ローソン★ガードナー◇レイニー◆シュワンツ☆15
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ローソン 1958年3月11日 チャンプ4回/優勝31回/PP18回/FL21回
ガードナー 1959年10月11日 1回/18回/19回/19回
レイニー 1960年10月23日 3回/24回/16回/23回
シュワンツ 1964年6月19日 1回/25回/29回/26回
スレタイの4人を中心に、スペンサーやロバーツ、マモラ、サロンなど
スターが集結していた黄金時代。
80年代〜90年代前半のWGPを語るスレです
※前スレ
ローソン★ガードナー◇レイニー◆シュワンツ☆14
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/f1/1539304493/ |葉下野内科病院|
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| 8月. | 前からハゲてただろ
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ロ__ (´・ω・) 彡⌒ ミ 最近抜け毛が激しくて
__/ (φ つ (・ω・`) きっとコロナのせいだと思うんです。
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... ┴ し し工 全日本で3連覇しても本格的なWGP挑戦をしなかったのかさせなかったのか知らない
藤原儀彦
250の本間はスポット参戦で惜しかった記憶があるけど藤原はwikiで見たkど覚えがない 清水雅弘や水谷さんみたいに頭が寝てるリーンスタイルが苦手。 全スレのマモラファンの人
マモラは愛されキャラだからいじられることも多いけどそれも愛情表現。
マモラを本気で嫌ったり貶す奴なんていないよ。
現役当時から人気者だったし、セーブ・ザ・チルドレンの活動でも尊敬されてた。引退した時は寂しかったなあ 何に乗せても速かったけど
カジバの後乗ったYZR時代はチーム体制が良くなかったようで下降線だったが… たまにはロブ・マツケルニア(ビッグマック)のことも思い出そうぜ >>3
ワークス入って伸び悩んだよね
型落ちのYZR乗ってた時は光ってた 辻やんはAMAチャレンジでいきなり二位に入ったのに、怪我であっけなく終わったな。
あのまま順調に結果残してたらWGPに来てたかな。 >>11
当時のスズキのセカンドシートは本社がねじ込める感じだしね
AMAでタイトル争いでもすれば行けたんじゃないかな >>6
マモラと言えば復活した雨の日本GP優勝だな。まだ自分は高校生。年取ったもんだ。 >>11
来てただろうけど、SUZUKIに居る限りシュワンツのサポート役で終わってただろうな >>14
ama時代は辻本の方が上
シュワンツの嫉妬から辻本が殺されかけた 辻やんAMAでのお話
辻やん『あそこのコーナーが上手くいかない、どうやってんの?』
シュワンツ『アクセル開けろ』
何気に酷いとは思うが意外に核心ついてるアドバイスでもある 辻やんはSUZUKI、V4が出た頃GPの噂があった。
TBCでの不甲斐なさも有ったから無いなと当時思った。
ケニーアイアン?誰それ・・・と思った87年のストーブリーグ・・・古 >>18
ケニーアイアンも翌年TT-F1で亡くなった。 辻本はシュワンツに怪我をさせられた って書き方をする人が昔からいるけど
接触でもあったのかな?
(させられた ってのは故意とかそういう意味ではない) >>21
シュワンツが後ろからぶつかって大怪我したんじゃなかったかな 辻本の直前を走っていたシュワンツが転倒して巻き込まれたと記憶してる なるほどー
当時の雑誌でも シュワンツが〜って書いてあるのを見たことある
辻本が大怪我して シュワンツが心を入れ替えて本気でレースするようになった
なんてのも聞いたことがある マルケス兄専用機を
ほぼ誰も乗りこなせていない現状
フレディスペンサー専用機だった
86NSRで3回も勝った
ワインガードナーって
やっぱりチャンピオンになれた
実力はあったんだと思う
努力、実力、気力、体力、時の運、
全てがパーフェクトに揃って
87年のチャンピオンへ
って感じか >>25
モリワキからWGPにスポット参戦した八代さんはそこそこ乗りこなしてたんだよね ほんとにそこそこだったな
表彰台にも乗ってないんじゃなかったっけ スペンサースペシャルと言われがちな初期のNSR500だけど、実はマモラもガードナーも優勝している訳で、乗り手のアジャスト力がモノを言う >>31
マモラだけどwikiだとNSRと書いてある1985けど優勝した時はNS500 八代さんと言えばモリワキで初代TT-F1チャンピオンになったけど
ホンダの社員ライダーだったブルーヘルメットの萩原さんと獲得ポイントは同点だったんだよな
優勝回数で八代さんがチャンピオンに
萩原さんは台風が直撃した8耐でCB900Fで日本人ペアーが初優勝した時のひとりで
RC30のLPLの代行を勤めたりしてホンダの上席研究員にまでなった
プロの職業レーサーは将来の保証が何もないから有名になれても八代さんのようにジャーナリストになるくらいしかない
あの平さんですらバイク屋
宇川もホンダの社員になりたいと懇願して華やかな世界から裏方の研究所に入れてもらった
これじゃ将来レーサーになりたい子なんて出てこないよな マモラっちは1984年のイギリスGPでNSRで勝ってるのが光る。
85年AMAでNSR500で勝ってなかったっけ? >>34
ロバーツとウィーリーし合いながら遊んでたやつな。
真面目に走って3位止まりだったボールドウィンが可哀想w >>32
1984年のスペンサー不在のレースでNSRに乗って優勝してたろ
マモラ的にはとても乗りやすかったそうだ レーサーズ、国内仕様のNS500特集してくれないかな。
84年のF18inchの木下車とか、BSのタイヤが足を引っ張った85年等々
知りたいことは色々 無限チューンのRS500用かNS用か知らんけどV3エンジンというのも詳細を知りたいよね >>42
P.Fキリが87年に乗っていたNS500() >>41
wikiより引用
ハヤブサV3エンジン - 隼剣の父で工学博士の正義が開発した、上り坂に強い高回転高トルクの画期的なエンジン。15000回転で最大パワーを発揮し、この時、ジェット噴射の色がエメラルドグリーンに変わる。なおV3エンジンには不調域があり、13000回転に達するとジェット噴射の色が黒煙を含んだ赤い炎を噴射し、異常振動が発生する。この時点でエンジンの回転数を落とすとエンジンが爆発してしまう。 >>46
あれスペンサーのNS特集だからそれ以外のNSユーザーについては写真1枚とかの塩対応 マシンハヤブサ懐かしいな。
エンジン交換できるオモチャ持ってた。 >>43
あれ無限チューンだったのか
知らなかったよ YoutubeのRide?というチャンネルに片山敬済が良く出てるけど
喋りと顔芸に笑った。 よくでてるってか片山のチャンネルw
しゃべりはうまいしライディング解説もわかりやすい。
ネモケンとまったく違う事言うのも面白いw 片山さんのメットデザインて今のX-14でもかっこいいな ドゥーハンはデビュー前に3メーカーの争奪戦があったとか聞いたけど何でそんなに評価が高かったんだ?
本格的にロードレース始めたのが87年からで、目立った実績て88年にSBKで2ラウンド参戦してぶっちぎりで勝った位だった
当時のSBKはレベル低かったし、それが決め手になったとは思えないんだが 最初はM・ドーソンに名前が似ている方って言われていたのに。 >>56
確か全日本のTTF1でもスポット参戦してるから偉い人たちの眼から見て
光るものを感じたんだろうねとしか
翌年に向けてホンダはAMAのババ・バードもキープして1たな >>56
>本格的にロードレース始めたのが87年からで、目立った実績て88年にSBKで2ラウンド参戦してぶっちぎりで勝った位だった
自分で答え出してるじゃんね。
当時はヨーロピアンより、ダートレース上がりのアメリカン、オージーの潜在力評価が高かった。 CS誌で上野真一さんが走りを見て、ドゥーハンこいつはマギー以上になるから
取れとか進言したと
書いてた。 ドゥーハンもWGP1年目はNSR500に悩み、同郷のガードナーにいじめられたりホームシックで
一時帰国をHRCに勧められたりとか中々凄かったみたいね
一度インタビュー記事を改めて見てみたいわw ホンダは8耐要員としてもミックが欲しかったんじゃないかな
ガードナーはマッケンジーと組んだ時も相当苦労してたから
ドゥーハンが株を上げたのはSBKシリーズで当時一番レベルが高かった豪州大会での優勝だと思う
第1ヒート 優勝ミック 2位ドーソン 3位フィリス 4位マーケル 5位キャンベル
第2ヒート 優勝ミック 2位ドーソン 3位マーケル 4位フィリス 5位グッドフェロー
キャンベルは説明の必要ないくらい日本でもお馴染みで8耐でマッケンジーと組んだりスワンシリーズでマギーのライバルだったオジーの実力者
フィリスもカワサキが8耐復帰したレースではバリントンと組んで出場しガードナーとシュワンツの高速バトルに唯一ついていけたオジーライダー
こんな凄いライダーがまだいたのかと豪州のレベルの高さにみんな驚いてた
日本に来たときはドーソンの方が速いと言われていたのにドゥーハンは著しい成長を見せつけた
SBKレギュラー組で通用したのはAMA3連覇男でチャンピオンになったマーケルのみ
それくらい当時のオジー達のレベルはハイレベルだった
そんなオジーのなかでも超有望株の若手として光ってたミック
各メーカーから引っ張りだこだったのも頷けると思う ドゥーハンはライバルがいなかったのがかわいそうだった。NSRが強すぎて他のマシンでは太刀打ちできない上にホンダ内にもライバル不在。
カネモトホンダに入ったコシンスキーに期待してたんだが‥ >>64
拓磨に4気筒与えんなって言ったり、(接戦になるとライバル達は)レース中ずっとオレの後を付いてきているだけで、楽しているとかいったりして、実績の割に言動が狡い所あってなんかなあって思う。 阿部孝夫ってWGPにスポット参戦したことあるのかな?
阿部の名を見てふと思った… >>68
ロバーツからWGP500フル参戦オファーあった時に、一方HRC側は、あと1年全日本500参戦してチャンピオン取ったらという条件だった。
それも確約はしないとのことで、HRCは本当にアホだったな。
将来的にWGP参戦候補だった拓磨がいたから、余裕こいてたんかね。
タラレバにはなるが、岡田があれだけNSR500で成績残せたんだから、ノリックはもっと勝てたんだろうな。
スイカとタイトル争いまでにはいかなかったろうが。 >>70
>>>68
>ロバーツからWGP500フル参戦オファーあった時に、一方HRC側は、あと1年全日本500参戦してチャンピオン取ったらという条件だった。
500じゃ無くスーパーバイクな。
結果、学習能力に難有りと言うのが判ったんでHRCとしては結果オーライだった 500でタイトル獲った翌年に
あのレベルのマシンしか渡さなかったのに
ホンダの言い草は無いよな >>72
クルマはちゃんとしてたよ、ブルーフォックスだし。
クルマをアジャストする能力に乏しかった。
良い勉強の機会だったのに… WGPが4ストに移行したらさっぱりでSBKに移っても芳賀のヤマハイタリーと
同じバイク出せとか言って駄々をこねるも低迷と
4スト車を乗りこなせないライダーだったね 周りの大人が悪かった。
ロバーツもダメだった。
コシンスキーをあれだけ丁寧に育てた挙句、大成する寸前で放り出すし、未熟のライダー上げちゃうし… 結果論でしかないけどコシンスキーがいればレイニー怪我後のライダーは安泰だったね
ドゥーハンはホンダで2連勝した後にヤマハかスズキに移籍すれば伝説になれたかもしれん >>73
確かになぁ あんまりセットアップ能力ある感じじゃなかったな あのままホンダに残ってても開発力求められるポジションになっていったらダメになってた気がするわ コシンスキーもロバーツと確執があったと正直に述べてるな
仮にヤマハフランスへ移籍出来てもYZRがダメな方向へ… >>77
彼は天性の感覚で走っていたから、良い時はなぜ速く走れるのか、悪い時はなぜ悪いのか理解できず、そこが問題だったのでしょう。 ケニーがチームから放出するときの捨てゼリフが「成長の跡が見られない」だった
2シーズン経っても伸びなかったのが原因かな あ、>>80は>>79へのレスです。ノリックの事ね スペンサー、ローソン、ガードナー、レイニー、シュワンツ
ここらはデビューから2シーズン目にはチャンピオンになるかチャンピオン争いしてるからねー >>85
フル参戦は85年からだから、まぁハズれてはいない 逆に何年か苦労してチャンピオンになったのってロバーツJrぐらいか >>87
クリビーレとか。ドゥーハンも時間掛かったなぁ。 >>89
まともにタイトル争い出来る様になったのは3年目くらいかなぁ…ミシュランのAグレードが回ってきたのもそれぐらいだし。
怪我ばっかりで結局タイトル取れたの5年目だしね。
シュワンツもそれぐらい掛かったな。 >>92
89年GPデビューで90年には1勝目を挙げてるね
ランキングも3位。
マークされるようになったのは91年からだが。
92年に大化けしたけどそこからが長かったね 足のケガがでかいよな
1992年もそれでタイトルを落としたもんだし ドゥーハンはローソンに大怪我させたり とんでもないクラッシュしたりで
ガイジみたいに見えたなw なんかオージーって、こんなのばっかだなぁ
クスリやってたのもいた様な… >>96
あれは酷かった。
チャンピオンのする事じゃない
ライバル不在でかわいそうなんて言われたりもするが
ドゥーハン自身が自分の安定した王者状態を保とうとしていた様子も無くはない。ライバルや白熱したレースを求めてたなら他メーカーに移籍してたはず ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています