我々には選択の自由が与えられていると日頃思い込んで過ごしているが、
存外その自由など己が狭い範囲に限定されているのかも知れんな。
俺はすっかり忘れてたんだが、多治見を訪ねたのは二度目だった。
初めて気分で晩秋の川沿いの景色を楽しみながら、
頭上を電車の走る地下通路を渡っている時にふと既視感を覚え、それから気づいた。
ここを訪れたのは二度目だった。
しかも前回来た時と殆ど同じ街中の舗道を、つらつらと田圃の畦道を、草をかき分け山道を、
或いは整備された森林の遊歩道を、まったく同じ道順で歩いてんだわ。

油断してたのかも知れんな、何に対しての油断であるのか解らんが。