B型は知的障害者!
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結局、構想の仕掛け人たちも不本意ながら大々的なチャイナタウンの旗揚げを断念せざるを得なかった。 2008年のチャイナタウン構想はリスタート
あれから7年、当時を知る池袋の老華僑は「やはり安全が第一。 日本人に理解してもらわずに街の一部を『ここは中国人の街』と一方的に宣言するのは無理があった」と構想を振り返る。 「たとえば上海にたくさん日本人が住んでいて実質的に日本人街が形成されていても、
断りもなしに『日本人街』と派手に打ち上げられたら上海人も受け入れられないでしょう」というわけだ。 池袋から一歩外に目を転ずると、近年、円安と中国経済の急成長を背景に記録的な数の中国人観光客が大量の日本みやげを購入する「爆買い」が日本経済の浮揚を助けるとして肯定的に受け入れられつつある。 いま、銀座、新宿の街頭や駅構内、デパート、家電量販店など各地で中国語のアナウンスが流れ、中国人同士の会話がそこここから聞こえてくる。 また、池袋駅の北口では、林立する中国人経営のレストランの前をすれ違う多くの人が中国語を話し、携帯電話会社や不動産屋の店頭には「有中国人店員(中国人の店員がいます)」
「外国籍・保証人不要制度 相談」といった貼り出しが当たり前のように並ぶ。 また、強い経済力を背景に日本にやってくる中国人留学生は、かつてのようにアルバイトで稼いで本国に送金するだけではなく、
日用品から不動産まで日本で購入したものを中国に紹介する役割も果たしており、日本人の伝統的な中国人観も変化を迫られている。 しかし、豊島区では、観光協会が提供する地図(中国語版)でも、「池袋のチャイナタウン」には触れないまま。 区の長期的な計画立案に際し「池袋のチャイナタウンが面白い」「積極的に考えた方がいい」
(2012年11月豊島区都市計画マスタープラン改定検討委員会)という声が出るものの、
その存在は区の「強み」(観光面)と「弱み」(治安面)の両分野に同時に分類され、
「異文化(偏見がある)」という課題として位置づけられたままだ。 観光関係を担当する文化観光課も「地元との話し合いの中で何か出てくれば協力していく」と受け身の姿勢だ。 いまや各地の自治体は「2020年外客2000万人」という政府目標に歩調を合わせるべく、
国際観光協会をはじめとしたインバウンド観光の受け皿づくりに走っているが、2008年の傷の深さゆえかここ豊島区は別世界の観すらある。 そんな中、今年1月池袋で200人規模の旧正月(春節)懇親パーティーが呼びかけられた。 東京中華街促進会(胡逸飛理事長)の会員によるこの懇親会の案内文は「いまの池袋は日本全国の華人・華僑にとって最も活気のある場所だ。 200社以上の華人系企業が日本の各界からも注目されている」と強調した。 同会など7年前の東京チャイナタウン構想呼びかけ人の一部は、
「地元との協調が足りない」という指摘を受け、駅西口での清掃や国際交流みこしへの参加など地道な活動に取り組んできている。 前年に発足したポータルサイト「東京中華街(Tokyo China Town Online)」は池袋を中心として
中国物産、旅行代理店、日本語学校、中国語学校など600社以上を集め、会員数は7000人に迫っている(2015年7月現在)。 7年前の構想立ち上げ時にも、「横浜の中華街のように牌楼(装飾用の建造物)もないし地域を分断しようというものではない」と説明したが聞いてもらえなかった。 新ポータルは大々的な発表も宣伝もなくひっそりと立ち上げられ、まだ検索エンジンでも見つけにくいほどだが、参加者には中国関係の有力どころが顔をそろえている。 関係者は「当時は横浜中華街のイメージで誤解された。 在日中国人をメインとした場所なので自然体で、ゆっくりとやりたい。
もうちょっと時間がかかるかな」(胡理事長)とマイペースを強調している。 「構想は立ち消えになったと理解している」(豊島区の担当者)との声も日本側から上がっているが、サイバー空間では静かなリスタートが切られている。 2014年末現在、永住者、留学生を含む在留外国人統計(法務省)によると、
都道府県別では首都圏の4都県(東京、神奈川、埼玉、千葉)だけで全国の半数に迫る31万3984人(48%)の中国人が居住している。 首都圏への集中は経済的に考えると自然な現象だが、中国人の場合、その集積の度合いは外国人全体(約40%)を大きく上回っている。 これまで漠然と関西には中国人が多いと思われていたが、実際に統計でみると、
大阪府の在留中国人の数(5万1121人)はすでに神奈川(5万5942人)、埼玉(5万2495人)の両県に追い抜かれてしまっている。 試みに都内についてインターネットのグルメサイトで「中華料理」を地域検索すると、
池袋エリアの287店に対して「両国・錦糸町」エリアが201店と渋谷エリア(183店)を上回る規模に達していることが分かり驚かされる。 一般に中国人が住みたい街の条件としては、
@交通の便がいい、A物価・地価が安い、B勤め先、友人の住まいが近い−が挙げられるが、
もう一つ池袋チャイナタウン形成を促進したのが故郷の料理を出す中華レストランだった。 老華僑に聞いてみると、錦糸町には20年前からこうした条件が形作られていた。 その後、地価の高い池袋や新宿を追うように両国・錦糸町エリアなど新しいチャイナタウンで中華料理店などの集積が進んでいたのだ。 東京都の統計(2015年4月末現在)によると、都内では新宿、豊島、江戸川、江東、板橋の5区がそれぞれ1万人以上の中国系住民を抱える。 この中で歌舞伎町・大久保の新宿区、池袋の豊島区と並ぶ大きな存在が江戸川、江東の両区だ。 両区に墨田、葛飾を加えたいわゆる葛西地域4区には計3万6000人以上が居住し、
東京東部から千葉県側に伸びるJR総武線、東京メトロ東西線沿線を中心に一大チャイナベルトを築いている。 日本人の目にやや不思議に映るのが、あまりおしゃれとは思えないこうした下町地区に若い中国女性らも好んで住まう点だ。 日本への留学後に港区六本木の企業に就職した「八〇后」(1980年代以降に生まれた世代を指す中国語、パーリンホウと発音する)
のアラサー女性は、勤め先から「池袋のようなところでなくもっといい場所に引っ越したらどうですか」と勧められたが断っている。 ファッションに気を配る面ではこの女性は同世代の日本女性にひけをとらないが、こと住まいに関しては一味異なる。 「日本語学校のときから住み慣れてるし、とても便利なんです。何で引っ越せと言われるのかよくわからない」と不満気だ。 この八〇后の女性は気にしていないが、チャイナタウンでは伝統的に治安への不安がつきまとってきた。 かつてジャッキー・チェン主演の映画「新宿インシデント」(2009年)で描かれた日本の組織暴力団と中国系マフィア
(中国語で黒社会)の抗争があった1990年代の歌舞伎町と同様に、池袋も決して治安がいい上品な街とは思われていない。 隣接する立教大学の学生の中には今も「西口の繁華街は怖いので近づかない」という者もいるほどだ。 その池袋でまた今年6月、中国系の若手企業家として期待されていたネットカフェ「大任」の経営者ら3人が海賊版ソフト使用の容疑で逮捕され、
一部で「不正アクセス、会員情報取得目的での海賊版利用」の容疑とも伝えられた。 「事件、犯罪はどこでもあること。99%以上の中国人はまじめに働いている」(1980年代以降に来日した新華僑ビジネスマン)というが、
こうした事件が今も旧来の負のイメージからの脱皮を妨げている。 料理と並ぶキーワードは「教育」
中華料理と並ぶ中華民族のもう一つのキーワードは教育だ。 伝統的に教育熱心で知られる華僑・華人の集積を語るときにこの教育問題は見逃せない。 中国系住民のベッドタウンとしては池袋からJR埼京線・京浜東北線に乗って北に30分ほど行くと1990年代から「新華僑団地」として知られるUR川口芝園団地(蕨駅徒歩7分)がある。 ここではかつて2400世帯のうち3分の1が新華僑世帯とも言われ、
公民館や集会場では中国人向けの行事が盛んに開催された。 近年は川口の高層マンションを購入し転出した中国系住民も多いというが、
面倒な保証人も要らず敷金・礼金なども不要なUR団地は外国人にも借りやすいため今でも留学生や初めて日本にやってきた若い中国人ビジネスマンなどが移り住んでくるという。 川口芝園団地には池袋からスタートした中国語補習学校である同源中文学校(東京都豊島区)が開校している。 週末になると、「子供たちに中国語を忘れさせたくない」と願う中国人の親たちが大宮など遠隔地からも子供たちを通わせているという。 首都圏で大陸系の中国人子女向け学校としては横浜山手の中華学校があるのみ(台湾系は2校あり)。 しかも急増する中国系住民に定員枠が対応しきれないため、
今年20周年を迎えるこの中国語補習学校は東の千葉市稲毛区から、
北は越谷市まで、さらに西では名古屋市まで9ヶ所に広がっており、生徒数は計800人を超える。 その所在地周辺には相応の中国系住民が家族で居住していることになる。 不動産をめぐる気になる報道
本稿では従来型のチャイナタウンにつながる中国系住民の集積について見てきたが、
今年になって中国人の爆買いを背景としてささやかれ始めた気になる話がある。 「東京都心部で建設中の大型タワーマンションでは中国人への販売が半分を超えた。 日本人の購入者がキャンセルするのではないかとのうわさが絶えない」「城東地区にある分譲住宅地では中国人コミュニティーができあがってしまったことから、
『居住ルールを守らない』『うるさい』と、日本人居住者との関係は一触即発だ」(ともに産経ニュース2015年4月20日) 具体名を伏せていることなどから慎重な確認が必要だが、事実とすれば中国の経済力を背景とした新たな居住地形成ともいえる動きである。 第二次世界大戦以前から現代に至るまで、日本の歌謡曲やロックミュージックにおいてはしばしば「中国」が歌詞のテーマとして選択されてきている。 その中でも中華街、とりわけ横浜中華街は人気の主題の1つとなっている。 例えば細野晴臣による楽曲「北京ダック」の歌詞においては、異国情緒、混沌、エネルギー、郷愁といった、戦後の中華街に託されてきた典型的なイメージが見る事ができる。 だが、現在の横浜中華街はもっと整然としたイメージだろう。 横浜中華街は神奈川県横浜市中区にあり、牌楼で囲まれた約500メートル四方の区画を指している。 この中には620の店舗が並び、うち226件が中華料理屋となっている(2010年調べ。横浜中華街公式サイトより。 中華街は、横浜でも1、2を争う人気観光スポットして有名だ。図1は横浜中華街の東に位置する「朝陽門」である。 風水思想に基づき整備された牌楼は、いかにもな「中華」を想起させるが、
中国人旅行者がこの横浜中華街を訪れた際、そこに故郷・中国の濃密な空気や懐かしさを見出すことができるのであろうか? この問いに対する回答として、華僑研究者・山下清海と中国人留学生のやり取りが1つの参考になるだろう。 山下は中国人留学生Gを連れて横浜中華街を連れ、その学生に横浜中華街に来た感想を尋ねた。
するとその学生はこのように答えたという。 「ここはとてもおもしろい。だって、こんなところは中国のどこにもないです」 確かに、いかに個々の建物が中国的意匠を有していようとも、
横浜中華街の妙にこぎれいな路地や、日本式の接客スタイルを持つ飲食店や商店に、
中国本土の人々は、隠れざる「日本のにおい」を見出すのである。 横浜と中国人の歴史は、日中が国交を正常化する100年以上前に遡る。 1859年に横浜が開港し、1862年には横浜新田の外国人居留地が誕生。 これ以来この地域には多くの中国人が住むようになった。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、華僑による互助会、料理屋、関帝廟など、
社会的組織や文化的建築物に関して、今の横浜中華街の原型となるものが次第にできあがった。 そして、こうした中華街と華僑の歴史は、日本の近代史と共にあった。 例えば1923年の関東大震災では、横浜市に5,721人いた華僑の人口は、その3割にあたる1,700人前後が亡くなったという。 1945年の5月29日には横浜大空襲が起こり、中華街もこれにより大きなダメージを受けた。 同年8月15日には終戦を迎え、さらに4年後の1949年の中華人民共和国建国に際しても、
横浜で地盤を築き上げた華僑たちは地元に残り続け、日本人とともに戦後の生活を歩んでいった。 華僑二世であり、中華街からほど近い本牧・麦田町で中華料理屋「奇珍」を営んでいた黄礼祥(1912〜99年)は、
戦後間もない頃の日本人相手の商売について以下のように述べている。 戦後はね、親子丼だとか卵丼だとか、かつ丼なんかみんなやって、カレーライスとかみんなやってたんだ。(黄) 戦後われわれがね、飲食店やんなきゃね、日本はずいぶん困ったもんだ。
そう言っちゃ生意気だけど、食べるもの無いんだもん。(黄) 以上のように、戦後の困難な食糧状況下にあって、旧華僑たちは時に日本文化との混交を受け入れ、
日本人とともに苦難を乗り越え、日本人を助け、「日本の戦後」の一角を形作ってきたのである。 1980年代以前は、戦前から戦中にかけて横浜に住み着いた華僑とその子息で構成されるオールドカマーの華僑達が常に4,000人〜5,000人ほど居住していたと考えられる。 1972年には日中の国交が正常化し、横浜中華街発展会協同組合が立ち上がる。 続いて1980年代以降は「新華僑」と言われるニューカマーの人々の増加が目立つようになり、
1984年には中国人登録人口は5,000人を突破、7年後の1991年には10,000人を突破した。 1980年代はバブル景気とそれに伴うグルメブームがあり、
1986年には第1回「春節祭」が開催され、1989年には中華街の象徴的な牌楼の建て替えも行われた。 こうして次第に「中国テーマパーク」化、観光地化が推進され、横浜中華街は独自の成長を成し遂げた。 1990年代以降も、こうした街の発展に合わせる形で、行政と中華街の組合の連携はより進んでいる。 例えば1995年には「中華街憲章」が制定され、2006年には「横浜中華街 街づくり協定」が締結され、これにより、行政と中華街の連携が文章により明確化された。 後者の「街づくり協定」においては、「歴史と文化の薫り漂う街としてのイメージを代表する風景があり、商業と生活が共存共栄し、自らが景観を守り育てる愛着と誇りをもちながら魅力と活力ある街を目指します。 安全で快適な商業居住地域として更なる発展をさせていくには居住者と事業者が協働して活力ある街づくりが継続できる新たな街のルールを定め、
地域住民の一員としての誇りを持ち、横浜中華街の個性的な景観とコミュニティを次世代に引き継いでいきます」 という、街づくりの基本理念が述べられている。これにより、
「日本の行政システム化で維持される中華街」という、横浜中華街の基本的枠組みがさらに明確化されることとなった。 しばしば「世界一治安のいいチャイナタウン」と呼ばれる横浜中華街の成立の裏には、華僑、日本人住民、行政の協同があったのである。 華僑の出身地別構成に関しては「1980年代半ばに福建系の新華僑が急増する以前は、横浜中華街の大半は広東省にルーツを持つ人びとであった」 とされるが、1990年代、2000年代の新華僑の増加はすさまじいために、多くが広東省に由来する旧華僑の文化、
さらには初期の新華僑にあたる福建系の中国文化さえも次第にその存在感を弱くしていくと考えられる。 本土の経済成長や、ビザの緩和の影響を受けながら、横浜中華街は今後もその姿を変え続けていくことだろう。 個人的にはいかがわしさや猥雑さも包含する街のダイナミズムのほうが好みなので、
こうした点は残しておいて欲しいが、それらは観光地としての統制やクリーンさとトレードオフの関係にあるので、
異国情緒の安易なロマン化には注意が必要であろう。 ではこうした「統制」がない中華街とはどういったものなのか? ところで上で横浜中華街について「こんなところは中国のどこにもないです」と言った中国人留学生Gのセリフには続きがある。 「ところで先生、いまから池袋へ行きませんか。池袋のほうが本物の中華料理が食べられますよ」…。 バブル崩壊後の不動産価格の下落を背景とし、90年代以降は新華僑が池袋に集まった。 特に池袋の西口周辺には自然発生的に中国人経営の小店舗が増加した。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。