 南海と阪和、昭和50年代の記憶だけを切り取ってみると・・、
南海って在阪5大手でも地味な存在だったな。他社が殆ど都市間連絡の
性格を持ってたけど、南海は片方は中都市の和歌山(地元)。
データイムの和歌山始発の各種別本数は特急が毎時一本、急行と普通がともに30分毎。
のんびりとした光景だった(今もたいして変わらんがw)。
阪和もあまり変わらず、快速(新快速)と区間快速が各々30分毎だったな。
まだ阪和のほうは紀勢線がその先続いているので多少活発なイメージはこっちにあった。
車両といえば南海の1001系がやっぱ筆頭だったけど、4編成の運用じゃ頻発性も望めなかったね。
乗り心地や車内アコモは通勤車に限ればこれも南海。しかしクロス車に乗れる
割合は阪和だったから、まあ少なくともこの時代の両社ってそれほど差はなかったね・・w
近鉄の2200系にもっと乗ってみたかったな。
記憶がほとんどない子供時代に1度だけ。
2250系は結構乗ったけど、やはり元祖がいいなあ。 近鉄2200系の詳しい資料本てあまり無いんだよね。
参宮特急史は資料的なものは少ないし。 >>97
いや、それなら参宮特急史の方がはるかに詳しいよ。
>>97
あれは細かなスペックはほとんど書かれておらずあっさりで、外観の写真しかないから、全般にはいまいち。
デトニの戦前撮影のアンチクライマーつき片眼の妻な姿をクリアな写真で見られるのは素晴らしいことだが。 なら、いっそのこと京阪2200系にでも鞍替え(ry 京阪2200も車歴的には似たようなものになってきたけどなw >>68
>>今振り返ると、私鉄王国と言われていたのは国鉄のダイヤなどの施策が悪すぎて
>>相対的に私鉄が良く見えただけで、やっている事は阪急京阪のロマンスシートは
>>例外としても、極々当たり前のサービスなんだよな。
>>74
>>関西圏では1980年頃まではまだ、国鉄は日頃の足という認識はあまり無かったでしょう。
>>環状線や一部の近郊区間を除いては長距離移動手段として汽車のイメージ。
>>百貨店や娯楽(野球や遊園地)等で日常生活にガッチリ食い込んでた
>>トータルサービス業の関西私鉄に太刀打ち出来るはずはないよね。
結局、関西の私鉄王国というのは都市間輸送における他線区との競争とかサービス云々の問題とかではなくて
在阪の五私鉄が都市開発や地域文化の牽引役になっていたということなんだよな。
しかしまあ117系でどうにもならんかったってだけで十分すげえだろ関西私鉄 ロマンスシートの何がいいのか俺にはさっぱり分からん。
南海から旧1000系が撤退してくれて清々したよ
これからは首都圏の設計を採り入れた8000系の時代だろ。 >>103
関西私鉄は極力自社線内で乗客の移動を完結させたかったんだよね。
だからターミナルは立派にしても、他社線への相互乗り入れには消極的だったのだろう。
>>105
本来高速移動車両は前向きに座る事が理想だと思う。
>>106
てゆうか、阪急が最初にそれをやったので、
他社が真似したんではないかな。 関西の鉄道の面白い横並び
前パン
デジタルインパネ
コンパウンドカテナリー
etc… 「もと600V」 (新京阪・阪和・大鉄を除く)
「U型自在弁」(一部のみ) あと、
下枠交差パンタ
正面中央に貫通扉
も追加。 >>111
待った!
正面中央以外のどこに「貫通扉」をつけるんだよw
非常口じゃあるまいし。 ガキの頃、前面非対称のデザインの非常口つきの電車(例:大阪市10系)を見て、
幌をどうやってつけるんだろう、と仲間に聞いては笑われたのを思い出した。 営団の6000系の貫通路は、
下が蝶番になっているんだっけな。
編成同士の連結は無理だねw >>114
そうみたい。 単に非常口で、「繋ぐ」機能無し。
それでも昔営団7000の5+5を見た時にはワロタ 幌と渡り板だけど、近鉄の場合、中川短絡線を1回だけ通って
方向が逆になってしまったら、うまく連結できなくなるんでは?
と子供のころ勝手な心配をしていた。 >>116
あながち勝手でもないかと。
物理的に連結はできるだろけど、電気の引き通しの問題があるし。 近鉄奈良線から一般車が近鉄名古屋線に転属すると、方向が逆になるんだってね。
中川の三角線で向きを変えるそうな。 >>111
先頭がMcというのも、関西の象徴と言ってもよくない?
あとこれぞ関西という特徴はなんと言っても「標準軌」だろう。
南海とか南大阪線とかあるし、標準軌はこれぞって感じもしない。
それよりもあれだな、蛍光灯カバーと標識灯。 国鉄JR以外の関西鉄道事業者に存在した楕円形の優先座席シール >>126
近鉄と函館市交通局では今でも普通に付いてる。
近鉄はシリーズ21で新しい優先座席のシールを作ったものの、窓に張ると見えにくくて結局元に戻した。 近鉄、南海、阪急にとって20年前の1988年の『10月19日』って日は運命の一日やったな… 昭和50年代の日本シリーズ3連覇は凄かった。
阪急の黄金時代を知っているので阪神は応援できない
阪急の後は近鉄がパリーグ2連覇
昭和の最後の時代に南海にはリーグ優勝を果たして貰いたかった。
今では近畿地方のパリーグはオリックス1球団だけになってしまった。
月に1度は京セラドーム大阪に足を運ぶよ。
オリックスと阪神が日本シリーズで対戦していたら全試合京セラドーム大阪で開催されたんだよな。
昭和56年(1981年)の日本シリーズの巨人VS日本ハム以来27年ぶりの大記録だったのに。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています