ゲイであることを公表して反論したブログが大きな反響を呼んでいる日本文学研究者のロバート キャンベル東京大学名誉教授
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BLOG - ロバート キャンベル公式サイト
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衆院議員が性的指向や性自認のことを「趣味みたいなもの」と言うのを聞いて笑ってしまった。
習い事のように何かのきっかけで始めたり、途中でやめたりできるもののように聞こえたから。
当事者からすると、むしろ生を貫く芯みたいなものだと捉える人が多いに違いありません。
言語にたとえるとどうでしょう。母語と同じように特段意識はしなくても、他者との交流の中で自然と芽生え、育ち、
人間としてのポテンシャルを深めてくれる資質の一つであると私自身は見ています。
言葉と違うのは、外国語のように学習してまるで違う文化に身を投じることはできない、という点でしょうか。

同性愛者、両性愛者、トランスジェンダーの人々をひっくるめて「生産性がない」ので「支援」に値しないという別の議員が発した言葉も、お粗末すぎて、反論する気持ちも起きません。

私は、日本社会に生きるのに、支援を必要とする意識を持って来ませんでした。
でも最初から日本で日本人として生まれ、地域社会で生きようとする若者であったなら、どうだったのでしょうか。

「男(女)の子らしくないぞ」と教室でいじめられ、社会に出れば愛する人の性が違うからといって就職に失敗し、いっしょに部屋を借りたり、
ローンを組んで家を建てようものなら門前払いを食らってしまう人は、この国にごまんといます。

その先、倒れても杖となるべきパートナーを病室に呼べず、彼(彼女)の健康保険に入ることが叶わず、老いては介護管理に関わらせることすらできません。
先立たれれば相続はおろか、血縁者の反対にあえば葬儀にも出させてもらえません。
かわいいそうにと感じる人は多いかもしれませんが、遠い話ではなく、すべて私が日本で出会い見聞きした人の現実です。